第17話 副官、上司を迎えに来る
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
平和なミナセ家に、切羽詰まったチャイムの音が激しく鳴り響いた。
「あら、誰かしら」
お母さんが玄関を開けた次の瞬間。
「エドワードさん!! いい加減にしてください!!」
限界を迎えた男の怒号が、リビングまで響き渡った。
お母さんに通されるなり、荒い足取りでリビングへ入ってきたのは、エドワードの旧副官であり、現在はギルドマスター代理を務める男だった。
その手には胃薬の瓶が握られ、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。
ギルドマスターの座を降ろされた後も、エドワードは『白銀の灯火』に名誉顧問として籍を置き、スカウト部門の統括を任されていた。
さらに、降格以前の引き継ぎも、スポンサーへの説明も、ほとんど終わっていなかった。
にもかかわらず、当の本人はそれらをすべて副官へ押しつけ、胸元にファンシーなクマ柄のエプロンを着けてミナセ家へ通い詰めていたのである。
「せめて自分の担当業務と、引き継ぎくらい終わらせてください! ギルドがどれだけ大パニックになっているか分かっているんですか!?」
「静かにしろ、副官」
エドワードはシンクの前に直立不動のまま、至極冷静に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「声を落とせ。今、私は黒幕の拠点で、最高レベルの潜入任務を行っている最中だ」
「ただの一般家庭に居着いてるだけでしょうが!!!!」
副官の容赦ない正論の絶叫がリビングを震わせる。
あまりの気迫に、ソファでのんびりしていたカナタも思わず引いていた。
「うわぁ、大変そう……」
そこへ、お母さんが台所からやってきた。
副官の身体が、わずかに強張った。
エドワードが連日のように『真の黒幕』と騒いでいる女性である。
もちろん、副官は一言も信じていない。
それでも、元上司がここまで執着する相手を前に、反射的に身構えてしまった。
「あら、お仕事大変そうね。顔色悪いわよ」
お母さんは台所から、トマトの入った袋を持ってきた。
「これ、実家からたくさん届いたの。奥さんと一緒に食べなさい」
「え……あ、ありがとうございます」
副官の動きが、ぴたりと止まった。
ツヤツヤと赤く実った見事なトマトの入った袋を、両手で受け取る。
ギルドの派閥争い。
放置されたスポンサー契約解除通知の山。
そして炎上対応。
それらによって荒みきっていた副官の心へ、お母さんの普通の気遣いがじわりと染み込んでいく。
「最近、妻ともすれ違い気味で……こういうの、本当に胃に沁みます……」
一瞬にして毒気が抜け、副官はトマトの袋を両腕で大切に抱え直した。
その光景を横で見ていたエドワードは戦慄しながら、副官へ低く囁いた。
「見たか。接触からわずか数秒で警戒心を解除した。これが黒幕の『家庭内外交』だ」
「普通にお裾分けをいただいただけです!!」
エドワードの陰謀論に染まることなく、副官は即座に的確なツッコミを入れた。
しかし、彼はハッと我に返ると、トマトの袋を大切に抱えたまま、エドワードの腕を力いっぱい引っ張り始めた。
「エドワードさんも帰りますよ!」
「放せ! まだ皿が二枚残っている!」
「ギルドには退団届が二十枚残ってるんですよ!!」
二十枚。
あまりにも現実的な数字を前に、エドワードは眼鏡を押し上げることすらできなかった。
副官は左腕にトマトの袋を大切に抱え、右手でエドワードの襟首を掴む。
「お邪魔しました! トマト、本当にありがとうございます!」
「あら、気をつけてねー」
「お仕事、頑張ってください」
お母さんとカナタがのんびり見送る中、クマ柄のエプロン姿の元ギルドマスターは、ずるずると玄関の外へ引きずられていった。
「皿より先に、退団届を処理してください!!」
副官の絶叫が、平和なミナセ家に響き渡った。
◇
閉店後のスーパー『王都マート』。
照明の落ちた食品売り場で、監視カメラの赤いランプだけが静かに明滅していた。
午前二時十三分。
卵売り場の空間が、ほんのわずかに歪んだ。
音はない。
風もない。
誰かが店内へ侵入した形跡もない。
だが、次の瞬間。
棚を埋め尽くしていた赤玉卵が、パックごと忽然と消え失せた。
警報は鳴らなかった。
監視カメラにも、何者の姿も映っていない。
何もなくなった棚の上には、赤い文字で書かれた一枚のポップだけが残されていた。
『水曜特売! 赤玉卵 一パック九十八円』
その文字を照らすように、非常灯が一度だけ明滅した。
(第17話・完)




