旅の終わりと始まり
眞箏は故郷の墓に向かって手を合わせた。崖にある墓石の前に立ち、先祖や父に思いを馳せることが日課になっていた。ここで目をつぶると、彼女の心は時空を越えて自由に旅することができた。父の仕事についていき、どこか懐かしい尺八の音色を耳にし、現地の人々と共に幸せな気分になった。村を去った最初の先祖に会いに行き、竹林の幽玄な佇まいの一軒家で老夫婦が共に天寿をまっとうするのを見守った。
「お母さん、またここにいたの?」
娘の箏音はこの春に小学校入学を控え、口調が急に大人びてきたところだ。
「ええ。ここは眺めが良くて、空気がおいしいわ」
「変なの。空気なんてどこも一緒よ」
眞箏は笑い、娘と手をつなぎ家に戻った。
自宅の表座敷にはもう人が集まり自主練習を開始していた。春の陽気を浴びる茅葺き屋根の上で、箏と尺八の音が仲睦まじく軽やかに跳ねる。
「あっ、眞箏先生だ」
「柊平先生は?」
「昨日の話、忘れたの? また首都の公演に行くって」
「ああそうだった」
眞箏は小学三年生の和子を見ながら、正造と富子のどちらにより似ているだろうかと思ったが、そんな疑問は不要だった。友人夫婦はどちらも似た顔をしているのだから。
「それでは今日の稽古を始めます」
柊平が不在なので合奏の練習をした。一曲終えるごとに、眞箏は箏と尺八の双方に適切な助言をした。
「眞箏先生は自分では吹かないのに、どうして尺八を教えられるんですか」
「昔は吹けたのよ、もう忘れちゃったけど。細かいところは柊平先生が帰ってきてから聞いてね」
箏音は和子の隣で弾いた。和子が年上だが、箏音のほうが早く練習を始めたので上手だった。二人は姉妹のように親しかった。
その日の練習が終わるころになり、やっと息子の蒼平が帰ってきた。また藪の中を探検したのか、顔に細かい傷ができている。
「今日もお稽古さぼったわね」と箏音が言った。
「だって笛なんかつまんねえんだもん」
蒼平は小学四年生だ。柊平は四年生になったら尺八を教えると決め、家の三寸管を持たせてやったが、蒼平はあまり熱心ではなかった。柊平が留守だとよく学校の男子と道草を食い、遅くまで遊んだ。眞箏は自然に任せようと思い、無理に吹かせなかった。
「さぁ、もう一度合奏して終わりにしましょう」
最後は眞箏も弾いた。見事な腕前だった。都会の人から、夫婦で演奏会を開かないかと誘われたこともあったが、彼女はこう断った。
「素人芸ですから。それに子供たちがまだ小さいので」
柊平がいなくても夕飯は賑やかだった。眞箏の母はまだまだ若く元気があり、いつも美味しい料理をこしらえ、育ち盛りで食欲旺盛な孫たちを喜ばせた。祖母と孫は仲良しだった。
茶の間で食事を終えた後、眞箏は母に「近ごろよく大叔父さんのことを思い出すの」と言った。
「蒼平はあなたや柊平さんよりも大叔父さんに似たみたいね。眉毛や目元や鼻、それに性格も」
「そう?」
「けっこうやんちゃだったそうよ。それに昔は大酒飲みだったって。そこだけは似ないといいんだけど」
「大叔父さんからは本当にいろいろ学んだわ。尺八を教えてもらわなければ、外に出ることもなかったでしょうし」
「あなたを送り出すのは本当に辛かった」
「親の心子知らず、だったかな。けど、私自身が旅をして良かったと思っているから、蒼平をもっと快く送り出せるかもしれない」
「気が早いのね」
「早めに心の準備をしておかないと。あっという間に歳を取っちゃうから」
「年寄りじみたことを言わないの」
眞箏と母は毎晩、こんな話をした。
学校が春休みに入った。柊平から手紙が届き、真っ直ぐ次の公演先に向かうからしばらく帰れないとのことだった。眞箏は寂しかったが、夫婦は短い別れに慣れていた。それは安定しすぎて惰性や倦怠に陥りがちな夫婦の関係と感情に新しい風を吹き込んでくれた。
「眞箏ちゃん、折り入って相談があるんだけど」
訪ねてきたのは母の知り合いのおばあさんだった。眞箏は茶の間に通し、お茶と菓子を出した。
「おれも食べたい」
「私も!」
「お行儀よくするのよ」
茶で喉を潤してから、おばあさんが語り出した。寝たきりのおじいさんが久しぶりに口を開き、死ぬ前にもう一度だけ花が見たいと言った。桜の開花にはまだ二週間ほどあるが、それまで持ちそうにないという。
「おじいさんの最後の願いを叶えてあげたくてね」
「そうでしたか。私ではお役に立てませんが、代わりにこの子にやらせてみましょうか」
「おれのこと?」
「そう。尺八で花を咲かせるの。面白いでしょう」
「お兄ちゃんばっかりずるいわ。私もやりたい」
「おれはべつに吹きたくないけど」
「いいから。じゃあみんなで行きましょう」
眞箏、蒼平、箏音の三人はおばあさんの後について行った。畑の中の一軒家。家の外には柿の木があり、おじいさんが横たわる寝室の窓からは少し離れた所に生える立派な桜の木が見える。
「あれを見ながらお酒を飲むのがおじいさんの毎年の楽しみなんだ」
おばあさんは家に入り、徳利に酒を注ぎ、寝室に運んでいった。その間に眞箏たちは木の下に立った。
「私にも笛をちょうだい!」
「箏音はまだ手が小さいから無理よ。大きくなったらきっと教えてあげるからね」
「はーい」
蒼平は珍しく自ら意欲的に尺八を帯から抜き、父に習ったように吹いた。乙音も甲音も一通り出るようだ。
「いいわね。じゃあお母さんが先に見本を示すから、しっかり聞いておいてね」
眞箏は八寸管で柊平が自作した「花乃調」を吹いた。春を想起させるほのぼのとした、それでいてみずみずしく心躍る曲で、子供でも吹きやすそうだった。兄妹は、演奏中の母の立ち姿、父とはまた違う女性らしいたおやかな音色に惚れ惚れした。
「お母さん上手なのね」
「久しぶりだからちょっとぎこちないけど。どう、もう一回聞く?」
「ううん。今ならおれでも吹ける気がする」
蒼平は先祖代々脈々と伝わる芸の魂が乗り移っているうちに笛を吹いた。彼は母以上に音感が強かった。三寸管の高く軽快な音が弾み、枝をちょんちょんと揺らす。桜の蕾がゆっくり膨らみ、鮮やかな桃色になった。
「おやおじいさん、桜が咲きましたよ」
「本当だ。今年も花を見ながらお前と酒を飲めるとはありがたいことじゃ」
春告鳥が一声鳴いた。蒼平は父によく似た澄んだ目を青い空に向けた。




