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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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84話_閉じた後の息

治癒棟へ向かう道は、妙に明るかった。


地下通路から戻ってきたせいだろう。


壁の灯りも、窓から入る夕方の光も、普通より強く見える。


でも、眩しいわけではない。


ただ、ここがまだ人のいる場所なのだと、何度も確かめさせられているようだった。


カイルが俺の右側を支えている。


「足、動いてるか」


「動いてる」


「目、開いてるか」


「開いてる」


「名前は」


「リオン」


「よし」


何度目か分からない確認。


でも、嫌ではなかった。


むしろ、そのたびに少し戻る。


エルナは左側を歩いていた。


治癒術式は使っていない。

ただ、こちらの呼吸と歩幅を見ている。


「気分は悪くありませんか」


「少しだけ」


「吐き気は」


「ない」


「視界は」


「揺れてる。でも、見える」


「黒灰色のものは」


「今はない」


エルナは頷いた。


「では、そのまま歩きましょう。止まると、眠気が来るかもしれません」


眠気。


それが怖い。


親父は、今寝ると夢に引かれると言った。


だから、寝ない。


治癒棟へ着くまで。

セラフィナ先生に診てもらうまで。

名前の確認が終わるまで。


寝ない。


アーヴェルは少し前を歩いている。


周囲に目を配りながら、時々こちらを見る。


「リオン。今見えているものを三つ言え」


「廊下」


「次」


「カイルの袖」


「次」


「アーヴェルの背中」


「よし」


カイルが小さく言った。


「俺の袖、さっき一枚駄目にしたばっかなんだけどな」


「今着ている方は無事だ」


アーヴェルが返す。


「そりゃそうだけど」


「なら問題ない」


「あるだろ、気持ち的に」


その会話で、少しだけ笑いそうになった。


笑える。


それは大事な確認だった。


後ろでは、親父とグレン教官が歩いている。


親父はいつものように無駄な言葉が少ない。

だが、さっきから何度か俺の背中を見ているのは分かった。


グレン教官は監理局職員に指示を飛ばしている。


旧礼拝室封鎖後の残滓処理。

負傷者の搬送。

封鎖札の交換。

王城への速報。

東門、資料室、封鎖目録の再確認。


終わったのに、終わっていない。


そういう指示ばかりだった。


治癒棟の入口に着くと、セラフィナ先生が待っていた。


表情は穏やかではない。


白衣の袖には、まだネイルの治療でついた灰が少し残っている。

それを落とす時間もなかったのだろう。


「リオンさん」


「はい」


「そのまま診察室へ。歩けますか」


「歩けます」


「支えは必要ですね」


「はい」


「正直でよろしい」


その一言で、少しだけ力が抜けた。


診察室へ入ると、すぐに椅子へ座らされた。


寝台ではない。


眠らせないためだ。


セラフィナ先生はそれを分かっている。


「横にはしません。しばらく座位で確認します」


親父が短く頷いた。


「その方がいい」


「あなたも診ます」


親父は黙った。


セラフィナ先生は眼鏡の奥から親父を見た。


「あなたも、診ます」


「後でいい」


「今です」


「リオンが先だ」


「リオンさんを診ながら、あなたも逃がしません」


カイルが小声で言った。


「強い」


グレン教官が低く返す。


「治癒棟では逆らうな」


「経験者の声だ」


「黙れ」


セラフィナ先生は俺の右手の包帯を外し始めた。


布はところどころ裂けている。

黒灰色の焦げ痕もある。


外された包帯の下、皮膚には細い痕が残っていた。


昨日より濃い。


黒灰色というより、薄い煤を肌の内側へ流し込まれたような色。


カイルが顔をしかめた。


「それ、大丈夫なのか」


セラフィナ先生はすぐには答えない。


指先で触れず、治癒灯をかざす。


淡い光が手首に落ちた。


痕は消えない。


だが、広がりもしなかった。


「深くはありません」


その言葉で、少しだけ全員の空気が緩む。


「ですが、浅くもありません」


すぐに戻った。


セラフィナ先生は俺を見る。


「痛みは」


「熱い感じです。あと、少し重い」


「白鎌の残響は」


「遠いです。今は呼びたくない」


「黒月は」


「出しかけたけど、止めました。今は沈んでます」


セラフィナ先生は頷き、記録紙に書き込む。


「自己抑制できたのは良い点です。ただし、出しかけた時点で負荷はあります」


グレン教官が言う。


「黒月は発動していない」


「発動していなくても、反応はしています」


セラフィナ先生の声は冷静だった。


「火をつけなかったとしても、火種を手の中で握ったのと同じです」


親父が少しだけ眉を動かす。


「分かりやすいな」


「あなたにはあとで別の説明をします」


「要らん」


「必要です」


親父は口を閉じた。


珍しいものを見た気がした。


セラフィナ先生は新しい包帯を巻きながら言う。


「本日、白鎌の再使用は禁止。黒月は当然禁止。線を見る行為も、必要最低限にしてください」


「はい」


「夢を見た場合、起床直後に報告。寝る時は単独不可。最低一名、名称確認ができる大人が近くにいる状態にします」


カイルがすぐに言う。


「俺らは」


「あなたたちも休む側です」


「でも」


「休む側です」


カイルは黙った。


エルナが静かに聞く。


「リオンさんが眠る時、私たちは近くにいない方がいいですか」


セラフィナ先生は少し考えた。


「全員が同室で待機する必要はありません。ただ、最初の睡眠導入時は、第一基礎班の声が届く範囲にいた方が安定するかもしれません」


アーヴェルが頷く。


「談話室か、治癒棟の待機室でしょうか」


「治癒棟の待機室を使います。医療上の監視もできます」


カイルが少し安心したように息を吐いた。


「なら、近くにはいられるんですね」


「あなたたちも検査します」


「はい」


即答だった。


さすがに、誰も逃げようとはしなかった。


セラフィナ先生は俺の包帯を巻き終え、次に名札を見る。


「ユーディア先生」


「はい」


ユーディア先生が鐘を持って近づく。


「リオンさん。名前を」


「リオン」


鐘が鳴る。


「所属は」


「戦闘科一年。第一基礎班」


「今、見えているものは」


「セラフィナ先生。ユーディア先生の鐘。親父の柄」


親父が少しだけ目を細めた。


ユーディア先生は頷く。


「安定しています。ただ、名前の周囲に薄い疲労反応があります。呼ばれすぎた影響ですね」


「呼ばれすぎると疲れるのか」


カイルが言う。


「ええ。名前は強いですが、何度も引っ張られれば疲れます」


「名前も筋肉痛みたいになるんだな」


アーヴェルが横から言った。


「例えは雑だが、今回は少し分かる」


カイルは少し得意そうにした。


だが、すぐにセラフィナ先生に呼ばれた。


「カイルさん。次はあなたです」


「俺?」


「武器なしで前線補助。結界柱の蹴り出し。礼拝布化しかけた上着との接触寸前。筋負荷。名称負荷。十分に検査対象です」


「全部見られてる」


「報告が来ています」


「エイムさんか」


エイムは治癒棟の隅で記録板を持ったまま真面目に答えた。


「必要でしたので」


「だと思いました」


カイルは椅子に座らされ、腕や脚の確認を受けた。


筋肉痛だけでなく、魔力強化の偏りもあるらしい。

右脚に負担がかかっていると指摘され、明日も大剣禁止が延長された。


「延長……」


「不満ですか」


セラフィナ先生が聞く。


「ありますけど、従います」


「よろしい」


次はエルナ。


彼女は未来視を一度使っている。


治癒術式も、ネイルの治療時に使用した。


セラフィナ先生の視線が少し厳しくなる。


「エルナさん。未来視の後、頭痛は」


「少しあります」


「視界の欠けは」


「ありません」


「治癒術式の出力は抑えましたか」


「はい。セラフィナ先生の指示範囲で」


「良い判断でした」


エルナは少しだけ安心したように息を吐く。


だが、すぐに追加で言われる。


「本日はこれ以上の治癒術式禁止。明日午前も禁止です。未来視は少なくとも明日夕刻まで禁止」


「はい」


「自分が倒れるまで支えることは、支援ではありません」


「はい」


その言葉は、前にも言われていた。


でも、エルナは今度こそ深く頷いた。


次にアーヴェル。


足首の負荷は昨日より軽いが、第二防衛線での細かな踏み替えが響いていた。


「追加訓練は禁止継続です」


「承知しています」


「頭の中での型確認も、今日は控えてください」


アーヴェルが一瞬黙る。


カイルが小さく言う。


「先に言われた」


「黙れ」


セラフィナ先生は容赦なく続けた。


「あなたは考察と訓練の境界が薄いです」


「……承知しました」


最後に、親父。


親父は明らかに嫌そうだった。


だが、逃げられなかった。


セラフィナ先生は親父の手首を見た。


黒い筋は消えていたはずなのに、皮膚の下に薄く残っている。


「深いですね」


「問題ない」


「問題があります」


「昔からある」


「では、昔から問題があります」


カイルが小声で呟いた。


「強い」


グレン教官が少しだけ口元を動かした気がした。


親父は黙って手を出したまま、セラフィナ先生の検査を受ける。


治癒灯が手首を照らすと、黒い筋が一瞬だけ浮かび上がった。


それは血管ではなかった。


道に見えた。


細い、戻る道。


その道のところどころに、黒灰色の噛み跡がある。


セラフィナ先生の表情がさらに険しくなる。


「戻す力そのものが傷んでいます」


「使えば傷む」


「そういう問題ではありません」


「昔よりはましだ」


「比較対象が悪すぎます」


親父は少しだけ視線を逸らした。


「処置できるのか」


「完全には無理です。ですが、悪化を止めます」


「なら頼む」


素直に言った。


少し驚いた。


セラフィナ先生も少しだけ目を細めたが、何も言わず処置を始めた。


治癒術式ではなく、安定術式に近いものだった。


親父の手首に、薄い銀色の糸が巻かれる。

黒い噛み跡が少し薄くなる。


完全には消えない。


それはきっと、ずっと前から残っている傷なのだろう。


俺は見すぎないようにした。


今日は、もう見ない方がいい。


検査が一通り終わる頃には、外は夜に近づいていた。


治癒棟の窓の外が青く沈み、灯りが一つずつ点いている。


セラフィナ先生は全員を見て言った。


「全員、命に関わる損傷はありません。ただし、全員が休養対象です」


カイルが小さく呟く。


「全員」


「全員です」


「教官も?」


セラフィナ先生はグレン教官を見た。


グレン教官は無言だった。


「グレン教官もです」


「……分かった」


カイルが少しだけ満足そうにした。


グレン教官に睨まれ、すぐに真顔に戻る。


その時、治癒棟の廊下から足音がした。


軽い足音。


少し迷うような、けれど止まらない足音。


扉が控えめに叩かれる。


セラフィナ先生が返事をすると、扉が開いた。


入ってきたのは、ミリアだった。


治癒科の制服。

胸元の名札。

ミリア・セイン。


顔色は少し悪い。


けれど、立っている。


「失礼します」


セラフィナ先生の声が少しだけ柔らかくなる。


「ミリアさん。今は休んでいる時間では」


「はい。すみません。でも、ネイルさんの名前確認を手伝っていて……その後、リオンさんたちが戻ったと聞いて」


ミリアは俺たちを見た。


特に、エルナを見た。


「ご無事で、よかったです」


エルナが静かに頷く。


「ミリアさんも、無事でよかった」


「はい」


ミリアは少しだけ両手を握った。


「ネイルさん、ずっと名前を言っています。怖いと思います。でも、戻っています」


その言葉は、誰に向けられたものなのか分からなかった。


ネイルへ。

自分へ。

俺たちへ。


あるいは、旧礼拝室に触れられた全員へ。


「私も、戻っています」


ミリアはそう言った。


「灯ではなく、ミリア・セインです」


ユーディア先生の鐘が、小さく鳴った。


自然に。


ミリアの名札が静かに光る。


エルナがミリアの手を取った。


「はい。ミリア・セインさんです」


ミリアは少し笑った。


今にも泣きそうな笑いだった。


「怖いですね」


誰も否定しなかった。


ミリアは続ける。


「前は、怖いけど、どこか夢みたいでした。白い袖の人も、灰色の布も、私には遠いものみたいで。でも、ネイルさんの手を見て……あれは、本当に人を壊すんだって」


声が震える。


「怖いです」


セラフィナ先生が近づきかけたが、ミリアは首を振った。


「でも、怖いって言えているなら、戻っているんだと思います」


親父が静かに言った。


「そうだな」


ミリアは親父を見た。


初対面のはずだ。


それでも、彼がリオンの親父だと分かったのかもしれない。


「リオンさんの、お父さんですか」


親父は少しだけ黙った。


「ああ」


その返事は、短い。


けれど、はっきりしていた。


「そうですか」


ミリアは少しだけ頭を下げた。


「リオンさんを、呼んでくれてありがとうございます」


親父は眉をひそめた。


「礼を言われることじゃない」


「でも、呼ばれていなかったら、リオンさんも私たちも、戻れなかったかもしれません」


親父は何も言わなかった。


ただ、少しだけ目を伏せた。


ミリアは長くはいなかった。


セラフィナ先生に戻るよう言われ、素直に頷く。


出ていく前に、こちらを振り返った。


「明日、もし食堂に行けるなら……普通に、食べに来てください」


カイルが少し目を丸くする。


ミリアは続ける。


「ネイルさんも、落ち着いたら、普通の食事に戻りたいって言っていました。だから」


普通の食事。


普通の食堂。


それが、今は戦いの後に戻る場所になっている。


俺は頷いた。


「行けたら、行く」


「はい」


ミリアは少し笑って、部屋を出ていった。


扉が閉まる。


治癒棟の中に、静けさが戻る。


カイルがぽつりと言った。


「普通の飯、強いな」


親父が答える。


「強い」


「親父さんが言うと説得力ありますね」


「親父さんはやめろ」


「じゃあ、リオンの親父さん」


「長い」


「難しいな」


アーヴェルが呆れたように言う。


「今決めることか」


「大事だろ。呼び方って」


それには、誰も否定しなかった。


呼び方は大事だ。


名前は大事だ。


役割ではなく、名前で呼ぶこと。


それが、今回ずっと俺たちを戻していた。


セラフィナ先生が手を打つように言った。


「では、夕食です」


カイルが顔を上げる。


「出るんですか」


「出します。消化の良いものを」


親父が頷く。


「いい」


グレン教官が親父を見る。


「お前が決めるな」


「食わせろ」


「セラフィナ主任が言っている」


「ならいい」


「だからお前が決めるな」


少しだけ空気が緩んだ。


でも、その緩みの下に、疲労と恐怖は残っている。


消えない。


消してはいけない。


ネイルの手。

ラウルの名札。

戻れなかった紙片。

黒灰色の腕。

旧礼拝室の奥の空白。


全部、あったことだ。


夕食は、小さな待機室で取ることになった。


粥と柔らかい野菜、薄い肉の煮込み。


カイルには少し物足りなさそうだったが、文句は言わなかった。


俺は左手で匙を持つ。


右手は使わない。


粥を口に運ぶ。


温かい。


味は薄い。


でも、ちゃんと味がする。


親父が向かいに座っている。


グレン教官も。

カイル、エルナ、アーヴェルも同じ部屋にいる。


食べている。


そのことが、思ったより胸に来た。


旧礼拝室の中で、帰りたいと叫んでいた声を思い出す。


戻れなかったもの。


食卓に戻れなかったもの。


名前を呼ばれる場所へ帰れなかったもの。


俺は匙を止めかけた。


親父がすぐに言う。


「食え」


俺は顔を上げる。


「でも」


「戻れなかった奴のために食わないのは違う」


言葉が刺さる。


「戻ったなら、食え」


しばらく黙った。


それから、頷いた。


粥を食べる。


温かい。


その温かさが、少しだけ痛かった。


カイルも静かに食べている。


エルナも。

アーヴェルも。


誰も、無理に明るくしない。


それでよかった。


食事の途中、エイムが待機室へ入ってきた。


記録板を持っている。


いつも通りだが、少しだけ顔色が悪い。


「食事中に失礼します」


セラフィナ先生がすぐに見る。


「急ぎですか」


「はい」


空気が変わる。


エイムは記録板を開いた。


「旧礼拝室の扉は閉鎖状態を維持しています。外部接続も現時点では検出されていません。ただし、扉面に新たな痕跡が確認されました」


グレン教官が問う。


「文字か」


「いいえ」


エイムは少しだけ言葉を選んだ。


「爪痕です。五本。外へ向けてではなく、内側から扉をなぞるように」


親父の表情が険しくなる。


「探っているな」


「はい」


「場所は」


「扉中央。先ほどリオン君の名前が浮かんでいた位置です」


俺の胸元が、少し冷えた。


名札は熱くならない。


でも、そこに触れられた気がした。


カイルが低く言う。


「まだ、リオンを探してるってことか」


エイムは頷いた。


「可能性があります。ただし、名前の接続はありません。あくまで痕跡です」


アーヴェルが言う。


「扉は閉じたが、対象はリオンの写しを失った場所を探っている」


「その解釈が近いと思われます」


エルナが静かに俺を見る。


「今、何か感じますか」


「名札は大丈夫。でも……嫌な感じはする」


親父が言う。


「それでいい」


「いいの?」


「何も感じない方が危ない。嫌だと分かるなら、まだこっちにいる」


そういうものなのか。


たぶん、そうなのだろう。


セラフィナ先生が厳しく言う。


「食事は続けてください。報告は必要ですが、食事中断の理由にはしません」


エイムが真面目に頷いた。


「私も同意します」


カイルが少しだけ笑いそうになった。


「記録の人まで飯派になった」


エイムは眼鏡の位置を直す。


「重要事項です」


「知ってます」


俺は匙を持ち直した。


旧礼拝室の扉に、爪痕が残っている。


内側から、俺の名前があった場所をなぞっている。


それは怖い。


怖いが、今は食べる。


戻ったなら、食え。


親父の言葉が、胸の中に残る。


俺は粥を食べた。


最後まで。


食べ終わる頃には、夜が深くなっていた。


眠気はまだ来ない。


いや、来ているのかもしれない。


でも、怖くて眠れない。


セラフィナ先生がそれを見抜いたように言った。


「この後、短時間だけ眠ります。私、ユーディア先生、親父さん、グレン教官が近くにいます。第一基礎班の皆さんは隣の待機室です」


親父が眉をひそめる。


「親父さん」


「他に呼び方が決まっていませんので」


カイルが小さく笑った。


親父は諦めたように息を吐いた。


「好きにしろ」


「では、そうします」


強い。


本当に強い。


俺は少しだけ笑った。


その笑いが残っているうちに、寝台ではなく、背を起こせる休養椅子へ座らされた。


完全に横にはならない。


名前を呼ばれたら、すぐ戻れるように。


ユーディア先生の鐘がそばにある。

親父は壁際に座り、刃のない柄を膝に置いている。

グレン教官は扉近く。

セラフィナ先生は記録と薬を確認している。


隣の部屋から、カイルの声が聞こえた。


「リオン、聞こえるか」


「聞こえる」


「寝ても戻れよ」


「うん」


エルナの声も。


「悪い夢を見たら、持ち帰ってください。一人で決めないで」


「うん」


アーヴェル。


「見たものを、事実にするな。報告してから判断する」


「分かった」


親父が短く言う。


「名前」


俺は目を閉じる前に答えた。


「リオン」


「飯は」


「食べた」


「怪我は」


「隠してない」


「なら寝ろ」


その声で、ようやく少し眠気を受け入れられた。


怖い。


でも、戻れる場所はある。


俺は目を閉じる。


暗闇の奥で、遠くから爪が扉をなぞる音がした気がした。


かり。


かり。


リオン。


声にはならない。


名前にもならない。


ただ、探っている。


俺は返事をしない。


代わりに、胸の内で自分の名前だけを確かめた。


リオン。


ここにいる。


そして、浅い眠りへ落ちた。


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