第14話 世界最強、皿拭きを奪われる
数日後。
ミナセ家では、いつものように賑やかな夕食が終わり、リビングには温かいお茶の香りが漂っていた。
カナタは椅子の背にもたれ、満足そうに息を吐いている。
「今日も美味しかったです」
「はいはい。そう思うなら、自分のお皿くらいキッチンに持っていきなさい」
「今やろうと思ってました」
「いつもそれ言うわね」
そんな親子の会話を聞きながら、レイナは静かに席を立った。
料理修行を始めて以来、食後にお母様の隣で皿を拭くことは、いつの間にかレイナの役目になっていた。
料理そのものを学ぶことはもちろん重要だ。
だが、皿拭きも嫌いではない。
むしろ最近では、密かに楽しみにしていた。
お母様の役に立てる。
カナタが普段暮らしている家の日常に、自分も少しだけ加われる。
そんな小さな時間が、レイナにとっては妙に心地よかった。
今日も当然のように布巾を手に取り、キッチンへ向かう。
そして一歩足を踏み入れた瞬間。
レイナの動きが、ぴたりと止まった。
シンクの前に、一人の男が立っている。
見覚えのある、ファンシーなクマ柄のエプロン。
そのあまりにも愛らしい装備を、なぜか一切の違和感なく着こなしている長身の男。
元ギルドマスター、エドワードである。
彼は当然のような顔で食器用洗剤を手に取り、すでに皿洗いを始めていた。
シュババババ!
小気味よい水音とともに、食器が次々と磨き上げられていく。
「……なぜ、お前がここにいる」
レイナの低い声がキッチンに響いた。
エドワードは振り返らない。
まるで、その質問が来ることすら予測していたかのように、一定の速度で皿を洗い続けている。
そこへ、自分の皿を持ったカナタがやってきた。
「あ、レイナさん」
「カナタ」
「エドワードさん、もうすっかりうちに馴染んでるんですよ」
その何気ない一言が、レイナの胸へ深く突き刺さった。
(馴染んでいる……?)
レイナは、クマ柄のエプロン姿で皿を洗うエドワードを凝視した。
(私が自宅で料理の復習をしている間に……)
(あの男は、お母様から次の皿洗いまで任されたというのか……!?)
思い返せば、自分が前回来た時には、エドワードは卵を持参していた。
麦茶を出され。
オムライスを食べ。
そして今では、何の疑問も抱かれずシンクの前に立っている。
(なぜだ)
(なぜあの男が、私より先にこの家へ馴染んでいる……!)
レイナの手の中で、布巾がギュッと握り締められた。
その鋭い視線に気づいたのか、エドワードが一度だけ手を止めた。
洗剤を洗い流し、手の水気を完璧に拭き取る。
それから、ゆっくりと眼鏡のブリッジを押し上げた。
その口元には、明らかな勝者の笑みが浮かんでいた。
(遅かったな、クロノス卿)
(この拠点における定期任務は、すでに私が確保した)
(これこそ最高レベルの潜入――ディープ・カヴァーの成果だ)
当然、言葉にはしていない。
だが、その腹立たしいほど得意げな顔だけで、レイナには十分だった。
「そこまでだ、エドワード」
レイナは大真面目な顔で、彼の隣へ一歩踏み出した。
「……その布巾を渡せ」
エドワードの手が止まる。
「皿の拭き上げは、私の役目だ」
数秒の沈黙。
エドワードは何も答えなかった。
代わりに、皿を洗う速度を一段階上げた。
シュババババババ!
「……ほう」
レイナの目が鋭く細められる。
エドワードは、洗浄した皿を水切りカゴへ置くことすらしなかった。
右手で洗い、左手で水を切る。
さらに皿を置くと同時に布巾へ持ち替え、拭き上げまで一人で完遂し始めた。
明らかな拒絶だった。
「渡す気はない、ということか」
「これは黒幕より正式に委任された定期任務だ」
エドワードが冷静に言い放つ。
「外部の人間が、安易に介入すべき領域ではない」
「私が外部だと……?」
レイナの眉がぴくりと動いた。
空気が凍る。
「貴様こそ、この家へ来てまだ数日ではないか」
「滞在期間は問題ではない。重要なのは、黒幕より継続的な任務を与えられたという事実だ」
「ただ皿を洗っているだけだろう」
「表面だけを見て判断するとは、世界最強も落ちたものだな」
「……言ったな」
次の瞬間。
レイナの手が、エドワードの持つ布巾へ伸びた。
だが、エドワードは紙一重でそれをかわす。
世界最強の探索者と、元ギルドマスター。
両者の視線が、シンクの上で激しくぶつかり合った。
そして。
戦いが始まった。
シュバババババババ!
エドワードの戦術的皿洗い。
スポンジが残像を生み、洗剤の泡が幾何学模様を描く。
一方、レイナはその隙を突き、洗い終えた皿を奪い取る。
シュンッ!
布巾が風を切る。
神速の皿拭き。
一瞬にして水滴が消え、磨き上げられた皿が食器棚へ収納されていく。
「甘いぞ、クロノス卿」
「そちらこそ」
エドワードが洗浄速度を上げる。
レイナが拭き上げ速度を上げる。
洗う。
奪う。
拭く。
戻す。
シンク周辺には、二人の残像が幾重にも浮かび始めた。
食器はかつてない速度でピカピカになっていく。
その一方で、キッチンには凄まじい風圧が発生し、吊るされていたお玉やフライ返しがカタカタと揺れ始めた。
ソファに座っていたカナタが、のんびりとキッチンを振り返る。
「なんか、今日はキッチンの風が強いですね」
「窓、閉まってるけどね」
お母さんはお茶をすすりながら答えた。
だが、その間にも二人の戦いは加速していく。
「その皿を渡せ!」
「断る!」
「拭き上げは私の役目だ!」
「すでに工程へ統合済みだ!」
「勝手に統合するな!」
レイナの布巾が真空波を生み出し、エドワードの前髪を揺らした。
エドワードも負けじと皿を高速回転させ、水滴を完全に振り落とす。
もはや皿洗いなのか戦闘なのか、誰にも分からなかった。
そして二人が、最後の一枚を同時に掴んだ、その時。
「二人とも」
背後から声がした。
一切の魔力もない。
殺気もない。
威圧すらない。
ただ、ごく普通の母親の声。
だが、二人の身体が同時に硬直した。
恐る恐る振り返る。
そこには、腕を組んだお母さんが立っていた。
「そんなに元気なら、床も掃除して」
次の瞬間。
世界最強の探索者と元ギルドマスターが、シンクの前でビシッと直立不動になった。
「「……はい」」
◇
数分後。
レイナとエドワードは、無言のまま並んで床を磨いていた。
レイナは右側。
エドワードは左側。
互いに一歩も譲らず、雑巾がけの速度だけを密かに競い合っている。
シュババババ!
あっという間に、床が鏡のように輝いていく。
お母さんはその様子を見て、満足そうに頷いた。
「二人でやると早いわね」
レイナとエドワードは、何も答えなかった。
ただ黙々と、床を磨き続けた。
(第14話・完)
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