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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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91話_道を残す布

翌朝、治癒棟の空気は昨日より少しだけ動いていた。


旧礼拝室の扉は閉じている。


爪痕は増えていない。

東門、資料室、王城封鎖目録への再接続もない。

リオンの名札も、第一基礎班の名札も安定している。


そう報告された。


だが、誰も気を抜かなかった。


今日は、ルカ・フェンが学院へ来る。


それだけなら、ただの移送だった。


王都西外縁の検問所から、王立学院の名称防護室へ。

監理局職員が付き添い、王城監査官が承認し、学院側で受け入れる。


手順としては、整っている。


けれど、俺たちはもう知っている。


整った手順ほど、灰衣は利用する。


道。

門。

名札。

記録。

治癒。

食堂の噂。


こちらが人を戻すために作ったものを、向こうは入口に変えようとする。


ルカが持つ赤茶の標識布。


帰る者を、道に残すな。


その古い封鎖記号が、本当に帰るための印なのか。

それとも、何かを連れてくるための古い傷なのか。


まだ分からない。


だから、朝から治癒棟の待機室は小さな作戦室になっていた。


机の上には、王都西外縁から学院までの簡易地図が広げられている。


西外縁検問所。

旧荷車道。

三つ目の境界石。

水場。

学院西門。

中央棟。

名称防護室。


ルカが昨日、違う名で呼ばれたという三箇所には赤い印が置かれていた。


エイムが記録板を見ながら言う。


「移送経路は通常西門経由ではなく、監理局専用の北西搬入口へ変更されました。東門は使用しません」


カイルが腕を組む。


「東門はさすがにな」


「はい。東門門衛ネイル・オルクさんの負荷を避ける意味もあります」


エルナが静かに頷いた。


「ネイルさんは」


「治癒棟で名称確認継続中です。安定していますが、門に近づくことはまだ禁止されています」


戻っている。


でも、戻ったからすぐ元通りではない。


そのことを、みんな知っている。


アーヴェルが地図を見て言った。


「西外縁から学院まで、道を変えたことで安全度は上がるのか?」


エイムは少し眼鏡を直す。


「灰衣が既に通常経路に仕込みを置いていた場合は上がります。ただし、旧荷車道と境界石で呼称干渉が確認されています。道そのものへの接触がある場合、経路変更だけでは不十分です」


親父が壁際から低く言った。


「道を狙うなら、どこを通っても来る」


カイルが小さく息を吐く。


「嫌なこと言いますね」


「嫌な相手だ」


「それはそう」


グレン教官が地図の西門付近を指す。


「第一基礎班の配置だ。リオンは治癒棟待機が原則。ルカ到着後、名称防護室で短時間面会。カイル、アーヴェルは西門側ではなく、中央棟連絡廊下の第二防衛線。エルナはリオンと同行」


カイルがすぐに言った。


「俺とアーヴェルは西門じゃないんですか?」


「お前はまだ脚の負荷がある。アーヴェルも足首と家名外縁反応が残っている。前へ出す理由がない」


「でも、道を塞ぐなら」


「塞ぐ場所は前だけじゃない」


親父が続けた。


「戻る道を守る方が重要な時もある」


カイルは口を閉じる。


納得しきったわけではない。


でも、昨日より飲み込むのが早かった。


「分かりました」


エルナは自分がリオン同行とされたことに、ほんの少しだけ緊張しているようだった。


けれど、反論はしない。


「私は、名称確認とリオンさんの安定補助ですね」


ユーディア先生が頷く。


「はい。ルカさん本人の名称確認は私が行います。エルナさんには、リオンさんが夢や記憶へ引かれた場合の声かけをお願いします」


「分かりました」


俺はエルナを見る。


彼女はいつものように落ち着いている。


けれど、昨日の廊下での言葉を思い出す。


私も、確かめたいのだと思います。


ルカがどういう人なのか。

リオンが昔、どういうふうに誰かを助けたのか。

そこに、自分が知らないリオンがいるのか。


その感情に、まだ名前はついていない。


つけなくていい。


今は、隣にいてくれるだけでいい。


セラフィナ先生が俺の右手を確認する。


「痕は広がっていません。ただし、本日も白鎌、黒月、線視は禁止です」


「はい」


グレン教官が補足する。


「緊急時も、まず俺とユアンが判断する。リオン、お前は自分から見るな」


「分かりました」


「分かっただけで終わるな」


「守ります」


親父が短く言う。


「それでいい」


そう言われると、少し背筋が伸びた。


その時、エイムの記録板が鳴った。


短い警告音。


全員の視線が集まる。


エイムは表示を確認し、すぐに読み上げた。


「西外縁検問所より連絡。ルカ・フェン、移送馬車へ乗車。監理局職員二名、王城外縁警備一名が同行。本人名、安定。標識布、本人所持」


グレン教官が言う。


「出発したか」


「はい。予定より半刻早いです」


セイル監査官が眉を寄せる。


「なぜ早めた」


エイムは少しだけ間を置いた。


「本人が、検問所の水場からまた声が聞こえる、と申告しました。現地判断で、長く留めるより移送を優先したとのことです」


部屋の空気が締まる。


親父が低く言った。


「来るぞ」


「何がですか」


カイルが聞く。


「声が水場に残ったなら、道にも残る」


セイル監査官が即座に通信紙を開く。


「西外縁へ確認を」


エイムが操作する。


「通信繋ぎます」


水晶に光が入る。


ざらついた音。


馬車の車輪。

風。

誰かの短い指示。

それから、聞き覚えのある声。


『あ、繋がった? ルカ・フェン、移動中です! 名前、まだあります! 布もあります! お腹は空いてます!』


カイルが思わず小さく笑った。


「最後いる?」


親父が真面目に言う。


「いる」


「いるんですか」


「状態確認だ」


セラフィナ先生も頷いた。


「空腹を申告できるのは良いことです」


カイルは少し納得しにくそうだったが、黙った。


ユーディア先生が水晶へ向かって言う。


「ルカさん。自分の名前を」


『ルカ・フェン! 辺境西路、フェンの荷運び小屋のルカ! 赤茶の布、所持! 移送馬車、乗車中!』


鐘が鳴る。


「安定しています」


ルカの声は明るい。


だが、昨日より少し張っている。


明るくしている。


そう分かる声だった。


『でも、ちょっと変です』


グレン教官がすぐに問う。


「何が変だ」


『道が、長いです』


部屋が静まった。


エイムが記録板を確認する。


「移送開始からの時間は、予定範囲内です。現在位置は」


通信の向こうで、同行職員の声が入る。


『こちら移送班。予定では旧荷車道を迂回し、北西搬入口へ向かっています。現在、第二標識石を通過……したはずですが』


「したはず?」


セイル監査官の声が鋭くなる。


『同じ標識石が、前方にも見えます』


その一言で、全員が動いた。


グレン教官が剣へ手を置く。


親父が刃のない柄を取る。


アーヴェルが地図上の第二標識石を指した。


「道が輪になりかけている」


エイムが記録する。


「迷走域化の兆候。移送経路上に空間反復」


ルカの声が通信に戻る。


『これ、やばいやつ?』


親父が答える。


「やばい」


『正直で助かる!』


「馬車から降りるな」


『降りたい気持ちはあったけど、やめます!』


「布を離すな」


『離さない!』


「名前を変えて呼ばれても返事をするな」


『昨日もやった!』


通信の向こうで、馬がいななく音がした。


車輪が急に軋む。


移送班の職員が叫ぶ。


『前方に灰色の紐状反応! 道面から出ています!』


ルカの声が重なる。


『あ、これ昨日のやつ! 踏んだら終わるやつ!』


グレン教官が即座に指示する。


「馬車を止めるな。紐を避けようとして道を外れるな。中央を保て」


『中央に紐があります!』


「踏むな」


『無理難題!』


親父が水晶へ向けて言った。


「ルカ。布を窓から出せ」


『え、布を?』


「離すな。端だけ出せ」


『分かった!』


セラフィナ先生が言う。


「危険では?」


親父は短く答える。


「あの布が帰る道なら、道に見せる」


水晶の向こうで布がはためく音がした。


ルカが叫ぶ。


『出した! 飛ばされそう! でも離してない!』


親父は柄を握る。


ここは学院の治癒棟。


ルカは王都西外縁の道の上。


距離がある。


それでも、親父は道を見るように目を細めた。


「帰れ」


刃のない柄の先に、薄い線が生まれた。


普通の目には見えないはずの線。


だが、俺には少しだけ分かった。


見ようとしていないのに。


あれは、親父の帰る道だ。


治癒棟から、通信水晶を通り、ルカの布へ。


そこから、歪みかけた道へ。


「リオン」


グレン教官の声が飛ぶ。


「見るな」


俺は息を止める。


「はい」


見ない。


焦点を外す。


見たい。


でも、見ない。


エルナが横に来た。


「リオンさん。こちらを見てください」


俺はエルナを見る。


「今、見えているものを三つ」


「エルナ」


「次」


「通信水晶」


「次」


「親父の柄」


「はい。戻っています」


声が、近い。


その近さで、視界の奥が落ち着く。


通信の向こうで、ルカが叫ぶ。


『紐、動いた! 布の方見てる! え、布って見られるものなの!?』


親父が低く言う。


「布に道を思い出させろ」


『どうやって!?』


「帰る場所を言え」


『フェンの荷運び小屋! 西路三番道の坂下! 赤い屋根はもうない! でも、柱は残ってる! 炉は壊れてる! でも、布は残った!』


ルカの声が変わる。


明るさの底から、別のものが出てくる。


痛み。


怒り。


それでも離さなかった場所。


『ルカ・フェンは、そこから来た! 道に残ってない! まだ走ってる!』


ユーディア先生の鐘が強く鳴る。


「本人名、安定。標識布、名称錨として反応」


エイムが叫ぶ。


「迷走域反応、低下……いえ、別反応上昇!」


アーヴェルが地図を見る。


「別反応?」


通信の向こうで、移送班の職員が叫んだ。


『前方、道面が割れます!』


ルカの声。


『うわ、何あれ! 口みたいなの出てる!』


口。


その言葉で、旧礼拝室の内側を思い出した。


無数の口。

名前を食う声。

扉ではなく、道に開く口。


親父が舌打ちした。


「門じゃなく道を食いに来た」


グレン教官が言う。


「出るぞ。西外縁へ転移できるか」


オルディス局長が待機室へ入ってきた。


いつからいたのか分からない。


いや、呼ばれて来たのだ。


「王城転移陣は準備中。だが、直接現場へは飛べん。西外縁検問所までが限界だ」


「遅い」


親父が言う。


「分かっている」


局長は黒杖を強く握る。


「学院側から遠隔封鎖をかける。だが、道の口を閉じるには現地の錨がいる」


全員の視線が通信水晶へ向く。


ルカ。


赤茶の布。


帰る者を、道に残すな。


本人が、現地の錨だ。


「ルカ」


親父の声が低くなる。


「怖いか」


通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。


それから、ルカの声が返ってきた。


『怖い!』


即答だった。


『でも、怖いからって布は離さない! 名前も渡さない! どうすればいい!?』


その声に、カイルが小さく息を呑んだ。


エルナの手が、胸元の名札に触れる。


アーヴェルの目が鋭くなる。


親父は言った。


「道に残るな。馬車の中で自分の名前を言え。布の場所も言え。帰る先を言え」


『それだけ!?』


「それだけだ」


『それだけで足りる!?』


「足りるように、こっちで繋ぐ」


ルカが息を吸う音がした。


『分かった!』


通信の向こうで、彼女が叫ぶ。


『ルカ・フェン! フェンの荷運び小屋のルカ! 西路から来た! 道には残らない! 学院まで行く! 白い鎌の子に名前も聞いた! まだ文句も言い足りない!』


カイルが思わず言う。


「文句、まだあるんだ」


アーヴェルが低く返す。


「今はそれでいい」


ルカの声は続く。


『赤茶の布は家の印! 帰る道の印! 誰も道に置いていかないための印! だから、あたしも置いていかれない!』


ユーディア先生の鐘が鳴り続ける。


エイムが記録板を見ながら叫ぶ。


「本人名、強固。標識布反応、上昇。道面の口、停止……いえ、こちらへ呼称を変更!」


「何と呼んでいる」


グレン教官が問う。


エイムの声が硬くなる。


「帰る者」


親父の目が鋭くなる。


「違う」


親父は柄を通信水晶へ向けた。


「ルカ・フェンだ」


ユーディア先生も鐘を鳴らす。


「ルカ・フェン。辺境西路、フェンの荷運び小屋のルカ。王立学院臨時推薦対象。移送中」


セイル監査官が記録紙を読み上げる。


「王城外縁記録、ルカ・フェン本人名確認。臨時保護対象。道、門、帰還者等への役割置換を認めない」


エイムが重ねる。


「境界監理局記録、ルカ・フェン。本人名安定。標識布所持。移送継続」


三つの記録が重なる。


通信の向こうで、車輪の軋みが変わった。


ルカが叫ぶ。


『口、引いた! でも道がまだ変! 同じ石が三つ見える!』


親父が言う。


「その石は見るな」


『もう見た!』


「なら、一つだけ選べ」


『どれ!?』


「布が揺れる方だ」


通信の向こうで布がはためく。


ルカの呼吸が荒い。


『右! 右の石の向こう、風が来てる!』


「そこが道だ。職員、馬車を右へ」


移送班の職員が叫ぶ。


『右へ進路変更!』


車輪が跳ねる音。


馬が激しく鳴く。


誰かが短く悲鳴を上げる。


それから。


一瞬、通信が途切れた。


水晶の光が乱れる。


待機室全体が凍りついた。


「ルカ!」


思わず俺は呼んでいた。


名札が熱くなる。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


「リオンさん、返事を求めないでください」


「ごめん」


エルナがすぐ横で言う。


「戻ってください。まだ通信は切れていません」


「うん」


胸元の名札を握る。


リオン。


俺はここにいる。


水晶の光が戻った。


ざらついた音の中から、ルカの声が飛び込んでくる。


『生きてる! 落ちてない! 布もある! 名前もある! でも馬車の中ぐちゃぐちゃ!』


待機室に、全員の息が戻った。


カイルが膝に手を置く。


「よかった……」


アーヴェルも小さく息を吐いた。


エルナの肩から、わずかに力が抜ける。


親父はまだ油断していない。


「現在地は」


移送班の職員が答える。


『北西搬入口まで直線距離で約四分の一刻。迷走域からは脱出した模様。ただし後方の道が黒灰色に変色しています』


エイムが記録板を見る。


「学院北西搬入口周辺に微弱反応。こちらへ向かっています」


グレン教官が剣を取った。


「受け入れ地点を変更する。北西搬入口ではなく、外縁封鎖庭へ誘導」


オルディス局長が頷く。


「学院内へ入れる前に洗う」


セラフィナ先生が俺を見る。


「リオンさんは治癒棟待機です」


「でも」


「待機です」


グレン教官も言う。


「お前が動けば、向こうが反応する。今は動くな」


親父も短く。


「待て」


俺は拳を握ろうとして、右手が包帯の中だと思い出す。


「……はい」


待つ。


見ない。

動かない。

でも、名前を呼べるようにしておく。


それが今の役目だ。


エルナが隣で言った。


「私も、ここにいます」


「いいの?」


「はい。リオンさんが待つなら、私も待ちます」


その声は静かだった。


けれど、昨日より少しだけ強かった。


カイルが立ち上がる。


「俺とアーヴェルは第二防衛線ですよね」


グレン教官が頷く。


「行け。走るな。脚を壊すな」


「走らないで急ぎます」


「矛盾するな」


「善処します」


アーヴェルがカイルの腕を軽く引く。


「行くぞ」


「おう」


二人は待機室を出ていった。


グレン教官、オルディス局長、セイル監査官、エイムの一部記録端末も動く。


親父は残った。


俺の横に。


「親父は行かないの?」


「ここにも入口がある」


「俺?」


「お前だけじゃない」


親父は通信水晶を見る。


「声も入口だ」


水晶の向こうで、ルカはまだ名前を言い続けている。


『ルカ・フェン! 布あり! 道に残らない! 学院に行く! お腹空いた! 文句もある!』


セラフィナ先生が小さく言った。


「状態確認としては優秀です」


ユーディア先生も頷く。


「本人名も安定しています」


俺は水晶を見る。


名前を言い続ける声。


明るくて、怖がっていて、それでも進む声。


ルカは学院へ近づいている。


同時に、黒灰色の道も近づいている。


第1章が終わりに近づいている。


そんなことを、俺は言葉にはしなかった。


でも、感じた。


旧礼拝室の扉だけではない。


東門だけでもない。


次は、道そのものが入口になる。


そして、その道の上を、ルカ・フェンが走っている。


通信の向こうで、移送班の職員が叫んだ。


『学院外縁、視認! 外縁封鎖庭へ進路変更!』


ルカの声が重なる。


『見えた! あれが学院!? でかい! え、ほんとにここ入るの!?』


親父が低く言う。


「喋る余裕があるなら大丈夫だ」


「そうなの?」


俺が聞くと、親父は頷いた。


「黙った時が危ない」


その瞬間、通信の向こうでルカの声が止まった。


待機室の空気が固まる。


水晶から聞こえるのは、車輪の音だけ。


馬の息。

移送班の叫び。

風。


ルカの声がない。


ユーディア先生の鐘が強く鳴る。


「ルカ・フェン。応答してください」


返事はない。


エイムの端末が赤く光る。


「外縁封鎖庭手前、黒灰色反応急上昇!」


親父が柄を抜いた。


「来たか」


水晶の向こうで、ようやくルカの声が聞こえた。


ただし、さっきまでの明るい声ではない。


低く、押し殺した声。


『……あたしの布を、誰かが引いてる』


俺の背筋が冷える。


ルカは続けた。


『道の下から、手が出てる』


通信の向こうで、布が裂ける音がした。


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