94話_排水路の牙
旧実習迷宮。
その名が待機室に残ったまま、時間だけが進んだ。
外縁封鎖庭では、ルカ・フェンの検査が続いている。
裂けた赤茶の標識布は、本人の手から離さず、封印袋で外側だけを覆われた。
布片に浮かんだ古い文字は、ミレイア先生が写しを取り、王城と監理局へ送った。
第二の道は、学院の内にあり。
その言葉は、もう誰も軽く扱わなかった。
旧礼拝室は閉じた。
だが、学院の内側には、まだ別の入口が眠っている。
旧実習迷宮。
歪獣。
封鎖された地下区画。
迷宮化した道。
線と名前だけの話ではない。
次に来るものは、牙や爪を持っているかもしれない。
俺は待機室の椅子に座りながら、右手の包帯を見た。
白鎌は呼べない。
黒月も使えない。
線視も禁止。
何度も言われている。
それでも、何もできないまま待つことには慣れなかった。
カイルとアーヴェルは中央棟連絡廊下で待機。
グレン教官とオルディス局長は外縁封鎖庭。
親父は治癒棟に残っている。
エルナは俺の隣。
守られている。
それは分かっている。
だが、守られているだけでは、胸の奥が少しずつ焦げる。
エルナがそれに気づいたのか、静かに言った。
「リオンさん」
「うん」
「動きたいと思っていますか」
「思ってる」
ごまかさずに答える。
エルナは少しだけ頷いた。
「私も、少し思っています」
「エルナも?」
「はい。治癒術式も未来視も禁止されていますから。今、何かあっても、できることは限られています」
その声は落ち着いていた。
でも、言葉の底に悔しさがあった。
「だから、焦るのはリオンさんだけではありません」
「うん」
「でも、焦って動いたら、たぶん向こうに使われます」
「分かってる」
「分かっているなら、今はそれを一緒に守りましょう」
一緒に。
その言葉で、少しだけ息がしやすくなった。
俺だけが止められているのではない。
エルナも止まっている。
その上で、ここにいる。
俺は頷いた。
「守る」
エルナは少しだけ表情を緩めた。
「はい」
その時だった。
治癒棟の床下から、かすかな音がした。
こつ。
石を軽く叩いたような音。
待機室にいた全員が、ほぼ同時に反応した。
親父が柄へ手を伸ばす。
セラフィナ先生が灯りを落とし、扉側へ立つ。
ユーディア先生が鐘を持つ。
エルナは自分の名札へ手を添えた。
俺は右手を握りかけて、止めた。
こつ。
また音。
今度は少し近い。
床板ではない。
治癒棟の下を通る排水路。
そこから響いている。
セラフィナ先生が低く言う。
「治癒棟下部の排水路は、封鎖確認済みのはずです」
エイムの遠隔端末が赤く光った。
「治癒棟外周、微弱な歪獣反応。黒灰線ではありません。通常魔力反応とも異なります」
親父の目が細くなる。
「迷宮側か」
「可能性があります。反応は小型。数は一。位置、待機室直下の排水路」
こつ。
今度は、床の真下だった。
エルナが息を呑む。
カイルたちへの通信が開かれる前に、グレン教官の声が水晶から飛んだ。
『治癒棟で反応を検知した。状況は』
エイムが即答する。
「待機室直下、排水路に小型歪獣反応。旧礼拝室由来の黒灰反応ではなく、迷宮性の可能性」
『リオンは動かすな。ユアン、対処できるか』
親父は床を見た。
「床下なら、帰す先が見えない」
『俺が戻るまで持たせろ』
セラフィナ先生が言う。
「患者を移動させます」
その判断は早かった。
だが、床下から三度目の音がした。
こつ。
次に、石が削れる音。
がり。
待機室の床の隙間から、湿った魔力が滲んだ。
灰色ではない。
緑がかった黒。
泥と獣の匂いが混ざったような、嫌な気配。
それが床の継ぎ目から細く立ち上がる。
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「名称反応ではありません。これは、魔物です」
魔物。
その言葉は、旧礼拝室の声より単純だった。
だが、単純な分だけ近い。
床下に何かがいる。
牙を持つものが。
セラフィナ先生が扉を開ける。
「全員、廊下へ。リオンさんは――」
言い終わる前に、床が割れた。
待機室の中央ではない。
壁際の排水管の根元。
石材の継ぎ目が内側から押し上げられ、黒い爪が出る。
細い。
だが、鋭い。
次の瞬間、小型の歪獣が床を突き破って這い出した。
犬ほどの大きさ。
身体は濡れた石と泥を混ぜたような質感。
背中から、細い骨のような突起が並んでいる。
口は横に裂け、歯が多い。
目はない。
代わりに、額のあたりに青白い魔石のような核が埋まっていた。
歪獣は床に落ちた瞬間、こちらへ飛びかからなかった。
まず、匂いを嗅ぐように頭を動かす。
そして、治癒灯の魔力へ向いた。
セラフィナ先生が即座に灯りを落とす。
「治癒魔力に反応しています」
歪獣が口を開く。
裂けた口の奥に、細い舌のようなものが揺れる。
狙いは、治癒魔力。
治癒棟そのものが餌にされる。
親父が柄を構える。
「帰れ」
歪獣の身体がわずかに震えた。
だが、戻らない。
親父の力が効かないわけではない。
しかし、帰る場所が違う。
排水路か。
迷宮か。
もっと下か。
親父の眉が動く。
「こいつは迷っているんじゃない。巣から出てきただけだ」
グレン教官の声が水晶から響く。
『殺せるか』
「小さい。できる」
親父が踏み出す。
だが、歪獣はそれより速かった。
壁を蹴り、天井へ跳ぶ。
予想より動きが軽い。
泥のような身体なのに、石の隙間を滑るように進む。
天井から、エルナの方へ落ちてきた。
治癒魔力の疲労が残っているからか。
それとも、灯の残滓を嗅いだのか。
分からない。
エルナは治癒術式を使えない。
未来視も禁止。
それでも、彼女は後ろへ下がらず、自分の名札を押さえた。
「エルナ・シルヴェリア」
歪獣には、名前は効かない。
だが、エルナ自身を保つためには必要だった。
親父が間に入ろうとする。
だが、角度が悪い。
セラフィナ先生が防護札を投げる。
間に合う。
でも、歪獣の爪は防護札を裂いて、逸れながらもエルナの肩へ届きかけた。
俺は立っていた。
右手は使えない。
白鎌も呼べない。
線視も禁止。
だが、目の前の敵は、旧礼拝室の黒灰線ではない。
歪獣だ。
動く。
飛ぶ。
噛む。
なら、動きは読める。
俺は椅子を蹴った。
右手ではなく、左手で背もたれを掴む。
力は足りない。
でも、角度は足りる。
歪獣が落ちてくる先へ、椅子の脚を差し込む。
爪を受けるのではない。
通る場所を塞ぐ。
中央区画の試合で、何度も考えたこと。
白鎌がなくても、できる。
歪獣の前脚が椅子の脚に引っかかった。
小さな身体が空中で崩れる。
爪はエルナの肩を外れ、床を引っ掻いた。
石が裂ける。
エルナが息を呑む。
親父がすぐに動く。
柄で歪獣の胴を打った。
刃はない。
だが、重い。
歪獣は壁へ叩きつけられる。
セラフィナ先生が防護札を追加で投げ、出口側を塞ぐ。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「待機室は治癒棟内待機室。排水路ではありません」
場所を固定する鐘。
歪獣はその音を嫌うように身を震わせた。
名前ではなく、場所の定義が効いている。
俺は椅子を支えにしながら、歪獣を見る。
線は見ない。
だが、普通に見えるものがある。
額の青白い核。
そこを守るように、骨の突起が並んでいる。
歪獣は横へ跳ぶ癖がある。
爪を当てる前に、身体を低く沈める。
壁を蹴る時、右後ろ脚が一瞬遅れる。
弱いのは、右後ろ脚。
「右後ろ脚が遅い!」
俺は叫んだ。
親父が即座に反応する。
歪獣が壁を蹴ろうとした瞬間、柄の先が右後ろ脚の着地点へ置かれた。
当てに行ったのではない。
置いた。
歪獣の脚が、自分からそこへ乗る。
骨が嫌な音を立ててずれた。
ぎゃ、と短い鳴き声。
魔物の声。
旧礼拝室の名前を呼ぶ声ではない。
生き物の痛みの声。
歪獣は体勢を崩す。
セラフィナ先生が防護札で床を固定する。
「動かさないでください」
親父が柄を振り下ろす。
今度は額の核を狙う。
だが、歪獣は口を開き、黒緑の魔力を吐いた。
治癒灯の残りを食って、吐き返したもの。
親父が避ける。
魔力は壁に当たり、白い壁面が黒く腐ったように変色した。
セラフィナ先生の目が鋭くなる。
「治癒棟の壁を汚さないでください」
声が低い。
怒っている。
歪獣に通じるはずはないが、待機室の空気が一段冷えた。
俺は歪獣の動きを見る。
核を守っている。
右後ろ脚をかばって、次は左へ跳ぶ。
左へ跳ぶなら、壁際の水瓶が邪魔になる。
水瓶。
俺は左手で近くの小卓を押した。
水瓶が乗った小卓が、わずかにずれる。
ほんの少し。
だが、歪獣が左へ跳ぶ先に、水瓶の影が入る。
歪獣には目がない。
だが、魔力の流れを嗅ぐ。
水瓶の中には、治癒用の清水がある。
歪獣はそちらへ一瞬引かれた。
進路がぶれる。
「今!」
俺が言う。
親父が踏み込む。
だが、その前にエルナが動いた。
治癒術式ではない。
水瓶に手を触れず、ただ声を張る。
「それは治癒用の清水です。餌ではありません」
ユーディア先生の鐘が重なる。
場所と意味が固定される。
歪獣の嗅覚が、一瞬迷った。
そこへ親父の柄が入る。
額の核。
刃のない柄が、まっすぐ叩き込まれた。
青白い核に亀裂が走る。
歪獣の身体が硬直する。
グレン教官の声が水晶から飛ぶ。
『核を砕け。残すな』
親父がもう一度、柄を振る。
核が砕けた。
歪獣の身体は泥と石に戻るように崩れ、床へ広がった。
黒緑の魔力が一瞬立ち上がる。
セラフィナ先生が封印瓶を投げる。
瓶は床に落ちる前に開き、残滓を吸い込んだ。
待機室に、静けさが戻った。
ただ、床には穴が開いている。
壁は少し腐食している。
椅子は脚が折れかけている。
水瓶の中の水は、薄く揺れていた。
俺はそこで、自分が立っていることに気づいた。
息が少し上がっている。
右手は使っていない。
白鎌も呼んでいない。
黒月も出していない。
線視もしていない。
それでも、動いた。
椅子を使って、進路を塞いだ。
右後ろ脚を見抜いた。
水瓶で誘導した。
ほんの小さな戦闘。
でも、できた。
エルナがこちらへ来る。
「リオンさん」
「大丈夫」
「右手は?」
「使ってない」
「白鎌は」
「呼んでない」
「黒月は」
「出してない」
「線視は」
「してない」
エルナは少しだけ息を吐いた。
「では、座ってください」
「はい」
その言い方がセラフィナ先生に似ていた。
俺は椅子に座ろうとして、さっき自分で蹴った椅子だと気づく。
脚が折れかけていた。
別の椅子を親父が足で寄せた。
「座れ」
「うん」
座ると、膝に遅れて力が抜けた。
セラフィナ先生がすぐに検査する。
「右手、悪化なし。呼吸は上がっていますが、魔力使用反応はありません」
ユーディア先生も鐘を鳴らす。
「本人名、安定。名称干渉なし」
親父は歪獣が崩れた床を見ていた。
「排水路から来たな」
エイムの端末がすぐに応答する。
「治癒棟下部排水路は、旧水路と一部接続しています。旧水路は、旧実習迷宮の入口候補の一つです」
ミレイア先生の声も通信に入る。
『やはり、迷宮側が揺れています。小型歪獣が一体出たなら、内部封鎖はかなり弱っている可能性があります』
グレン教官の声が低くなる。
『治癒棟に出たのは偶然か』
親父が答える。
「偶然ではない。治癒魔力を嗅いだ」
セラフィナ先生が壁の腐食を見る。
「治癒棟を餌場と認識されると、厄介ですね」
「厄介どころじゃない」
親父は床の穴へ柄を向ける。
「帰れ」
崩れた排水路の石片が、少しだけ元の位置へ戻る。
完全には戻らない。
だが、穴の奥に見えていた黒い湿気が引いた。
親父はそこで柄を下ろした。
「応急だ。封鎖しろ」
セラフィナ先生が補助職員へ指示を出す。
待機室の外が一気に慌ただしくなる。
治癒棟の排水路封鎖。
残滓採取。
歪獣核の破片確認。
患者移動。
さっきまでの静かな治癒棟は、もうない。
外縁封鎖庭。
中央棟連絡廊下。
資料室方面。
そして治癒棟。
学院の複数箇所に、迷宮側の影響が出始めている。
グレン教官の声が水晶から入る。
『リオン』
「はい」
『今の判断は誰の許可だ』
一瞬、空気が固まる。
俺は正直に答える。
「許可は取っていません」
『白鎌は』
「呼んでいません」
『黒月は』
「使っていません」
『線視は』
「していません」
少しの沈黙。
水晶の向こうで、グレン教官が息を吐いた。
『なら、今回は叱らん』
カイルの声が遠くで入る。
『今回はって言った』
アーヴェルの声。
『黙れ。だが、今のは聞いておきたい』
グレン教官は続けた。
『何を見た』
俺は歪獣が崩れた床を見る。
「動きです。右後ろ脚が遅かった。治癒魔力に引かれていた。水瓶に反応すると思いました」
『線ではなくか』
「はい」
『なら覚えておけ。それも戦闘だ』
胸の奥に、少しだけ熱が残った。
それも戦闘。
白鎌でも、黒月でも、線視でもない。
見て、考えて、置く。
通る場所を塞ぐ。
リオン自身の戦い。
親父が言う。
「悪くなかった」
短い。
でも、それで十分だった。
エルナも静かに言った。
「助かりました」
俺はそちらを見る。
「エルナが、自分で名乗ったから」
「それでも、爪は届きかけました」
「次は届かせない」
言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。
エルナは驚いたように俺を見る。
だが、すぐに静かに頷いた。
「では、私も次はもっと早く戻ります」
「うん」
その約束は、小さかった。
でも、確かにそこに置かれた。
通信水晶から、カイルの声が聞こえた。
『リオン、活躍したっぽいな』
「少し」
『少しって言うなよ。俺たちがいないところで格好つけたのか?』
「格好つけてない」
『どうだか』
アーヴェルが淡々と続ける。
『詳細は後で聞く。戦闘記録として重要だ』
カイルが言う。
『反省会だな』
『そうだ』
『治癒棟飯食べながら?』
セラフィナ先生が通信へ向けて言った。
「食事中の戦闘反省は短時間のみ許可します」
カイルの声が明るくなる。
『許可出た!』
グレン教官の声。
『浮かれるな』
『はい!』
そのやり取りで、少しだけ空気が戻った。
だが、床の穴は残っている。
砕けた歪獣の核片も、封印瓶の中でかすかに青白く光っている。
ミレイア先生が通信越しに言った。
『旧実習迷宮の確認を急ぎます。今の小型歪獣は、おそらく迷宮の浅層にいるものです』
「浅層」
俺が繰り返す。
『はい。深層には、もっと大型のものがいる可能性があります』
カイルが遠くで声を上げる。
『大型!?』
グレン教官。
『黙れ』
『はい』
大型の歪獣。
迷宮。
魔物。
第1章で向き合ったものとは違う危険が、はっきり形を持ち始めている。
旧礼拝室の内側から聞こえた声ではなく。
今度は、床下から牙が出てくる。
俺は右手の包帯を見た。
まだ使えない。
でも、左手で椅子を動かすことはできた。
目で動きを読むこともできた。
白鎌を振るだけが、俺の戦いではない。
そのことを、初めて少しだけ実感した。
親父が床の穴を見ながら言う。
「リオン」
「うん」
「今の感覚は忘れるな」
「うん」
「だが、調子に乗るな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「ちょっとは分かってる」
親父はそれ以上言わなかった。
エルナが少しだけ笑う。
「たぶん、ですね」
「たぶん禁止?」
「今のは軽度です」
グレン教官の言い方を真似たのだと分かった。
俺は少し笑った。
その笑いのすぐ後、エイムの端末がまた鳴る。
全員が視線を向ける。
エイムの声は硬かった。
「旧実習迷宮、中央棟地下入口に反応。封鎖札の一部が内側から破損しています」
グレン教官の声が低くなる。
『来たか』
ミレイア先生が続ける。
『入口の封鎖文字に変化があります』
親父が問う。
「何と」
少しの間。
ミレイア先生は、慎重に読み上げた。
『浅層、開放』
待機室の空気が止まる。
旧実習迷宮。
浅層。
そこにいる歪獣。
排水路から出た小型は、ただの前触れだった。
グレン教官の声が、静かに響く。
『全員、配置を変える。ここからは迷宮封鎖案件だ』
俺は胸元の名札に触れた。
リオン。
名前はある。
右手はまだ使えない。
それでも。
次に来る戦いでは、もっと動く。
そう思った。
床下の穴から、まだ湿った迷宮の匂いがしていた。




