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第16話 世界最強、餃子を包む

 ミナセ家のリビングの壁際。


 そこには、常軌を逸した緊迫感を漂わせる男の姿があった。


 エドワードは胸元にファンシーなクマ柄のエプロンを着けたまま、直立不動で調理台を凝視している。


 彼の脳裏をよぎるのは、ここ数日間に喫した手痛い敗北の記憶だった。


 数日前。


 皿洗いに介入した結果、床掃除まで命じられた。


 さらに前日の買い出しでは、山のような乳製品を賞味期限内に消費する責任まで負わされた。


(不用意に動けば、黒幕はこちらの行動を即座に利用し、追加任務へ転換してくる……)


(私は学習した)


(今夜は食後の定期任務である皿洗いに備え、エプロンこそ装着しているが、調理には一切介入しない)


(徹底した観測専念モードだ……!)


 エドワードが眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。


 その視線を少し横にずらすと、食卓の端にぽつんと腰掛けている隠密隊長の姿があった。


 前回の買い出しの折、お母さんに存在を完全に把握された彼は、「外にいないで中に入りなさい」とごく普通に招き入れられ、植え込みへ戻る意味を失ってそこにいた。


 隊長は出された麦茶のグラスを両手で大事そうに抱え、借りてきた猫のように静かに固まっている。


 そんな男たちの視線の先。


 調理台には、お母さん、カナタ、レイナの三人が並んで餃子を包んでいた。


「レイナちゃん、餡を入れすぎ。そんなに入れたら閉じないわよ」


「……そうなのか」


 レイナは真剣な顔で、手元の餃子を見つめた。


 餡を詰め込みすぎた皮は、中央から無残に裂けている。


 その隣には、餡が少なすぎて平らになったもの。


 さらにその横には、水をつけすぎて皮同士が溶けかけたもの。


 レイナが最初に作った三個は、どれも餃子と呼ぶには少々厳しい形をしていた。


「難しい……」


 世界最強は、裂けた皮を前に小さく呟いた。


「最初から上手にできなくていいのよ」


 お母さんは新しい皮を一枚取り、餡を少量乗せた。


「ほら、餡はこのくらい。端にお水をつけて、こうやって少しずつひだを作るの」


 ゆっくりと指を動かし、一個の餃子を包んでみせる。


 レイナは、その手元を食い入るように見つめていた。


「餡の量、皮へ加える水分、指を動かす角度……」


「そんな難しく考えなくていいのよ」


「いや。理解した」


 レイナは新しい皮を手に取った。


 先ほどのお母さんの動きを、頭の中で正確に再現する。


 餡を置き。


 皮の端へ、必要最小限の水をつけ。


 閉じながら、一つずつひだを刻む。


 やがて、その手の中に一個の餃子が完成した。


 少しだけ形は歪んでいる。


 だが、先ほどの三個とは違い、きちんと餃子と呼べる形だった。


「できた……」


「あら、上手じゃない」


 お母さんが笑顔で褒める。


 レイナの耳が、ほんの少しだけ赤くなった。


「この形で合っているのか」


「うん。餡もちょうどいいし、ちゃんと閉じられてるわよ」


「なるほど」


 レイナは自分の作った餃子を見つめた。


 そして、一度コツを掴んでしまえば、そこからは世界最強だった。


 餡の量。


 皮へ触れる指の角度。


 水分量。


 ひだを刻む間隔。


 お母さんの動きを完全に再現し、さらに余分な動作を一つずつ削ぎ落としていく。


 壁際で観測していたエドワードの眼鏡が、キィンと光った。


(クロノス卿ほどの対象を、わずか一度の実演でここまで適応させるとは……)


(単なる料理指導ではない)


(対象の潜在能力を瞬時に解析し、最適な動作へ誘導する高度な育成プロトコル……!)


(餡の量、皮の水分、指先の角度。そのすべてが、誤差なく最適値へ収束している)


(やはり黒幕は、世界最強すら自在に成長させる支配者……!)


 当然、お母さんはただ餃子の包み方を教えただけである。


 レイナの指先が止まらない。


 餡を置き。


 皮を閉じ。


 ひだを刻む。


 一個。


 二個。


 三個。


「……十七」


 壁際から、エドワードが低く呟いた。


「え?」


「今ので十七個目だ」


 カナタが思わず振り返る。


「数えてたんですか!?」


 餡を置き、皮を閉じ、ひだを刻む。


 その一連の動作に、一切の無駄はない。


 トレイの上には、最初の不格好な三個とは対照的に、寸分の狂いもない餃子が次々と並んでいった。


「すごいですね」


 隣で餃子を包んでいたカナタが、感心したように声を上げる。


「妹さん、もうこんなに上手になったんですね」


「……妹ではない」


 レイナはぶっきらぼうに答えながらも、どこか得意げに指を動かし続けた。


 いつものやり取りだった。


 しかし、カナタが何気なく続けた言葉が、その場の空気を一変させる。


「これなら、将来いいお嫁さんになりそうです」


「お、お嫁……っ!?」


「お嫁さん」という言葉を受けた瞬間、レイナの思考が完全に停止した。


 制御を失った世界最強の魔力が指先から微量に漏れ出し、手元にあった餃子の皮が、ふわっと重力を無視して宙に浮き上がる。


「しまっ……!」


 レイナは神速の反射神経で、それを空中で引っ掴んだ。


 だが、激しい動揺のせいで手元が狂い、一個だけ不格好に歪んだ餃子が出来上がってしまった。


 最初の三個とは違う。


 今度は、技術の問題ではなかった。


 ただ、「お嫁さん」という一言のせいだった。


 レイナは耳まで真っ赤にしながら、その餃子を隠すようにトレイの端へとそっと追いやった。


 やがて餃子は、パリッとした羽根付きに焼き上がり、大皿に盛られて食卓へ運ばれた。


 最初に作った不格好な三個も、形の整った餃子も、すべて同じ皿の上に並んでいる。


 みんなで賑やかに食べ進める中、カナタが箸を伸ばした。


 最初の三個ではない。


 偶然にも、レイナがトレイの端に隠した、あの一個だけ形の違う餃子だった。


「あ、これだけ少し形が違いますね」


 カナタは箸で持ち上げた餃子を眺め、ふっと笑った。


「なんか可愛いです」


「……っ」


 レイナの箸が止まった。


 耳の裏まで、一瞬で真っ赤に染まっていく。


 壁際から一部始終を観測していたエドワードの眼鏡が、キィンと不気味に光った。


(まさか黒幕は、クロノス卿を婚姻によってミナセ家へ取り込むつもりなのか……!)


 家事。


 食卓。


 そして婚姻――。


(すべては『婚姻外交フェーズ』へ移行するための布石だったというのか……!)


(なんという周到な取り込み戦略……!)


 エドワードが冷や汗を流して戦慄する一方、食卓の端で麦茶を持ったまま固まっていた隊長は、静かに目頭を押さえていた。


(これは……遠回しな求婚なのでは!?)


(クロノス卿、ついにここまで……!)


 二人の男が、大いなる勘違いの深淵で震える中。


 中心にいるカナタだけは、何も知らなかった。


「あ、これも美味しいです」


 カナタは形の歪んだ餃子を、ただただ美味しそうに頬張っていた。


(第16話・完)


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