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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
87/88

87話_記録に残す名

治癒棟の中庭から戻ると、待機室には少しだけ人が増えていた。


カイル、エルナ、アーヴェル。


それから、レオルたち第三基礎班。


レオル・バート。

トーマ・リッジ。

ニア・フロウ。

フィオ・ラント。


四人とも、扉の近くで控えめに立っていた。


見舞いというには硬い。

報告というには少し落ち着かない。


俺が入ると、レオルが最初に顔を上げた。


「リオン」


名前で呼ばれた。


それだけで、少し安心する。


「うん」


「動けるのか」


「少しなら」


「ならいい」


それで終わりだった。


だが、レオルらしいと思った。


余計に心配しすぎるのでもなく、軽く流すのでもない。


そこにいることを確認する。


それだけで十分な時もある。


カイルが椅子から片手を上げた。


「第三基礎班、来てくれたぞ」


「正確には、報告整理の後で治癒棟への移動許可が出た」


アーヴェルが補足する。


トーマが少し肩をすくめた。


「見舞いって言うと怒られるかと思ってさ」


「誰に?」


カイルが聞く。


トーマはグレン教官の方を見た。


グレン教官は無言だった。


「……なんとなく」


「別に怒らん」


グレン教官は短く言った。


「無許可で来ていれば怒った」


「許可取ってよかった」


ニアが小さく息を吐いた。


フィオは手に持っていた薄い紙束を見た。


「昨日の中央区画第一試合の報告、写しを持ってきました。第一基礎班にも確認してほしいって、担当教官が」


アーヴェルが受け取る。


「正式記録前の確認か」


「はい。変な言葉が混じっていないかも見てほしいそうです」


変な言葉。


勝者。

敗者。

器。

灯。

白鎌。


あの時、いくつもの呼び方が名札へ触れようとしていた。


今はもう、記録そのものにも気をつけなければならない。


アーヴェルは紙束を机に置き、俺たちを見た。


「確認する価値はある」


セラフィナ先生がすぐに言った。


「長時間の確認は禁止です。リオンさんは見るだけ。線視は禁止」


「はい」


「アーヴェルさんも、考察しすぎないように」


アーヴェルが少しだけ黙った。


「承知しました」


カイルが小声で言う。


「先に刺されたな」


「お前も余計な口を挟むな」


「はい」


紙束には、中央区画第一試合の流れが書かれていた。


第一基礎班。

第三基礎班。

月例測定第一日目。

中央区画第一試合。


両班、名乗り。

試合開始。

中央誘導の発生。

両班による名称確認。

異常下における試合継続。

第一基礎班の勝利。

第三基礎班の安全対応評価加点。


そこに、勝者や敗者という言葉はほとんど使われていなかった。


必要なところでは、勝敗結果として書かれている。


だが、班そのものを勝者や敗者として固定する書き方ではない。


レオルが言う。


「担当教官が、昨日のことを受けて書き直したらしい」


アーヴェルは頷いた。


「良い記録だ」


「そうか」


レオルは少しだけ安心したようだった。


トーマが紙の端を指した。


「ここ、俺が中央に踏み込んだところ。『誘導に乗った』って書かれてるけど、これはそのままでいいのか?」


アーヴェルが視線を落とす。


「事実としては正しい。ただし、意思がなかったように読める可能性がある」


フィオが言った。


「なら、『誘導を受けつつ、自分の攻勢として踏み込んだ』とか?」


「その方がいい」


エルナが静かに言う。


「灰色の誘導だけではなく、トーマさん自身の判断もありました。そこを消すと、また役割だけになります」


トーマは少し照れたように鼻の下をこすった。


「そう言われると、なんか悪くないな」


ニアが別の箇所を指す。


「私の風も、『流された』じゃなくて、『流そうとした方向へ別の意味を重ねられた』の方が近いかな?」


エイムがいつの間にか記録板を構えていた。


「その表現、採用候補です」


ニアが少し驚く。


「今のも記録するんですか?」


「必要です」


「そっか。じゃあ、ちゃんと言えばよかった」


「十分です」


カイルが笑った。


「エイムさんの前だと、何でも正式っぽくなるな」


「正式にするかどうかは後で判断します」


「そこは冷静」


報告書の確認は、思ったより静かに進んだ。


だが、ただの事務作業ではなかった。


言葉を選ぶたびに、昨日の試合が少しずつ正しい場所へ戻っていく。


第三基礎班は、負けた班ではない。


第一基礎班は、勝者という役割ではない。


中央区画は、儀式の場ではなく、月例測定の試合場だった。


灰衣に重ねられた意味を、記録から剥がしていく作業。


それは、小さな封鎖でもあった。


しばらくして、レオルが俺を見る。


「昨日の地下のことは、聞かない方がいいんだろうな」


俺は少し迷った。


「全部は話せない」


「だろうな」


「でも、旧礼拝室は閉じた」


レオルの目がわずかに動く。


「閉じたのか」


「うん。一度は」


親父が横から言う。


「余計な安心はするな」


レオルは親父を見る。


「はい」


初対面のはずだが、即答だった。


トーマが小声でカイルに聞く。


「あの人、リオンの親父さん?」


カイルも小声で返す。


「たぶん、その呼び方は微妙に嫌がる」


「じゃあ何て呼べば?」


「今はリオンの親父でいいらしい」


「ほぼ同じじゃないか?」


「俺もそう思う」


親父は聞こえていた。


「聞こえている」


二人とも姿勢を正した。


「すみません」


親父はそれ以上何も言わなかった。


怒ってはいないらしい。


ニアが少しだけ笑い、すぐに表情を戻した。


その程度の軽さなら、今は悪くなかった。


報告書の確認が終わる頃、治癒棟の廊下から別の足音がした。


ゆっくりした足音。


扉の向こうで、セラフィナ先生の補助職員が声をかける。


「ネイルさんが、短時間だけなら会話可能とのことです」


部屋の空気が変わった。


ネイル・オルク。


東門の門衛。


門にされかけ、名札の裏に門印を打たれた人。


彼は別室で休んでいるはずだった。


セラフィナ先生は少し考えたあと、頷いた。


「短時間だけです。リオンさんは座ったまま。第一基礎班、第三基礎班ともに声を荒げないこと」


「はい」


全員が答えた。


少しして、ネイルが補助職員に付き添われて入ってきた。


歩けている。


だが、左手には厚い包帯が巻かれ、顔色はまだ悪い。


胸元の名札は、新しい防護紐で固定されていた。


ネイル・オルク。


その文字は、少しも揺れていない。


彼は部屋へ入るなり、深く頭を下げようとした。


セラフィナ先生が止める。


「深く頭を下げないでください。眩暈が出ます」


ネイルは途中で止まり、少し困ったようにした。


「すみません」


「謝る必要もありません」


「はい」


そのやり取りが、妙に人間らしかった。


ネイルは俺たちを見る。


「皆さんに、礼を言いたくて来ました」


声はまだ弱い。


でも、東門で聞いたような乾いた声ではない。


人の声だ。


「助けていただき、ありがとうございました」


カイルがすぐに言った。


「戻ってくれてよかったです」


ネイルは少しだけ笑った。


「戻れた、んですよね」


ユーディア先生が鐘に触れる。


「戻っています。あなたはネイル・オルクさんです」


ネイルは名札を手で押さえた。


「まだ、時々分からなくなります。扉を見ると、立たなきゃいけない気がして。誰かを通さなきゃいけない気がして」


その言葉に、部屋の空気が重くなる。


ネイルは続けた。


「でも、そのたびに名札を見ます。ネイル・オルクって書いてある。それで、少し戻ります」


セラフィナ先生が静かに言った。


「それでいいです。何度でも確認してください」


「はい」


ネイルは俺を見る。


「リオンさん」


「はい」


「東門で、俺の名前を呼んでくれましたよね」


「うん」


「聞こえてました。遠くでしたけど。門じゃない方から呼ばれてるって、分かりました」


胸の奥が少し痛む。


「よかった」


「はい」


ネイルは少し黙ったあと、言った。


「怖かったです」


誰も否定しない。


「自分の口が、自分の言葉じゃないものを言うのが。手が離れないのが。名前が遠くなるのが。死ぬより怖いって、ああいうことを言うのかなって」


カイルが拳を握った。


エルナは目を伏せる。


第三基礎班の四人も、言葉を失っていた。


ネイルは無理に笑おうとはしなかった。


「だから、記録に残してください」


エイムが顔を上げる。


「どのように」


ネイルは自分の名札を握った。


「東門は開いていない。俺は門ではない。ネイル・オルクは戻った。そう、残してください」


エイムは真剣に頷いた。


「記録します」


「お願いします」


ネイルはそれだけ言うと、少しふらついた。


補助職員がすぐに支える。


セラフィナ先生が厳しい声を出す。


「ここまでです。戻ります」


「はい」


ネイルはもう一度、軽く頭を下げた。


「皆さんも、戻ってください。ちゃんと」


その言葉を残して、彼は部屋を出ていった。


扉が閉まる。


しばらく、誰も話さなかった。


ネイル・オルクは戻った。


けれど、戻ったから終わりではない。


怖さは残る。

手の傷も残る。

門になりかけた感覚も、たぶんしばらく消えない。


戻るというのは、全部元通りになることではない。


傷を持ったまま、それでも自分の名前で立つことだ。


親父が低く言った。


「強いな」


誰のことかは、聞かなくても分かった。


ネイルのことだ。


カイルがゆっくり頷く。


「はい」


アーヴェルが報告書の余白へ視線を落とす。


「今の言葉も、記録に残すべきですね」


エイムはすでに書いていた。


「残しています」


「早いな」


「必要です」


セラフィナ先生が時計を見る。


「第三基礎班は、そろそろ戻る時間です」


レオルが頷いた。


「分かりました」


だが、彼はすぐには動かなかった。


俺を見る。


「リオン」


「うん」


「次の測定がいつになるかは分からない。でも、再開したら戦う」


その声は、昨日より少し硬かった。


「旧礼拝室のことがあっても、東門のことがあっても、それは変えたくない」


「うん」


「俺たちは、測定の相手だから」


第一基礎班でも、第三基礎班でも。


扉の部品ではなく。

儀式の駒でもなく。

勝者と敗者だけでもなく。


測定の相手。


それが、今はとても大事だった。


「次も戦おう」


俺が言うと、レオルは頷いた。


「次は勝つ」


カイルがすぐに笑う。


「こっちも負けないぞ」


「分かっている」


トーマが指を鳴らしかけて、治癒棟だと気づいて止めた。


「じゃあ、今度は中央に寄せられないで槍通すからな」


「通させない」


俺が答えると、トーマは少し嬉しそうにした。


ニアがエルナへ言う。


「足場術式の話、また聞いていい?」


「はい。治癒術式禁止が解けたら、改めて」


フィオはアーヴェルへ軽く頭を下げた。


「補助線の切り方、次までに少し研究してきます」


「なら、こちらも変える」


「ですよね」


第三基礎班は、それぞれ短く挨拶して部屋を出ていった。


その背中を見送っていると、治癒棟の空気が少しだけ変わった気がした。


重さは消えない。


だが、次の測定という言葉が、部屋に残った。


未来の話。


それは、まだ先に進める証拠だった。


午後は、報告整理と休養だけで終わるはずだった。


だが、夕方前にエイムが一通の封筒を持ってきた。


「リオン君宛てではありませんが、関連する可能性があるため共有します」


親父の表情が少し動いた。


「どこからだ」


「王都西外縁の検問所からです。辺境方面から来た旅人が、王立学院への臨時推薦状を持っているとのこと」


カイルが首を傾げる。


「臨時推薦状?」


アーヴェルが説明する。


「通常の入学手続きとは別に、地方領主や監理局支部が特例で学院へ送る書状だ。時期外れなら珍しい」


「今この状況で?」


「だから共有されたのでしょう」


エイムは封筒の写しを開いた。


「氏名は、ルカ・フェン。年齢は推定十四から十五。辺境西路の出身。推薦理由は、歪獣被害区域からの生還経験と、未分類魔力反応への耐性」


親父が眉をひそめた。


「辺境西路」


俺の胸が小さく鳴った。


夢の道。


乾いた土。

傾いた標識。

元気な声。


エイムは続ける。


「本人が検問所で、王立学院にいるかもしれない人物について尋ねたそうです」


「誰を?」


カイルが聞く。


エイムは記録紙を見た。


「白い鎌を持っている、名前を教えてくれなかった男の子」


部屋が静かになった。


俺は言葉が出なかった。


夢の中の声が、遠くから戻ってくる。


また会ったら聞くね。


絶対聞くから。


エルナが小さく言った。


「現実で、来たんですね」


アーヴェルは表情を引き締める。


「偶然にしては、時期が重い」


親父も低く言う。


「偶然とは限らん」


カイルは俺を見た。


「でも、夢の子かもしれないんだろ?」


「分からない」


俺は正直に答えた。


「でも、たぶん」


胸の奥に、少しだけ明るいものが灯った。


それと同じくらい、警戒もあった。


この時期に、辺境から学院へ来る少女。


俺のことを覚えているかもしれない子。


旧礼拝室が夢に混ぜた記憶と繋がる存在。


都合がよすぎる。


だから、危ない。


でも、だからこそ無視できない。


エイムは言った。


「オルディス局長の判断で、本人は王都西外縁で一時保護。学院へ入れるかどうかは確認後です」


親父が頷く。


「正しい」


「本人からの伝言もあります」


カイルが少し身を乗り出す。


「伝言?」


エイムは、少しだけ読みづらそうに紙を見た。


「原文のまま読みます」


部屋の空気が少しだけ変わる。


エイムは淡々と読み上げた。


「『白い鎌の子が本当にいるなら、今度こそ名前を聞くから! 逃げないで待ってて!』」


沈黙。


その後、カイルが小さく笑った。


「元気だな」


エルナも、ほんの少し笑う。


「はい。とても」


アーヴェルは額に指を当てた。


「この状況で、かなり強い文面だな」


親父は面倒そうに息を吐いた。


「覚えているのか」


「親父は知ってる?」


俺が聞くと、親父は少しだけ目を逸らした。


「逃げ足の速い子供だった」


「助けた子?」


「半分は自分で逃げたと言っただろ」


「じゃあ、合ってる?」


「たぶんだ」


たぶん。


親父がそう言うなら、かなり近い。


俺は胸元の名札に触れた。


だが、セラフィナ先生が静かに言った。


「会うかどうかは、医療判断と安全確認の後です」


「はい」


「期待しすぎないでください。夢と現実が繋がった直後は、精神的にも危険です」


「分かりました」


分かっている。


旧礼拝室は、人の記憶にも触れる。


この出会いを利用される可能性もある。


それでも、胸の奥の明るさは消えなかった。


重い事件の後に、突然差し込んだ、元気な声。


それは、少し場違いで。


だからこそ、必要な気がした。


カイルが笑いを抑えながら言う。


「名前、聞かれるな」


「うん」


「逃げるなって言われてるぞ」


「逃げない」


アーヴェルが冷静に言う。


「会う場合、名札確認と防護下で行うべきだ」


エルナも頷く。


「それでも、会えたら……ちゃんと名乗れるといいですね」


俺は頷いた。


「うん」


エイムは記録板を閉じた。


「以上です。本人の学院移送は未定。続報が入り次第、共有します」


封筒が閉じられる。


けれど、その言葉は部屋に残った。


白い鎌の子。


名前を教えてくれなかった男の子。


今度こそ名前を聞くから。


旧礼拝室の爪痕は、まだ扉に残っている。


王国封鎖案件は始まったばかりだ。


扉の奥の対象も、次の入口を探している。


それでも。


次に来るものが、暗いものだけとは限らない。


俺は胸元の名札を見た。


リオン。


今なら、答えられる。


そう思った。


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