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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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89話_小さな棘

ルカ・フェンとの通信が終わった後も、治癒棟の待機室には、しばらくその声の余韻が残っていた。


明るい声だった。


旧礼拝室の爪音とは違う。

灰衣の祈りとも違う。

扉の奥から呼ばれる名前とも違う。


こちらを引くためではなく、確かめるために呼ぶ声。


リオン。


通信水晶越しにそう呼ばれた時、胸元の名札は揺れなかった。


それが少し、不思議だった。


同じ名前でも、呼ばれ方でまるで違う。


奪うために呼ばれる名前。

役割へ縫うために呼ばれる名前。

戻すために呼ばれる名前。

確かめるために呼ばれる名前。


ルカの声は、最後のものに近かった。


カイルはまだ少し楽しそうにしていた。


「いや、すごかったな。通信越しなのに、部屋に入ってきたみたいだった」


アーヴェルが冷静に返す。


「声量と勢いの問題だろう」


「そうとも言う」


「かなり言う」


カイルは肩をすくめた。


「でも、悪い感じはしなかっただろ?」


アーヴェルは少し考えた。


「少なくとも、通信中に名称干渉はなかった。本人名も安定していた。声にも引く力はない」


「ほら」


「ただし、それと安全は別だ」


「分かってるって」


「本当にか?」


「半分くらい」


「半分では足りない」


そのやり取りを聞きながら、俺は水晶の置かれていた机を見ていた。


光はもう消えている。


透明な石に戻っている。


けれど、そこからさっきの声がまた聞こえてきそうだった。


逃げないでよ、リオン。


俺は逃げないと答えた。


その言葉に、嘘はない。


ただ、会うことには警戒が必要だ。


ルカが危険なのではなく、ルカを通して何かが来る可能性がある。


それは分かっている。


分かっているのに、胸の奥には少しだけ明るさが残っていた。


エルナは、静かに通信水晶を見ていた。


いつものように表情は大きく変わらない。


ただ、さっきから水杯に指を添えたまま、飲むでもなく置くでもなくしている。


「エルナ?」


俺が呼ぶと、彼女は少し遅れてこちらを見た。


「はい」


「大丈夫?」


「大丈夫です」


返事はいつも通りだった。


でも、少しだけ間があった。


それが気になった。


「疲れた?」


「少しは。昨日から、色々ありましたから」


「そうだね」


「でも、問題ありません」


エルナはそう言って、水杯を置いた。


音は小さい。


けれど、いつもより少し硬かった。


カイルがこちらを見て、首を傾げる。


アーヴェルも一瞬だけエルナを見た。


だが、何も言わなかった。


セラフィナ先生は記録紙をまとめながら言う。


「通信後の反応確認を行います。リオンさん、名札を」


「はい」


俺は胸元の名札を見せる。


セラフィナ先生が治癒灯をかざす。

ユーディア先生が鐘を軽く鳴らす。


「リオン」


俺は答える。


「リオン。戦闘科一年、第一基礎班」


鐘の音は澄んでいた。


ユーディア先生が頷く。


「安定しています。通信による呼称接触はありません」


セラフィナ先生も記録に書き込む。


「精神反応も悪くありません。ただし、少し高揚があります」


「高揚?」


カイルが食いつく。


セラフィナ先生は淡々と答えた。


「新しい情報、過去記憶との接続、相手との再接触の可能性。それによる自然な反応です」


「つまり、ちょっと気になってるってことか」


「言い方を選ぶなら、そうです」


カイルがこちらを見る。


「気になってる?」


俺は少し考えた。


「気になる」


そう答えると、カイルはにやっとしかけた。


だが、グレン教官に見られて、表情を戻した。


「まあ、そりゃそうだよな」


エルナの指が、水杯の縁に触れた。


かすかな音。


誰も、そこへは触れなかった。


エルナ自身も気づいていないように見えた。


ただ、少しだけ視線が落ちた。


俺は、なぜかそれが気になった。


線は見ていない。


見ようともしていない。


ただ、空気の中に小さな棘があるような感じがした。


痛いほどではない。


誰かを傷つけるほどでもない。


でも、確かにそこにある。


「エルナ」


もう一度呼ぶ。


彼女は今度はすぐに顔を上げた。


「はい」


「何か、気になることある?」


「ルカさんのことですか?」


「うん。危ないと思う?」


エルナは少しだけ目を伏せた。


「危ないかどうかは、まだ分かりません。本人に害意はなさそうでした。でも、アーヴェルさんの言う通り、時期は重なりすぎています」


「そうだね」


「だから、会うなら防護下で。名札確認も必要です。通信の記録も、もう一度見直した方がいいと思います」


言っていることは正しい。


いつものエルナだ。


けれど、何かが少しだけ違う。


言葉の選び方ではない。

声の高さでもない。


たぶん、言葉の後ろにあるもの。


俺が黙っていると、エルナは小さく首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「いや」


俺は少し迷った。


「エルナが、少し変な感じがした」


待機室が静かになった。


言ってから、まずかったかもしれないと思った。


エルナも目を瞬かせる。


「変、ですか?」


「悪い意味じゃない。でも、少し」


「疲れているからかもしれません」


「そうかも」


そう答えるしかなかった。


エルナは少しだけ笑った。


いつもの静かな笑みだった。


「リオンさんも疲れています。今日は、あまり人のことを見すぎない方がいいですよ」


「見てない」


「見ています」


それは、少しだけ鋭かった。


俺は黙る。


エルナは自分で言ってから、少し驚いたように口を閉じた。


ほんのわずか。


本当にわずかに。


「……すみません」


「謝ることじゃない」


「でも、少し強く言いました」


「うん。でも、合ってる」


エルナは水杯へ視線を落とした。


「私も、疲れているのだと思います」


その声は静かだった。


ただ、いつもより少しだけ人間らしかった。


きれいに整えた言葉ではなく、少しだけ自分でも扱いに困っている言葉。


カイルが何か言いかけたが、アーヴェルが肘で軽く止めた。


珍しく、カイルは黙った。


親父は壁際で腕を組んだまま、何も言わない。


グレン教官も同じだった。


セラフィナ先生だけが、淡々と記録紙を閉じる。


「疲労反応として自然です。会話を続けるなら、短くしてください」


自然。


そう言われて、エルナは少しだけ息を吐いた。


「はい」


俺は、まだ少し考えていた。


ルカの声を聞いて、俺は嬉しかった。


それはたぶん、事実だ。


昔、助けたかもしれない誰かが、生きていて、自分の名前を持ってここまで来た。


それは嬉しい。


だが、その嬉しさが、エルナに何か小さな棘を残したのかもしれない。


なぜかは、分からない。


エルナ自身も、分かっていないように見えた。


だから、これ以上聞くのは違う。


俺は言った。


「ルカに会う時、いてほしい」


エルナが顔を上げた。


「私が、ですか?」


「うん」


「防護のためですか?」


「それもあるけど」


少し考える。


「エルナがいた方が、俺は戻りやすい」


エルナの目が、ほんの少し揺れた。


カイルが横で小さく笑いそうになり、すぐに真顔へ戻る。


アーヴェルは目を伏せたまま、何も言わない。


エルナは数秒だけ黙ってから、静かに頷いた。


「分かりました。必要なら、います」


「必要」


俺がそう言うと、彼女は少し困ったようにした。


「まだ決まっていませんよ」


「決まったら」


「はい。決まったら」


その返事は、さっきより少し柔らかかった。


棘は消えたわけではない。


でも、少しだけ奥へ沈んだ気がした。


ユーディア先生が鐘から手を離す。


「今の会話で、名称反応に乱れはありません。むしろ安定しています」


セラフィナ先生が頷く。


「感情を無理に押さえ込むより、短く言葉にした方が安定する場合があります」


エルナは少しだけ視線を逸らした。


「感情、というほどでは」


「疲労反応です」


セラフィナ先生はそう言った。


だが、その声は少しだけ優しかった。


「今は、それで構いません」


エルナは小さく頷く。


「はい」


カイルがようやく口を開いた。


「じゃあ、ルカが来たら全員で会えばいいんじゃないか?」


アーヴェルがすぐに言う。


「全員で押しかけるのは威圧になる」


「でも、あの子なら威圧って思うかな?」


「思わない可能性はあるが、それはそれで問題だ」


「どういう問題?」


「警戒心の方向が独特だ」


カイルは納得したような、していないような顔をした。


「確かに、石投げたって言ってたしな」


親父が短く言う。


「石を投げる判断は悪くない」


グレン教官が親父を見る。


「推奨するな」


「踏むよりましだ」


「それはそうだが」


カイルが小さく笑った。


「辺境基準、強いな」


親父は否定しない。


「弱ければ死ぬ」


その一言で、少しだけ空気が締まった。


ルカの明るさは、ただの明るさではない。


弱ければ死ぬ場所で、それでも明るく声を張ってきた結果なのだろう。


泣く代わりに叫ぶ。

怖いと言いながら走る。

名前を奪われそうになっても、違うと返す。


そういう明るさ。


エルナもそれを分かっているのか、通信水晶を見ていた目が少し変わった。


「強い人ですね」


彼女は言った。


棘の残りを、自分の中で別の形へ置き直すような声だった。


「たぶん」


俺は答える。


「でも、危なっかしい気もする」


「はい。とても」


エルナは今度は少しだけ笑った。


「だから、確認が必要です」


「うん」


その時、待機室の扉が叩かれた。


エイムが入ってくる。


通信の後処理をしていたはずだが、記録板には新しい表示が出ていた。


「追加報告です」


グレン教官が問う。


「西外縁か」


「はい。ルカ・フェンの所持品から、古い布片が見つかりました」


空気がすぐに変わる。


灰衣礼拝布。


全員がそれを連想した。


エイムはすぐに続ける。


「灰衣礼拝布ではありません。魔力反応も黒灰線も検出されていません。ただし、本人が強く所持を主張しています」


親父が聞く。


「何の布だ」


「荷運び小屋の標識布だそうです。辺境西路では、家や拠点の目印として布を掲げる習慣があります」


「色は」


「赤茶。かなり古く、焼け焦げあり」


親父が少しだけ目を細めた。


「持たせておけ」


セイル監査官が横から言う。


「王城側は一時預かりを提案しています」


「駄目だ」


親父の返事は即答だった。


「名前の錨になっている可能性がある。取り上げれば、逆に剥がれる」


ユーディア先生も頷く。


「私も同意します。所持品が本人名の固定に関わっているなら、無理に離すべきではありません」


エイムは記録板へ入力する。


「了解しました。本人所持のまま封印袋で保護、という提案を返します」


カイルが低く言う。


「その布、大事なやつなんだな」


エルナが静かに言った。


「帰る場所の代わり、かもしれません」


親父の柄。

俺の名札。

親父の手紙。

ネイルの名札。

ルカの標識布。


戻るためのものは、人によって違う。


ルカにとっては、その布なのかもしれない。


エイムはさらに続けた。


「もう一点。ルカ・フェンは、検問所でその布を握った状態だと名称反応が安定します。離すと、古い剥離痕が浮くそうです」


セラフィナ先生が表情を引き締める。


「精神負荷が大きいですね。学院へ移送するなら、治癒棟か名称防護室で受け入れるべきです」


アーヴェルが言う。


「通常の編入生扱いは無理だな」


「はい」


エイムは頷く。


「暫定保護対象として移送手続きを進める案が出ています。ただし、最短でも明日以降です」


明日。


思ったより早い。


カイルが俺を見る。


「明日か」


「うん」


「緊張する?」


「少し」


「そりゃそうだよな」


エルナは何も言わなかった。


ただ、さっきより落ち着いた様子で、水杯を持ち直した。


今度はちゃんと飲んだ。


それを見て、なぜか少し安心した。


セラフィナ先生が全員を見る。


「リオンさんは今日これ以上の通信、面会、報告対応は禁止です。ルカさんの件も、続きは明日以降」


「はい」


「エルナさんも休んでください。感情疲労も疲労です」


エルナが少し困ったようにする。


「感情疲労、ですか」


「名称防護の現場では重要な指標です」


「……分かりました」


カイルが小声で言う。


「俺も感情疲労ある気がします」


セラフィナ先生は見た。


「あなたはまず脚です」


「はい」


アーヴェルが静かに笑いかけたが、すぐに表情を戻した。


待機室の空気は、少しずつ落ち着いていった。


旧礼拝室の重さ。

ルカの明るさ。

エルナの小さな棘。

親父の警戒。

セラフィナ先生の指示。


全部が同じ部屋にある。


どれか一つだけではない。


それでいいのかもしれない。


人は一つの感情だけで立っているわけではない。


怖い。

嬉しい。

心配。

少し嫌。

それでも会いたい。

守りたい。

疑わなければならない。

信じたい。


全部あって、それでも名前は揺れない。


俺は胸元の名札に触れた。


リオン。


明日、もしルカが学院へ来るなら。


俺はもう一度名乗ることになる。


その時、エルナにも近くにいてほしい。


そう思った理由を、うまく言葉にはできない。


でも、必要だと思った。


エルナがふとこちらを見る。


「どうしましたか?」


「何でもない」


「また見ています」


「今は見てない」


「本当ですか?」


「たぶん」


エルナは少しだけ目を細めた。


「たぶんは禁止、では?」


カイルがすぐに反応する。


「出た、たぶん禁止」


グレン教官が低く言う。


「今のは軽度だ」


「軽度とかあるんですか」


「ある」


親父が横から言う。


「飯を食えば治る」


「治りますか?」


エルナが少しだけ笑って聞く。


親父は真顔で答えた。


「大抵はましになる」


セラフィナ先生も頷く。


「夕食は予定通り取ります」


結局、そこへ戻る。


飯を食え。


寝ろ。


怪我を隠すな。


名前を呼べ。


旧礼拝室の奥がどれだけ重くても、戻る言葉は案外単純だった。


俺は頷いた。


「食べる」


エルナも静かに言った。


「私も、食べます」


その声に、さっきの棘はもうほとんどなかった。


完全に消えたわけではないかもしれない。


でも、今はそれでいい。


消す必要も、急いで名前をつける必要もない。


小さな棘のまま、彼女の中で少しずつ形を変えていけばいい。


俺たちは夕食を待った。


窓の外では、日が沈みかけていた。


旧礼拝室の扉は閉じている。


西外縁には、ルカ・フェンがいる。


そして治癒棟の待機室には、まだ戻れる声があった。


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