93話_迷宮という入り口
第二の道は、学院の内にあり。
グレン教官が読み上げたその言葉は、治癒棟の待機室に重く残った。
裂けた標識布の裏に浮かんだ古い文字。
ルカ・フェンが学院へ入る直前、道の下から伸びた手に奪われかけた布片。
そこに残されていた言葉。
第二の道。
学院の内。
旧礼拝室は閉じた。
東門も閉じている。
外縁封鎖庭の道の口も、グレン教官と親父たちが押し返した。
それでも、まだ入口がある。
しかも、学院の中に。
誰もすぐには口を開かなかった。
カイルとアーヴェルは中央棟連絡廊下の第二防衛線にいる。
グレン教官は外縁封鎖庭。
オルディス局長とセイル監査官も現場へ出ている。
治癒棟の待機室にいるのは、俺、エルナ、親父、セラフィナ先生、ユーディア先生、エイムの遠隔端末。
通信水晶の光は揺れている。
水晶の向こうでは、外縁封鎖庭の処理が続いていた。
封鎖班の足音。
馬の荒い息。
ルカの短い名称確認。
グレン教官の低い指示。
その全てが、さっきまでここにあった静けさを壊している。
親父は刃のない柄を膝の上に置いたまま、通信水晶を見ていた。
「読めるのは、それだけか」
水晶の向こうで、グレン教官が答える。
『今のところはな。布片の焦げがひどい。ミレイアが来るまで触らん』
セラフィナ先生がすぐに言う。
「ルカさん本人の状態は?」
『本人名は安定している。布の本体も持っている。泣いてはいない』
少し間があった。
『怒っている』
親父が短く言った。
「なら戻っている」
セラフィナ先生も頷く。
「怒れるなら、まだ大丈夫です」
俺は少しだけ息を吐いた。
ルカは生きている。
布は裂けたが、まだ持っている。
名前もある。
それはよかった。
だが、安心しきるには早すぎる。
第二の道は、学院の内にあり。
その言葉が、胸に残っている。
俺はエルナを見る。
エルナは水晶を見つめていた。
さっき、自分の名札へ伸びた黒灰線を、自分の名前で押し返したばかりだ。
私はエルナ・シルヴェリアです。
あなたが戻る声です。
でも、灯ではありません。
その言葉は、まだ俺の中にも残っている。
彼女は静かだが、疲れているはずだった。
「エルナ」
俺が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「はい」
「大丈夫?」
少し考えてから、エルナは答えた。
「怖くはありました。でも、今は大丈夫です」
「無理してない?」
「少しはしています」
それを認めたことに、俺は少し驚いた。
エルナは淡く息を吐く。
「全部平気なふりをすると、たぶん後で崩れますから」
セラフィナ先生が記録紙へ何かを書きながら頷いた。
「良い自己申告です」
エルナは少しだけ困ったようにした。
「評価されると、少し変な感じですね」
「慣れてください」
「はい」
待機室に、ほんの少しだけ人の空気が戻る。
だが、それも長くは続かなかった。
廊下から早足の音が近づく。
扉が叩かれ、セラフィナ先生が返事をする前に、ほとんど同時にミレイア先生が入ってきた。
神話学講師の外套が少し乱れている。
手には資料束。
「すみません、外縁封鎖庭の写しを見ました」
セラフィナ先生が眉を寄せる。
「走りましたね」
「少しだけです」
「走りましたね」
「はい」
ミレイア先生は素直に認めた。
そのまま通信水晶の近くへ寄る。
「グレン教官。布片の文字を再度映せますか」
『送る』
水晶の光が変わる。
外縁封鎖庭で回収された布片の写しが、水晶の中に浮いた。
赤茶の布。
焦げた端。
裂けた繊維。
その裏側に、黒く浮いた文字。
第二の道は、学院の内にあり。
ミレイア先生は息を止めた。
数秒。
誰も口を挟まなかった。
やがて、彼女は低く言った。
「これは、旧礼拝室そのものの記録ではありません」
親父が問う。
「何の記録だ」
「古い迷宮封鎖の言葉です」
迷宮。
その一語で、待機室の空気が変わった。
カイルなら、今頃「迷宮?」と声を上げていたかもしれない。
だが、ここにはいない。
俺が代わりに聞いた。
「学院に、迷宮があるんですか」
ミレイア先生は俺を見る。
「あります。正確には、ありました」
「ありました?」
「今は封鎖されています。学院の地下に、旧実習迷宮と呼ばれる区画があります」
旧実習迷宮。
初めて聞く名前だった。
アーヴェルなら知っているのだろうか。
それとも、戦闘科の一年にはまだ知らされない場所なのか。
ミレイア先生は続ける。
「王立学院が今の形になる前、地下には天然の歪み溜まりがありました。歪獣が発生しやすく、魔力の流れも複雑です。かつては、それを制御した上で上級生の実習に使っていたそうです」
「ダンジョンみたいな場所ですか?」
俺が聞くと、ミレイア先生は少し考えてから頷いた。
「近いです。迷宮化した地下区画、歪獣の巣、古い水路、封鎖された演習路。それらが重なっています」
親父の目が細くなる。
「そんなものを学院の下に残したのか」
ミレイア先生の表情が硬くなる。
「残した、というより、完全には潰せなかったのだと思います。昔の記録では、迷宮は学院の外へ伸びる道を持っていた。封鎖後、その道は閉じられたとされています」
「第二の道」
エルナが呟いた。
ミレイア先生は頷く。
「おそらく、旧礼拝室とは別系統の入口です。旧礼拝室が“祈りと名前”を通じる入口だとすれば、旧実習迷宮は“道と歪獣”を通じる入口」
線ではなく、道。
名前ではなく、魔物。
俺の胸が少し冷える。
第1章で、旧礼拝室は名前を使った。
灰衣は役割を重ねた。
扉の奥の対象は、名札や門や記録を食おうとした。
次は、道そのものと魔物。
学院地下の迷宮。
歪獣。
それは、全く別の危険に聞こえた。
親父が言う。
「扉の奥の対象と、迷宮は繋がるのか」
ミレイア先生は即答しなかった。
「本来は別です。ただし、旧災害対応記録で消された封鎖対象が“門喰い”に関わるなら、道や迷宮も無関係ではありません」
エイムの端末から声がする。
「補足します。旧災害では、都市の道が輪になり、家屋が内部で繋がり、人が家から出られなくなった記録があります。迷宮化現象と非常に近いです」
「街が迷宮になる」
エルナが言った。
その声は静かだが、少しだけ硬かった。
エイムは続ける。
「今回の外縁封鎖庭で発生した道面の口、道の反復、標識石の増殖。これらは旧災害記録の初期症状と類似しています」
セラフィナ先生が厳しい顔になる。
「つまり、旧礼拝室を閉じたことで終わったのではなく、別の入口を探し始めたということですね」
「はい」
親父が短く言う。
「迷宮だな」
その言葉に、反論は出なかった。
外縁封鎖庭から、グレン教官の声が入る。
『ミレイア。旧実習迷宮の封鎖状態は確認できるか』
「資料上では、中央棟地下の封鎖目録にあります。ただ、王城封鎖目録が擦られていた以上、資料だけでは危険です」
『現地確認が必要か』
「はい」
グレン教官の声が低くなる。
『今日中に確認する』
セラフィナ先生がすぐに言う。
「リオンさんは行きません」
親父も同時に言った。
「行かせない」
俺は口を開きかけたが、二人の声で止まった。
反論はできる。
でも、今は無理だ。
右手は包帯。
白鎌も黒月も禁止。
線視も禁止。
旧実習迷宮という場所に、今の俺が行くのは危険すぎる。
エルナが小さく言う。
「私も、今日は動けません」
「当然です」
セラフィナ先生が即答した。
「エルナさんも治癒術式、未来視は禁止です。旧実習迷宮への同行は認めません」
エルナは頷いた。
「はい」
悔しさはあるはずだ。
でも、彼女は飲み込んだ。
カイルやアーヴェルも、たぶん同じことを言われるだろう。
動きたい。
でも、動けない。
それも今の戦いだ。
通信水晶に、カイルの声が割り込んだ。
『え、迷宮って聞こえたんですけど!? 学院の下にダンジョンあるんですか!?』
グレン教官が即座に返す。
『うるさい。持ち場を離れるな』
『でも気になります!』
『気にしながら待機しろ』
アーヴェルの声も入る。
『旧実習迷宮の存在は聞いたことがあります。上級生の一部訓練記録に名前だけありました』
カイルが言う。
『知ってたのかよ』
『名前だけだ。詳細は知らない』
グレン教官が低く言った。
『二人とも、中央棟連絡廊下に残れ。迷宮封鎖確認中、内側へ抜ける線が出る可能性がある』
『了解』
カイルの声は不満そうだったが、従った。
ミレイア先生は資料束を開き、古い図を机に広げた。
学院の地下構造。
俺が知っている地下結界室や旧礼拝室より、さらに下に、薄く書かれた区画があった。
旧実習迷宮。
その入口は三つ。
一つは中央棟地下。
一つは実技棟旧水路。
一つは図書塔地下の封鎖壁近く。
リュカの禁書庫に近い。
親父がそれを見て、低く言った。
「入口が多い」
ミレイア先生は頷く。
「だから迷宮です。入口を塞いでも、別の道を作ります」
「歪獣は?」
「封鎖時点で、内部に複数確認されています。ただし、外へ出ないよう封じられているはずです」
「はず、か」
親父の声が硬い。
ミレイア先生は否定しない。
「古い記録です。正直、今どうなっているかは分かりません」
俺は地図を見た。
見すぎないように。
ただの地図として。
線は追わない。
だが、地図そのものから嫌な感じがした。
旧礼拝室のような、名前を呼ぶ嫌さではない。
もっと湿った、深い穴のような感じ。
暗い場所で何かが息をしている。
そんな気配。
「魔物がいるんですよね」
俺が言うと、ミレイア先生は頷いた。
「歪獣が中心です。通常の魔物も、迷宮内で変質している可能性があります」
「名前じゃなくて、戦う相手になる」
親父がこちらを見る。
「そうだ」
「線は」
「見るな」
即答だった。
「今はな」
グレン教官の声が水晶から入る。
『だが、いずれ必要になる。次の敵が歪獣なら、線の使い方も変わる』
親父は少しだけ黙った。
「弱点を見る目か」
『ああ。名前を追う目ではなく、歪みの芯を読む目だ』
歪みの芯。
迷宮の魔物。
旧礼拝室の線とは違う戦い。
少し怖い。
でも、どこかで、それが必要だとも思った。
第1章で俺は、名前を守るために戦った。
第2章では、たぶんもっと直接的に、魔物と戦うことになる。
白鎌を振る理由が、また問われる。
エルナが地図を見ながら静かに言った。
「ルカさんは、この迷宮と関係があるのでしょうか」
ミレイア先生は考える。
「可能性はあります。彼女の布に古い封鎖記号があった。辺境西路の荷運び小屋が、昔の迷宮封鎖や災害避難路に関わっていた可能性もある」
エイムが補足する。
「ルカ・フェンの推薦理由に“未分類魔力反応への耐性”があります。迷宮由来の歪みを受けても戻れる体質、または経験があるのかもしれません」
親父が言う。
「体質だけで済ませるな」
「はい。経験、訓練、所持品、土地の記憶、複合要因として扱います」
「それでいい」
ルカは明るい。
だが、その明るさの下に、迷宮封鎖の印がある。
ただの着火剤ではない。
彼女が来たことで、学院の内に眠っていた第二の道が浮かび上がった。
それは偶然ではない。
少なくとも、完全な偶然ではない。
通信水晶から、ルカの声が小さく入った。
『あの、聞こえてる?』
ユーディア先生が応じる。
「聞こえています。名前を」
『ルカ・フェン。布あり。馬車の中。外で大人が難しい顔してる』
親父が言う。
「余計な観察はいい」
『無愛想なおじさんの声も聞こえた。安心した』
親父は少し黙った。
「そうか」
ルカは続けた。
『リオン、いる?』
俺はユーディア先生を見る。
頷きが返る。
「いる」
『そっち、なんか迷宮って言ってた?』
セラフィナ先生が水晶へ近づく。
「今は詳しく聞かなくていいです。あなたは検査に集中してください」
『気になるんだけど!』
「気になっても、今は聞かないでください」
『はい……』
珍しく押し切られている。
カイルと同じ系統かもしれない。
ルカは少し黙ってから、小さく言った。
『あたし、道に残ってないよね?』
その声には、さっきまでの勢いがなかった。
俺はすぐに答えそうになったが、ユーディア先生が先に鐘を鳴らした。
「ルカ・フェン。本人名、保持。あなたは道に残っていません」
ルカが息を吐く音が聞こえた。
『よかった』
その一言は、本当に小さかった。
エルナが水晶へ向けて言う。
「布は、まだ持っていますか」
『持ってる。ちょっと破れたけど』
「破れても、あなたの名前は残っています」
『うん』
「布は大事なものです。でも、あなた自身ではありません」
少しの沈黙。
『……それ、さっきも言われた』
「大事なので、何度でも言います」
ルカが小さく笑った。
『あなた、優しいけど強いね』
エルナは少しだけ目を伏せる。
「そうでしょうか」
『うん。声が、戻してくる感じする』
俺はエルナを見た。
エルナも、少しだけこちらを見る。
その言葉は、ルカにも分かるらしい。
戻す声。
俺だけではない。
エルナの声は、他の人も戻す。
それが少し誇らしかった。
いや、俺が誇ることではない。
でも、そう感じた。
ルカは続ける。
『リオン、さっき呼んでくれた?』
俺は答える。
「呼んだ」
『ちょっと聞こえた。ありがと』
「でも、危なかった」
『うん。だから次は、もうちょい安全な時に呼んで』
「分かった」
『いや、でも聞こえてよかった。あたし、道に残ってないって思えたから』
その言葉で、胸が少し痛んだ。
名前を呼ぶことは、危険にもなる。
でも、戻すことにもなる。
だから難しい。
親父が言った。
「通信を切れ。本人を休ませろ」
『え、もう?』
「休め」
『はいはい。あ、リオン』
「うん」
『学院入ったら、まずご飯食べたい』
親父が即答した。
「正しい」
セラフィナ先生も頷く。
「検査後、問題なければ消化の良い食事を出します」
『消化の良い……量は?』
「状態次第です」
『そこ大事なのに』
カイルがいれば、強く頷いていたはずだ。
通信はそこで一度切られた。
水晶の光が静まる。
待機室に、再び静けさが落ちる。
だが、もうただの静けさではなかった。
迷宮。
歪獣。
第二の道。
学院の内側に眠る入口。
第2章の形が、少しずつ見え始めている。
ミレイア先生は地図を見つめたまま言った。
「旧実習迷宮の確認は、今日中に大人側で行います。ですが、もし内部の封鎖が揺らいでいるなら、近いうちに戦闘科にも影響が出ます」
「測定どころじゃないですね」
俺が言うと、グレン教官の声が水晶から返ってきた。
『測定は形を変えるかもしれん』
「形を?」
『迷宮対応訓練だ』
カイルの遠隔声がどこかから入る。
『え、迷宮訓練!?』
『お前は黙って待機しろ』
『はい!』
アーヴェルが冷静に言う。
『実戦訓練へ移行する可能性があるということですね』
『可能性だ。まだ決定ではない』
だが、全員が分かっていた。
もう普通の月例測定へ戻るのは難しい。
学院は旧礼拝室だけでなく、地下迷宮も抱えている。
そして、その迷宮が次の入口になる。
終わりは近い。
でも、まだ終わっていない。
旧礼拝室の後始末。
ルカの受け入れ。
外縁封鎖庭の残滓。
旧実習迷宮の確認。
そして、俺たちの休養。
全部が残っている。
親父が言う通り、飯を食って寝るまで終わらない。
いや。
寝ても、夢がある。
戻るまで、終わらない。
俺は地図を見る。
学院の地下に書かれた、薄い迷宮区画。
そこに眠る歪獣。
これまでは、名前を守るために戦った。
次は、迷宮の中で、もっと直接的なものと戦うことになるのかもしれない。
爪。
牙。
歪んだ魔力。
暗い通路。
帰り道を失わせる迷宮。
その時、白鎌をどう振るのか。
黒月をどう抑えるのか。
そして、エルナの声をどう持ち帰るのか。
まだ分からない。
だが、道は見え始めていた。
第二の道は、学院の内にあり。
その言葉は、もうただの警告ではない。
次の物語への入口だった。




