83話_裂け目の向こう
世界が一瞬だけ裂けた。
音はなかった。
けれど、全員がそれを感じた。
地下通路の石床も、封鎖扉も、結界灯も、そこに立つ人間も、すべてが薄い膜のように引き伸ばされる。
ほんの瞬きほどの時間。
俺は、旧礼拝室の内側を見た。
壊れた椅子。
灰色の布。
床に刻まれた古い祈りの跡。
壁に残る、剥がれかけた片翼の絵。
そして、中央に立つ黒灰色の影。
人ではない。
獣でもない。
形を持とうとして、まだ持てないもの。
その身体には、無数の名前が貼りついていた。
戻れなかった者。
使われた者。
門にされた者。
記録から削られた者。
祈りに混ぜられた者。
名前の欠片が、皮膚のように重なっている。
その中に、顔はなかった。
ただ、口だけがいくつもあった。
人の口。
扉の隙間。
破れた布の裂け目。
本の欠けた行間。
それら全部が、同時に開いていた。
「帰りたい」
「開けて」
「寒い」
「痛い」
「名前を返して」
声が押し寄せる。
耳ではなく、胸の奥に。
俺は白鎌を握ったまま、足を踏みしめた。
継ぎ目に届いた刃は、まだ止まっている。
切ったのか。
切れていないのか。
分からない。
だが、白い刃が触れた場所から、旧礼拝室の内側と外側の境界が細く光っていた。
古い骨のような白。
夢の中で見た欠片の色。
親父の声が聞こえた。
「止まるな」
俺は息を吸った。
白鎌を押し込むのではない。
引き裂くのでもない。
境界がどこにあるかを思い出させるように、刃を通す。
ここから内側。
ここから外側。
混ぜるな。
白鎌が少し進む。
その瞬間、黒灰色の影がこちらを向いた。
目はない。
なのに、見られた。
視線ではなく、位置を探られる感覚。
名札ではない。
身体でもない。
もっと奥。
俺が俺でいる場所。
そこへ、細い黒灰色の線が伸びる。
「リオン」
俺自身の声。
次に、親父の声。
「リオン」
次に、カイルの声。
「リオン」
エルナの声。
アーヴェルの声。
グレン教官の声。
全部、偽物だった。
分かる。
少しずつ違う。
呼び方の温度がない。
息継ぎがない。
こちらを戻そうとしていない。
ただ、名前を使って引こうとしている。
俺は返事をしない。
白鎌を動かす。
刃が継ぎ目をなぞる。
黒灰色の影が、腕のようなものをこちらへ伸ばした。
通路側に出ていた腕ではない。
旧礼拝室の内側から、直接、裂け目へ差し込まれる腕。
その表面に、無数の文字が浮かぶ。
器。
門。
鍵。
灯。
刃。
帰路。
白鎌。
歪み。
その中に、俺の名前が浮かびかける。
リ――
「書かせるな!」
グレン教官の声。
本物だ。
剣が走った。
裂け目の外側から、黒灰色の腕に絡みついた余計な形だけを斬る。
文字の一部が裂け、黒い液体のように落ちた。
落ちた液体が床で声を上げる。
「リ」
「リ」
「リ」
名前の一音だけを繰り返す。
それだけでも、名札が熱くなる。
ユーディア先生の鐘が鳴った。
「リオン。本人名、保持」
鐘の音が、俺の胸元まで届く。
カイルの声が重なる。
「リオン、こっちだ!」
エルナ。
「リオンさん、戻る場所はここです!」
アーヴェル。
「扉の声を聞くな。継ぎ目だけを見ろ!」
本物の声。
俺は白鎌を握り直した。
「見えてる」
言葉を返す相手は、扉ではない。
仲間へ返す。
「継ぎ目、まだ続いてる」
親父が柄を構えた。
「俺が戻す。お前は断て」
「うん」
「深く入るな」
「うん」
「奥を見るな」
「難しい」
「難しくてもやれ」
親父の声は容赦がない。
でも、こちら側にある。
その声で足が残る。
親父の刃のない柄から、見えない道が伸びた。
旧礼拝室から外へ溢れた線が、その道へ引かれていく。
東門へ伸びていた残り。
王城封鎖目録へ向かっていた擦過痕。
資料室の記録棚に残った黒灰線。
第一基礎班へ貼りつこうとしていた役割名の残り。
それらが、少しずつ扉へ戻される。
戻るたび、黒灰色の影の身体が膨らんだ。
外へ伸ばしたものが戻るのだから、内側の影は濃くなる。
親父の手首に黒い筋が浮く。
「親父」
「見るな」
「でも」
「俺はまだ戻れる」
まだ。
その言葉が怖かった。
戻れないこともある。
親父はそれを知っている。
でも、今は止まれない。
俺は白鎌を進める。
継ぎ目が、少しずつ開くのではなく、閉じる形に変わっていく。
断つというより、余計に繋がった部分を削いでいる。
内側は内側へ。
外側は外側へ。
その区別を、白鎌が思い出させる。
だが、黒灰色の影は抵抗した。
裂け目の奥で、影の身体に貼りついていた名前の欠片が一斉に剥がれる。
紙片のように。
羽虫のように。
それらが通路へ吹き出した。
「帰りたい」
「助けて」
「開けて」
「名前を」
「痛い」
「寒い」
声が多すぎる。
名前の欠片は、触れたものへ意味を押しつけようとする。
結界灯のひとつに貼りついた紙片が、灯りを人の目のように変える。
床へ落ちた紙片が、石目を指の形に変える。
封鎖札に触れた紙片が、札の文字を祈りへ書き換えようとする。
監理局職員たちが一斉に後退する。
ラウルという職員が、名札を握って叫んだ。
「ラウル・メイズ! 封鎖班! 俺は封鎖線ですらありません!」
その声で、彼の名札に触れかけた紙片が弾かれた。
震えながらも、戻った者の声だった。
カイルが第二防衛線で動く。
倒れた結界柱を蹴り、紙片の進路を塞ぐ。
手では触れない。
身体でも受けない。
椅子。
柱。
壊れた携行灯。
床に落ちた鉄具。
その場にあるものを、道具としてではなく、進路を塞ぐ物として使う。
「こっちに来んな!」
紙片が柱へ貼りつく。
柱の表面に、うっすら人の爪のような跡が浮かぶ。
エルナが声を張った。
「それは柱です。人ではありません。門でもありません」
ユーディア先生の鐘が重なる。
柱の形が戻る。
アーヴェルは細剣で紙片の進路を読む。
斬るのではない。
進もうとする先をずらし、封鎖針の範囲へ追い込む。
「リュカ先生、右奥へ三枚」
「見えてる」
リュカが封印針を投げる。
針は紙片には刺さらない。
床に刺さる。
紙片が通るはずだった場所が、細い封印線で塞がれる。
行き場を失った紙片が震え、床で黒く焦げた。
その焦げ跡から、小さな声が漏れる。
「寒い」
エルナの表情が揺れた。
俺も聞こえた。
助けたい。
でも、今助けようとすれば、全員引かれる。
親父の声が飛んだ。
「戻せるものだけ戻す!」
その声は、俺だけでなく全員へ向けられていた。
「今ここで全部拾おうとするな!」
セラフィナ先生がいたら、同じことを言ったかもしれない。
治せるものと、今は触れてはいけないものを分ける。
残酷だ。
でも、必要だ。
親父は柄を振る。
紙片のいくつかが光り、消えた。
帰る場所があるもの。
誰かがまだ覚えている名前。
記録に残っている名前。
帰る場所が世界のどこかにある欠片。
それだけが、細い道に乗って戻っていく。
だが、残った紙片は黒く沈み、対象の影へ吸い込まれる。
戻れない声が、また影の一部になる。
カイルが叫んだ。
「くそっ!」
その怒りは分かる。
でも、止まれない。
俺は白鎌を進める。
継ぎ目は、あと少し。
その時、影の奥で黒い衣擦れの音がした。
今度ははっきり聞こえた。
黒灰色の影が、一瞬だけ動きを止める。
旧礼拝室のさらに奥。
崩れた祭壇の向こう。
黒いドレスの女が立っていた。
片翼。
視線は、こちらではなく影へ向いている。
いや。
本当に見ているのかは分からない。
彼女は、いつものように静かだった。
無言。
冷たいほどに。
黒灰色の影が、彼女の方へ少しだけ身を引いた。
恐れているのか。
それとも、認識しているのか。
黒いドレスの女は動かない。
ただ、わずかに首を傾けた。
その仕草だけで、影の表面に貼りついていた名前の欠片がいくつか崩れた。
俺の白鎌が、軽くなる。
「今!」
親父が叫んだ。
俺は白鎌を振り抜いた。
継ぎ目を、最後まで。
白い刃が、旧礼拝室と地下通路の境をなぞる。
裂け目が大きく揺れた。
外へ出ようとしていた黒灰色の腕が、境界の向こうへ押し戻される。
グレン教官が一歩踏み込み、腕が残した形を斬った。
「通すか」
剣が走る。
黒灰色の腕が二つに裂ける。
切断面から吹き出した声が、通路を満たす。
「開けて」
「リオン」
「帰りたい」
「器」
「お前も」
「こちらへ」
ユーディア先生の鐘が何度も鳴る。
「名称固定。通路定義固定。旧礼拝室、内側。地下通路、外側」
リュカの封印針が次々と床へ刺さる。
「ここはこっち。そこはそっち。混ざらないで」
エイムの記録板が赤く光る。
「継ぎ目、断絶率六割、七割、八割!」
親父が柄を振る。
「帰れ」
外へ伸びていた残りの線が、扉の内側へ吸い戻される。
東門。
資料室。
王城封鎖目録。
第一基礎班。
リオンの写し。
戻された線が、影の体へぶつかる。
影は膨らみ、歪み、形を保てなくなる。
だが、それで終わりではなかった。
黒灰色の影は、戻された線を食った。
外へ伸びたものを戻されたのに、それすら飲み込んで、別の力へ変えようとしている。
ミレイア先生が叫んだ。
「戻した線を核にしようとしています! 扉内側で自己固定するつもりです!」
「自己固定?」
カイルが叫ぶ。
「形を得るということです!」
エイムが答える。
「未分類反応、輪郭固定上昇!」
影が変わる。
無数の口が閉じる。
紙片が沈む。
枝のような腕がまとまり、人に近い輪郭を作る。
頭。
肩。
腕。
胴。
足。
人型と呼ぶな。
対象だ。
そう分かっていても、目が人の形を探してしまう。
それが危ない。
見た側が形を与える。
ユーディア先生が叫ぶ。
「対象に形を与えないでください!」
だが、通路にいる全員が、少なからず見てしまっている。
人の形へ。
敵の形へ。
倒すべきものの形へ。
それを材料に、対象が固定されていく。
親父が舌打ちした。
「見られた分で形を作っている」
グレン教官が剣を構え直す。
「なら、形になる前に斬る」
「斬れば、その形を食う」
「戻せるか」
「全部は無理だ」
「なら一部でいい」
二人が前へ出る。
親父が柄を向け、対象の足元にできかけた道を戻す。
グレン教官が、肩のように見えた部分を斬る。
斬られた部分は崩れるが、すぐに別の名前の欠片を集めて形を作り直す。
エイムが叫ぶ。
「再構成速度、上昇!」
オルディス局長が黒杖を掲げる。
「監理局封鎖権限、第二段階」
床の結界線がさらに強く光る。
青が濃くなる。
対象の足元に、鎖のような結界が絡む。
しかし、対象はその鎖を見下ろすようにして、口のない顔を傾けた。
鎖の一部が、礼拝用の飾り紐へ変わる。
封鎖の意味が、祈りの飾りへ書き換えられかける。
オルディス局長の表情が険しくなる。
「封鎖線を食われるな!」
監理局職員たちが必死に結界を維持する。
ラウルの名札がまた揺れた。
彼は歯を食いしばり、自分で言う。
「ラウル・メイズ! 封鎖班! 俺は飾り紐じゃない!」
その声で、彼の持つ結界線が少し戻る。
戻った者の声が、また支えになる。
俺は白鎌を握ったまま、対象を見る。
継ぎ目は断った。
扉の外へ伸びた道も、かなり戻した。
でも、対象が内側で形を得ようとしている。
閉じればいい。
そう思った。
しかし、閉じるだけでは、内側で形を得た対象が次の機会を待つ。
いや、待たないかもしれない。
別の門を作る。
別の名札を使う。
別の記録を食う。
「どうすれば」
声が漏れた。
親父が答える。
「扉の内側で、形を崩してから閉じる」
「どうやって」
グレン教官が言う。
「継ぎ目をもう一度斬る。今度は外と内の境じゃない。対象が自分を固定するために集めている芯だ」
芯。
俺は対象を見る。
見すぎるな。
人型として見るな。
名前として見るな。
ただ、線を見る。
対象の中心。
無数の名前の欠片。
戻された線。
灰衣の祈り。
旧礼拝室の床。
白い袖の残骸。
それらを集めている一点。
黒灰色の胸の奥。
そこに、空白がある。
何も書かれていない場所。
でも、何もないわけではない。
そこが、食うための穴だ。
「芯、見えます」
俺は言った。
「胸の奥。名前が貼りついてない場所。空白みたいな穴があります」
ミレイア先生が青ざめる。
「旧災害記録で消えていた封鎖対象名……その空白と同じ構造かもしれません」
「名前のない穴か」
グレン教官が言う。
親父の目が鋭くなる。
「そこを名づけるな」
「はい」
「斬るな」
俺は驚いて親父を見た。
「斬らないの?」
「白鎌で直接斬れば、お前が穴を通る」
胸が冷えた。
「じゃあ」
「周りを落とす」
親父は言った。
「空白そのものではなく、空白に集められている名前と祈りを剥がす。芯を裸にすれば、形は保てない」
グレン教官が頷く。
「俺が外側を斬る。リオンは剥がす場所を示せ」
「白鎌は?」
「使う。だが、刃を穴に向けるな」
難しい。
でも、やるしかない。
対象が一歩、裂け目の内側から外へ踏み出そうとした。
足のようなものが境界に触れる。
触れた場所から、地下通路の床が礼拝堂の床へ変わりかける。
第二防衛線が押される。
カイルが叫ぶ。
「リオン、急げ!」
「分かってる!」
俺は白鎌を構える。
対象の胸の穴を見る。
その周りに貼りついた名前の欠片。
剥がせるもの。
戻せるもの。
斬るべきもの。
全部が絡んでいる。
親父が柄を構える。
「帰る場所がある欠片は俺が拾う。ないものは、グレンが形を斬る。リオン、お前は白鎌で触れずに周りを削げ」
「触れずに?」
「白鎌の刃先を通す。穴へ入れるな」
「分かった」
本当に難しい。
でも、白鎌は境界を知っている。
欠片と穴の間。
そこを通せばいい。
俺は一歩前へ出た。
対象がこちらを向く。
口のない顔。
そこに、俺の声が浮かんだ。
「こっちだよ」
幼い声。
夢の中の子供。
白い欠片を抱えていた子供の声。
俺自身。
足が止まりかける。
カイルの声が飛ぶ。
「リオン!」
エルナ。
「それは見せられたものです!」
アーヴェル。
「判断するな。持ち帰れ!」
親父。
「飯の話じゃない。偽物だ」
こんな時なのに、その言い方で少しだけ戻る。
俺は息を吐いた。
「持ち帰る」
見せられたものを、ここで決めない。
白鎌を振る。
対象の胸の穴の周り。
名前の欠片と空白の境目。
刃が、そこをかすめた。
一枚の名前の欠片が剥がれる。
女の人の名前らしきもの。
親父の柄がすぐに道を作る。
欠片は光り、どこかへ帰った。
次。
剥がす。
戻る。
次。
剥がす。
戻らない。
戻らない欠片は黒く沈み、グレン教官の剣が形を斬る。
声が上がる。
痛い。
寒い。
帰りたい。
俺は聞きすぎない。
でも、完全には無視しない。
戻れるものは戻す。
戻れないものには引かれない。
それを繰り返す。
白鎌が重くなる。
右手の包帯が熱い。
黒月が、胸の奥で反応する。
ここで黒月を使えば、一気に周りを削げるかもしれない。
そう思った瞬間、親父が叫んだ。
「考えるな!」
遅かった。
胸の奥で黒い弧が揺れた。
白鎌の刃の背に、黒い傷が走りかける。
グレン教官が即座に言う。
「黒月禁止!」
カイルが叫ぶ。
「戻れ!」
エルナの声が重なる。
「リオンさん!」
アーヴェル。
「今は白鎌だけだ!」
俺は歯を食いしばった。
黒い弧を、出さない。
刃を最後まで決めない。
黒月は、通る場所を刻む。
なら、刻む前に止める。
白鎌の軌道を、途中で曖昧にする。
刃先が揺れる。
黒い傷は出かけて、消えた。
右手に鋭い痛みが走る。
でも、出なかった。
親父が低く言う。
「よし」
グレン教官も短く。
「今のはいい」
褒められている場合ではない。
でも、その一言で、足が戻る。
対象の胸の穴の周りが、少しずつ裸になっていく。
名前の欠片が剥がれ、祈りの糸が戻され、形の支えが減っていく。
対象の輪郭が崩れ始めた。
人の形が保てなくなる。
肩が溶ける。
腕が枝に戻る。
足が影に崩れる。
だが、最後に対象は、残った力を一点に集めた。
胸の空白。
そこから、細い黒灰色の線が真っ直ぐ伸びる。
俺ではない。
後方。
第二防衛線。
狙いは、エルナだった。
「エルナ!」
俺が叫ぶ。
エルナは動かない。
未来視をもう使っている。
治癒術式も危険。
黒灰線が、彼女の名札へ向かう。
灯。
役割名の残滓。
灰衣が戻されたはずのそれを、対象が最後に食い残しから拾ったのだ。
カイルが横から飛び込む。
触るなと言われている。
それでも、彼は直接受けない。
自分の上着を脱ぎ、丸めて、黒灰線の進路へ投げた。
上着は一瞬で灰色に染まる。
そのまま布の形を失い、礼拝布のように折れようとする。
カイルが叫ぶ。
「それは俺の上着だ! 変な布じゃねえ!」
無茶な固定。
でも、強い。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「カイル・レグナートの上着。礼拝布ではありません」
上着が持ちこたえる。
その一瞬で、アーヴェルが細剣を突き出した。
黒灰線の進路の先。
エルナの名札ではなく、その手前の空間。
剣先が線の行き場を塞ぐ。
「エルナ!」
アーヴェルが叫ぶ。
エルナは目を閉じ、はっきりと言った。
「私はエルナ・シルヴェリア。灯ではありません」
黒灰線が揺らぐ。
俺は白鎌を振る。
遠い。
届かない。
白鎌だけでは。
胸の奥で黒月がまた揺れる。
使えば届く。
でも、駄目だ。
黒月ではない。
別の方法。
線を見る。
黒灰線がエルナへ向かうための道。
その途中に、カイルの上着。
アーヴェルの剣先。
ユーディア先生の鐘。
エルナの名前。
それだけ支えがある。
なら、俺は対象の側を削げばいい。
黒灰線の根元。
胸の空白の縁。
そこを白鎌で削る。
俺は踏み込み、刃を通した。
黒灰線の根元が剥がれる。
親父が叫ぶ。
「帰れ!」
だが、その線は帰らない。
帰る場所がない。
対象の空白から直接出た線だ。
グレン教官が剣を振る。
「なら斬る」
黒灰線が断たれた。
エルナへ伸びていた先端が霧のように崩れる。
カイルの上着は、灰色に変色したまま床へ落ちた。
もう着られない。
カイルはそれを見て、低く言った。
「高くはなかったけどさ」
アーヴェルが息を吐く。
「後で弁償させろ」
「誰に?」
誰も答えなかった。
エルナは名札を握り、少し震えていた。
でも、立っている。
「大丈夫です」
彼女は言った。
「戻っています」
その声で、俺も戻る。
対象の胸の周りは、ほとんど剥がれた。
空白だけが残っている。
名づけてはいけない穴。
それは形を失い、旧礼拝室の奥へ沈もうとしている。
今だ。
親父が柄を構える。
「扉を閉じる」
グレン教官が剣を構える。
「形を斬る」
ユーディア先生が鐘を構える。
「境界を固定します」
リュカが最後の封印針を構える。
「釘、残り一本」
エイムが叫ぶ。
「封鎖線再構成、今なら可能!」
オルディス局長が黒杖を高く掲げた。
「全員、備えろ!」
親父が俺を見る。
「リオン。最後だ」
「うん」
「白鎌を継ぎ目へ。穴には入れるな」
「分かってる」
「戻れと言ったら、戻れ」
「うん」
「飯はまだだ」
「分かってる」
少しだけ笑えた。
ほんの少し。
それで、足がこちらへ戻った。
俺は白鎌を構える。
対象の空白が、旧礼拝室の奥へ沈む。
扉の継ぎ目が、閉じかけている。
そこへ白鎌を通す。
切るのではなく、内と外を分けるために。
刃が白く光る。
黒月は出ない。
出さない。
白鎌だけで、境界をなぞる。
親父の柄が、外へ残った道を内側へ帰す。
グレン教官の剣が、形になろうとする残りを斬る。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
リュカの封印針が床へ刺さる。
エイムの記録板が光る。
オルディス局長の封鎖線が、扉を囲う。
そして。
旧礼拝室の奥で、黒いドレスの女が一歩だけ動いた。
本当に動いたのかは分からない。
でも、衣擦れの音がした。
その瞬間、白鎌が軽くなった。
まるで、ほんの少しだけ刃の通る場所を空けられたように。
俺はそれを追わない。
礼も言わない。
ただ、振り抜く。
白鎌が、継ぎ目を最後までなぞった。
旧礼拝室の亀裂が閉じ始める。
黒灰色の空白が、奥へ沈む。
無数の声が、遠ざかる。
帰りたい。
開けて。
寒い。
痛い。
リオン。
最後の一声だけが、少し長く残った。
俺は返事をしない。
胸元の名札に、左手で触れる。
「俺は、ここにいる」
それは返事ではない。
自分への確認。
扉の亀裂が閉じた。
封鎖扉が、重い音を立てて沈黙する。
地下通路に、突然静寂が落ちた。
誰も動かなかった。
息をする音だけが聞こえる。
結界灯が一つ、二つ、青く戻る。
床の礼拝堂模様は消え、石目だけが残る。
封鎖札の多くは黒く焦げ、破れ、使い物にならない。
だが、扉は閉じていた。
完全にではない。
いや。
前よりは、閉じている。
指一本分の隙間は、もう見えない。
リュカが床に膝をつき、扉の下を覗いた。
「隙間、なし」
エイムが記録板を見た。
「旧礼拝室外部接続、急速低下。東門、資料室、王城封鎖目録への線、現時点で検出なし」
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「第一基礎班、名称安定。リオンさん本人名、安定」
カイルが大きく息を吐いた。
そのまま座り込みそうになって、踏ん張る。
「終わった……?」
親父が扉を見たまま答える。
「一度は閉じた」
一度は。
その言い方に、完全な安心はなかった。
でも、今はそれで十分だった。
グレン教官が剣を下ろす。
「全員、状態確認」
その声で、ようやく人が動き出す。
負傷者の確認。
名札の確認。
封鎖札の交換。
床の残滓処理。
俺は白鎌を握ったままだった。
消そうとして、指が動かない。
右手が熱い。
包帯はまた裂けている。
白鎌の刃に、黒灰色の小さな染みが残っていた。
親父が気づく。
「消せ」
「うん」
消そうとする。
だが、白鎌が少しだけ重く残る。
黒灰色の染みが、刃の上で小さく震えた。
リオン。
声にならない声。
俺の名前を、刃の上で呼ぶ。
カイルが叫ぶ。
「リオン!」
俺は息を吸う。
消す。
今、消す。
白鎌は俺の手にある。
扉の奥ではない。
ここにある。
「戻れ」
親父の声。
「白鎌も、お前の手へ戻せ」
戻す。
収納ではない。
消すのでもない。
俺の場所へ戻す。
そう思った瞬間、白鎌の黒灰色の染みが剥がれた。
親父の柄がそれを捉える。
「帰れ」
染みは扉へ戻されかける。
しかし、親父はすぐに向きを変えた。
「いや」
戻さない。
グレン教官が剣を振る。
染みを形になる前に断つ。
黒灰色の染みは、声も出さずに消えた。
白鎌が軽くなる。
俺の手の中で、白い欠片のようにほどけ、消える。
今度こそ。
右手から力が抜けた。
膝が落ちる。
カイルが走ってきて、俺を支えた。
「危なっ」
「ごめん」
「謝るな。戻ったならいい」
エルナも駆け寄る。
「右手を見せてください」
「セラフィナ先生みたい」
「今は全員そうなります」
アーヴェルも来た。
「名札は」
俺は胸元を見る。
リオン。
文字はある。
揺れていない。
「大丈夫」
アーヴェルは頷いた。
「ならいい」
親父が俺の前に立つ。
「よく戻った」
その一言で、胸の奥が少し崩れた。
褒められた、のだと思う。
親父に。
俺は頷こうとして、うまくできなかった。
疲れが一気に来た。
親父が低く言う。
「寝るな」
「今?」
「今寝ると、夢に引かれる」
その言葉で、全員の空気がまた締まる。
終わっていない。
閉じた直後ほど、夢に出る。
そういうことなのだろう。
グレン教官が即座に判断した。
「リオンを治癒棟へ。名札確認を継続。セラフィナ主任を呼べ」
エイムが記録板を操作する。
「通信します」
ユーディア先生が鐘を持って近づく。
「リオンさん。自分の名前を言ってください」
俺は息を整える。
「リオン」
鐘が鳴る。
「もう一度」
「リオン」
「所属は」
「戦闘科一年。第一基礎班」
「安定しています」
カイルが小さく息を吐く。
エルナも、目を閉じて安心したようだった。
親父はまだ扉を見ている。
その横顔に、安堵は少ない。
俺は聞いた。
「閉じたんだよね」
親父は答えた。
「ああ」
「でも、終わってない?」
「ああ」
やっぱり。
「中に、まだいる」
「いる」
「また来る?」
「来る」
その答えは残酷なくらい短い。
でも、嘘ではない。
グレン教官が言う。
「だが、今日は通さなかった」
親父も頷いた。
「それで十分だ」
今日、通さなかった。
ネイルを戻した。
ラウルを戻した。
第一基礎班を保った。
俺の名前も、扉から剥がした。
旧礼拝室は閉じた。
完全ではなくても。
今日は、通さなかった。
俺はその言葉を胸に置いた。
通路の奥で、封鎖扉が沈黙している。
白い袖は消えた。
黒灰色の影も沈んだ。
だが、扉の表面に、ほんの薄い傷が残っていた。
文字ではない。
名前でもない。
ただ、爪痕のようなもの。
また開けようとする意思。
それを見て、親父が低く言った。
「次は、向こうも選ぶ」
グレン教官が問う。
「何を」
「入口だ」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
旧礼拝室だけではない。
東門も、名札も、記録も使われた。
次は、もっと別の入口を選ぶかもしれない。
その不安が残る。
けれど、今は立っているだけで精一杯だった。
カイルが俺の肩を支え直す。
「まず治癒棟な」
エルナが頷く。
「はい。寝ないように話しかけます」
アーヴェルが言う。
「なら、測定の反省でも話すか」
カイルが顔をしかめる。
「今?」
「寝にくいだろう」
「確かに」
俺は少しだけ笑った。
疲れているのに。
怖いのに。
まだ、笑えた。
親父がそれを見て、少しだけ目を細めた。
「飯も食わせろ」
グレン教官が低く言う。
「この状況で食えるか」
「食わせる」
「セラフィナ主任に怒られるぞ」
「消化にいいものならいい」
「何を張り合っている」
カイルが小さく笑った。
エルナも、ほんの少し。
アーヴェルは呆れたように息を吐いた。
俺は支えられながら、旧礼拝室の扉から離れた。
背中に、まだ視線のようなものを感じる。
でも、振り返らない。
今は戻る。
通路を進む。
仲間の声がある。
親父の足音がある。
グレン教官の指示がある。
胸元の名札は、まだ温かい。
リオン。
その名前は、ここにある。
だから、歩ける。
地下通路の奥で、封鎖扉は静かに閉じていた。
その内側で、黒灰色の何かが再び眠ったのか。
それとも、ただ次の入口を探しているのか。
今は分からない。
けれど、少なくとも今日。
俺たちは、扉を閉じた。




