第27話 九十八円の日常
異星での激闘と《飢餓の悪魔》の消滅から、数日。
王都のスーパー『王都マート』の食品売り場は、朝から凄まじい熱気に包まれていた。
「入ったわよ! 今週はちゃんと入ってるわ!」
「よかったわぁ……! これでやっと家族に玉子焼きが作れるわ!」
主婦たちが歓喜の声をあげながら群がっているのは、しばらく空っぽのままだった、あの特設コーナーだ。
棚には、ツヤツヤと滑らかな赤玉卵がずらりと並び、その頭上にはポップが堂々と復活を果たしていた。
『水曜特売! 赤玉卵 一パック九十八円(お一人様一パック限り)』
たった、九十八円。
数日前まで、それが世界から忽然と消え去っていた。
そして今。
九十八円の日常が、この街に帰ってきたのだ。
◇
一方――探索者ギルド『白銀の灯火』本部。
「エドワードさん! 正式な辞令が届きました!」
副官が一枚の書類を手に、執務室へ飛び込んできた。
「先ほど、議会で正式に承認されました!」
机の上へ置かれたのは、一枚の辞令。
『探索者ギルド《白銀の灯火》ギルドマスター復任承認書』
世界規模の卵消失事件を解決へ導き、異星でも圧倒的な分析力と指揮能力を見せた功績。
それが議会でも正式に認められたのだ。
「おめでとうございます、エドワードさん!」
執務室の外からも拍手が起こる。
「ギルドマスター復帰ですよ!」
「……そうか」
エドワードは辞令へ一度だけ目を落とし、静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……もっと喜ばないんですか?」
「想定の範囲内だ」
「相変わらずですね……」
副官が苦笑する。
これでようやく『白銀の灯火』も本来の体制へ戻る。
そう思った――直後だった。
エドワードが立ち上がる。
スマートな動作でスーツの上着を羽織った。
「では、後は任せた」
「……はい?」
「私は行く」
「どこへですか?」
「ミナセ家だ」
「待ってください」
副官の顔から笑顔が消えた。
「今日から正式にギルドマスターへ復帰したんですよ!?」
「ああ」
「異星との連絡協議会があと十分で始まるんです!」
「問題ない」
エドワードがデスクを指さす。
そこには、異星との暫定復興支援や交易ルート構築に関する大量の書類が積まれていた。
「全書類の精査を完了。修正案つきで電子承認してある」
「……え?」
「会議用の想定問答も共有済みだ。第一次支援物資の配分案、輸送ルート、緊急時の代替案も作成してある」
副官が慌てて端末を確認する。
「……本当だ」
高速で画面をスクロールする。
「全部終わってる……」
「当然だ」
「いつやったんですか、この量!?」
「昨夜だ」
「だったら今日は会議に出て指揮を執ってくださいよ!」
「無理だ」
エドワードが腕時計を見る。
「水曜日だからな」
「皿洗いに曜日関係あります!?」
「ある」
「ないですよぉぉぉっ!!」
副官の絶叫を背に、正式にギルドマスターへ返り咲いた男は、一切の迷いなく執務室を後にした。
◇
夕闇が街を優しく包み込む頃。
ミナセ家の食卓には、なんとも温かな香りが満ちていた。
ジュウウウ……。
フライパンの上で、卵が柔らかく焼き上がっていく。
お母さんが皿の上へ美しく盛り付けたのは、黄金色に輝く、ふわとろのオムライスだった。
「はい、お待たせー! 久しぶりのオムライスよ」
「わあ……!」
カナタの表情が、ぱっと明るくなる。
食卓を囲んでいるのは、カナタとお母さん。
そして――。
「……いただきます」
なぜか当然のように座っているレイナだった。
レイナがスプーンを静かに口へ運ぶ。
一口。
「……」
「どうですか?」
カナタが期待するように尋ねる。
レイナはもう一口食べた。
「……美味しい」
「でしょう?」
なぜかカナタが誇らしげに胸を張った。
「やっぱり母さんのオムライスが一番なんですよ」
「あらあら」
お母さんが嬉しそうに笑う。
そんな和やかな食卓のすぐ横。
台所のシンク前では――。
シュバババババババッ!!!
異常な速度で水音が響いていた。
皿。
コップ。
フォーク。
次々と洗われ、磨かれ、寸分の曇りもなく整然と並べられていく。
ファンシーなクマ柄のエプロン。
ゴム手袋。
そして、完璧に整えられた髪型。
本日、正式にギルドマスターへ復帰したばかりのエドワードだった。
耳元の通信機からは、今もなお副官の悲鳴が響いている。
『ギルドマスター! 交易協定の第三条について質問が!』
『聞こえてますか!?』
『今日から復帰したんですよね!?』
エドワードは完全に無視した。
洗い終えた皿を手に取り、キュッと音を立てて拭き上げる。
それを見ていたカナタが、不意に声をかけた。
「エドワードさん」
「なんだ」
「なんだか、皿洗いがすごく上手くなりましたね」
エドワードの手が止まる。
そして。
直立不動のまま、静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「当然だ」
「観察と改善の積み重ねこそが、すべての基本だからな」
『だからその改善能力を会議で使ってくださいよぉぉぉっ!!』
通信機から響いた副官の絶叫に、食卓から小さな笑い声が弾けた。
「大変そうですね」
「問題ない」
『問題ありますよぉぉぉっ!!』
また笑い声が上がる。
お母さんが笑い。
カナタも笑う。
レイナも小さく口元を緩めていた。
楽しそうな笑い声。
湯気を立てるオムライス。
九十八円の卵。
世界の危機と比べれば、あまりにも小さなものだ。
けれど。
カナタにとっては、最初からずっと、それを取り戻すための旅だった。
「いただきます」
カナタが、ようやく自分のオムライスへスプーンを入れた。
ふわりと卵がほどける。
ケチャップライスと一緒に、大きく一口。
「……うん」
カナタの顔が、幸せそうに緩んだ。
「やっぱり美味しいです」
「いっぱいあるから、おかわりしてね」
「はい」
いつもの味。
いつもの母さん。
いつもの食卓。
ようやく。
本当に、いつもの日常が戻ってきた。
――はずだった。
カラン。
小さな音がした。
「……?」
レイナが顔を上げる。
カナタの手から、スプーンが落ちていた。
「カナタ?」
「……あれ?」
カナタが胸元を押さえる。
どくん。
心臓が大きく脈打つ。
「なんか……息が……」
レイナの表情が、一瞬で変わった。
「カナタ、それ……!」
「カナタ?」
お母さんも立ち上がる。
カナタの視線が、目の前の食べかけのオムライスへ落ちた。
「……卵?」
ぐらり。
身体が傾いた。
「カナタ!」
レイナが椅子を蹴るように立ち上がる。
バタッ――。
「カナタ!!」
お母さんの悲鳴が、ミナセ家に響き渡った。
ガシャン――!
エドワードの手から、皿が滑り落ちる。
つい先ほどまで笑い声に包まれていた食卓。
九十八円の卵が戻った、その日の夜。
カナタは、オムライスを食べて倒れた。
(第27話・完)




