88話_西外縁の声
ルカ・フェン。
その名前は、封筒が閉じられた後も、待機室に残っていた。
辺境西路の出身。
歪獣被害区域からの生還経験。
未分類魔力反応への耐性。
王立学院への臨時推薦状。
そして。
白い鎌を持っている、名前を教えてくれなかった男の子を探している。
それが俺のことなのかは、まだ分からない。
ただ、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。
夢の中の乾いた道。
大きすぎる荷物を背負った小さな背中。
怖がっているのに、やけに明るい声。
また会ったら聞くね。
絶対聞くから。
俺は胸元の名札に触れる。
リオン。
今なら答えられる。
だが、セラフィナ先生の言葉も分かっている。
夢と現実が繋がった直後は危険。
旧礼拝室は、人の記憶に触れる。
見せたいものだけを見せる。
本物に嘘を混ぜる。
だから、会いたいと思うこと自体を疑わなければならない。
それが少し嫌だった。
明るい声を、すぐに罠かもしれないと考えなければならないことが。
カイルは封筒が置かれた机を見ながら言った。
「でもさ、リオンを探してここまで来るって、なかなかだよな」
アーヴェルが答える。
「普通ではない」
「そこはもう少し柔らかく言えない?」
「時期、経路、推薦理由、すべてが重なりすぎている」
「柔らかさ、ないな」
「事実だ」
カイルは軽く肩をすくめた。
だが、顔は真面目だった。
「でも、変だからって悪いって決まったわけじゃないだろ?」
アーヴェルは少しだけ黙る。
「決まってはいない」
エルナが封筒を見つめながら言った。
「だから、確かめるんですね」
セラフィナ先生は頷いた。
「会う前に、まず記録と反応を確認します。本人に害意がなくても、何かを持ち込まされている可能性はあります」
「灰衣みたいに、ですか?」
俺が聞くと、親父が短く答えた。
「あり得る」
その声は重い。
「本人が知らないところに印を入れる。道に仕込む。荷物に縫う。名前の端に触る。辺境では、そういう手も多い」
カイルが顔をしかめる。
「辺境、怖くないですか?」
親父は淡々と言った。
「怖い場所もある」
「全部じゃないんですね」
「飯がうまい村もある」
「そこは大事なんだ」
「大事だ」
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐにエイムが記録板を見た。
「西外縁検問所から追加通信です」
待機室の空気が変わった。
グレン教官が立つ。
「内容は」
「本人の所持品検査が終了。灰衣礼拝布、灰針、灰札の類は検出されず。魔力反応は不規則ですが、旧礼拝室由来の黒灰線はありません」
セラフィナ先生が問う。
「名称反応は?」
「本人名は安定。ただし、過去に強い名称剥離を受けた痕跡があります」
ユーディア先生の手が鐘へ伸びた。
「剥離痕?」
「はい。現在進行形ではなく、古い傷跡に近いそうです」
親父の表情が少しだけ変わる。
「西路なら珍しくはない」
「親父、知ってるの?」
「辺境では、名前を持って逃げるだけで戦いになることがある」
その言葉は静かだった。
だが、そこには知らない土地の重さがあった。
名前を持って逃げる。
それは、ネイルのことだけではない。
ミリアのことだけでもない。
もっと広い場所で、もっと長い間、誰かがそうやって生きてきたのかもしれない。
エイムが続ける。
「本人から、学院側との短時間通信を希望する申し出がありました」
カイルがこちらを見る。
「通信?」
アーヴェルがすぐに言う。
「会うよりは安全だ。だが、声による名称干渉の可能性は残る」
ユーディア先生が頷く。
「通信水晶越しなら、こちらで音と名前の線を遮断できます。本人名の確認も可能です」
セラフィナ先生は俺を見た。
「リオンさん。あなたが話す必要はありません」
「でも、聞くことは?」
「短時間なら許可します。ただし、返事は私たちの判断後です」
「はい」
親父が言う。
「名前を聞かれても、すぐ答えるな」
「うん」
「相手が本物でも、手順は踏め」
「分かった」
手順。
それは冷たく聞こえる。
けれど、人を疑うためだけではない。
相手も守るためのものだ。
もしルカが本当に夢の子なら。
彼女だって、旧礼拝室に利用されたくはないはずだった。
ユーディア先生が通信水晶を用意した。
掌ほどの透明な石。
その周囲に小さな鐘が三つ置かれる。
エイムが記録板を接続し、セイル監査官が王城側の確認紙を広げる。
親父は壁際から離れ、俺の少し後ろに立った。
グレン教官は扉近く。
カイル、エルナ、アーヴェルは俺の横に並ぶ。
誰も前に出すぎない。
でも、近くにいる。
ユーディア先生が鐘を一度鳴らした。
「通信を開きます。相手の声に名前を乗せないよう調整します」
水晶の中に、淡い光が入る。
ざらついた音。
風の音。
遠くで誰かが話す声。
それから、急に明るい声が割り込んだ。
『え、これもう繋がってる? 聞こえてる? あたしの声、変じゃない?』
カイルが小さく笑いそうになり、すぐに口を押さえた。
エイムが淡々と言う。
「西外縁検問所、聞こえています。学院側も通信受信中です」
『おおー! すごい! 王都の通信水晶って、声が近いね!』
声は元気だった。
夢の中より少し成長している。
けれど、確かに似ている。
怖いのに明るくしていた、あの声。
俺は思わず息を止めた。
ユーディア先生が鐘に触れる。
「本人名確認を行います。あなたの名前を言ってください」
『ルカ・フェン! 辺境西路、フェンの荷運び小屋のルカ! 臨時推薦状を持ってきました!』
鐘が鳴る。
澄んだ音。
ユーディア先生が頷いた。
「本人名、安定しています」
ルカは通信の向こうで少し声を落とした。
『あ、よかった。名前、ちゃんと届いてる?』
「届いています」
『じゃあ大丈夫だ。ここまで来る途中、三回くらい違う名前で呼ばれてさ。全部無視したけど、ちょっと気持ち悪かったんだよね』
部屋の空気が少し硬くなる。
親父の目が細くなった。
「どこでだ」
声を出したのは親父だった。
通信の向こうで、ルカが一瞬黙る。
『えっと……その声、もしかして、あの時の無愛想なおじさん?』
カイルが肩を震わせた。
グレン教官も一瞬だけ親父を見た。
親父は表情を変えない。
「答えろ」
『やっぱりそうだ! いや、変わってないね! 声が硬い!』
「答えろ」
『はいはい、答えます! 西外縁に入る前の旧荷車道。あと、三つ目の境界石。最後は検問所の手前の水場。全部、あたしの名前じゃなくて、別の呼び方だった』
アーヴェルが問う。
「別の呼び方とは?」
『んー……一回目は、“逃げた子”。二回目は、“印持ち”。三回目は、“白鎌の餌”。最後のはさすがに腹立ったから、石投げた』
「石を?」
エルナが少し驚いたように聞く。
『うん! 当たらなかったけど!』
セラフィナ先生が低く言った。
「その行動は推奨しません」
『あ、今のは治癒の先生? ごめんなさい。でも、何もしないで聞いてる方が嫌だったんです』
その声は明るい。
だが、明るいだけではなかった。
嫌なものを嫌だと言う強さがある。
怖がりながら、足を止めない声。
夢の中と同じだった。
エイムが記録板へ書き込む。
「旧荷車道、三つ目の境界石、水場。呼称干渉三回。灰衣系の可能性あり」
親父が言う。
「石を投げた後、どうなった」
『変な声は消えた。代わりに、灰色の紐みたいなのが足元に出たから、踏まないで走った』
「踏まなかったのか」
『踏むわけないでしょ! ああいうの、だいたい踏んだら終わるやつだもん!』
カイルが小声で言う。
「判断が早い」
アーヴェルも頷いた。
「辺境で生きてきた者の勘だな」
ルカの声は続く。
『それで、検問所まで来たら止められて、荷物を全部調べられて、名前を何回も言わされて、推薦状も三人に読まれて、今に至ります! けっこう疲れた!』
セラフィナ先生が淡々と言う。
「疲労状態なら休むべきです」
『休みたいです! でも、その前に確認したいことがあって』
空気が少し変わる。
ルカの声が、ほんの少しだけ真面目になった。
『白い鎌の子、本当にいる?』
俺の胸元の名札が、熱を持つ。
だが、揺れない。
ユーディア先生がこちらを見る。
セラフィナ先生も。
親父は短く言った。
「答えるなら、名前だけだ」
俺は頷いた。
通信水晶を見る。
光の向こうに姿は見えない。
ただ声だけがある。
俺はゆっくり言った。
「いる」
通信の向こうが、静かになった。
それから。
『……本当に?』
さっきまでの勢いが、少しだけ崩れていた。
「うん」
『白い鎌、持ってた?』
「今は持ってない。でも、たぶん俺だと思う」
『道、曲げた? 黒い犬みたいなやつ、あたしの背中に来てたの、横に逸らした?』
夢の断片と同じだ。
俺は息を吸う。
「たぶん」
『たぶん?』
「その時のこと、全部は覚えてない」
『そっか』
声が、少しだけ小さくなった。
『あたしも、全部は覚えてない。怖かったし、走ってたし、お腹も空いてたし。でも、白いのは覚えてる。鎌だったのか、羽だったのか、分からなかったけど』
親父の視線が鋭くなる。
白い欠片。
夢の中で見たもの。
ルカも、それを覚えている。
『あと、名前を聞いたのに答えてくれなかったことも覚えてる』
カイルが小さく言う。
「そこ大事なんだ」
ルカは通信越しに聞こえたらしい。
『大事だよ! 助けられたのに名前分からないって、すごく困るでしょ! お礼も言えないし、文句も言えないし!』
「文句?」
俺が聞くと、ルカは即答した。
『あるよ! 助けるだけ助けて黙って行くの、感じ悪いじゃん!』
部屋が一瞬、静かになった。
それからカイルが耐えきれずに笑った。
「感じ悪いって」
アーヴェルも口元を押さえた。
エルナは小さく笑っている。
親父は眉をひそめた。
「黙って行かせたのは俺だ」
『じゃあ、おじさんに文句言う!』
「言ってみろ」
『子供同士の会話くらい待ってくれてもよかったと思います!』
親父は少し黙った。
「状況が悪かった」
『それは、そう! でも文句は文句!』
カイルがまた笑いそうになり、セラフィナ先生に見られて黙った。
俺は、少し驚いていた。
旧礼拝室の後。
黒灰色の声や、戻れなかった名前の後。
こんなふうにまっすぐ文句を言う声が、ここに入ってくると思っていなかった。
明るい。
だが、軽いだけではない。
生きている声だった。
ルカは少し息を吸った。
『それで、名前』
部屋が静まる。
『聞いていい?』
ユーディア先生が俺を見る。
名札は安定している。
鐘も澄んでいる。
セラフィナ先生は少し考え、頷いた。
親父は言った。
「自分で言え」
「うん」
俺は通信水晶を見た。
「リオン」
鐘が鳴る。
「戦闘科一年、第一基礎班。リオン」
通信の向こうで、ルカが黙った。
さっきまで騒がしかった声が、すぐには返ってこない。
やがて、少しだけ掠れた声が聞こえた。
『リオン』
胸元の名札は揺れない。
その声には、引く力がなかった。
ただ、確かめる響きだった。
『そっか。リオンっていうんだ』
「うん」
『……やっと聞けた』
その一言だけ、声が小さかった。
明るさの下に隠していた時間が、少しだけ見えた気がした。
辺境西路。
逃げた子。
印持ち。
白鎌の餌。
いくつもの変な呼び方を無視して、自分の名前を持ってここまで来た子。
そして、昔助けた相手の名前を聞くために、学院まで来た子。
ルカはすぐに声を戻した。
『よし! じゃあ、これで一つ目の目的達成!』
カイルが聞く。
「一つ目?」
『うん! 二つ目は学院に入ること! 三つ目は強くなること! 四つ目は、あの黒い犬みたいなやつを今度は自分で蹴っ飛ばすこと!』
アーヴェルが冷静に言う。
「蹴る対象の分類が不明だ。危険だぞ」
『誰?』
「アーヴェル・ロア・クラウゼン。戦闘科一年、第一基礎班」
『あ、真面目そう!』
カイルが笑う。
「当たってる」
アーヴェルは軽く睨んだ。
エルナが柔らかく言う。
「無理に蹴らなくてもいいと思います」
『あなたは?』
「エルナ・シルヴェリア。同じく第一基礎班です」
『声が優しい! でも、なんか強そう!』
エルナが少し困ったようにした。
カイルが自分を指差す。
「俺はカイル・レグナート! 同じく第一基礎班!」
『声大きい人!』
「初対面でそれ!?」
「通信越しでも分かります」
エイムが淡々と言った。
カイルは少し肩を落とした。
それでも、待機室には久しぶりに小さな笑いがあった。
本当に小さなものだ。
だが、重い空気に穴を開けるには十分だった。
セラフィナ先生が時間を確認する。
「通信はここまでです。ルカさん、あなたも検問所で休んでください」
『はい! えっと、治癒の先生ですよね?』
「セラフィナ・ユールです」
『セラフィナ先生! 分かりました、休みます! でも、学院に入れるかどうかは?』
セイル監査官が答えた。
「安全確認後、王城と学院で判断します。少なくとも、今日中の学院入りはありません」
『そっか。まあ、門前払いじゃないならいいです!』
「門という言葉は、今は控えてください」
ユーディア先生が静かに言う。
『あ、ごめんなさい! えっと、追い返されてないならいいです!』
「その表現で問題ありません」
ルカは少しだけ声を落とした。
『リオン』
俺は返事を待つ。
名前を呼ばれても、胸元の名札は揺れない。
『助けてくれて、ありがとう』
その言葉は、明るくなかった。
まっすぐだった。
俺は少しだけ息を止めた。
そして、答えた。
「戻ってくれて、よかった」
通信の向こうで、ルカが笑った気配がした。
『うん。あたし、戻ったよ。ちゃんと名前持ってきた』
ユーディア先生の鐘が、静かに鳴った。
『じゃあ、またね! 今度はちゃんと会って話すから! 逃げないでよ、リオン!』
「逃げない」
『よし!』
通信が切れた。
水晶の光が落ちる。
待機室に、静けさが戻った。
だが、さっきまでとは違う静けさだった。
重さは残っている。
爪痕も残っている。
旧礼拝室の対象も、消えたわけではない。
それでも、部屋の中には新しい声の余韻があった。
明るく、強く、少し危うい声。
カイルが最初に口を開いた。
「すごい子だったな」
アーヴェルが頷く。
「警戒は必要だが、意思は強い」
エルナも静かに言った。
「名前を持ってきた、という言い方が……少し、分かる気がします」
親父は通信水晶を見ていた。
「生きていたか」
その一言は、ほとんど独り言だった。
俺は親父を見る。
「心配してた?」
親父はすぐには答えなかった。
「少しな」
それだけだった。
でも、親父にしては十分だった。
セラフィナ先生が俺の名札を確認する。
「呼称反応なし。精神状態も、先ほどより安定しています」
「安定?」
「はい。警戒と安心が両方あります。悪くありません」
カイルが笑う。
「安心だけじゃないのが、今っぽいな」
「それでいい」
親父が言った。
「安心だけなら鈍る。警戒だけなら折れる」
グレン教官が頷く。
「どちらも持て」
俺は胸元の名札に触れた。
ルカが俺の名前を呼んだ時、名札は揺れなかった。
それが少し嬉しかった。
旧礼拝室は、俺の名前を使って引こうとした。
扉に書いた。
爪でなぞった。
偽物の声で呼んだ。
でも、今の声は違った。
俺を奪うためではなく、確かめるために呼んだ。
それだけで、名前の響きはまるで違う。
エイムが記録板を閉じる。
「通信内容は監理局、王城、学院で共有します。ルカ・フェンについては、暫定保護対象として扱われます」
アーヴェルが問う。
「入学の可否は?」
「未定です。ただ、未分類魔力反応への耐性、辺境での生存経験、リオン君との過去接触。いずれも重要です」
カイルが少し期待したように言う。
「来るかな」
セラフィナ先生がすぐに言う。
「期待しすぎないように」
「はい」
でも、カイルの顔は少し明るかった。
たぶん、俺も似たような顔をしている。
親父が言った。
「来るなら、面倒も連れてくる」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「……少しは分かってる」
「少しならいい」
それは認められたのか、そうでないのか分からない。
ただ、親父の声は少しだけ穏やかだった。
窓の外では、夕方の光が治癒棟の壁を照らしていた。
旧礼拝室の扉は閉じている。
内側には、まだ黒灰色の爪痕が残る。
王国封鎖案件は始まったばかりだ。
それでも、今日。
俺は一つ、名前を聞いた。
ルカ・フェン。
そして、俺の名前を答えた。
リオン。
それは小さなことかもしれない。
だが、灰衣が役割を重ね、扉の奥のものが名前を食おうとするこの場所では、十分に大きなことだった。
名前を聞く。
名前を答える。
それだけで、人は少し戻れる。
そう思った。




