86話_爪痕の朝
朝は、静かに来た。
夜の間、旧礼拝室の扉は開かなかった。
爪痕は増えていない。
外部接続も検出されていない。
東門、資料室、王城封鎖目録への線も、今のところ沈黙している。
エイムがそう報告した時、治癒棟の待機室にいた全員が、少しだけ息を吐いた。
ただ、誰も笑わなかった。
開かなかっただけだ。
消えたわけではない。
扉の内側には、まだ対象がいる。
黒灰色の空白も、戻れなかった名前も、あの爪痕の向こうに残っている。
それを知っているから、朝の光はやけに薄く見えた。
俺は休養椅子に座ったまま、右手の包帯を見ていた。
昨日より厚く巻かれている。
白鎌は遠い。
黒月は沈んでいる。
線も、意識して追わなければ見えない。
それでいい。
今は、見ない方がいい。
セラフィナ先生が診察用の灯りを調整しながら言った。
「熱は下がっています。右手の痕も広がっていません」
「よかった、でいいですか?」
俺が聞くと、セラフィナ先生は少しだけ目を細めた。
「よかった、で止めなければ構いません」
「分かりました」
「白鎌、黒月、線視は本日も禁止。これは変わりません」
「はい」
「寝不足、魔力疲労、名称疲労も残っています。今日は治癒棟で経過観察です」
親父が壁際で腕を組んだまま言う。
「歩かせる」
セラフィナ先生は即座に返した。
「医療担当同行なら、短時間のみ許可します」
「飯は?」
「食べさせます」
「ならいい」
グレン教官が椅子に腰かけたまま、低く言った。
「お前は保護者なのか、食事係なのか」
親父は答える。
「両方だ」
「否定しないのか」
「否定する理由がない」
カイルが隣の待機室から声を出した。
「それ、ちょっと格好いいですね!」
すぐにセラフィナ先生の声が飛ぶ。
「声量」
「はい」
カイルの返事は昨日より小さかった。
少し学んでいる。
朝の名称確認は、治癒棟の小待機室で行われた。
ユーディア先生が鐘を持ち、俺たち四人は椅子に座って順番を待つ。
全員、眠そうだった。
カイルは目の下にうっすら影がある。
エルナは姿勢こそ崩していないが、手元の水杯を何度も持ち直していた。
アーヴェルはいつも通りに見せているが、返事がほんの少し遅い。
全員、疲れている。
それでも、名札は胸元にある。
ユーディア先生が最初にカイルを呼んだ。
「カイル・レグナート」
「カイル・レグナート。戦闘科一年、第一基礎班」
鐘が鳴る。
「安定しています。ただし、筋疲労反応が強いですね」
カイルが少し眉を上げる。
「名前確認で筋疲労も分かるんですか?」
「歩き方で分かります」
「あ、そっちですか」
アーヴェルが短く言う。
「階段に負け続けた結果だな」
「負けてはいない」
「今日は治癒棟内の段差にも警戒しろ」
「そこまで弱ってないって」
セラフィナ先生が書類から顔を上げた。
「警戒してください」
「はい」
次はエルナ。
「エルナ・シルヴェリア」
「エルナ・シルヴェリア。戦闘科一年、第一基礎班」
鐘の音は澄んでいた。
ただ、名札の外側に、薄い白い残光が見えた。
灯ではない。
治癒術式の疲労。
ユーディア先生が頷く。
「本人名、安定。灯の残響なし。魔力疲労は継続しています」
エルナは静かに答えた。
「はい」
セラフィナ先生がすぐに続ける。
「本日、治癒術式は禁止です」
「はい」
「他人の顔色を見て、こっそり支えようとするのも禁止です」
エルナが少しだけ目を伏せる。
「……はい」
カイルが小声で言った。
「先に読まれた」
「読まれました」
エルナは素直に認めた。
次はアーヴェル。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
「アーヴェル・ロア・クラウゼン。戦闘科一年、第一基礎班」
鐘が鳴る。
少しだけ、家名の外側に黒灰色の擦れが残っていた。
昨日より薄い。
だが、消えてはいない。
ユーディア先生が言う。
「本人名は安定。家名外縁反応は薄化。ただし、完全消失ではありません」
アーヴェルは頷いた。
「承知しました」
グレン教官が言う。
「クラウゼン家への正式照会は、監理局と王城で進める。お前は動くな」
「承知しています」
「本当にか?」
「……昨日よりは」
カイルが小さく吹き出した。
アーヴェルは睨んだが、強くは言わなかった。
最後に俺。
「リオン」
「リオン。戦闘科一年、第一基礎班」
鐘が鳴る。
胸元の名札が静かに光る。
揺れはない。
ただ、名札の周囲に、薄い疲れの膜のようなものがある。
ユーディア先生はそれをしばらく見てから頷いた。
「本人名、安定。扉側からの呼称反応なし。昨夜の夢見干渉も、現時点では残っていません」
「爪痕は?」
俺が聞くと、ユーディア先生は少しだけ表情を引き締めた。
「扉面の爪痕は、あなたの名札へ直接繋がってはいません。ですが、扉側があなたの写しを失った場所を探っている可能性は高いです」
「また、呼ばれますか」
「可能性はあります」
誤魔化さない答えだった。
親父が言う。
「呼ばれても返事をするな」
「うん」
「見せられても決めるな」
「うん」
「夢で飯を出されても食うな」
カイルが目を丸くした。
「そこも危ないんですか?」
親父は真面目に答えた。
「夢で出された飯は信用するな」
「なるほど……?」
グレン教官が低く言った。
「真面目な話に見せかけて、だいぶ妙なことを言っているぞ」
親父は動じない。
「夢の中で何かを受け取るな、という意味だ」
セラフィナ先生が頷く。
「それは正しいです。食べ物、手紙、武器、名前、どれも受け取らないでください」
急に真面目な話へ戻った。
俺は頷く。
「分かりました」
名称確認が終わると、朝食が運ばれてきた。
粥、温かいスープ、柔らかく煮た野菜、薄い肉。
昨日と似た内容だった。
カイルは盆を見て、小さく呟く。
「治癒棟飯、優しいけど量が控えめだな」
アーヴェルが言う。
「今日はそれでいい」
「分かってる。でも、心が少し大鍋を求めてる」
「心より胃を守れ」
「それはそう」
エルナが少しだけ笑った。
俺も匙を取る。
右手は使わない。
左手でゆっくり食べる。
味は昨日より分かった。
温かい。
それだけで、少し身体が戻る。
親父は向かいで、何も言わずに食べていた。
食べ方は相変わらず早くも遅くもない。
無駄がない。
昔からそうだった。
ふと、夢の中の辺境の道を思い出す。
元気な声の子。
また会ったら名前を聞く、と言った子。
あの子も、どこかで朝飯を食べているのだろうか。
生きているなら。
そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。
親父がこちらを見る。
「考え込むな」
「少しだけ」
「少しで止めろ」
「うん」
カイルが匙を止めて聞いた。
「昨日の夢の子、もし本当にいたならさ、何者なんだろうな?」
アーヴェルがすぐに返す。
「今決めるなと言われただろう」
「決めてない。気になっただけ」
「気になることと、考察の境界も薄い」
「俺まで?」
エルナが静かに言った。
「でも、会えたらいいですね」
その言葉はやわらかかった。
けれど、無責任ではない。
「はい。夢ではなく、現実で」
俺は頷いた。
「うん」
親父は何も言わなかった。
知らないのか。
知っていて言わないのか。
まだ分からない。
朝食後、オルディス局長が治癒棟へ来た。
セイル監査官も一緒だった。
二人とも、夜通し対応していたはずなのに、表情は崩れていない。
局長は俺たちを見て最初に言った。
「食べたか」
親父が頷く。
「食わせた」
「ならいい」
カイルが小声で言う。
「局長も飯派だ」
グレン教官が返す。
「昔からだ」
局長は聞こえていたらしいが、流した。
「報告する。旧礼拝室扉は閉鎖状態。爪痕は残るが、現時点で進行なし。東門、資料室、王城封鎖目録、いずれも再接続なし」
アーヴェルが問う。
「クラウゼン家側は」
「正式照会を送った。返答待ちだ」
「承知しました」
「ただし」
局長の声が少し低くなる。
「旧災害対応記録の欠損箇所について、王城側の封鎖目録と照合した結果、ひとつ一致した単語がある」
部屋の空気が締まった。
セイル監査官が記録紙を開く。
「封鎖対象名そのものではありません。分類補助語です」
ミレイア先生がいないため、全員が少し身構える。
セイル監査官は静かに読み上げた。
「門喰い」
短い言葉だった。
だが、治癒棟の空気が一瞬冷えた。
門を食うもの。
東門。
旧礼拝室。
名札に刻まれた門印。
人を門にする灰衣。
それをさらに食う、扉の奥の対象。
合っている。
合いすぎている。
ユーディア先生がすぐに鐘へ触れた。
「今の語は、仮称として扱います。対象名ではありません」
セイル監査官が頷く。
「王城側でも同じ扱いです。封鎖分類上の補助語であり、真名ではありません」
親父の表情は険しかった。
「それを口にする回数を減らせ」
「承知しています」
局長が言う。
「今後、旧礼拝室内部未分類反応は、暫定E指定相当として本格管理へ移行する。学院内案件ではなく、王国封鎖案件だ」
カイルが小さく息を呑んだ。
昨日から分かっていたことだ。
それでも、言葉にされると重い。
王国封鎖案件。
もう、第一基礎班だけの話ではない。
学院だけの話でもない。
エルナが静かに聞く。
「私たちは、どうなりますか?」
局長は答えた。
「当面、保護観察と訓練制限。事情聴取は続く。ただし、隔離はしない」
カイルが少しだけ肩の力を抜いた。
「隔離は、ないんですね」
「現時点ではない」
現時点では。
その言葉は、逃げ道を残している。
けれど、嘘ではない。
局長は俺を見た。
「リオン。お前については、王城から追加条件が出る可能性がある」
「拘束ですか」
「今すぐではない」
「可能性はある」
「ある」
局長は目を逸らさない。
「だが、昨日の作戦記録で、お前が指揮下で白鎌を使用し、黒月を抑制したことも記録されている。これは大きい」
グレン教官が頷く。
「暴走ではなく、制御だ」
親父も言う。
「戻った」
その二つの言葉が、少しだけ支えになる。
制御した。
戻った。
危険ではある。
でも、ただ危険なだけではない。
局長は続けた。
「だから、次に必要なのは訓練だ。ただし、医療判断が優先される」
セラフィナ先生が即座に言った。
「今日と明日は休養です」
局長は頷く。
「異論はない」
グレン教官も頷いた。
親父だけが少し不満そうだったが、口には出さなかった。
セラフィナ先生が勝った。
セイル監査官が記録紙を閉じる。
「もう一点。旧礼拝室封鎖の功績について、表向きの発表は行いません」
アーヴェルが静かに言う。
「当然でしょう」
「月例測定中止の理由は、引き続き地下結界設備の不調と安全確認。第一基礎班、第三基礎班の安全対応評価加点は維持されます」
カイルが頷く。
「第三基礎班の加点、消えないんですね」
「消えません」
「よかった」
そこを気にするのが、カイルらしい。
セイル監査官はほんの少しだけ目を細めた。
「君たちにとって、それは重要ですか」
カイルは少し考えた。
「はい。昨日、あいつらもちゃんと戦ってたので」
アーヴェルが続ける。
「第三基礎班が名を保たなければ、一枚目の儀式化はもっと進んでいました。正式記録に残すべきです」
エルナも頷く。
「勝者や敗者ではなく、第三基礎班として」
俺も言う。
「レオルたちは、対戦相手です」
セイル監査官は記録紙に何かを書いた。
「了解しました。王城記録にも、その表現を残します」
その返事は少し意外だった。
冷たい人だと思っていた。
いや、冷たいところはある。
でも、記録すべきものは記録する人なのだろう。
局長たちは長くは留まらなかった。
旧礼拝室、王城、監理局本部。
まだ処理すべきことが山ほどある。
去り際、局長が親父に言った。
「ユアン。しばらく学院に残れ」
「言われなくても残る」
「ならいい」
「村の家は」
「監理局が見ている」
親父は少しだけ眉を寄せた。
「鍋は」
局長が一瞬黙った。
「そこまでは知らん」
親父は不満そうだった。
カイルが小声で言う。
「鍋、大事なんだ」
「大事だ」
親父は即答した。
俺は少しだけ笑った。
村の家。
炉の火。
鍋。
机の上の手紙。
刃のない柄。
親父がそこへ帰れない間、家は空く。
それも、今回の影響なのだと今さら思った。
誰かの生活が止まる。
学院だけではない。
王城だけでもない。
それが事件というものなのかもしれない。
昼前、短い散歩が許可された。
治癒棟の中庭だけ。
セラフィナ先生の補助役が同行し、親父も一緒だった。
カイルたちは隣の待機室から見送る形になった。
「俺も行けますけど」
カイルが言うと、セラフィナ先生が見た。
「階段に苦戦している方は待機です」
「中庭、階段あります?」
「あります」
「なら待機します」
アーヴェルが静かに言う。
「賢明だ」
エルナは少しだけ笑った。
「戻ってきたら、水を飲んでください」
「うん」
中庭は静かだった。
治癒棟の中にある、小さな場所。
薬草の鉢。
低い木。
白い石の小道。
中央には浅い水盤。
空は青く、昨日の地下通路が嘘のようだった。
でも、右手の包帯が嘘ではないと教えてくる。
俺はゆっくり歩いた。
親父は隣にいる。
しばらく、二人とも黙っていた。
聞きたいことは多い。
白い欠片。
黒い女。
辺境の道の子。
親父の昔。
帰せなかった人たち。
でも、全部を今聞くべきではない。
それくらいは分かる。
水盤の前で足を止めた。
水面に自分が映る。
疲れた顔をしている。
でも、ちゃんと俺だった。
親父が隣で言った。
「戻ってるな」
「うん」
「ならいい」
「親父」
「何だ」
「昨日、戻せなかった声があった」
「ああ」
「親父は、ずっと覚えてるの?」
親父は水盤を見た。
「覚えている」
「つらくない?」
「つらい」
即答だった。
隠さない。
「でも、忘れる方が悪い」
水面が少し揺れた。
「戻せなかったものを全部背負うな。だが、なかったことにもするな」
「難しい」
「難しいことばかりだ」
親父はそう言った。
少しだけ間が空く。
「でも、お前は戻った」
「うん」
「ネイルも戻った。ラウルも戻った。ミリアも、エルナも、第一基礎班も戻っている」
「うん」
「まずは、それを覚えろ」
戻れなかった声ではなく、戻れた名前も覚える。
それは、たぶん大事なことだった。
俺は頷いた。
「覚える」
親父はそれ以上言わなかった。
中庭の風が、薬草の葉を揺らす。
遠くで、学院の鐘が鳴った。
昼の鐘。
授業の区切りを告げる、普通の鐘。
旧礼拝室の警告鐘ではない。
普通の学院の音。
その音を聞いて、少しだけ胸が軽くなった。
戻る場所は、まだ残っている。
食堂。
寮室。
訓練場。
第三基礎班との再戦。
親父の家。
そして、いつか会うかもしれない、辺境の道の誰か。
爪痕は残っている。
でも、それだけではない。
親父が言った。
「戻るぞ」
「うん」
俺たちは治癒棟へ戻った。
歩きながら、俺は胸元の名札に触れる。
リオン。
その文字は、静かだった。
旧礼拝室の扉は閉じている。
爪痕は残る。
でも、今日は朝が来た。
それを、忘れないようにした。




