第9話 現地調査
前日、愛用の最高級包丁による神速の剣技をもって、タマネギを細胞はおろか分子レベルで完全に消滅させたレイナ・クロノス。
これ以上の単独調理は不可能と判断した彼女は、再びミナセ家のキッチンへと駆け込み、カナタの母へ弟子入りしていた。
借り物のエプロンを身に纏い、調理台の前に立つレイナ。
その背筋は直立不動。
まるで上官の前に立つ兵士のように張り詰めている。
「レイナちゃん、包丁持ったまま歩いちゃ駄目。危ないでしょ」
「了解した」
鋭い眼光のまま、軍人さながらのトーンで返すレイナ。
だが、お母さんは動じない。
「『はい』でしょ」
「……はい」
世界最強ともあろう者が、ごく普通の主婦の放つ正論に押し切られ、素直に言い直した。
「うん、よろしい」
レイナはなぜか少しだけ背筋を伸ばした。
「じゃあ、お肉をこねる時は指をこう丸めて、猫の手ね」
「はい……」
レイナは全神経を集中させながら、ひき肉をこねる。
魔王討伐より真剣だった。
◇
場面は変わり、ミナセ家の庭。
丁寧に手入れされた緑豊かな植え込みが並んでいる。
【植え込みA】
ギルド最高のIQを誇る男、エドワードが黒スーツ姿で泥まみれになりながら腹ばいになり、超高性能双眼鏡を覗いていた。
【植え込みB】
そこから僅か数メートル隣の植え込み。
クロノス家直属の隠密隊長が、気配を完全に消した漆黒の忍び装束で潜伏し、同じく双眼鏡を構えている。
お互いに隠密のプロ。
すぐ隣に不審者がいることには気づいていない。
二人の視線の先には、窓越しに見える「お母さんとレイナ」の姿。
一生懸命にひき肉を捏ねるレイナを見ながら、二人の思考は真逆の方向へ暴走していた。
【隠密隊長の視点】
(頑張っておられる……クロノス卿……!)
(前日、あれほど高価な大理石キッチンを爆破していたあのお方が、泥臭く肉をこねて怒られている……!)
(恋する乙女とはここまで健気なものなのか……)
(好きな男の家庭の味を学ぼうと、一般人の小言すら真剣に受け止めておられる……!)
(私は……不覚にも涙が出そうだ……!)
【エドワードの視点】
(あり得ない……!)
(カナタへ世界の全権を移譲するための『食卓フェーズ』……その真の核心がこれか……!)
(世界最強クロノス卿が、一言の反論すら許されず、あの一般人女性の命令を完璧に受け入れている)
(それだけではない……今、明確に命令系統を書き換えられたぞ……!?)
(精神支配か? 言霊の呪術か?)
(一体あの家には、どんな恐ろしい洗脳機構が隠されているんだ……!)
◇
やがて、レイナのこね終えたハンバーグの形を見て、お母さんが優しく微笑んだ。
「あら、レイナちゃん。すごく上手になったじゃない。偉いわね」
ポン、と肩を叩かれる。
レイナは変装の仮面の裏で、ほんの少しだけ表情を緩めた。
耳の裏が、また少し赤い。
それを見た隊長は双眼鏡を握りしめる。
(……可愛い)
(褒められて心の底から喜んでおられる……!)
(未来のお義母さんに認められて、内心飛び上がるほど嬉しいのだな……!)
(なんと微笑ましい光景か……!)
一方。
隣の植え込みではエドワードが冷や汗を流していた。
(バカな……!)
(完璧なマインドコントロールの維持だけでなく、被支配者を完全に手懐けるための褒賞システムまで確立されているというのか……!!)
(恐るべき組織的洗脳の手際……!)
エドワードは震える手で胸ポケットから高級な革手帳を取り出した。
万年筆を走らせる。
前日のログの下へ、さらに厳重に記録を積み上げていく。
――【対象女性による直接指揮を確認】
――【世界最強を完全に制御下に置いていると推測】
――【被支配者への褒賞システムを確認】
――【作戦危険度を最上位へ更新】
カチャリ、と革手帳を閉じる。
エドワードは眼鏡のブリッジをキィィンと押し上げた。
「食卓フェーズは想定以上だ……」
世界の崩壊を予感したかのような表情。
「私は何か、とてつもないものを見ているのかもしれん……」
まだ見ぬ巨悪への恐怖を深める男の、シリアスなドアップで――ドン。
(第9話・完)




