95話_牙の通る場所
浅層、開放。
その言葉が通信水晶から流れた後、治癒棟の空気は完全に変わった。
旧実習迷宮。
その浅い区画が開いた。
それがどれほど危険なのか、俺にはまだ正確には分からない。
だが、待機室の床を突き破って出てきた小型歪獣を見れば、十分だった。
迷宮は、もう地図の中だけにあるものではない。
床下にいる。
排水路にいる。
治癒棟の壁一枚向こうにいる。
セラフィナ先生の指示で、俺たちは待機室から隣の処置室へ移された。
壊れた床には封鎖札が貼られ、補助職員が排水管を仮封じしている。
床下からは、まだ湿った匂いが上がっていた。
泥。
石。
獣。
そして、どこか甘い治癒魔力の匂い。
歪獣が好む匂いだ。
セラフィナ先生は処置室の治癒灯を半分落とした。
「治癒魔力の発散を抑えます。重症者の区画は別棟へ移動。軽症者は二階へ」
ユーディア先生が鐘を手に、処置室の四隅を回る。
「ここは治癒棟処置室。排水路ではありません。旧水路ではありません。迷宮ではありません」
鐘が鳴るたび、床下から上がってくる湿気が少し薄くなる。
親父は刃のない柄を持ったまま、扉のそばに立っていた。
「下から来るなら、まだ来る」
セラフィナ先生は頷く。
「排水路を完全封鎖するには時間が必要です」
エイムの遠隔端末が机の上で赤く光る。
「中央棟地下入口、封鎖班が到着。浅層側からの圧力上昇。大型反応はまだありませんが、小型歪獣反応が複数、旧水路へ散っています」
「複数」
エルナが小さく繰り返す。
その声は落ち着いている。
けれど、指は名札の縁に触れていた。
俺は椅子に座らされている。
右手は包帯。
身体はまだ重い。
それでも、さっきより目は覚めていた。
床下の獣が、また来るかもしれない。
そう思うと、眠気は消える。
グレン教官の声が通信に入った。
『中央棟地下へ向かう。カイル、アーヴェルは第二防衛線から治癒棟連絡路へ移動。走るな。だが急げ』
カイルの声。
『走らないで急ぐの、難しいんですけど!』
アーヴェルの声。
『黙って歩幅を広げろ』
『それほぼ走ってない?』
『走るよりましだ』
グレン教官が低く言う。
『会話する余裕があるなら問題ないな』
『はい!』
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐにエイムが新しい報告を読んだ。
「治癒棟北側排水路に小型反応二。西側旧水路合流部に小型反応一。進行方向は、治癒棟内」
セラフィナ先生が即座に言う。
「北側の患者を二階へ。西側処置室は閉鎖」
親父が床を見る。
「こっちへ寄せているな」
「寄せている?」
俺が聞くと、親父は頷いた。
「治癒魔力の濃い場所を探しているだけなら、重症者区画へ行く。だが、さっきから反応がこの周りに集まっている」
エルナが言う。
「私ですか」
親父は否定しなかった。
「灯の残りを嗅いでいる可能性はある」
エルナの指が少し強く名札を押さえる。
「私は、灯ではありません」
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「エルナ・シルヴェリアさん。本人名、安定」
俺は立とうとして、セラフィナ先生に視線で止められた。
「座ってください」
「まだ何も」
「立とうとしました」
「……はい」
座り直す。
ただ、胸の奥は落ち着かない。
歪獣がエルナを嗅いでいる。
そう聞いて、黙って座っているのは難しかった。
エルナがこちらを見る。
「リオンさん」
「分かってる。動かない」
「動かない、ではなく、勝手に動かない、です」
「同じじゃない?」
「少し違います」
その言い方は静かだったが、強かった。
俺は頷く。
「勝手に動かない」
「はい」
親父が少しだけこちらを見た。
何も言わない。
それだけで、見張られていると分かる。
その時、処置室の外の廊下から金属音がした。
かん。
誰かが器具を落としたような音。
続いて、低いうなり。
セラフィナ先生の補助職員が廊下から叫んだ。
「西側廊下、床下に反応!」
親父が扉を開ける。
廊下の床板が、内側から盛り上がっていた。
石が軋む。
継ぎ目から黒緑の魔力が漏れる。
一体目。
いや、二体。
床下で別々に動いている。
セラフィナ先生が補助職員を下がらせる。
「廊下を空けてください。治癒灯、さらに落とします」
廊下の灯りが暗くなる。
その瞬間、床下の動きが少し鈍った。
やはり、治癒魔力に反応している。
俺は立たないまま、廊下を見た。
線は見ない。
ただ、音を聞く。
床下の爪が石を掻く音。
湿った身体が排水管に擦れる音。
魔力に鼻先を向けるような、短い呼吸。
二つの音は違った。
一つは軽い。
もう一つは重い。
「小さい方が先に出ます」
俺は言った。
親父がちらりとこちらを見る。
「理由は」
「音が浅い。床のすぐ下にいる。重い方は配管の奥で待ってる」
「待っている?」
「たぶん、小さい方が出た後に、治癒灯か人が動くのを見てから出る」
セラフィナ先生が眉を寄せる。
「囮のように使っている、ということですか」
「獣だから、考えているというより、そういう狩り方だと思います」
親父は短く頷いた。
「聞いたか」
廊下の補助職員たちがすぐに下がる。
ユーディア先生が鐘を構える。
エルナは処置室の入口に立った。
俺の横ではなく、少し前。
「エルナ」
「勝手には動きません」
そう言われると、返す言葉がなくなった。
床が割れた。
予想通り、小さい方が先に飛び出した。
待機室で倒した個体より、さらに細い。
鼠に似ている。
だが、背中に小さな骨棘があり、口は耳の近くまで裂けている。
目はない。
額ではなく、喉の奥に青白い核が見えた。
「核は喉!」
俺は叫ぶ。
親父が踏み込む。
しかし、小型歪獣は正面から来ない。
壁を蹴り、天井へ張りついた。
待機室の個体と同じ。
だが、動きはもっと速い。
親父の柄が追う前に、歪獣は天井を走って処置室の入口へ向かう。
狙いはエルナ。
エルナは下がらない。
下がらない代わりに、右へ半歩だけずれた。
「私はエルナ・シルヴェリア」
名乗りながら、治癒術式は使わない。
未来視も使わない。
ただ、自分の位置を確かめている。
歪獣が天井から落ちる。
俺は椅子の背を握った。
立つな。
勝手に動くな。
でも、見えている。
あの歪獣は落ちながら、口を開く。
喉の核を見せるのは、噛みつく直前だけ。
なら、その瞬間に合わせればいい。
「今、口を閉じさせて!」
俺は叫んだ。
エルナが反応するより早く、ユーディア先生の鐘が鳴った。
「ここは処置室入口。捕食場所ではありません」
音が歪獣の動きを一瞬だけ鈍らせる。
口が閉じかける。
そこへ親父の柄が横から入った。
噛みつくために開いた口へ、柄の先端が押し込まれる。
歪獣が暴れる。
喉の奥の核が、閉じ損ねた口の内側で揺れた。
「奥!」
俺が言う。
親父は柄をねじった。
青白い核が砕ける。
小型歪獣は濡れた石のように崩れ、廊下へ落ちた。
終わった。
そう思った瞬間、床下の重い音が動いた。
二体目。
やはり待っていた。
床を破るのではない。
さっき一体目が開けた穴から、黒い触手のような前脚が伸びた。
太い。
速い。
親父の足首を狙う。
「下!」
俺の声と同時に、親父は柄を床へ突いた。
前脚は柄に絡む。
だが、絡んだ瞬間、黒緑の魔力が柄を伝って上がる。
親父の手首に黒い筋が浮く。
「親父!」
「騒ぐな」
親父は柄を離さない。
二体目が穴から身体を押し出す。
犬ほどの大きさ。
だが、待機室で倒した個体より筋肉が厚い。
背中の骨棘が長く、腹の下に小さな足が何本もある。
気持ち悪い。
単純にそう思った。
歪獣は親父の柄を噛もうとする。
柄を通して親父を辿るつもりなのかもしれない。
帰る力の匂いも、餌にする気か。
セラフィナ先生が防護札を投げる。
歪獣の横腹に当たり、動きが少し止まる。
だが、札を食うように黒緑の魔力が広がった。
「防護札が削られています」
セラフィナ先生の声が硬い。
「治癒魔力だけでなく、防護術式も食べます」
親父が低く言う。
「浅層のくせに、よく食う」
歪獣が跳ねる。
親父は柄を引こうとするが、前脚が絡んで離れない。
俺は椅子から半分立っていた。
今度はセラフィナ先生も止めなかった。
ただ、鋭く言う。
「右手は禁止です」
「使いません」
俺は左手で近くの金属盆を掴んだ。
処置用の器具が乗っていた盆。
重い。
でも、投げるには足りる。
歪獣は目がない。
音と魔力に反応する。
さっき、金属音に反応した。
俺は盆を廊下の反対側へ投げた。
床に当たって、甲高い音が響く。
かあん、と。
歪獣の頭がそちらへ向いた。
ほんの一瞬。
親父の柄を噛む角度がずれる。
「絡んでる前脚、二本目が本体!」
俺は叫んだ。
親父の視線が前脚へ落ちる。
一番太い脚ではない。
その影に隠れた、細い二本目。
そこから黒緑の魔力が柄へ流れている。
親父は柄を引くのではなく、逆に押した。
二本目の前脚を床へ潰す。
歪獣が鳴く。
その声は、甲高く、耳の奥に刺さった。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「ここは治癒棟。あなたの巣ではありません」
歪獣は鐘を嫌って暴れる。
その拍子に、喉の下の皮膚が開いた。
青白い核。
今度は額でも喉奥でもない。
胸の内側。
「胸!」
俺が叫ぶ。
セラフィナ先生が動いた。
治癒術式ではない。
封印瓶を投げる。
瓶が歪獣の胸元で割れ、青白い核を包む。
一瞬だけ歪獣の動きが止まる。
親父が柄を振り下ろした。
核が砕けた。
二体目の歪獣は、床に叩きつけられたまま崩れていく。
黒緑の泥が広がる前に、セラフィナ先生が封印布を被せる。
廊下に静けさが戻った。
親父の手首には、また黒い筋が浮いていた。
「見せてください」
セラフィナ先生が言う。
「後で」
「今です」
「今は床下だ」
「手首も今です」
親父は少しだけ黙った。
「……短くしろ」
「最初からそうしてください」
セラフィナ先生が処置を始める。
親父は不満そうだったが、逆らわなかった。
俺はそこで、膝が少し震えていることに気づいた。
動いたのは少しだけだ。
盆を投げただけ。
声を出しただけ。
でも、緊張していた。
エルナが近づいてくる。
「リオンさん」
「右手は使ってない」
「はい。見ていました」
「白鎌も」
「呼んでいません」
「黒月も」
「出ていません」
「線も」
エルナは少しだけ首を横に振った。
「見ていませんでした。少なくとも、あの時の目ではありません」
その言い方に、少し安心する。
俺自身、線を見たつもりはなかった。
ただ、音を聞いて、動きを見て、考えた。
歪獣がどこを狙うか。
どこに核を隠しているか。
どの音に反応するか。
「役に立てた?」
俺が聞くと、エルナは迷わず答えた。
「はい」
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
通信水晶からグレン教官の声が入る。
『状況報告』
エイムが答える。
「治癒棟廊下、小型歪獣二体撃破。リオン君が行動予測と核位置を指示。白鎌、黒月、線視の使用反応なし」
少しの沈黙。
グレン教官の声が低く響く。
『よくやった』
短い。
だが、その言葉はまっすぐ届いた。
俺は思わず背筋を伸ばす。
「はい」
カイルの声が遠くで入る。
『え、またリオン活躍したのか!? 俺たちいないとこで!?』
アーヴェルがすぐに続く。
『詳細確認が必要だな。特に核位置の変化は重要だ』
『いや、そこも大事だけどさ!』
グレン教官が言う。
『二人とも持ち場へ戻れ。治癒棟へ向かう必要はない』
カイルが不満そうに言う。
『了解です……』
アーヴェルは冷静だった。
『こちら連絡廊下、黒灰点なし。ただし旧水路側から湿気が上がっています』
グレン教官が答える。
『床を踏み抜くな。術式灯を落とせ。音に反応する個体がいる』
俺は水晶へ向かって言った。
「金属音に反応します。でも、全部じゃない。治癒魔力の方が強いです。音は一瞬逸らすだけ」
アーヴェルの返事がすぐに来る。
『了解。誘導に使うなら短く、連続させない』
カイルも言う。
『俺、声で誘導できる?』
「できるかもしれないけど、近づけすぎると危ない」
『じゃあ叫びすぎ禁止か』
グレン教官が低く言った。
『常時禁止だ』
『はい!』
処置室に少しだけ笑いが戻る。
だが、床下の湿気は消えていない。
エイムの端末が、また低い警告音を鳴らした。
「中央棟地下入口の封鎖班より続報。浅層開放範囲は入口から旧水路側へ限定。ただし、迷宮内部に反応多数」
ミレイア先生の声が重なる。
『内部構造が変わっています。旧地図と一致しません』
親父が手首の処置を受けながら言う。
「迷宮だからな」
『はい。ただ、封鎖時の浅層より広がっている可能性があります』
「歪獣の数は」
エイムが答える。
「推定二十以上。小型中心。中型反応が少なくとも三」
カイルの声が遠くから響いた。
『中型!?』
グレン教官の声。
『黙れ』
『はい!』
中型。
さっきの二体が小型なら、中型はどれくらいなのか。
犬より大きいのか。
人より大きいのか。
それとも、もっと違う形なのか。
俺は右手の包帯を見る。
白鎌が必要になる。
そう思った。
だが、今はまだ呼べない。
呼べない間に、できることを増やすしかない。
音を聞く。
動きを読む。
核を探す。
周りのものを使う。
仲間に伝える。
それも戦いだと、グレン教官は言った。
なら、覚える。
親父が処置を終えて、柄を持ち直した。
「リオン」
「うん」
「今のはよかった」
「さっきも言った」
「二回目だ」
「珍しい」
「調子に乗るな」
「はい」
親父は俺を見た。
「だが、戦い方は一つじゃない。それは覚えろ」
「うん」
「白鎌を持つ前に、通る場所を決める。お前はそれができる」
白鎌を持つ前に。
その言葉は、胸に残った。
大鎌がなくても、俺はただの荷物ではない。
戦える。
少なくとも、考えることはできる。
エルナが静かに言う。
「私も、覚えます」
「何を?」
俺が聞くと、彼女は床の穴を見た。
「歪獣相手でも、名前を名乗ることは無駄ではありません。相手に効かなくても、自分を保てます」
ユーディア先生が頷く。
「その通りです。名前は攻撃ではなく、足場にもなります」
エルナは自分の名札に触れた。
「そして、治癒魔力を餌にされるなら、使うタイミングをもっと選ばなければなりません」
セラフィナ先生が少しだけ目を細める。
「良い判断です。治癒術式は救う力ですが、迷宮内では匂いにもなります」
エルナは頷く。
「はい」
その表情は静かだった。
でも、ただ守られる側ではなかった。
彼女も次の戦い方を考えている。
それが分かって、少し安心した。
通信水晶から、グレン教官の声が入る。
『全員聞け。旧実習迷宮浅層の封鎖確認は、大人側で行う。ただし、浅層から漏れた小型歪獣への対応は学院全体の問題になる。戦闘科一年にも、基礎対応を教える必要が出る』
アーヴェルが問う。
『第一基礎班も対象ですか』
『当然だ。ただし、怪我人は治ってからだ』
カイルが言う。
『治します!』
セラフィナ先生が通信へ向けて言う。
「急に治りません」
『はい……』
グレン教官は続ける。
『リオン。お前の今日の判断は記録する。白鎌なし、能力使用なしでの歪獣対応だ。今後の訓練に使う』
「俺の?」
『そうだ』
エイムがすでに記録板へ書いている。
「小型歪獣一体目、右後ろ脚の遅れ。二体目、喉奥核。三体目、胸部内側核。音反応、治癒魔力嗜好、防護術式捕食。すべて記録済みです」
カイルの声。
『エイムさん、早い』
エイムは淡々と返した。
「必要です」
俺は少しだけ落ち着かなかった。
自分の戦い方が、記録になる。
今までは、測定不能とか、白鎌とか、黒月とか、危険なものばかりだった。
でも、これは違う。
白鎌なしでの歪獣対応。
そう記録される。
アーヴェルが通信越しに言った。
『リオン』
「うん」
『後で詳細を聞かせてくれ。俺たちも覚える必要がある』
「分かった」
カイルも続ける。
『俺も聞く。叫びすぎ禁止以外のやつ』
「うん」
エルナが少しだけ笑った。
待機室の外では、補助職員が封鎖札を貼り直している。
床下の湿気は、さっきより薄い。
だが、完全には消えていない。
旧実習迷宮は、開いた。
浅層だけとはいえ、そこには歪獣がいる。
そして、その一部はすでに学院内へ漏れた。
これから、戦い方が変わる。
名前を守るだけでは足りない。
道を塞ぐだけでも足りない。
牙を避け、爪を折り、核を砕かなければならない。
俺は右手の包帯を見た。
今はまだ、白鎌を呼ばない。
でも、次に呼ぶ時は、ただ振るだけではだめだ。
どこを通すか。
何を断つか。
誰を守るか。
その全部を、自分で決める必要がある。
親父が床下へ柄を向け、最後にもう一度だけ言った。
「帰れ」
湿気が少し引く。
その奥で、遠くから何かが鳴いた。
低く、長い声。
小型ではない。
処置室の空気が重くなる。
エイムの端末が赤く点滅した。
「旧水路深部に中型反応一。鳴き声、治癒棟側でも確認」
グレン教官の声が静かに響く。
『浅層の奥が、こちらを覚えたな』
俺は息を吸った。
エルナが隣に立つ。
「リオンさん」
「うん」
「今は、待ちましょう」
「分かってる」
待つ。
でも、ただ待つだけではない。
次に牙が来る場所を、考える。
俺は廊下の穴を見た。
歪獣が通った場所。
牙が通ろうとした場所。
俺が塞げた場所。
それを忘れないように、目に焼きつけた。
迷宮は、もう下にある。
そして俺たちは、その入口のすぐ上に立っていた。




