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第29話 世界最強、普通になる

 退院し、数日ぶりに帰ってきたミナセ家の食卓には、温かな香りが満ちていた。


 だが、テーブルの上に並べられているのは、いつもと少し様子が違う料理たちだった。


「はい。今日は肉じゃが。卵は入ってないから」


 お母さんが、出汁の効いた肉じゃがと、ふっくら炊き上がった白米を並べる。


「……母さん、ありがとうございます。すごく美味しいです」


「お礼はいいから、冷める前に食べなさい」


「はい」


 カナタは一口食べて、素直に笑みを浮かべた。


 母の料理は、本当に美味しい。


 それでも。


 病院のベッドで口にした、


『僕も、また食べられるようになりますよね?』


 という願いは、まだ消えていなかった。


 取り戻したはずの大好きなオムライスを、自分だけが食べられない。


 ほんの少しだけ。


 その寂しさが胸の奥に残っていた。


 そんな食卓に、


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが響いた。


「誰か来たわね」


 お母さんが席を立ち、玄関へ向かう。


 ドアを開けると、そこには両手で小さな保温容器を大事そうに抱えた少女が立っていた。


 艶やかな黒髪が、風に揺れている。


 いつも顔を覆っているフードはない。


 素顔のまま、少し緊張したように立っていた。


「……こんにちは」


「あら、レイナちゃん。入って」


 お母さんの声を聞き、カナタも居間から顔を出した。


「母さん、誰ですか……?」


 玄関に立つ少女へ視線を向ける。


 病院で目を覚ましてから続いていた、あの妙な違和感。


 いつもより、目の前のものがそのまま見えているような感覚。


 そして。


「あ、レイナさん」


「――っ!?」


 レイナの身体が完全に固まった。


 抱えていた保温容器が、わずかに傾く。


「危ないですよ」


「あ、ああ……!」


 慌てて抱え直す。


 それでも、レイナの視線はカナタから離れなかった。


「……今、何と言った?」


「え?」


「私を、何と呼んだ?」


「レイナさんですよね?」


「……私だと、分かるのか?」


「はい?」


 カナタが首を傾げる。


「フードも被っていないのに……?」


「レイナさんはレイナさんですよ」


「……」


 レイナが絶句した。


 以前、フードを外した自分を見たカナタは、何度説明しても「レイナさんの妹」としか認識しなかった。


 それなのに。


 今は、まっすぐ自分を見ている。


「……もう一度、呼んでくれ」


「レイナさん?」


「……もう一度」


「レイナさん」


「もう一度だ」


「えっと……レイナさん?」


「……ッ」


 レイナは堪えきれないように、勢いよく背を向けた。


「……なんでもない」


 だが。


 フードで隠されていない耳は、真っ赤だった。


「レイナちゃん」


「……はい?」


「玄関開けっぱなしよ。入るなら入りなさい。虫入るでしょ」


「……はい」


 世界第一位は、素直に一歩中へ入った。


 お母さんがドアを閉める。


「レイナさん、どうしたんですか?」


「なんでもないと言っている!」


「そうですか」


 カナタは素直に頷いた。


 しばらくして。


「それで……何か持ってきたんですか?」


「あ、ああ。これだ」


 レイナは我に返り、抱えていた保温容器を差し出した。


「お見舞いだ」


「僕に?」


「お前が卵を食べられなくなったと聞いたからな。その……ギルドの資料室とレシピ本を調べた」


「料理を?」


「卵を使わないオムライスというものを探した」


 カナタが目を瞬く。


「そんなのあるんですか?」


「……なかった」


「ないんですか?」


「だから作った」


「なるほど」


 レイナが少しだけ胸を張る。


「かぼちゃと豆腐を使えば、それらしいものになると書いてあった。出汁も調整した。三度ほど失敗したが、四度目は食べられるものになったはずだ」


「三回失敗したんですね」


「そこは聞き流せ」


 容器を渡されたカナタが、ふとレイナの指先を見る。


 小さな絆創膏が一つ。


「あ、手……」


「……料理中についただけだ」


 レイナは素早く手を背中へ隠した。


「大丈夫ですか?」


「世界第一位を甘く見るな」


「でも、絆創膏ついてますよ」


「……」


「レイナちゃん」


 お母さんの声が飛んできた。


「ちゃんと消毒した?」


「……していない」


「じゃあ先に手を洗ってきなさい」


「はい」


「あ、僕が何か――」


「カナタは座ってご飯食べてなさい」


「はい」


 神殺しも、素直に席へ戻った。


 数分後。


 手を洗って戻ってきたレイナとともに、再び食卓を囲む。


 カナタは保温容器を前に置いた。


 レイナは向かい側に座ったものの、先ほどから落ち着かない。


「開けてもいいですか?」


「……ああ」


 カナタが蓋を開ける。


「……」


「……」


 ケチャップライスの上に。


 黄色い何かが乗っていた。


 形は少し歪んでいる。


 端は崩れ、一部には微妙に焦げた跡まであった。


 見た目だけなら、オムライスと呼んでいいのか少し迷う。


 カナタはしばらく眺めた。


「……オムライス?」


「……の、つもりだ」


 レイナが消え入りそうな声で答えた。


「食べなくてもいいぞ」


「食べますよ」


 カナタは迷わずスプーンを取る。


 黄色い部分とケチャップライスを一緒にすくい、口へ運んだ。


「……!」


 かぼちゃの柔らかな甘み。


 豆腐の優しい口当たり。


 そこに丁寧に取られた出汁の風味が重なる。


 卵とは違う。


 母さんのオムライスとも違う。


 でも。


 不思議と、もう一口食べたくなる味だった。


 レイナが恐る恐る尋ねる。


「……どうだ?」


 カナタはもう一口食べた。


「美味しいです」


「……本当に?」


「はい」


 カナタが嬉しそうに笑う。


「レイナさん、料理上手なんですね」


「――っ!?」


 レイナの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「レイナさん?」


「……」


「大丈夫ですか?」


「……」


「レイナさん?」


「聞こえている!」


「よかったです」


 レイナは真っ赤なまま俯いた。


「……もう一口、食べてもいいぞ」


「はい。いただきます」


「全部食べてもいい」


「そのつもりです」


「……そうか」


 その声だけは、少し嬉しそうだった。


「レイナちゃん」


「……はい?」


「食べないなら座りなさい。立ったままだと邪魔よ」


「……はい」


 いつの間にか立ち上がっていたレイナは、真っ赤な顔のまま素直に椅子へ座った。


 お母さんは特に気にする様子もなく、自分の肉じゃがへ箸を伸ばす。


「カナタ」


「はい?」


「肉じゃがもちゃんと食べなさい。レイナちゃんのだけでお腹いっぱいにしないの」


「あ、はい」


「レイナちゃんも食べる?」


「……いただきます」


「はいはい」


 何事もなかったように、食卓は続いていく。


 その普通さが、なぜか少しだけ嬉しかった。


 カナタはレイナの作った不格好なオムライスを、もう一口食べた。


「やっぱり美味しいです」


「……そうか」


 レイナは今度こそ、ほんの少しだけ笑った。


 ◇


 その頃。


 王都の、とある一般家庭。


「ほら。やっとスーパーに卵が戻ったぞ」


 父親が、皿をテーブルへ置いた。


 そこには、焼きたての目玉焼き。


 白身の中央で、黄色い黄身がぷるぷると揺れている。


「わあ! 卵!」


「今日は奮発して二個だ」


「やったぁ!」


 少女は嬉しそうにフォークを伸ばした。


 黄身を崩し、白身と一緒に口へ運ぶ。


「おいしい!」


「だろ? やっと戻ってきたからな」


 父親が笑う。


 少女も笑いながら、もう一口。


 その時。


 カラン。


 フォークが床へ落ちた。


「……?」


「どうした?」


 少女が、小さく胸元を押さえる。


「お父さん……」


「ん?」


「なんか……息が……」


「え?」


 ぐらり。


「おい!?」


 少女の身体が傾く。


 父親が慌てて抱き止めた。


「しっかりしろ! おい!」


 ◇


 ウウウウウウ――。


 夜の王都を、何台もの救急車が駆け抜けていた。


『王都中央救急より各医療機関へ! 急性アレルギー様症状による搬送要請が急増中!』


『こちら第三病院! 同様の症例を確認!』


『第四総合病院もです! すでに病床が足りません!』


『共通点は!? 患者に何か共通点はないのか!?』


 通信が一瞬だけ静まった。


 そして。


『……卵です』


 オペレーターの震える声が響く。


『現時点で確認できた共通点は――卵です!』


『発症者の多くが、直前に卵を摂取しています!』


 王都に戻ってきたはずの日常が。


 再び、音を立てて崩れ始めていた。


(第29話・完)


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