風野家の秘密
風野眞箏は小学五年生。今日も友達の富子や正造と仲良く学校から帰るところだった。
「たまには遠回りして帰ろうぜ。こっちの道のほうが見晴らしがいいし、それに……」
「お地蔵様にお供え物があるかもしれないし、でしょ」
「こないだお腹を壊したばっかりじゃない。こりないわねえ」
山の四つ辻のお地蔵様にはきれいな野花が供えられているだけで、正造が期待していた菓子はなかった。
「狙ってたのは正ちゃんだけじゃなかったみたいね」
「仕方ねえ。今日はとっておきの場所に行くか」
正造は地蔵堂の裏から下り、藪をかき分けて進み、踏みならされた細い道に出た。それをたどり林の中に入ると、こんもりと茂るヤマモモの木が見つかった。鈴なりの実がそよ風に揺れている。
「まあ、おいしそう!」
「誰にも言うなよ。おれたちだけの秘密だからな」
甘酸っぱい果汁が顎と首をつたい服に染み込む。三人は汚れるのも気にせず、時間を忘れて食べた。
空が急に暗くなってきた。木々がざわめき、風が変わった。遠くの山からは雷の音も。
「夕立だ。早く帰ろうぜ」
三人は四つ辻に戻った。正造は東へ、眞箏と富子は西へ。降らないうちにと走り出す。
「お箏の練習が終わるころには止んでいるといいけど」
眞箏の母は自宅で、村の女の子たちに箏を教えていた。眞箏も富子も学校に上がる前から習い始めた。
彼女の家に通じる竹の小径は笹がざわめき騒がしかった。さらに、着物姿の門下生たちがぞろぞろと石段を下りてきた。
「あっ、眞箏ちゃん」
「みんなどうしたの」
「今日のお稽古は中止なの」
「えっ、どうして?」
「……」
眞箏は胸騒ぎがし、石段を駆け上がった。富子も遅れじと後に続いた。
竹林の中に佇む一軒家。庭の物干し竿には布団が重く、だらりと垂れ下がっている。眞箏の母は両手に何かを持ちながら、戸が開きっぱなしの土間で呆然と立ち尽くしている。
「ただいま」
「お邪魔します」
母はやっと少しだけ動き、「あぁ、おかえりなさい」と返事をした。
「お母さんそれなぁに?」
「これはねぇ、お父さんよ」
「えっ……」
「お父さんのお骨。旅先で亡くなったって、親切な人が届けてくれたの」
雨がざあっと降り出し、土間が真っ暗になった。
眞箏は急いで洗濯物を取り込みながら父のことを思い出そうとした。彼女にとっての父とは、正月やお盆の時にだけ帰り、お金と土産を置いていく、客人のような存在だった。年に数日だけの帰宅で、父と娘の間に肉親の情が通うことはなかった。
彼女は箏の稽古に使われている表座敷で富子と並んで座った。庭にはもう大きな水たまりができている。
富子は悲しそうな顔をし、「先生かわいそう」と言った。
「そうね」
「おう、帰ったか」
眞箏の大叔父が奥の間から出てきた。母と同じく厳かな顔をしている。
「おじいちゃん、お父さんはどうして亡くなったの?」
「病気と聞いとる。町で悪い流感にでもかかったんじゃろう」
「そっか」
富子は自分の父や母が疫病にかかり死ぬことを想像し、胸がはち切れそうになった。
雷が何度も鳴った後、雨がようやく上がった。しかし用心のためにと、眞箏の母は富子に傘と提灯を持たせてやった。富子は早足で家に向かった。
黒々とした竹の梢が月の頬をくすぐる夜になった。さっきの雨で、山全体が湿り、もやもやしている。犬も吠えない静けさが浅瀬のように広がっていく。
「いただきます」
大叔父、母、眞箏の三人は茶の間に集まり、一汁三菜の食事をとった。箸が器に当たる音が虚しく響く。奥の間に置かれた骨壺が月明かりを浴び、ほんのり白味を帯びている。
「あれは本当にお父さんなの?」
「そうよ」
「わしより先に逝くとは、な」
「おじいさん……」
日が昇るのを待ち、セミがやかましく鳴き始めた。眞箏たちは竹林を抜けた先の崖にある墓までお骨を埋めに行った。墓石の下の空洞にはもっと古い壺が納められていた。
大叔父が線香に火をつけ、母が花を手向け、三人で合掌する。初めて母のつぶった目から二筋の涙が流れ落ちた。「くっ、くっ」とむせび泣きをこらえる音が、夏の午後の物憂い空気を震わせた。
眞箏は夏休みまで学校を休んだ。その間に多くの弔問客が訪れた。今まで見たこともない人たちが、大叔父や母に深々と頭を下げ、香典を置いていった。
ある日の夜。布団に入った眞箏は、茶の間から聞こえる声で目を覚ました。大叔父と母が何か言い争っているらしい。はっきり聞き取れないが、母がしきりに訴えるも、大叔父が認めようとしないようだ。母の声はだんだん低くなり、畳の中に吸い込まれていった。
翌日は箏の稽古日だった。夏休み前最後の授業が終わると、学校の女子たちが表座敷に続々と集まった。その中には富子の姿もあった。眞箏は彼女と並んで弾くのが好きだった。
「眞箏」
「なぁにお母さん?」
「あなたは今日から弾かなくていい。その代わりにおじいさんのところに行きなさい」
大叔父は奥の間で眞箏を待っていた。彼女は対面に座り、目で何事かとたずねた。大叔父は手元に置いていた細長い袋から古い尺八を取り出し、語り始めた。
昔々、尺八「風野流」の創始者とされる先祖は山奥の竹林に小屋を建て、つつましく一人で暮らしていた。春は山菜を採り、夏は魚を釣り、秋は木の実を探し、冬は獣を狩り。時どき麓に下り、市場で物々交換をした。善良な先祖は、自然の恵み豊かな山に人を集めようと思った。そのためには人々の心の拠り所が必要だった。
雪解け水がちょろちょろ流れる、空気がひんやりした春の日の朝。先祖は森の中に、小さな拝殿が一つだけ残る古い神社を見つけた。手先が器用な先祖はさっそく神社の修復に取り掛かった。拝殿を板で囲い、赤い鳥居をつけた。するとすぐ一匹の白いキツネが訪れるようになった。キツネはいつも魚や柿といったお供え物をくわえてきた。年老い、命尽きるまでそれを続けた。先祖はキツネの志を継ぎ、神に敬虔に仕えた。
翌年の秋、先祖は初めて参拝客に出会った。その笠をかぶった女性は囲いの外に立ち、腰に差した横笛を手にし、拝殿を向きながら一曲吹いた。高い笛の音が木々の間を軽やかに舞った。先祖は感動し手を叩いた。女性は笠を脱ぎ、白く美しい瓜実顔をあらわにした。
先祖は女性を小屋に招いた。彼女は外の世に身を寄せる場所がなく、この山で暮らしたいと話した。
「あなたは何ができるのですか」
「笛を作り、曲を吹くこと」
「私も上手に作り、吹けるようになりますか」
「なるでしょう」
先祖は女性の指導を受けつつ、数年がかりで最初の尺八を完成させた。女性はそれを手にし、自在に吹きこなした。
「初めてにしてはまずまずです」
女性は尺八の吹き方を手取り足取り教えた。先祖はすぐにコツをつかみ、上達した。毎日、神社の前で吹くと心が洗われるようだった。自分でも曲を作りたくなってきた。
二人は鳥居の左右に立ち、即興で掛け合いをした。音が重なり、自然とまとまり、曲をなした。二人の間、鳥居の真下では、小さな男の子が駆け回っていた。
五穀豊穣や商売繁盛の霊験あらたかな神社と、見目麗しい笛吹き夫婦が評判になり、ついに麓から人が集まってきた。竹林の外で家々が寄り合い、村をなした。仲睦まじい夫婦は次々と子を授かった。親子の笛の音が村中で鳴り響いた。それはある日突然、消えた。夫婦が共に姿を消したのだった。
長男は両親を探そうと尺八片手に山を出た。結局見つからなかったが、諸国を渡り歩きながら見聞を広め、村に戻ってきた時には立派な男性に成長していた。弟と妹が大きく建て直した竹林の家に住み、笛作りの仕事を継ぎ、村の女性と結婚した。
「それ以来、風野家の男子は家を出て、世の中で笛の修行をし、人々の役に立てるようになったとさ」と、大叔父が言った。
「私のお父さんも?」
「そう。わしとお母さんの二人だけで何不自由なく生活できていたのは、お父さんが笛で仕事をし、仕送りしてくれていたからなんだ」
「笛がどんな役に立つの?」
最初の先祖とその妻は亡くなる前に数々の秘曲を残した。風野家の血を引く者がそれを吹くと、内なる不思議な能力を引き出すことができる。人の心、時の流れ、風の動き、さらには運命まで左右できるという。
「私にも、そんな力が?」
「ある。尺八を覚えれば使えるようになるじゃろう」
「おじいちゃんも?」
「もちろん。お母さんが男の子を授からなかったから、今やわしがお前に尺八を教える時が来たというわけだ」
「でも……」
「せっかくわが一族が山の神様から授かった力なんだ、人助けのためにありがたく使わせてもらわんと」
表座敷からは、低学年の子がたどたどしく弾く箏の音が聞こえる。次に母が手本を示す。時に静かに、時に激しく、抑揚をつけて。「メリハリが大事よ」という母の声が蘇る。
「分かったわ。私に尺八を教えてちょうだい」
眞箏は初めて蔵に入った。大叔父が頻繁に出入りしているので、中は意外なほどきれいに整理整頓されていた。
「お前はまだ手が小さい。一尺三寸管から始めるといいじゃろう」
大叔父は葛籠の中から、袋に納められた尺八を取り出した。ロウソクの火に照らされ飴色の光沢を帯びている。程よく反った管尻、小さく愛らしい指孔、割れ止めの藤巻、今にも羽ばたきそうなトンボの彫刻。眞箏は一目でその短い笛が気に入った。
葛籠には色が黄ばんだ楽譜も入っていた。大叔父は墨で「虫乃調」と書かれているものを選んだ。
「子供にはこれが面白いじゃろう」
弔問客が途絶えたある日の午後。眞箏、富子、正造の三人組は広場に集合した。村の中央に位置し井戸もあるそこは村人の憩いの場だった。三人は木陰の石の上に座り、屋台で買ったスイカを食べながら話をした。
「で、尺八の調子はどうなんだ?」
「それがぜんぜん進まないの」
「よくおじいさんの部屋から聞こえてくるけど、本当に難しそうね」
「そうなの。音を出すだけでも一苦労なのに曲を吹けだなんて無茶よ」
「でも将来やること見つかって良かったじゃん。尺八一本で旅をするなんて、おれ憧れちゃうよ」
「正ちゃんが私の代わりになれたらいいのに」
一つ年上の正造は来年に学校を卒業する。彼の家も他と同じく農家で、親の仕事を手伝わなければならない。だから今のうちに思い切り遊びたいところだ。
「また川まで水遊びに行かないか」
「そろそろ笛の稽古の時間」
「私は冬に着る服の縫い物がまだ途中で」
「なんだよつれないな」
「ごめんね。少し吹けるようになったら、外で私の力を見せてあげるわ」
大叔父は眞箏の帰りを今か今かと待ちわびていた。次の世代に技と知識を伝えることが、生きる張りあいになっているようだった。
二人は奥の間で正座をした。
「今日もまず呼吸からじゃ」
鼻からゆっくり息を吸い、胸ではなく腹を膨らませてから、またゆっくり吐く。目をつぶってやると心が落ち着き、感覚が研ぎ澄まされる。
次に音出し。大叔父が先に吹き、眞箏が続く。大叔父の八寸管は朗々と豊かな音を出すが、眞箏の三寸管は空気がかすれる雑音が混ざり、蚊が鳴いているようだ。
「私の尺八が壊れてるんじゃない?」
「貸してごらん」
大叔父は高い「甲音」も低い「乙音」も伸び伸びと吹いた。眞箏は口を大きく開けた。
「いつおじいちゃんみたいに上手になれるの?」
「日々是鍛錬じゃ」
音はともかく、指使いは練習するほど上達した。童謡などの簡単な曲はなんとか譜面どおりに吹けるようになった。
「そろそろ虫乃調に入ってもいいだろう」
先に大叔父が見本を示した。その名の通り、さまざまな虫の音を模した曲で、変わった指使いが多い。
「歳を取ってからは一番覚えにくい曲じゃ。指先が思うように動かなくなるから」
笛を支える下の手の人差し指と薬指を交互に動かすと「コロコロ」と鳴り、コオロギの声に。甲音を軽く柔らかく吹くとマツムシの声に。同じく甲音を喉や舌を震わせながら吹くとスズムシの声に。
眞箏は、指孔が五つだけの単純な楽器がこれほど変化に富んだ音を出すことに驚いた。
「尺八の表現は無限大だ。お前も自分で工夫して生き物の鳴き声を真似するといい」
それからは練習がぐんと楽しくなった。虫乃調を暗譜した眞箏は、竹林、学校の裏、山の斜面に広がる棚田に立ち、一人で竹筒を吹き鳴らした。耳を澄ますと花鳥風月が織りなす交響曲が聞こえた。眞箏は目をつぶり、全身で時の流れを感じた。頬を照らす日差しが柔らかくなり、色が濃くなるにつれ、周囲の虫の音はミンミン、ジリジリ、カナカナ、スイッチョと変わっていった。
やっと目を開くと美しい月夜だった。眞箏はその眩しさに目を細めた。
家の方から「ボオー」という野太い音が聞こえる。大叔父が吹く二尺四寸管だ。ある長身の先祖は三尺以上の長い楽器を吹き、人々に天変地異の訪れを告げた。不吉な存在として行く先々で忌み嫌われたが、死ぬまで警鐘を鳴らし続けたという。
大叔父の笛の音に反応し、山の獣たちが鳴りを潜めた。その夜はまったく静かだった。
少しだけ上達した眞箏は虫乃調に感情を乗せられるようになった。
彼女は動物が好きだった。もっと小さい頃はよく正造たちと虫取りをして遊んだが、かわいそうになりもう何年も前にやめた。今や彼女は笛という交流方法を身につけ、虫たちへの興味を取り戻した。
村から少し離れた丘にはひまわり畑があった。眞箏は暑くならない朝のうちに家を出て、自分の背よりも高いひまわりに囲まれながら笛を吹いた。軽やかに音を弾ませ、生き物と仲良くなりたいという願いを込めて。やがてアカタテハとキタテハが対になり、彼女の目の前をひらひらと舞い、管尻にちょこんととまった。吹き続けてもちっとも逃げようとしなかった。さらに大きく見事なアゲハチョウが彼女の黒髪を飾った。眞箏のまつ毛が蝶の触覚のように細かく揺れ動いた。
「す、すごい」
隠れて一部始終を見ていた低学年の女の子二人が感嘆を漏らすと、蝶たちは後ろ髪を引かれるようにして眞箏のもとを離れていった。
「今のどうやったの?」
「私たちにも教えてよ」
「ごめんね。これは私にしかできないの。でもよかったら良いものを見せてあげる」
眞箏は夕食後、富子や正造も誘い河原に行った。さっきの女の子たちとその友達も来ていた。細かい石が日中に溜めた熱を放ち昼のように暖かかった。川は月明かりを浴び、とろりと流れていた。
「眞箏、見せたいものって?」
「ちょっと待ってね」
彼女は帯から尺八を抜き、そっと口元に当てた。夜らしくしめやかに、心を癒やすように、ちょっとだけ誘うように。高く細い音が揺れながら消え入りそうになった時、ホタルが瞬きつつちらほら集まり出した。尺八が青々と光った。眞箏は息継ぎをし、またゆっくり長く吹いた。ホタルが星のように漂い天の川を作った。子供たちは驚きと感動の声を押し殺すのに必死だった。
眞箏が曲を締めくくるとホタルが嘘のように消えていった。再び時が流れ出し、笛の代わりに虫の声や川の流れが聞こえるようになった。
「信じられない」
「あんなホタルの大群を見たのは初めて」
「お姉ちゃんかっこいい」
「なぁ、どんな虫でも集めることができるのか」と正造が聞いた。
「だいたいなら。どうしたの?」
「ちょっと頼み事があるんだ」
「ふんふん、なるほど。面白そうね!」
正造たちの六年一組は二組と仲が悪かった。二組には福助というガキ大将がいて、よく道で一組の生徒を通せんぼし、菓子を奪うといった悪さをしていた。人の畑から平気でトウモロコシなどを盗み、大人の間でも評判が悪かった。眞箏はしばしば、福助の母が大人たちに頭を下げるのを目にした。
そんな福助にも唯一ハチという弱点があった。幼い頃にミツバチに刺されたことがあり、心の傷になっているそうだ。数年前に学校にハチの巣ができた時も、正造は福助が怯えて神経質になっているのを見たことがある。
「みんなの前であいつに赤っ恥をかかせてやろう」
次の日。眞箏、正造、富子の三人は橋の下に集まった。村中で悪さをしている福助は一日に何度も橋を渡るはずだった。眞箏はもう尺八を吹き、草むらからハチを集めていた。
ハチは一団となりブンブン音をたてている。
「へへっ、これならやつも肝をつぶすだろう」
「どんな顔をするか楽しみね」
富子はハチの獰猛な様子を見ると不安になってきた。
「やっぱりやめましょうよ。ケガをさせたら冗談では済まないわ」
「だいじょうぶよ。ちょっと驚かせるだけだから。しっ、来たわ」
福助は二人の子分を従えつつ威風堂々と現れた。チャンバラごっこでもやるのか、手頃な木の棒を持っている。眞箏たち三人は彼らから見えなかった。
眞箏は甲音を細く吹いた。ハチの群れはそれを合図に上昇し、橋の上にいる福助たちの目の前に現れた。
「ぎゃあ、ハチだ!」
男子三人の中で真っ先に逃げ出したのは福助だ。眞箏が指示するまでもなく、ハチは逃げる者を追った。
「たた、助けてくれえ!」
正造と眞箏は大声で笑った。橋に取り残された子分たちは、「一組のやつらだ」「よくも」と叫んだ。
「そろそろハチを引き上げさせないと危ないわ」
眞箏はしぶしぶ笛を吹いたが、つい笑ってしまい音が何度も途切れた。ハチたちは付かず離れずで標的を追い続けた。福助は橋の袂でぐるぐる走り回った。
「てめえら覚えておけよ!」
嫌な福助を懲らしめ上機嫌で家に帰ると、大叔父が血相を変えて眞箏に怒鳴った。
「馬鹿もん!」
福助は逃げる時に転び、足をくじいてしまい、しばらく療養しなければならないという。
「今から謝りに行くんだ」
眞箏は母と福助の家を訪ねた。いつも迷惑をかけてばかりなので、福助の母は眞箏を責めようとしないばかりか、むしろ子供のいい薬になりましたと言った。そのやさしい言葉を聞き、足首に包帯を巻きしおらしくしている福助の顔を見ると、眞箏はとんでもないことをしてしまったと後悔した。
「本当にすみませんでした」
帰り道。眞箏の母は一言も口を利かなかった。母は父が亡くなってからいっそう物静かになった。しかし娘を見つめる目は慈しみにあふれていた。
「お母さんもごめんなさい」
「もういいのよ」
大叔父は夕飯前に眞箏を奥の間に呼びつけ、特殊な力を持つ者の責任の重さを説いた。
「ある先祖は対立する戦国大名の弱い側につき、良かれと思い、川の流れを激しくすることで敵の渡河を阻んだ。案に相違して、その地方一帯の統一が遅れ、多くの血が余計に流れることになった。自分の行いがどういう結果を生むか真剣に考える必要があるというわけだ」
「私なんだか笛を吹くのが怖くなってきた」
「それでいい。だが過度に恐れることはない。鉄砲と同じで、使う者の心がけ次第じゃ」
「私の、心がけ……」
「そう。ゆえにわが一族の尺八の稽古は楽器そのものよりも、心の修練のほうが重要になってくる。今日はお前にとってある意味いい薬になっただろう」
「福助のお母さんと同じことを言うのね」
二人とも笑い、すぐ真剣な面持ちに戻った。
「おじいちゃん、これからもお稽古お願いします」
土間から眞箏の大好きな鮎を焼く匂いが漂ってきた。
学校が始まり、秋になった。
眞箏はよく学校の裏にある森に入り虫乃調を独奏した。このごろ増えてきた虫たちは彼女の笛につられてあちこちで鳴き、山全体で連鎖反応を引き起こすほどだった。
彼女は風野流の後継者として村人たちに知られるようになった。毎日、着々と腕を上げていることも。
ところで最近、村ではカメムシが猛威を振るっていた。越冬する場所を求めて活発に動き回り農作物に害を与えた。特に秋ナスの被害は毎年、村人たちの悩みの種で、カメムシに吸われ形が変わってしまえば商品にならなかった。
秋晴れの日の午後。家の表座敷では大叔父が正造の祖父と茶を飲んでいた。
「折り入って相談があるんじゃが、眞箏ちゃんをちょっと借りることはできんか」
「貸さんこともないが、どうした?」
「作物の収穫が終わるまでカメムシをおとなしくさせてほしいんだ」
「いま学校から帰ったみたいだから直接聞いてみるとよかろう」
眞箏は呼ばれて表座敷に入った。
「分かりました。おじいちゃんと手分けしてやります」
「えっ?」と、正造の祖父が驚いて声を漏らした。
客が帰った後、大叔父は眞箏を部屋に残し、こう言った。
「風野家の力は正統後継者しか使えん。これは一家の掟なんじゃ」
次の日の放課後から眞箏は村中を回るようになった。三寸管の高い音は畑、棚田、果樹園を悠々とめぐり、森の中に入っていった。彼女が吹くのをやめると、周りに集まっていたカメムシは木の陰や落ち葉の中に飛び、姿を隠した。
その甲斐があってか、この秋はどの作物も豊作だった。農家たちは眞箏の家までお礼の品物を持ってきた。彼女は人々から感謝されることを喜んだ。
箏の稽古に来た女の子たちが帰った後、眞箏は母と表座敷で合奏した。彼女が笛を吹き、母が箏で合わせた。母は虫の音色の間に巧みに弦の響きを織り込んだ。
弾き終えると、母は天井を仰ぎ大きく一息ついた。
「本当に懐かしい。お父さんともよくこうして一緒に夕日を眺めながら演奏したものだわ」
「お父さんってどんな人だったの?」
「おっちょこちょいだけど、心根のやさしい人で、いつも損ばかりしてた」
「私のことを言われているみたい」
「あなたはお父さんにそっくりよ。いいえ、風野家の人はみんなそうなのかもしれないわね」
「おじいちゃんは厳しくて、そうは見えないけど」
「きっと若いころにたくさん失敗したのよ。歳を取るとね、若い人を叱らずにいられないものなの。自分と同じ過ちを繰り返してほしくないから。それもやさしさなのよ」
母はもう一度ため息をつき、眞箏の顔を見つめた。亡き夫の面影を求めて。
その冬は寒さが特に厳しかった。十二月に入ってすぐ初雪が降り、溶けないうちに次が降った。山は白い雪に閉ざされた。眞箏の母は誰も稽古に来ない日に表座敷で一人箏を弾いた。その音は空気を一瞬わずかに震わせるだけで、厚く積もった雪にすぐ吸い込まれた。
子供たちはいつだって元気だ。眞箏は正造たちと校庭で雪合戦をした後、広場の焚き火で秋に拾った栗や家から持ってきた芋を焼いた。体を動かした後によく噛んで食べると砂糖よりも甘かった。彼らは寒さ知らずだった。
放課後に外遊びをしない日は富子の家に行った。眞箏はそこで富子の母から編み物を習った。囲炉裏の火で温まりながらコツコツと手作業をすると心地よい眠気に襲われた。どうしても我慢できなくなると、眞箏は富子と二人で話をした。
「編み物って本当に難しいし、時間もかかるわね」
「村の女の人たちはみんな上手よ。きれいな柄をつけられたり。私あこがれちゃうわ」
「富子はずっと村で暮らすの?」
「うん。村はいい人ばかりだし、山にはなんだってある。無理して町に行かなくてもいい」
「私も本当は富子やみんなと一緒に暮らしたいけど……」
修業を終えたら家族や友人に別れを告げ、村を出なければならない。外には眞箏の知らない世界がある。彼女を必要としている人々がいる。
「ほら。お父さんにあげる帽子ができたわ」と、富子が微笑んで言った。
冬は生き物が活動をやめ休む季節だ。虫や獣は人目につかない所に身を潜め春の雪解けを待つ。
「よし。この冬は心乃調を練習しようか」と、奥の間で大叔父が火鉢に手をかざしながら言った。
「心も操れるの? 難しそう」
「それは本来、音楽に備わる力だ。だからそれほど難しくはない。わしら風野家の血を引く者ならばな」
やや単調な虫乃調よりも緩急が激しい、序破急のある曲だった。序は静かに始まり、破は音が広がりを見せ、急は感情の高まりが収まる。吹き方次第で聞く人の喜怒哀楽を増幅もしくは抑制できる。
心乃調は指使いが難しい虫乃調よりも表現力を要する。まずは暗譜が必須だ。譜面に気を取られ、縛られるのではなく、曲を胸に刻み込む。何度も繰り返し吹くことで自分のものとする。
もうすっかり上達しただろうと思い、大叔父に通して聞いてもらった。
「いかんな、棒吹きになっておる。それでは退屈させるだけだ」
「抑揚をつければいいんでしょう。もう一回やってみるわ」
お腹の力で息に強弱をつけ吹いてみたが、思ったほど効果は上がらなかった。
「首を振ってユリをかける」
大叔父は顎で斜めに円を描くようにして首を振った。音は下を向くと低く、上を向くと高くなる。これをメリカリといい、交互に繰り返すことでユリ(ビブラート)をかける。
「メリとカリを徹底的に練習するんだ」
難しかった。メッてもカッても音の高さがあまり変わらなかった。首を振っている間に歌口がズレて音が出なくなった。首の動きもぎこちなかった。
「首振り三年コロ八年という」
「さ、三年も!?」
「実際にはそれほどかからんが、根気よく練習しろということじゃ」
さすが尺八一家に生まれただけはあり、眞箏は冬の間にメリカリをある程度の形にできた。一音を長く吹く時に中央を膨らませ、そこでユリをかければ棒吹きにならなかった。さらに曲が盛り上がるところで音と首振りを大きくすることで感情表現を豊かにした。
彼女は再び大叔父の前で吹奏した。今度は大叔父も満足そうに頷いた。
「少しは歌って吹けるようになったな。心乃調で学んだ技術は虫乃調にも応用できる。自分で工夫してみなさい」
「この曲ってどんな時に吹けばいいの?」
「春に六年生の卒業を祝う宴があるから、笛で興を添えるのもいいじゃろう」
その年の春は早かった。あれほど積もっていた雪が一気に溶け小川になった。雪の下から草花の芽が顔を出した。巣穴に隠れていたリスが木々の間を駆け回った。日当たりの良い山の斜面に梅の花が咲いた。鈍色の雲に覆われていた太陽が真っ白に輝いた。外で遊ぶ子供の声が山中にこだました。
卒業式は校庭で開かれた。学校を出て働き始めたらもう一人前。卒業は幼少時代の終わりを意味する。卒業生たちは厳かな顔をし、保護者たちは誇らしそうな顔をした。在校生たちは立派な大人になろうとする卒業生たちに憧れの眼差しを注ぎ、彼らのために旅立ちの歌をうたった。
式が終わると広場の焚き火を囲み宴が開かれた。男たちはこれから大人の仲間入りをする卒業生たちを歓迎し、飲みたい者には酒も振る舞った。正造は初めて飲む酒の味に驚いた。こんな美味いものを隠していたとは。大人にはもっと秘密の楽しみがあるに違いない。彼は未来に希望を抱いた。
宴もたけなわになってきたころ、眞箏が人の輪の中に立った。おろしたての萌葱色の服が肌の白さをいっそう際立てた。
「しばらく見ないうちにべっぴんさんになったな」と、酔った男たちが褒めそやした。
彼女は少しだけ緊張し、帯から鼈甲色の尺八を抜いた。吹き始めると笑い声がやみ、みな演奏に耳を傾けた。
目をつぶり、感覚を研ぎ澄まし、吹くことで我を忘れる。人々の歓びが自ずと伝染し、音が跳ね、小躍りしたくなるような律動が生まれる。彼女は微笑みを浮かべ、全身をゆったり動かす。焚き火が燃え盛り大きく揺れる。湿った冷たい風が新緑の匂いを届ける。飛び板を踏んだように、曲の盛り上がりが一気に頂点に達した瞬間、彼女はそっと笛から桃色の唇を離した。
村人たちは余韻とともに、今までの半生にあった幸せな思い出に浸った。眞箏が笛を帯にしまい丁寧に頭を下げると、人々は目を覚まし大歓声を上げた。
尺八の音色が流れる宴は夜更けまで続いた。




