第10話 ハンバーグ会
夕方のミナセ家。リビングには温かい明かりが灯り、香ばしい肉の焼ける匂いが漂っている。
一方、庭の植え込み。
相変わらず気配を完全抹殺した隠密隊長が、双眼鏡越しにその光景をそっと見つめていた。
(ついに完成したのか……)
(クロノス卿の愛の結晶が……)
(私は邪魔をしてはならない。陰ながら見守るだけだ……)
完全に恋愛ドラマの視聴者と化した隊長は、ハンカチを噛み締めながら見守っていた。
そして、その数メートル隣。
別の植え込みには、もう一人の観測者が潜んでいた。
黒スーツ姿のエドワードである。
双眼鏡を構えながら、窓の向こうの様子を鋭く監視していた。
(対象女性による調理指導は終了)
(次は実食フェーズ……)
(食卓フェーズの核心が明らかになる)
息を殺し、観察を続ける。
その時だった。
ガラリ、と窓が開いた。
「あら」
エドワードの身体が硬直する。
窓から顔を出したのは、お母さんだった。
「あら、エドワードさんじゃない」
エドワードの全身が硬直した。
(バカな……!)
(私は気配遮断術式を展開していた)
(風向きも確認した)
(S級魔物の縄張りに三日間潜伏した時ですら、最後まで気付かれなかったというのに……!)
(なぜ一般家庭の母親が一瞬で発見できる!?)
「そんなところにいないで、中に入りなさい」
エドワードの背筋を冷たい汗が流れる。
(気付かれただけではない……)
(誘導された……!?)
「もうすぐご飯だから」
エドワードは固まった。
罠か。
いや、罠にしては自然すぎる。
だが、この女性は未知数だ。
ここで断ることこそ危険かもしれない。
すると、奥からカナタの声が聞こえてきた。
「あれ、エドワードさん?」
カナタがひょこっと顔を出した。
「来てたんですね」
「せっかくですし、一緒に食べていきません?」
「外で見てるより、中で食べた方が楽ですよ」
さらにその奥。
レイナがこちらを見た。
「……別に構わん」
エドワードの眉がぴくりと動く。
(潜入調査の好機……)
(内部へ入り、食卓フェーズの全容を確認できる……!)
数秒の思考。
そして結論を出した。
「……お言葉に甘えよう」
こうしてエドワードは、自らの意思で作戦区域へ足を踏み入れた。
その選択が、自身を地獄へ導くとも知らずに。
◇
こうして、エドワードはミナセ家の食卓に着いていた。
テーブルを囲むのは、カナタ、レイナ、エドワード、そしてお母さん。
目の前には、ふっくらと焼き上がり、肉汁が溢れる完璧なハンバーグが並んでいた。
見た目に異常はない。
匂いにも問題はない。
エドワードは慎重に観察した。
(……普通のハンバーグだな)
その時だった。
カナタが何気なく言った。
「あ、それ、レイナさんの妹さんが作ったやつですよ」
「せっ――」
エドワードの全身から汗が吹き出した。
「世界一位の……!?」
「?」
カナタが首を傾げる。
「妹さんですけど」
「……っ」
違う。
妹ではない。
あれは本人だ。
世界最強レイナ・クロノス本人が作った料理。
エドワードの手は、もはや自分のものではなかった。
カチャカチャとフォークが皿に触れる。
その時。
レイナが、ギロリとこちらを見た。
「……何か問題があるのか」
「ひぃっ」
エドワードは反射的に背筋を伸ばした。
「い、いただきます……」
「さあ、冷めないうちに食べてね」
お母さんが穏やかに言う。
エドワードはごくりと喉を鳴らし、ハンバーグを口に運んだ。
味は、分からなかった。
緊張で舌が死んでいた。
「どうですか?」
カナタが覗き込む。
「お、おいしいです」
「ですよね。レイナさんの妹さん、頑張ってましたもん」
「……っ」
エドワードは震える手で水を飲んだ。
神と対峙した時より緊張している。
目の前にあるのは、ただのハンバーグ。
だが作ったのは違う。
世界最強レイナ・クロノス。
それだけで十分だった。
レイナはパクリと一口食べ、表情こそ変えなかったが、内心では大感動に震えていた。
(美味い……!)
(これが、あの『猫の手』の果てに辿り着いた深淵の味……!)
(私はやり遂げたのだ……!)
「あ、今日のも美味いねー」
カナタはいつも通り普通にばくばくと食べていく。
そんな中、エドワードはもう一度だけ水を口に含んだ。
ゴクリ。
眼鏡を押し上げる。
それだけで、表情から動揺が消えた。
ナイフとフォークを慎重に動かしながら、脳内CPUをフル回転させる。
(……毒物反応、なし)
(精神干渉の残滓、なし)
(強制洗脳の術式展開、なし)
(周囲の魔力波形、至って正常)
(クロノス卿の精神状態、極めて平常)
(なるほど……)
エドワードは、張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
(やはり私の考えすぎだったか)
(世界最強が大人しく従っているのは、単に一般家庭の穏やかな空気に毒気を抜かれているだけなのだな)
(これなら国家転覆の危機など──)
完璧なまでの超有能な分析。
それゆえに、完璧に間違えていた。
エドワードが安堵の微笑みさえ浮かべようとした、その瞬間だった。
お母さんが冷蔵庫から大皿の山盛りサラダを取り出し、テーブルの中央へドンと置く。
一切の魔力も威圧もない。
ただ、全人類の母親が放つ「当たり前の正論」が食卓に響き渡る。
「はい、みんな野菜もちゃんと食べなさい」
「はーい」
「はい」
エドワードは微かに口元を緩めていた。
やはり自分の考えすぎだったのだ。
世界最強も。
カナタも。
ただ穏やかな家庭の食卓を囲んでいるだけ。
そう結論づけようとした、その時だった。
間髪入れず、お母さんの温厚で、しかし一切の拒絶を許さない視線がスッとエドワードへ向いた。
「エドワードさんも野菜食べなさいね」
ギルド最高のIQを誇るエドワードの脳細胞が、
「拒絶しろ」
「これは何かの罠だ」
と最大の警告を叩き出すよりも早く──
彼の脊髄が。
口が。
肉体が。
勝手に駆動した。
「はい」
◇
……。
……。
……。
言った瞬間、エドワードの動きがピタリと固まった。
サラダのトングを持ったまま、完全に石化したかのようにフリーズしている。
エドワードの中だけで、ミナセ家の和やかな空気は消え失せ、彼の視界だけがホラー映画のようにセピア色に染まっていく。
「……エドワードさん? どうしたの?」
サラダを取り分けようとしないエドワードを、カナタが不思議そうに覗き込んできた。
「……いや」
一拍。
「なんでもない」
そう答えながらも、エドワードの背中を氷水のような冷たい汗がポタポタと伝い落ちていた。
(……今、私は何をした?)
(なぜ返事をした?)
(命令ではなかった)
(威圧でもなかった)
(魔法の気配すら一切ない)
(……なのに私は、何の抵抗もなく、無条件で、当たり前のように従った……!?)
己の強固な意志が、ただの主婦の言葉によって無痛のまま書き換えられた。
その未曾有の恐怖に、エドワードは心底から戦慄していた。
◇
深夜。
エドワードの秘密執務室。
エドワードはガタガタと震える手で高級な革手帳を開き、血走った目で万年筆を走らせていた。
──【対象女性による直接指揮を確認】
──【世界最強を完全に制御下に置いていると推測】
──【被支配者への褒賞システムを確認】
──【作戦危険度を最上位へ更新】
──【報告:私自身への直接干渉を確認。抵抗不能】
万年筆を机に落とし、自分の両手を凝視しながら、エドワードは絶望の表情で呟く。
「あり得ない……」
「魔法はなかった」
「威圧もなかった」
「命令ですらなかった」
「なのに私は……あの女性の言葉に平伏した……!」
かつてない未知の怪異に触れた男の、恐怖の深淵を見つめるような絶望のドアップ。
「……食卓フェーズは、第二段階へ移行した」
ドン。
(第10話・完)




