90話_隣にいる声
夕食は、予定通り治癒棟の待機室で取った。
粥。
温かいスープ。
柔らかく煮た野菜。
少しだけ肉。
昨日とほとんど同じ献立だった。
カイルは盆を受け取った瞬間、ほんの少しだけ遠い目をした。
「治癒棟飯、二日目か」
セラフィナ先生が見た。
「不満ですか」
「いえ、身体に優しい味だなと」
「なら、ゆっくり食べてください」
「はい」
アーヴェルが匙を取りながら言う。
「優しい味に負けるな」
「負けてない。ちょっと刺激を思い出してただけだ」
「今のお前に刺激は不要だ」
「それも分かってる」
そう言いながら、カイルはちゃんと食べ始めた。
エルナも静かに匙を取る。
俺も左手で食べる。
右手はまだ包帯の中だ。
親父は向かいで、いつも通り黙って食べていた。
グレン教官は壁際に近い席で、食べながらも廊下の気配を拾っている。
普通の夕食ではない。
治癒棟の待機室。
扉の外には監理局職員。
机の端には通信水晶。
部屋の隅にはユーディア先生の鐘。
けれど、それでも食事だった。
食べる。
飲む。
息をする。
そういう単純なことを、こちら側に残すための時間。
俺はスープを口に運びながら、さっきの通信を思い出していた。
ルカ・フェン。
元気な声。
赤茶の標識布。
三度、違う名で呼ばれたという報告。
それでも、自分の名前を持ってきたと言った子。
明るいのに、軽くはない。
その声がまだ耳に残っている。
「リオンさん」
エルナの声で、俺は顔を上げた。
いや、顔ではない。
視線を上げた。
エルナは匙を置き、こちらを見ていた。
「食べる手が止まっています」
「ごめん」
「謝ることではありません。でも、食べた方がいいです」
「うん」
俺はまた粥を食べる。
親父が短く言った。
「考えながら食うな」
「難しい」
「食う時は食え」
「親父はできるの?」
「できる」
即答だった。
カイルが小さく笑う。
「強いな、そこも」
グレン教官が低く言った。
「お前も見習え」
「はい」
少しだけ空気が緩む。
けれど、エルナはまだ静かだった。
いつもの静けさと似ている。
でも、少し違う。
昼間の小さな棘は、もう表には出ていない。
ただ、その痕のようなものが残っている。
俺は、見ないようにしていた。
線ではなく、空気を。
見ようとすると、またエルナに言われる。
見ています、と。
だから、今は食べる。
食事が終わると、セラフィナ先生が全員の状態を確認した。
カイルは脚。
エルナは魔力疲労。
アーヴェルは足首と家名外縁反応。
俺は右手と名札。
全員、悪化なし。
ただし、全員休養継続。
その判断も変わらなかった。
「リオンさんは、食後しばらく待機。その後、短時間だけ廊下を歩いて構いません。単独は禁止です」
「はい」
「付き添いは、医療補助か大人が原則です」
エルナが静かに手を上げる。
「私が同行してもいいですか」
セラフィナ先生は少しだけ考えた。
「治癒術式を使わない。未来視も使わない。途中で疲れたらすぐ戻る。それを守れるなら」
「守ります」
「では、廊下の端まで。親父さんも同行してください」
親父が眉をひそめる。
「二人で十分だろ」
「あなたは大人枠です」
「俺も休養対象だろう」
「歩行程度なら構いません」
「都合がいいな」
「医療判断です」
親父は黙った。
また負けた。
カイルが小声で言う。
「親父さん、治癒棟で勝てないな」
親父の視線が飛ぶ。
カイルはすぐに粥の器を見た。
「何も言ってません」
「聞こえている」
「すみません」
エルナがほんの少し笑った。
その笑いを見て、少しだけ安心した。
食後、俺たちは待機室を出た。
廊下は静かだった。
治癒棟の夜は、学院の他の場所より音が少ない。
遠くで薬瓶が触れる音。
補助職員の足音。
低い声での確認。
それだけ。
親父は数歩後ろを歩いている。
近すぎず、離れすぎず。
俺とエルナは、廊下の窓側をゆっくり進んだ。
右手の包帯が少し重い。
だが、歩ける。
「気分は?」
エルナが聞く。
「悪くない」
「眠気は?」
「少し」
「旧礼拝室の音は?」
「今はない」
「なら、よかったです」
そう言って、エルナは少しだけ黙った。
窓の外には、夜の学院が見える。
遠くに灯る実技棟の明かり。
寮棟の窓。
中庭の木。
普通の学院。
その奥に旧礼拝室があるとは、外から見ただけでは分からない。
「ルカさん」
エルナが言った。
俺はそちらを見る。
「うん」
「強い人ですね」
「そう思う」
「明るいだけではないんだと思います。きっと、明るくしていないと進めないことが、たくさんあった人です」
「うん」
エルナは窓の外を見たまま続ける。
「少し、羨ましいと思いました」
その言葉は、本当に小さかった。
でも、廊下が静かだったから、聞こえた。
俺はすぐには返せなかった。
エルナ自身も、言った後で少しだけ驚いたようだった。
「……変ですね」
「変じゃない」
「そうでしょうか」
「うん」
エルナは手を胸元の名札へ添えた。
「私は、ああいうふうに声を出すのが得意ではありません。怖い時ほど、静かにしようとします。そうしないと、崩れそうになるので」
「それも強いと思う」
「強い、でしょうか」
「うん」
俺は少し考えた。
「エルナの声は、戻れる」
エルナがこちらを見る。
「戻れる?」
「うん。旧礼拝室でも、東門でも、黒灰線が来た時も。エルナが名前を呼ぶと、戻れる場所があるって分かる」
エルナはすぐには答えなかった。
廊下の灯りが、窓に薄く映る。
彼女は少しだけ息を吸ってから言った。
「それは、役に立てているという意味ですか」
「役だけじゃない」
俺は言った。
自分でも、少し言葉を探しながら。
「役目だから戻れるんじゃない。エルナが呼ぶから戻れる」
エルナの指が、名札の上で止まった。
「……そうですか」
「うん」
「なら、よかったです」
声は静かだった。
でも、さっきより少しだけ温度があった。
親父が後ろで何も言わずに歩いている。
聞こえているはずだ。
でも、口を挟まない。
たぶん、それでいいと思っているのだろう。
廊下の端まで来ると、セラフィナ先生に言われた通り戻ることにした。
その途中で、エルナがもう一度口を開いた。
「ルカさんに会う時、私もいます」
「うん」
「防護のためです」
「うん」
「それだけでは、ないかもしれません」
俺は歩く速度を少し落とした。
エルナは目を伏せない。
ただ、言葉を丁寧に選んでいる。
「私も、確かめたいのだと思います。ルカさんがどういう人なのか。リオンさんが昔、どういうふうに誰かを助けたのか。そこに、自分が知らないリオンさんがいるのか」
知らないリオン。
その言葉は少し不思議だった。
俺自身も知らない。
六歳以前も。
辺境の道も。
白い欠片のことも。
自分の中に、自分が知らないものが多い。
「俺も、知らないことが多い」
「はい」
「だから、一人で決めない」
エルナは小さく頷いた。
「持ち帰ってください」
「うん」
「夢でも、記憶でも、ルカさんのことでも」
「うん」
「私たちのところへ」
その言葉は、静かだった。
けれど、強かった。
俺は頷く。
「持ち帰る」
エルナはそれ以上言わなかった。
ただ、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
待機室へ戻ると、カイルがすぐにこちらを見た。
「おかえり。倒れなかったか?」
「うん」
「親父さんも倒れてない?」
親父が言う。
「倒れるか」
「確認です」
アーヴェルは俺とエルナを順に見た。
何かを察したようだったが、何も言わない。
ただ、短く聞く。
「歩行に問題は?」
「ない」
「ならいい」
それで済ませるところが、アーヴェルらしかった。
待機室では、エイムが新しい報告を持って待っていた。
記録板の表示が、少し赤い。
グレン教官がすぐに立ち上がる。
「何かあったか」
「西外縁からの追加解析です。ルカ・フェンの標識布について、監理局支部が詳細確認を行いました」
親父の視線が鋭くなる。
「取り上げたのか」
「いいえ。本人所持のまま、外側だけを写しました」
「ならいい」
エイムは記録板を机に置く。
「布そのものに灰衣反応はありません。ただし、焼け焦げた端に、古い封鎖記号が確認されました」
アーヴェルが眉を寄せる。
「封鎖記号?」
「はい。王国標準式ではありません。辺境の旧式でもありません」
セイル監査官がいつの間にか入室していた。
「王城側の照合では、百年以上前の災害封鎖で使われた民間印に近いとのことです」
民間印。
王国の正式封鎖ではなく、人々が自分たちで作った印。
ミレイア先生がいれば、すぐに神話的な説明をしていたかもしれない。
エイムは続けた。
「印の意味は、正確には不明です。ただ、文字の一部が読めます」
「何と」
グレン教官が問う。
エイムは一度だけ記録板を確認した。
「帰る者を、道に残すな」
部屋が静かになる。
帰る者を、道に残すな。
親父の表情が変わった。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「親父?」
俺が呼ぶと、親父は低く言った。
「古い言い回しだ」
「知ってるの?」
「少しな」
「どういう意味?」
親父はすぐには答えない。
少し考えてから、言った。
「昔の辺境では、歪獣や迷走域に呑まれた者を、道の途中に置いていくことがあった」
カイルの表情が強張る。
「置いていく?」
「戻せないと判断された者だ。名を呼ぶと、他の者まで引かれる。だから、置いていく」
重い沈黙が落ちる。
エルナが小さく息を呑んだ。
親父は続ける。
「その言葉は、それへの反抗だ。帰れる者は、道に残すな。名前を持っているなら、連れて帰れ。そういう印だ」
ルカの布。
荷運び小屋の標識布。
帰る者を、道に残すな。
明るい声の裏に、その言葉がある。
「ルカは、それを持ってきた」
俺が言うと、親父は頷いた。
「ああ」
アーヴェルが静かに整理する。
「つまり、彼女の布は単なる目印ではなく、帰還の誓いに近いものかもしれない」
ユーディア先生も頷く。
「名前の錨として働いている理由も、それなら説明がつきます。本人がその意味をどこまで知っているかは別ですが」
エイムが記録板を操作する。
「本人は、布について『家のもの』『小屋の印』『これがないと帰る場所が分からなくなる』と説明しています」
帰る場所が分からなくなる。
それは、比喩ではないのかもしれない。
ルカは名前を持ってきたと言った。
同時に、帰る場所の布も持ってきた。
明るく騒ぎながら、その二つを手放さずに来た。
カイルが低く言う。
「思ったより、重い子だな」
親父が答えた。
「辺境で軽いだけの子供は、長くは走れない」
その言葉は厳しい。
だが、ルカの声を聞いた後だと分かる気がした。
明るさは、重さがないから出るのではない。
重さを背負っても走るために、声を張っている。
エルナは黙っていた。
少しだけ、通信水晶を見ている。
昼間の小さな棘とは違うものが、そこにあった。
警戒。
理解。
そして、ほんの少しの敬意。
「ルカさんは」
エルナが静かに言う。
「戻ろうとしている人なんですね」
誰もすぐには返さなかった。
たぶん、その通りだった。
リオンを探しているだけではない。
学院へ来たいだけでもない。
ルカは、どこかから戻ろうとしている。
あるいは、誰かを置いてきた道から、今度こそ戻すために来たのかもしれない。
セイル監査官が言う。
「ルカ・フェンの学院移送は、明日午前に仮決定しました。到着後、治癒棟ではなく名称防護室へ入ります。第一基礎班との面会は、検査後、短時間のみ」
セラフィナ先生が頷く。
「医療担当として同席します」
ユーディア先生も。
「名称確認を行います」
グレン教官は俺を見る。
「リオン、お前は会う前に休め。高揚したまま会えば、相手にも自分にもよくない」
「はい」
親父も言う。
「会ったら、まず名乗れ。それ以上は急ぐな」
「うん」
「思い出そうとするな。思い出したものは持ち帰れ」
「分かってる」
「ならいい」
分かっている。
でも、胸は少し落ち着かない。
ルカが来る。
辺境の道から。
古い布を持って。
俺の知らない俺を覚えて。
そして、エルナも近くにいる。
戻れる声として。
それは、少し怖くて、少し心強い。
カイルが手を上げた。
「俺も同席できますか?」
セラフィナ先生が見た。
「状態次第です」
「状態、良くします」
「急に良くしようとしても無理です」
「はい」
アーヴェルは静かに言う。
「同席者は絞るべきだ。ただ、第一基礎班としては把握しておきたい」
セイル監査官が頷いた。
「面会は、リオン、エルナ、グレン教官、ユーディア先生、セラフィナ主任、監理局記録官を基本とします。状況に応じてカイル、アーヴェルも追加」
カイルが少し不満そうにした。
アーヴェルは受け入れたようだった。
エルナは、少し驚いたように自分を指した。
「私も、基本に入るのですか」
セイル監査官は当然のように答えた。
「リオンの名称安定に寄与する人物として記録されています」
エルナは一瞬だけ黙る。
それから、小さく頷いた。
「分かりました」
俺はその横顔を見た。
今度は、見ていますとは言われなかった。
エルナはただ、静かに息を整えていた。
役目として呼ばれた。
でも、さっき俺が言ったこともある。
役だけではない。
エルナが呼ぶから戻れる。
それが、少しでも届いていればいいと思った。
セラフィナ先生が手を打つように言った。
「では、今日はここまでです。全員、休養。追加報告は大人側で処理します」
カイルが何か言いかける。
セラフィナ先生が見る。
カイルは口を閉じた。
「はい」
グレン教官が立ち上がる。
「従え。明日も動くなら、休むのも任務だ」
「はい」
任務。
休むことも。
食べることも。
名前を確認することも。
今は全部、戻るための任務だった。
夜が深くなっていく。
旧礼拝室の扉は閉じている。
その内側には爪痕が残る。
西外縁では、ルカ・フェンが赤茶の布を握って眠るのかもしれない。
そして治癒棟では、エルナが俺の近くにいる。
静かな声で。
必要な時に、名前を呼ぶために。
俺は休養椅子へ戻り、胸元の名札に触れた。
リオン。
明日、もう一人がその名を呼ぶ。
その時、俺はどこへ揺れるのか。
まだ分からない。
でも、戻る声は隣にある。
それだけは、分かっていた。




