82話_内側の足音
一歩。
それだけで、地下通路の空気が変わった。
旧礼拝室の亀裂の奥。
黒灰色の闇の中で、何かが足を置いた。
床を踏む音は小さい。
だが、耳ではなく骨に響く。
石床が震えたのではない。
ここが学院の地下通路であるという事実が、一瞬だけ揺れた。
壁の結界灯が青く明滅する。
封鎖札が軋む。
床の結界線が、礼拝堂の古い床模様へ塗り替えられかける。
リュカが封印針を床へ打ち込んだ。
「ここは地下通路。礼拝堂じゃない」
針の先から細い封印線が広がり、変わりかけた床模様を押し返す。
だが、完全には戻らない。
黒灰色の染みが、石目の奥に残った。
ミレイア先生が息を詰める。
「空間定義が侵食されています。まだ弱いですが、あれは出るだけで場所を書き換えます」
エイムの記録板が震え続けている。
「未分類反応、上昇。旧礼拝室内側から外部へ向けて圧力増大。封鎖線、第一層摩耗」
グレン教官が剣を構えた。
「リオン、見えるか」
俺は白鎌を握ったまま、亀裂の奥を見た。
見たくなかった。
けれど、見なければ始まらない。
黒灰色の中に、輪郭がある。
人ではない。
獣でもない。
ただ、こちらの目が勝手に人型へ整えようとしている。
細い腕のようなもの。
肩のようなもの。
折れ曲がった膝のようなもの。
でも、それは形ではない。
こちら側に出るために、分かりやすい形を借りようとしているだけだ。
「まだ形になってません」
俺は言った。
「人みたいに見えます。でも、たぶん違います。出てくるために、こっちの見方を使ってます」
親父が低く言う。
「見る側に形を作らせるタイプか」
「厄介ですね」
ユーディア先生が鐘を強く握る。
「名前をつけないでください。人型、獣型、どちらでも固定しない方がいいです」
グレン教官が短く返す。
「対象で通す」
その言葉で、少しだけ空気が整う。
対象。
それ以上でも、それ以下でもない。
旧礼拝室の奥で、もう一歩、音がした。
亀裂が広がる。
白い袖の布片は、もうほとんど見えない。
代わりに、黒灰色のものが扉の隙間へ指をかけた。
指ではない。
だが、指のように見えた。
細く、長く、濡れた枝のようなものが五本。
その一本一本に、文字の残骸が絡みついている。
東門。
開門。
器。
灯。
第一。
帰れ。
リオン。
食った言葉の残りだ。
それが扉の縁を掴んだ瞬間、封鎖扉の石が柔らかくへこんだ。
骨を押されるような音がした。
カイルが後方で低く唸る。
「押し返したいのに触れないの、きついな」
アーヴェルが答える。
「触れたら終わる。進路を塞げ」
「分かってる」
第二防衛線の結界が展開する。
カイル、エルナ、アーヴェルは後方に下がったが、声は届く距離にいる。
それだけで、胸の奥が少し安定した。
親父が柄を前へ向ける。
「まだ帰せる」
グレン教官が頷く。
「俺が縁を斬る」
オルディス局長が黒杖を床へ突いた。
「第一封鎖線、三拍後に圧縮」
エイムが記録板を構える。
「三、二、一」
結界線が青く収束した。
旧礼拝室の扉を囲むように、床から光の枠が立ち上がる。
親父の柄が、亀裂へ向けられる。
「帰れ」
黒灰色の指が震えた。
扉の縁を掴んでいた力が、わずかに緩む。
そこへグレン教官の剣が走った。
刃は黒灰色の指ではなく、指が扉へ与えた意味を斬った。
ここは掴む場所ではない。
ここは通る場所ではない。
ここは扉の内側と外側を分ける境界だ。
剣がそう告げるように、余計な接続を断つ。
一本目の指が弾かれた。
黒灰色の残滓が飛び、床に落ちる。
落ちた瞬間、それは小さな口のように開いた。
「リオン」
俺の名を呼んだ。
床の染みが。
カイルの声がすぐ飛ぶ。
「リオン!」
「返事しない」
俺は言った。
白鎌を床へ向ける。
振らない。
染みがこちらへ這う進路に、刃を置く。
黒灰色の染みは白鎌の前で止まり、口の形を崩した。
親父が横から低く言う。
「帰れ」
染みは扉の亀裂へ戻された。
戻る途中で、床に残っていた石粉をいくつか巻き込み、黒く変色させる。
リュカが封印針を追加で打つ。
「食べ残しが多い。後で掃除が大変」
「今言うことか」
グレン教官が返す。
「今言わないと忘れる」
「忘れろ」
小さなやり取り。
それでも、空気を少しだけ人の場所へ戻した。
だが、対象は待たない。
二本目、三本目の指が扉の縁を掴む。
今度は力任せではない。
指の先がほどけ、細い糸の束になった。
それぞれが封鎖札の隙間へ入り込む。
札を破るのではなく、札に書かれた文字の意味だけを舐め取ろうとしている。
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「封鎖札は封鎖のための札です。通行許可ではありません」
鐘の音が札を支える。
エイムが記録を読み上げた。
「旧礼拝室封鎖札、王立学院第七封鎖規定に基づく。目的、内側対象の外部流出防止。通行、接続、招請を認めない」
札の文字が青く戻る。
だが、黒灰色の糸はその青を食べようとした。
ぐじゅ、と嫌な音がした。
札の端が濡れたように崩れる。
そこから黒灰色の滴が垂れ、床の結界線へ落ちた。
結界線が一部、赤黒く変わる。
監理局職員の一人が結界を補強しようと前へ出た。
「待て!」
親父の声が飛ぶ。
しかし、一瞬遅かった。
職員の杖先から伸びた補強術式が、黒灰色の滴に触れた。
術式の線が逆向きに引かれる。
職員の名札が揺れた。
「う、あ――」
その声が途中で別の言葉に変わりかける。
「封鎖補助、接続許――」
グレン教官が即座に動いた。
剣の柄で職員の胸元を打つ。
名札を砕かない程度に、しかし容赦なく。
職員の身体が後方へ吹き飛び、アーヴェルが受け止めた。
同時に、親父の柄が術式線へ向けられる。
「帰れ」
補強術式が職員の杖へ戻される。
戻る衝撃で杖の先端が裂けた。
職員は床に膝をつき、激しく咳き込む。
名札にはまだ文字がある。
だが、端が灰色に焼け焦げていた。
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「ラウル・メイズ」
職員は震える声で答えた。
「ラウル……メイズ……境界監理局、封鎖班……」
「戻っています。後方へ」
「はい……」
声は人のものだった。
だが、杖を握る手は震えている。
さっきの門衛ネイルと同じ種類の震え。
ほんの一瞬触れただけで、ああなる。
カイルが歯を食いしばる音が聞こえた。
「くそ……」
エルナが呼吸を整える。
治癒したい。
でも、今前へ出れば同じことになる。
セラフィナ先生がいない今、治癒術式を流す判断はさらに危険だった。
アーヴェルが職員を後方へ渡しながら言う。
「第二防衛線、術式接触禁止を徹底。進路遮断に限定」
「了解!」
監理局職員たちの返事が硬くなる。
緊張が上がる。
だが、必要な緊張だった。
対象に触れれば、名前も術式も道具にされる。
失敗すれば、ただ負けるのではない。
自分の役割を塗り替えられる。
親父が低く言った。
「これが本体だ」
誰も聞き返さなかった。
分かっていた。
灰衣の灰糸や灰針とは違う。
これは、もっと根本から食う。
グレン教官が剣を構え直す。
「封鎖を急ぐ。ユアン、外へ伸びた道はどれだけ戻った」
「八割。残りはリオンの名に絡んでいる」
その言葉で、全員の意識がこちらへ向いた。
扉面には、まだ俺の名前が残っている。
リオン。
他の文字は薄れた。
東門は消えた。
第一基礎班も安定した。
役割名も戻された。
でも、俺の名前だけが残っている。
黒灰色の文字で。
まるで、扉の奥のものがそれだけは手放さないと決めているように。
胸元の名札が熱い。
俺は触れそうになって、左手を止めた。
触ると、余計に意識してしまう。
カイルが後ろから言う。
「リオン。こっちに名前あるぞ」
その声で、少し楽になる。
エルナも続ける。
「名札の文字は安定しています」
アーヴェルも。
「扉側の文字は写しだ。本体ではない」
そうだ。
扉に書かれた名前は、俺ではない。
俺の名札はここにある。
俺を呼ぶ声もここにある。
親父が言う。
「扉のリオンは、帰せない」
「なんで」
「お前の名前だからだ。灰衣の祈りでも、東門の嘘でもない。写しでも、お前に由来している」
「じゃあ、どうするの」
「断つ」
グレン教官が続けた。
「ただし、名前ごと斬るな。扉が持っている写しだけを斬る」
それは、言葉だけなら簡単だった。
でも、見れば分かる。
扉面のリオンという文字は、俺の名札と細く繋がっている。
直接ではない。
昨日、扉に覚えられた時の写し。
旧礼拝室が、俺の名前を自分の内側に保存した痕。
それを切る。
俺自身の名前を傷つけずに。
親父が俺を見る。
「リオン。自分の名前を見失うな」
「うん」
「扉に書かれたリオンは、お前じゃない」
「うん」
「だが、お前から剥がれた写しだ。雑に斬れば痛む」
「痛むだけ?」
親父は少しだけ黙った。
「名前の端が欠ける」
カイルが思わず声を上げる。
「欠けるって何だよ」
ユーディア先生が静かに答えた。
「名前の認識が不安定になります。呼ばれても、自分のことだと一瞬分からなくなる。ひどい場合は、名前を聞くたびに別の役割へ引かれます」
「それは駄目だろ」
「だから慎重にやります」
カイルは唇を強く結んだ。
俺は扉の文字を見る。
リオン。
扉が持っている俺の写し。
そこから黒灰色の細い根が、亀裂の奥へ伸びている。
奥の対象は、その根を通じて俺の場所を探している。
まだ見つかってはいない。
でも、近い。
「俺が見ます」
俺は言った。
グレン教官が頷く。
「見ろ。触るな」
親父が続ける。
「白鎌は構えろ。振るのは合図後だ」
俺は白鎌を握り直した。
刃が少しだけ震える。
黒月は出さない。
ただ、白鎌で写しを断つ。
必要な一点だけ。
扉のリオン。
その文字の輪郭を見る。
リ。
オ。
ン。
一文字ずつ見てはいけない。
意味に引かれる。
だから、文字と扉の間を見る。
名前が貼りつけられている接着面。
そこに、細い線がある。
「見えた」
俺は言った。
「文字の下。扉面に貼りついてる薄い線。名札じゃなくて、昨日扉に浮いた時の写しに繋がってる」
エイムが記録する。
「名称写し接着線、確認」
ユーディア先生が鐘を構える。
「本人名固定します」
カイルが息を吸った。
「リオン」
エルナも。
「リオンさん」
アーヴェルも。
「リオン」
親父が最後に言う。
「リオン」
四つの声が重なる。
胸元の名札が温かくなる。
扉の文字が、黒く濃くなる。
まるで、奪われまいとしているように。
対象の指が、また扉の縁を掴んだ。
今度は五本ではない。
もっと多い。
黒灰色の枝が何本も亀裂から伸び、扉面のリオンという文字を守るように絡みつく。
グレン教官が剣を振る。
枝が数本、斬れる。
切断面から黒い液が飛び、封鎖札にかかる。
札が悲鳴のように裂けた。
オルディス局長が黒杖を突き、結界を補強する。
「急げ。封鎖線が削られている」
親父が俺の横へ来た。
「俺が枝を帰す。グレンが形を斬る。お前は写しだけを断て」
「うん」
「黒月は使うな」
「使わない」
「白鎌を深く入れるな。扉の奥へ届かせるな」
「分かった」
本当に分かっているのかは、分からない。
でも、やるしかない。
親父が柄を振る。
「帰れ」
枝の一部が亀裂へ戻される。
グレン教官がその隙間を斬る。
俺は白鎌を上げた。
扉のリオン。
その文字と扉面の間。
そこだけを狙う。
刃を振る。
白い軌道が、地下の暗さを裂いた。
手応えは薄い。
紙一枚を剥がすような感覚。
しかし、その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
「っ」
名前の端を引っ張られた。
扉の文字が、剥がれながらこちらへ食いつく。
リオン。
声がする。
俺の声だった。
扉の奥から、俺自身の声で。
「こっちだ」
足が止まる。
一瞬、視界が旧礼拝室の中へ引かれた。
薄暗い礼拝堂。
壊れた椅子。
灰色の布。
奥に立つ黒いドレスの女。
そして、床に小さな子供がいる。
雨に濡れていない。
血もない。
ただ、白い欠片を抱えて座っている。
その子供が、こちらを見る。
「リオン」
呼ばれた。
俺自身に。
返事をしそうになった。
その瞬間。
頬に衝撃が走った。
痛い。
誰かに叩かれたのだと遅れて分かる。
視界が戻る。
地下通路。
扉。
白鎌。
目の前に親父がいた。
手を振り抜いた形で。
親父に叩かれた。
「戻れ」
低い声。
痛みより、その声が効いた。
カイルが叫ぶ。
「リオン、戻れ!」
エルナが続く。
「リオンさん!」
アーヴェルの声。
「こちらだ!」
グレン教官。
「戻れ!」
俺は息を吸った。
「戻った!」
声が出た。
扉の奥の俺の声が、遠ざかる。
白鎌の刃が、最後の接着線を剥がした。
扉面のリオンという文字が、黒灰色の薄片になって浮く。
親父が即座に柄を向ける。
「帰るな」
いつもの言葉とは逆だった。
帰れ、ではない。
帰るな。
親父は薄片を戻さなかった。
戻せば、俺へ返ってくるからだ。
グレン教官が剣を振る。
黒灰色の薄片を、形になる前に断つ。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「本人名、固定」
カイル、エルナ、アーヴェルが同時に俺の名前を呼ぶ。
「リオン!」
胸元の名札が強く光った。
扉面から、俺の名前が消えた。
黒灰色の文字は、もうない。
その瞬間、対象が初めて明確に怒った。
地下通路全体が歪む。
封鎖扉の亀裂が一気に広がる。
内側から、黒灰色の枝が束になって押し寄せた。
グレン教官が叫ぶ。
「第二防衛線、展開!」
後方で結界が開く。
アーヴェルの声が飛ぶ。
「左、漏れます!」
カイルが動く。
武器のない両腕で、直接触れずに倒れた結界柱を蹴り出し、枝の進路へ置く。
枝が結界柱を食おうとする。
その瞬間、エルナが声を張った。
「それは支える柱です。通路ではありません!」
ユーディア先生の鐘が重なり、結界柱の意味が固定される。
枝は柱を通路にできず、そこで止まった。
アーヴェルの細剣が進路の薄い場所を叩く。
枝が逸れる。
第一防衛線では、グレン教官と親父が前へ出る。
俺は白鎌を握ったまま、息を荒くしていた。
頬が痛い。
叩かれた場所が熱い。
でも、その痛みが自分の場所を教えてくれる。
親父が短く言った。
「悪い」
「助かった」
「ならいい」
本当に、それだけだった。
だが、次の瞬間。
扉の奥から、対象の一部が外へ出た。
黒灰色の枝ではない。
もっと太い。
腕のようなもの。
それが封鎖扉の縁を押し広げ、旧礼拝室の内側からこちらへ伸びた。
腕の表面には、無数の文字が埋まっている。
人名。
役割名。
地名。
記録の断片。
祈祷文。
全部が半分溶けて、皮膚のように貼りついていた。
その中に、いくつか読める名前があった。
古いもの。
知らないもの。
門番らしき名。
村の名。
消えた都市の一部。
親父の動きが、一瞬だけ止まった。
「……まだ残っていたか」
声が低い。
怒りではない。
もっと深い痛みが混じっていた。
灰祈りの門事件。
戻せなかった二人。
人の形のまま門になった者。
その名前かもしれない。
黒灰色の腕が、親父へ伸びた。
親父は避けない。
柄を構え、真正面から受ける。
「帰れ」
腕の表面に埋まった名前が震える。
一つ、二つ。
古い名前が、ほんの一瞬だけ人の声のように揺れた。
だが、戻らない。
戻る場所がもう壊れている。
親父の手が軋む。
グレン教官が横から斬る。
腕の一部が裂ける。
中から黒灰色の液体ではなく、紙片のようなものがこぼれた。
それぞれに名前の残骸が書かれている。
床に落ちた紙片が、細い声を出した。
「帰りたい」
俺の喉が詰まった。
それは敵の声かもしれない。
罠かもしれない。
でも、ひどく人の声に聞こえた。
親父が低く言う。
「聞くな」
「でも」
「今聞けば、お前も混ざる」
親父の声は硬い。
「戻せる奴を戻すために、戻せない声に足を取られるな」
残酷な言葉だった。
でも、必要な言葉だった。
床の紙片が震える。
「帰りたい」
「開けて」
「名前を」
「寒い」
「痛い」
声が増える。
第二防衛線の生徒ではない。
ここにはいない誰かの声。
昔、扉や門にされた者たちの残響。
エルナが唇を噛んでいる。
カイルは拳を握っている。
アーヴェルの剣先も、わずかに震えた。
誰も、聞きたくないわけではない。
でも、聞けば引かれる。
グレン教官が低く言った。
「ユアン」
「ああ」
親父は柄を強く握る。
「帰る場所があるものだけ、戻す」
床の紙片のいくつかが震えた。
親父の柄から、細い道が何本か伸びる。
その道に乗れた紙片は、ふっと光り、消えた。
どこかへ帰った。
だが、残った紙片の方が多い。
戻る場所がない。
壊れている。
名前の持ち主が、もう世界のどこにも残っていない。
その紙片は黒灰色に沈み、また対象の腕へ吸い戻された。
カイルが小さく言った。
「全部は、無理なのか」
親父は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
対象の腕が、さらに通路へ出る。
封鎖扉の亀裂が悲鳴のように広がる。
オルディス局長が叫ぶ。
「第一封鎖線、限界まで圧縮!」
結界線が強く光る。
だが、対象の腕は止まらない。
グレン教官の剣が斬る。
親父の柄が戻す。
ユーディア先生の鐘が固定する。
リュカの封印針が床を縫う。
それでも、少しずつ押されている。
エイムが叫ぶ。
「封鎖成功率、低下! 継ぎ目への直接干渉が必要です!」
親父が俺を見た。
「リオン」
分かっていた。
白鎌で継ぎ目を断つ。
だが、ただ断つだけでは駄目だ。
親父が帰す道を作り、グレン教官が形を斬り、ユーディア先生が名を固定する。
その中心で、俺が扉の継ぎ目を断つ。
黒月は使わない。
でも、白鎌は使う。
親父が言う。
「怖いか」
「怖い」
「それでいい」
グレン教官が続ける。
「怖いまま振れ。怖くないふりをするな」
カイルが後ろから叫ぶ。
「戻れって言ったら戻れ!」
エルナの声。
「戻れる場所は、ここです!」
アーヴェルの声。
「継ぎ目だけを見ろ!」
俺は息を吸った。
白鎌を握る。
頬の痛み。
右手の熱。
胸元の名札。
仲間の声。
全部、こちら側にある。
旧礼拝室の奥が、また俺の声で呼んだ。
「リオン」
俺は返事をしない。
代わりに、白鎌を構えた。
対象の腕の奥。
亀裂のさらに内側。
扉が外と内を分けている継ぎ目。
黒灰色の束の中心に、細い白い線が見えた。
白鎌と同じ白ではない。
古い骨のような白。
夢で見た、雨の中の欠片の色。
そこが、継ぎ目だ。
「見えた」
俺は言った。
親父が柄を構える。
「俺が戻す」
グレン教官が剣を構える。
「俺が開きを止める」
ユーディア先生が鐘を構える。
「名を固定します」
リュカが封印針を構える。
「床は任せて」
エイムが記録板を強く握る。
「全記録同期、開始」
オルディス局長の黒杖が光る。
「境界監理局封鎖権限、開放」
空気が重く沈む。
扉の奥の対象が、初めて後退した。
ほんのわずかに。
こちらが本気で閉じようとしていると、分かったのだ。
次の瞬間、対象は腕を大きく広げた。
無数の名前が、通路中にばら撒かれる。
帰りたい。
開けて。
助けて。
寒い。
痛い。
リオン。
リオン。
リオン。
声が雪崩のように押し寄せる。
耳を塞げない。
心の内側に直接入ってくる。
俺は白鎌を構えたまま、足を踏みしめた。
「戻れ!」
カイルの声が一番強く響いた。
それに、エルナとアーヴェルが重なる。
「リオンさん!」
「リオン!」
親父の声が最後に来る。
「振った理由を忘れるな」
理由。
閉じるため。
戻れるものを戻し、戻れないものに引かれず、今いる人を奪わせないため。
ネイルを。
ラウルを。
第一基礎班を。
学院を。
そして、自分の名前を。
俺は白鎌を振った。
白い刃が、黒灰色の声の中を通る。
目指すのは、ただ一点。
扉の継ぎ目。
刃が届く直前、黒灰色の奥で黒い衣擦れの音がした。
ほんの一瞬。
誰かが、こちらを見た気がした。
黒いドレスの女。
声はない。
助けもしない。
止めもしない。
ただ、見ている。
俺はそれを追わない。
今は、継ぎ目だけ。
白鎌が、古い白い線に触れた。
音はなかった。
だが、世界が一瞬だけ裂けた。




