第8話 世界最強、料理を学ぶ
薄暗いクロノス邸の最高級キッチン。
普段なら国家の命運を左右する禁忌の魔導書を開いているはずのレイナ・クロノスは、今、人生最大級の難題に直面していた。
彼女が血走った目で睨みつけているのは、一冊の本。
『初めてでも美味しく作れる! 家庭料理の基本レシピ』
その上に置かれた、白く輝く卵と、コロンと転がる一玉のタマネギ。
レイナは真剣そのものの顔で、三分間微動だにせず考え込んでいた。
「ハンバーグのタマネギは……先に炒めるべきなのか……?」
あまりに深すぎる苦悩。
考え抜いた末、レイナはレシピ本の前のページをバサリとめくり直した。
「……いや。炒める前に、まずは『みじん切り』という工程を完璧にこなさねばならん。料理とは、事前の精密なカッティングこそが戦局を左右するはずだ」
世界最強にとって、ハンバーグ作りは王都最大の難関ダンジョンをソロ攻略するよりも遥かに過酷なミッションだった。
レイナは愛用の最高級包丁を静かに抜き放つ。
その構えは、完全に敵国の首領を討ち取る時のそれだった。
鋭く息を吐き、精神を研ぎ澄ます。
「クロノス流剣技──神速」
刹那。
キッチンの空間が、グニャリと歪んだ。
読者の目には捉えきれない、残像すら残らない超高速の乱撃がタマネギへと振り下ろされる。
シュババババババババババババッ!!!
ドガァァァァァン!!!
あまりの風圧と衝撃波により、キッチンの高級大理石はバキバキにひび割れ、すべての窓ガラスが派手に外へと吹き飛んだ。
激しい硝子音のあと、静寂が訪れる。
レイナは包丁を構えたまま、まな板を見つめていた。
そこには、みじん切りになったタマネギではなく、ただの空間が残されていた。
「……消えた?」
剣技が鋭すぎた。
超高速の摩擦熱と衝撃波が発生した結果、タマネギは細胞はおろか、分子レベルで完全に消滅していた。
残されたのは、煤まみれで半壊したキッチンと、立ち尽くす世界最強だけだった。
ドガァァァァァン!!
今度はキッチンの扉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。
「クロノス卿ーーーーっっ!!! 敵襲ですか!?」
息を荒くして突入してきたのは、レイナ直属の隠密隊長だった。
抜刀し、周囲へ鋭い視線を走らせる。
「本邸を揺るがす魔力反応を検知しました! 凄まじい爆風も──」
そこで隊長の言葉が止まる。
ゆっくり振り返るレイナ。
顔も服も煤まみれ。
しかし目だけは真剣。
手には包丁。
「……料理だ」
「料理……?」
隊長は半壊したキッチンと主を交互に見た。
どう見ても戦争跡地だった。
だがクロノス卿が料理と言うなら料理なのだろう。
長年仕えてきた隊長は、そこで妙な違和感に気付いた。
殺気がない。
それどころか、どこか落ち着かない様子だ。
「……クロノス卿。その料理は、一体どなたのために?」
「……別に」
レイナはフイッと顔を逸らした。
耳の裏が、ほんの少し赤い。
その瞬間。
隊長の脳内に電撃が走った。
(あっ……)
数秒の沈黙。
(そういうことか)
最近の行動。
頻繁な外出。
私服。
タッパー。
料理本。
そして今の反応。
(なるほど)
隊長は全てを理解した。
だが口には出さない。
ただ静かに頷く。
(……なるほどな)
主の名誉のためにも、ここは触れない方がいい。
隊長は大人だった。
だからこそ、見なかったことにした。
半壊したキッチン以外は。
◇
場面は変わり、エドワードの秘密執務室。
エドワードは巨大なホワイトボードの前で腕を組み、静かに時を待っていた。
そこへ慌てた様子の部下が飛び込んでくる。
「エドワードさん! 先ほどクロノス総帥の本邸から原因不明の爆発音が検知されました!」
エドワードの目が細まる。
「続けろ」
「隠密部隊の最高幹部も慌ただしく突入した模様です!」
その瞬間。
エドワードの口元が不敵に吊り上がった。
眼鏡のブリッジをキィィンと押し上げる。
「……始まったか」
「は?」
部下は意味が分からなかった。
だがエドワードは既に次の段階へ進んでいた。
胸ポケットから高級な革手帳を取り出す。
万年筆を走らせる。
最新ページへ、美しい筆跡で記録する。
──【食卓フェーズ、実動開始を確認】
──【クロノス邸にて爆発事故発生】
──【隠密部隊の介入を確認】
書き終えたエドワードは静かに頷いた。
「やはりな……」
冷たい笑みが浮かぶ。
「予想以上だな」
その視線は、まるで国家転覆計画の全貌へ迫る捜査官そのものだった。
「クロノス卿……」
革手帳を閉じる。
「世界を揺るがす食卓侵略作戦。その全貌、私がすべて追わせてもらうぞ……!」
孤独に、しかし圧倒的な熱量で壮大な勘違いを追い続ける男。
その超シリアスな決め顔で──ドン。
(第8話・完)




