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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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85話_浅い眠り

眠りは、浅かった。


暗い水の底に沈むような眠りではない。


薄い布を一枚かけられ、その向こう側からずっと誰かに見られているような眠りだった。


治癒棟の休養椅子。


背は少し起こされている。

右手は包帯で固定され、胸元には名札がある。

すぐ近くに、ユーディア先生の鐘。

壁際に親父。

扉のそばにグレン教官。

セラフィナ先生の書く音。


その全部が、眠りの外側に残っていた。


だから、完全には沈まなかった。


それでも、夢は来た。


雨ではなかった。


旧礼拝室でもなかった。


俺は、見知らぬ道に立っていた。


夕方のような色の空。

乾いた土の道。

右手には白鎌がない。

胸元に名札もない。


風が吹いている。


道の先に、誰かがいた。


小さな背中。


年は、俺より少し下か、同じくらいか。


短く結んだ髪が風で跳ねている。

ぼろぼろの外套。

背負った荷物は大きすぎて、歩くたびに揺れていた。


その子は、道の真ん中で振り返った。


顔は、はっきり見えない。


でも、声は明るかった。


「ねえ、そっち行くの?」


知らない声。


いや。


知らないはずなのに、どこかで聞いた気がする。


俺は答えようとした。


けれど、声が出ない。


夢の中の俺は、今より少し小さかった。


学院へ来る前。

親父と暮らす村を出たことは、ほとんどないはずだ。


でも、これは村の近くではない。


辺境の道。


そう思った。


道の端には、傾いた標識がある。

文字は読めない。

けれど、王都から遠い場所だと分かる。


小さな背中の子は、俺の沈黙を気にしないように笑った。


「まあ、どっちでもいいけど! あたしは行くよ。怖いけど、行くしかないし!」


明るすぎる声。


なのに、その背中は震えていた。


足元には、黒い影が伸びている。


獣の影。


いや、影だけの歪獣。


道の横の枯れ木から、ずるりと何かが出てきた。


大きくはない。

けれど、近づいてはいけないものだと分かる。


小さな子はそれに気づいていない。


俺は手を伸ばそうとした。


白鎌はない。


でも、何かをした。


道が少しだけ歪んだ。


影の獣の足が、外れた。


小さな子の背中へ向かっていた影が、道の横へ逸れる。


その子は、ようやく振り返った。


「え?」


影の獣が、枯れ木にぶつかる。


次の瞬間、夢が大きく揺れた。


何かが、記憶の上から灰色の布をかぶせようとした。


見せるな。


聞かせるな。


忘れさせろ。


そんな意味が、夢の端に滲む。


俺は息が詰まりそうになった。


これは夢だ。


でも、全部が嘘ではない。


親父が言った。


本物に少しだけ嘘を混ぜるから、人は戻れなくなる。


俺はその子を見た。


顔はまだ見えない。


でも、声だけは残る。


「ありがと! えっと……名前、聞いてもいい?」


名前。


夢の中で、俺は答えなかった。


いや。


答えられなかったのかもしれない。


その子は少し困ったように笑った。


「じゃあ、また会ったら聞くね! 絶対聞くから!」


明るい声。


今にも泣きそうなのに、無理やり前を向く声。


その声が遠ざかる。


灰色の布が道を覆う。


小さな背中が消える。


代わりに、旧礼拝室の爪音が近づいた。


かり。


かり。


リオン。


まだ声ではない。


ただ、扉をなぞる音。


俺は返事をしない。


夢の中で、左手を胸元へ伸ばす。


名札はない。


でも、名前はある。


リオン。


そう思った瞬間、遠くから別の声が聞こえた。


「リオン、聞こえるか?」


カイルの声。


夢ではない。


外からの声だ。


「リオンさん」


エルナ。


「返事は短くていい」


アーヴェル。


親父の声が最後に来る。


「名前」


俺は目を開けた。


治癒棟の灯り。


休養椅子。


セラフィナ先生。

ユーディア先生。

親父。

グレン教官。


隣の待機室から、第一基礎班の声。


俺は息を吸った。


「リオン」


ユーディア先生の鐘が鳴る。


「安定しています。夢は見ましたか?」


「見ました」


セラフィナ先生がすぐに記録紙を取る。


「旧礼拝室ですか?」


「違います。たぶん、昔の道です」


親父の視線が動いた。


「雨じゃないのか」


「雨じゃない。乾いた道。辺境っぽい場所。小さい子がいた」


親父の目が、少しだけ細くなった。


「子?」


「女の子だと思う。元気な声で……でも、怖がってた。影みたいな歪獣が出て、俺が道をずらした」


カイルが隣の部屋から声を上げる。


「え、リオン、昔そんなことしてたのか?」


セラフィナ先生がすぐに言う。


「声量を落としてください」


「あ、すみません」


そのやり取りで、少しだけ空気が緩む。


俺は続けた。


「その子が、名前を聞いてきた。でも、俺は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。最後に、また会ったら聞くって言ってた」


ユーディア先生が鐘をそっと鳴らした。


「名称干渉ではありません。夢の後半に旧礼拝室の爪音が混ざりましたが、前半は記憶反応に近いです」


親父は黙っている。


俺はそちらを見た。


「親父、知ってる?」


「……少しな」


「俺、学園に来る前に辺境へ行ったことあるの?」


親父はすぐに答えなかった。


いつものように誤魔化す沈黙ではない。


どこまで言うか選んでいる沈黙。


やがて、短く言った。


「一度だけある」


カイルがまた隣から言う。


「あるんだ!?」


「カイルさん」


エルナが小さくたしなめる声が聞こえる。


「いや、ごめん。でも気になるだろ?」


アーヴェルの声。


「気になるが、今は聞き方を選べ」


「はい」


親父は気にせず続けた。


「村の西に、境界の薄い土地がある。俺が確認に行った。お前も連れていった」


「なんで?」


「置いていく方が危なかった」


それはそれで、かなり危ない話に聞こえた。


グレン教官が親父を見る。


「その報告、俺は知らんぞ」


「言ってない」


「だろうな」


「問題は処理した」


「その言い方が信用ならん」


親父は無視した。


「そこで、子供を一人拾いかけた」


「拾いかけた?」


俺が聞くと、親父は少しだけ息を吐いた。


「逃げ足が速かった。助ける前に半分自分で逃げた。お前が影を逸らしたのは事実だ」


胸の奥が、不思議に温かくなる。


俺は、その子を救ったのか。


ちゃんと覚えていない。


でも、誰かの道を少しだけずらして、助けた。


それは白鎌でも黒月でもない。


たぶん、今よりずっと小さな歪み。


親父が言う。


「その記憶は、危険なものじゃない。旧礼拝室が混ぜてきたのは後半だけだ」


「じゃあ、あの子は」


「生きてるかは知らん」


親父はそう言った。


少し冷たい言い方だった。


でも、嘘ではない。


「ただ、あの時は生きていた」


それだけで、今は十分かもしれない。


隣の部屋で、カイルが小さく言う。


「また会ったら名前聞くって、なんかいいな」


エルナも静かに言った。


「はい。少し、明るい夢ですね」


アーヴェルが続ける。


「後半に干渉が混じった以上、油断はできないが、記憶そのものは悪いものではなさそうだ」


セラフィナ先生が記録を取りながら頷く。


「夢を見ても、すぐ戻れています。これは良い傾向です」


「寝直してもいいですか?」


俺が聞くと、親父が即答した。


「少し起きてろ」


「やっぱり?」


「夢の後は水を飲め」


「分かった」


セラフィナ先生が水を差し出す。


俺は左手で杯を持ち、水を飲んだ。


喉が乾いていた。


自分で思っていたよりも。


ユーディア先生が優しく聞く。


「夢の中で、その子に名前を呼ばれましたか?」


「呼ばれてません。聞かれただけです」


「それなら大丈夫です。呼びかけではなく、記憶内の会話です」


カイルが隣から言う。


「じゃあ、その子、次出てきたら名前聞けるのかな?」


親父が言った。


「夢の中で聞くな」


「ですよね」


「現実で会ったら聞け」


その言葉で、なぜか部屋が少し静かになった。


現実で会ったら。


会うことがあるのだろうか。


分からない。


でも、そう言われると、少しだけ未来に余白ができる。


旧礼拝室の扉。

黒灰色の対象。

戻れなかった声。

爪痕。


それだけではない未来。


誰かが、また会ったら名前を聞くと言っている未来。


俺は杯を置いた。


「会えるかな」


親父は肩をすくめる。


「知らん」


「親父でも?」


「俺は道を戻すだけだ。出会いは知らん」


カイルが隣で笑った。


「そこは運なんだ」


「運も道の一部だろ」


アーヴェルが言う。


「急にそれらしいことを言うな」


「いや、今のはなんとなく」


また少し笑いが起きた。


治癒棟の夜にしては、悪くない音だった。


セラフィナ先生は時計を見た。


「では、もう少し起きてから再度短眠します。その前に、全員の名前確認をします」


カイルが隣の部屋から返事をする。


「はい!」


その声が少し大きくて、セラフィナ先生にすぐ注意された。


「声量」


「はい……」


でも、ビックリマークが似合う声だった。


俺はふと思った。


さっきの夢の子も、あんな風に声を張っていた。


怖いのに、明るく。


泣きそうなのに、前へ行く。


この物語には、ああいう声も必要なのかもしれない。


ずっと静かな痛みだけでは、たぶん息が詰まる。


ユーディア先生が鐘を鳴らす。


「カイル・レグナート」


隣から元気な声。


「カイル・レグナート! 戦闘科一年、第一基礎班!」


「声量」


「すみません!」


「安定しています」


次に、エルナ。


「エルナ・シルヴェリア」


「エルナ・シルヴェリア。戦闘科一年、第一基礎班」


静かな声。


でも、揺れていない。


「安定しています」


次に、アーヴェル。


「アーヴェル・ロア・クラウゼン」


「アーヴェル・ロア・クラウゼン。戦闘科一年、第一基礎班」


少し疲れているが、芯はある。


「安定しています。家名外縁反応は薄く残っていますが、進行はありません」


最後に俺。


「リオン」


「リオン。戦闘科一年、第一基礎班」


鐘が鳴る。


「安定しています」


その言葉で、少しだけ肩が落ちた。


安定している。


まだ。


親父が椅子から立ち上がり、窓の外を見た。


夜の学院。


遠くに、旧礼拝室のある方角がある。


見えるはずはない。


けれど、親父はそこを見ているようだった。


グレン教官が言う。


「扉の爪痕は監視中だ。今は動いていない」


「動いていないだけだ」


「分かっている」


「次は入口を選ぶ」


「それも分かっている」


親父は少しだけ黙った。


「なら、こいつらを鍛えろ」


グレン教官が片眉を上げる。


「休めと言った直後にそれか」


「明日からだ」


セラフィナ先生が即座に言った。


「明日は休養です」


親父とグレン教官が同時に黙る。


カイルが隣で笑いを堪えている気配がした。


セラフィナ先生は続ける。


「明日は休養、軽い名称確認、食事、短時間の報告整理のみ。訓練は禁止です」


親父が少し不満そうに言う。


「歩くくらいは」


「散歩程度なら、医療担当同行で許可します」


「面倒だな」


「面倒にならないようにするための医療です」


グレン教官が小さく息を吐いた。


「勝てんな」


「勝つ必要はありません。従ってください」


本当に強い。


俺はまた少し笑った。


その笑いを見て、親父がこちらを見た。


「何だ」


「いや。親父が怒られてるの、珍しい」


「俺は怒られていない」


「怒られてるよ」


カイルが隣から言う。


「完全に怒られてます!」


「声量」


「すみません!」


親父は面倒そうに息を吐いた。


でも、少しだけ空気が軽くなった。


その後、俺はもう一度短く眠った。


今度の夢には、旧礼拝室は出なかった。


乾いた道も、元気な声の子も出なかった。


ただ、どこか遠くで扉をなぞる音が一度だけした。


かり。


それだけ。


俺は返事をしなかった。


朝までは、まだ遠い。


けれど、夜の底ではなかった。


目を覚ませば、誰かが名前を呼んでくれる。


そう分かっている眠りだった。


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