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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
81/90

81話_噛まれる名

地下へ降りる階段は、昨日より暗かった。


灯りはある。


壁に埋め込まれた結界灯も、監理局の携行灯も、通路を照らしている。


それなのに、奥が暗い。


光が届いていないのではない。


届いた光が、そこにある何かに食われているようだった。


階段の下から、礼拝の音が聞こえる。


声ではない。

歌でもない。

祈りでもない。


口の中で、誰かの名前を噛み潰すような音。


何度も。


何度も。


第一基礎班。


リオン。


東門。


開きました。


その文字が、旧礼拝室の扉に浮かんだとエイムは言った。


東門は開いていない。


ネイル・オルクは戻った。


門印も剥がした。


それでも、扉は自分に都合のいい記録を作り始めている。


嘘を記録にする。


願いを事実へ重ねる。


それは、灰衣がやってきたことと似ている。


けれど、もっと重い。


もっと、遠慮がない。


親父が先頭を歩いている。


腰の刃のない柄に手を置いたまま、足取りは迷わない。

グレン教官はその隣で剣を抜いている。

剣先は下がっているが、いつでも振れる位置にある。


俺は二人の少し後ろ。


右手は包帯のまま。

白鎌は呼ばない。

黒月も触れない。


カイルはさらに半歩後ろで、俺の右側にいる。

武器はない。

それでも、何かが来たら自分の身体ごと進路を塞ぐつもりなのが分かった。


エルナは左後ろ。

アーヴェルは反対側で通路の結界線を見ている。


ユーディア先生の鐘が、布の中でかすかに鳴った。


「名前が擦れています。まだ剥離ではありませんが、通路全体に薄く触れています」


エイムが記録板を見る。


「地下結界室手前まで、扉側の偽記録反応が伸長。文言は変化なし。第一基礎班、リオン、東門、開きました」


「繰り返しているのか」


グレン教官が聞く。


「はい。記録化を試みています」


親父が低く言う。


「何度も言えば本当になると思っている」


「なるのですか」


エルナが問う。


「放っておけばな」


親父は答えた。


「人が信じる前に、場所が信じる。場所が信じれば、次に記録が曲がる」


ミレイア先生が後ろから続けた。


「古い礼拝空間は、祈られたことを保存する性質があります。旧礼拝室はそれを逆用している可能性があります」


カイルが小さく言う。


「つまり、嘘でも唱え続ければ、場所がそうだったことにしようとする」


「大雑把にはそうです」


エイムが答える。


「大雑把でも嫌すぎるな」


誰も否定しなかった。


階段の終わりが見える。


地下結界室へ続く広い通路。


その先に、旧礼拝室方面の封鎖扉がある。


封鎖扉の前には、リュカが立っていた。


片手に封印針。

足元には、小さな封印箱が三つ。

眠そうな目をしているが、いつもの緩さは薄い。


扉の表面には灰色の布目が浮いていた。


昨日より濃い。


そして、その中央に文字がある。


第一基礎班。


リオン。


東門、開きました。


文字は灰色ではない。


黒灰色だった。


線の輪郭が濡れているように見える。


墨ではない。

血でもない。

だが、見ていると、何かを削って書かれている気がした。


リュカがこちらを見ずに言う。


「来たね」


グレン教官が問う。


「状況は」


「悪いよ」


即答だった。


「封鎖札の内側を食ってる。こっちから貼った札じゃなくて、札が“貼られている意味”を食ってる感じ」


親父が扉に近づく。


「まだ帰せるか」


「表層は。奥は無理」


リュカは封印針で扉の一部を指した。


「ここ。昨日、指一本分だけ残った隙間。その内側に白い布片がある」


俺は見た。


見すぎないように。


扉の布目の中に、細い隙間がある。


その奥。


白いものが見える。


白い袖。


袖口の奥に、灰色の布。


昨日の声。


扉の前で、お待ちしています。


親父が低く言った。


「出迎えか」


リュカが頷く。


「たぶん。あと、奥のものとは別に動いてる。白い袖はこっちを呼んでるけど、奥のものは文字を食べてる」


「二層だな」


グレン教官が言う。


ミレイア先生が扉の写しを広げる。


「灰衣の誘導と、未分類反応の捕食。重なっていますが、同一ではありません」


カイルが眉を寄せる。


「捕食って言い方、ほんと嫌だな」


「実際、そう見えます」


エイムの声が硬い。


「扉面の文字は、単に書かれているのではなく、周囲の封鎖意味を削って生成されています」


アーヴェルが言う。


「つまり、書かせ続ければ封鎖が弱る」


「はい」


扉の奥から、音がした。


ぎり。


紙を噛むような音。


封鎖扉の端に貼られていた札が、一枚、内側から黒く滲んだ。


札に書かれた封鎖文字が、ゆっくりと潰れていく。


潰れた文字はただ消えるのではない。


糸のように引き延ばされ、扉面の黒灰色の文字へ吸われた。


第一基礎班。


リオン。


その二つの文字が、ほんの少し濃くなる。


カイルが低く言った。


「今、食ったな」


「見た通りだ」


グレン教官が剣を構える。


親父が柄を抜いた。


「始めるぞ。放っておけば、扉はここの封鎖を全部食う」


オルディス局長が黒杖を床へ突く。


「第一防衛線、展開」


監理局職員たちが左右へ散る。


床の結界線が青く光る。

地下結界室への通路が二重に閉じられる。

後方では第二防衛線が配置についた。


カイル、エルナ、アーヴェル。


本来なら第二防衛線だ。


けれど、今は俺のすぐ後ろにいる。


グレン教官が判断したのだろう。


初動だけは、近くで名を支えるために。


親父が俺を見る。


「リオン」


「うん」


「扉の文字を見るな。文字の根を見ろ」


「根」


「何から削って書いているかだ」


俺は頷いた。


必要な一点だけ。


文字そのものを見ると、呼ばれる。


意味に触れると、返事になる。


だから、根を見る。


第一基礎班。


リオン。


東門、開きました。


その文字の下。


扉面の布目。

封鎖札。

旧礼拝室の祈り。

東門医療室の門印残滓。

ネイルの名札の裏。

王城封鎖目録。

戦闘科資料室の旧災害対応記録。


多い。


多すぎる。


視界の奥が痛む。


「リオン」


カイルの声。


「一点」


アーヴェルの声。


「必要なものだけです」


エルナの声。


俺は息を吐く。


全部は見ない。


一本だけ。


今、封鎖札を食っている線。


それは、扉の文字の中でも「東門、開きました」に繋がっている。


嘘の記録。


そこから封鎖の意味を削っている。


「東門の文言です」


俺は言った。


「そこが封鎖札を食ってる。ネイルさんの名札じゃなくて、東門医療室に残った門印の“成功したことにしたい記録”と繋がってます」


エイムが記録する。


「偽記録線、東門文言部」


親父が柄を向ける。


「帰す」


グレン教官が剣を上げる。


「形が出た瞬間、斬る」


ユーディア先生が鐘を構えた。


「東門は開いていません。門衛ネイル・オルクは本人名を保持。王都東門は封鎖状態」


セイル監査官が王城の記録紙を読み上げる。


「王城東門記録、閉門維持。通行許可なし。門衛ネイル・オルク、医療隔離中」


エイムが重ねる。


「境界監理局記録、東門門印剥離確認。開門事実なし」


三つの記録が重なる。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


「東門は、開いていません」


扉面の文字が震えた。


東門、開きました。


その文字が、ぐにゃりと歪む。


内側から、何かが苛立ったように封鎖扉を叩いた。


どん。


音は大きくない。


だが、床が揺れた。


カイルが足を踏ん張る。


エルナが一瞬、目を閉じる。


未来視を使いそうになって、止めた。


アーヴェルが細剣を抜き、第二防衛線側の結界線を確認する。


親父が低く言う。


「帰れ」


刃のない柄が、東門の文字へ向けられる。


黒灰色の文字から、細い灰糸が引き出された。


いや、灰糸ではない。


文字そのものが、糸に戻されている。


東。

門。

開。

き。

ま。

し。

た。


一文字ずつ、意味を剥がされる。


扉の奥から、白い袖が揺れた。


柔らかく濁った声が漏れる。


「開きました」


ユーディア先生がすぐに返す。


「開いていません」


「開きました」


「開いていません」


「人は通りました」


「通っていません」


「門は役目を果たしました」


「門衛は門ではありません」


鐘が鳴る。


声と鐘がぶつかる。


その間に、親父の柄が偽記録を戻していく。


だが、扉の奥のものは黙っていない。


黒灰色の文字の下から、別の線が伸びた。


今度は東門ではない。


第一基礎班。


その文字へ。


カイルの名札がかすかに震える。


エルナの名札も。

アーヴェルの名札も。

俺の名札も。


扉が、こちらの班名を使おうとしている。


アーヴェルが前へ出た。


「戦闘科第一基礎班」


声は硬いが、揺れていない。


「月例測定第一日目、中央区画第一試合参加班。構成員は、カイル・レグナート、エルナ・シルヴェリア、リオン、アーヴェル・ロア・クラウゼン」


ユーディア先生の鐘が重なる。


アーヴェルは続けた。


「旧礼拝室扉前防衛協力者。ただし、扉の鍵ではない。通行許可でもない。儀礼上の役割名ではない」


扉の文字が揺れる。


第一基礎班。


そこへ、灰色の注釈が浮かびかけた。


器。

灯。

手。

刃。


カイルが低く言った。


「違う」


彼は一歩前へ出る。


「俺はカイル・レグナート。手とかじゃない。リオンを戻すことはあるけど、誰かに決められた役じゃない」


エルナも続く。


「私はエルナ・シルヴェリア。灯ではありません。治すことも、支えることも、私が選びます」


俺は胸元の名札に触れた。


「俺はリオン。器じゃない」


最後にアーヴェル。


「私はアーヴェル・ロア・クラウゼン。刃ではない。剣を振る理由は、私が決める」


四人の名が重なる。


扉面の注釈が、薄くなる。


しかし、消える直前、奥から黒灰色の線が噛みついた。


注釈を食う。


いや、食い潰して、自分の文字へ変えようとしている。


第一基礎班という名前が、一瞬だけ裂けるように震えた。


ユーディア先生の鐘が強く鳴る。


「固定します!」


エイムが叫ぶ。


「班名参照、異常上昇!」


グレン教官が動いた。


剣が、文字の上を走る。


刃は扉に触れていない。


だが、役割名と班名の間に生まれた余計な線が断たれた。


「余計なものを混ぜるな」


グレン教官の声は低い。


「こいつらは測定参加班だ。お前らの祈りの部品じゃない」


扉の奥で、何かが笑った。


白い袖の声ではない。


もっと低い。

もっと近い。

喉ではなく、空間の裏側から出たような音。


笑いではないのかもしれない。


ただ、こちらには笑っているように聞こえた。


カイルの肩がわずかに震える。


「今の、奥のやつか」


親父が答える。


「聞くな」


「はい」


「名前をつけるな」


「はい」


扉の隙間が、少し広がった。


ほんの少し。


だが、その奥から黒灰色の闇が滲む。


光が近づくと、吸われる。


結界灯が一つ、ぱきんと割れた。


破片が床へ落ちる。


その破片にも、黒灰色の線が触れた。


破片が、扉の方へ這い始める。


小さな石片なのに、虫のように。


カイルが息を呑む。


「気持ち悪っ」


アーヴェルが剣先で床を叩く。


破片の進路を止める。


触れたわけではない。


だが、石片は進む場所を失って止まった。


親父が柄を向ける。


「帰れ」


破片は元の場所へ戻ろうとして、途中で砕けた。


ただの石の粉になり、床に落ちる。


「物にも触るのか」


カイルの声に、親父が答える。


「意味が乗れば何にでも触る」


意味。


門の意味。

名札の意味。

封鎖札の意味。

班名の意味。


旧礼拝室の奥は、意味を食う。


そう思った瞬間、扉面の「リオン」の文字が濃くなった。


しまった。


考えた。


自分で、こちらから意味に触れかけた。


親父の声が飛ぶ。


「戻れ」


カイルもすぐに言う。


「リオン、戻れ」


エルナが重ねる。


「リオンさん」


アーヴェルも。


「リオン」


俺は息を吸った。


胸元の名札が熱い。


でも、文字は消えない。


「戻った」


そう言うと、扉面の「リオン」が少し薄くなる。


親父がこちらを見ずに言う。


「考えるなとは言わん。だが、考えたものを扉に渡すな」


「難しい」


「難しいから練習してきた」


「足りない」


「今足せ」


無茶を言う。


でも、親父らしい。


グレン教官が扉正面へ出た。


「ユアン、東門文言は」


「半分戻した。あと少し」


「先に第一基礎班の方が崩れる」


「リオンを見る」


親父が言う。


「見えるか」


俺は扉を見た。


第一基礎班の文字。


その下に、役割名の残骸が絡みついている。


器。

灯。

手。

刃。


グレン教官が切ったはずの線が、奥の黒灰色に食われて再構成されている。


ただの灰衣の術式なら斬れた。


でも、奥のものが食べると、切れた線すら別の意味になる。


「切った線を食べて、また繋いでます」


俺は言った。


「グレン教官の斬った場所じゃなくて、その斬れた意味を食ってる」


グレン教官の目が鋭くなる。


「厄介だな」


親父が柄を握り直す。


「戻してから斬れ。斬ってから戻すと食われる」


「分かった」


親父が一歩前へ出る。


「リオン、役割名の根を示せ。俺が戻す」


「戻す先は?」


「灰衣の祈りだ」


「奥のものじゃなくて?」


「役割名は灰衣がつけた。奥はそれを食っているだけだ」


なるほど。


器。

灯。

手。

刃。


その名をつけたのは灰衣。


なら、戻す先は灰衣の祈り。


俺は見た。


役割名の根。


それは旧礼拝室の奥ではなく、白い袖の布へ伸びている。


隙間の奥の白い布片。


そこに折り目がある。


「白い袖の左側。袖口の折り目、三つ目」


親父が柄を向ける。


「帰れ」


白い袖が震えた。


柔らかい声が、初めて少し乱れる。


「それは、彼らの役目です」


親父が返す。


「お前の祈りだ」


「必要な役目です」


「押しつけた役だ」


「神を迎えるために」


「人を使うな」


柄の先に、見えない道が生まれる。


役割名が、第一基礎班の文字から剥がれ始めた。


器。

灯。

手。

刃。


それぞれが灰色の糸になり、白い袖の折り目へ戻ろうとする。


白い袖は、それを受け取らないように揺れた。


だが、帰る道はできている。


逃げられない。


糸が袖口へ戻った瞬間、白い布の一部が黒く焦げた。


声が低く歪む。


「……乱暴ですね」


親父は言った。


「お前らほどじゃない」


その瞬間、グレン教官の剣が走った。


戻された直後の空白。


役割名と班名の間。


そこにあった再接続の余地を斬る。


今度は食われない。


戻した後だから。


第一基礎班の文字が、安定した。


ただの班名として。


ユーディア先生の鐘が澄んだ音を出す。


「固定」


エイムが記録する。


「第一基礎班参照、安定。役割名剥離成功」


カイルが小さく息を吐いた。


「今の、きついな」


エルナも頷く。


「呼ばれている感じがしました」


アーヴェルが冷静に言う。


「だが、剥がれた」


その時、扉がまた叩かれた。


どん。


今度は強い。


封鎖扉全体が揺れる。


奥の黒灰色が、白い袖を押しのけるように隙間へ迫った。


白い袖の声が、かすかに聞こえる。


「お待ちを。まだ、形が――」


その声が途中で潰れた。


黒灰色が、白い布片の端を飲み込んだ。


布が、内側から腐るように崩れる。


ミレイア先生が息を呑む。


「奥の反応が、媒介者を食っています」


白い袖は敵だ。


敵のはずだ。


それでも、その布が食われる様子は、ひどく不快だった。


灰衣が人を道具にするなら、奥のものは灰衣すら道具にする。


白い袖の声が濁る。


「まだ……お迎えの、手順が……」


黒灰色がさらに広がる。


扉の隙間から、細いものが出た。


指ではない。


糸でもない。


黒灰色の、濡れた枝のようなもの。


それが封鎖扉の端に触れた瞬間、触れた部分の石が柔らかく歪んだ。


石なのに、肉のように波打つ。


カイルが後ずさりしかけ、すぐに踏みとどまる。


「何だよ、あれ」


親父の声が低くなる。


「出させるな」


グレン教官が剣を振る。


枝のようなものが切れる。


切断面から黒い液体のようなものが垂れた。


床に落ちたそれは、石を焦がすのではなく、石目を変えた。


床の模様が、礼拝堂の床のように変わりかける。


空間を、自分の場所にしている。


親父が柄を向ける。


「帰れ」


黒い液体が震える。


だが、戻りきらない。


奥のものが重い。


親父の手がわずかに軋む。


グレン教官が横から剣を入れる。


「リオン、継ぎ目!」


見える。


黒灰色の枝が出てきた場所。


隙間の端。

旧礼拝室と封鎖扉の境界。

そこに、細い継ぎ目がある。


「右下、封鎖札の裏! 黒灰線が石目を噛んでる!」


グレン教官が動く。


剣が石目の上を走り、噛みついた黒灰線だけを断つ。


親父の柄が重なる。


「帰れ」


今度は戻った。


黒い液体が隙間へ引き戻される。


だが、引き戻される途中で、扉の奥から白い袖の声が漏れた。


「リオン」


名前。


直接。


俺の名札が熱くなる。


返事をするな。


分かっている。


「リオン」


声は親父に似ていた。


いや、親父の声だった。


「飯は食ったか」


胸が凍る。


親父の声。


さっき言われたばかりだ。


飯の話をしろ。


俺が本物なら、半分は本物だ。


でも、これは扉の奥から聞こえている。


俺は返事をしない。


カイルが横で叫ぶ。


「偽物だ!」


エルナが続ける。


「リオンさん、返事をしないで!」


アーヴェルが低く言う。


「こちらを見ろ」


本物の親父の声が、すぐ隣で響いた。


「飯は後だ」


その一言で、胸の奥の冷えが割れた。


違う。


親父は、こんな時に飯の確認をしない。


いや、するかもしれない。


でも、今の本物はこっちにいる。


扉の奥の親父は、俺を呼ぶための声だ。


俺は息を吸う。


「返事しない」


扉の奥で、何かが舌打ちしたような音がした。


親父が低く言う。


「下手だな」


グレン教官が剣を構える。


「挑発するな」


「した方が来る」


「来させるな」


「もう来てる」


その瞬間、封鎖扉の中央に亀裂が入った。


細い。


だが、深い。


亀裂の奥に、旧礼拝室の暗がりが見えた。


白い袖の布片は、半分ほど黒灰色に飲まれている。


その奥に、何かがいる。


形はまだない。


けれど、そこにいる。


見てはいけない。


それでも、見なければ継ぎ目は分からない。


俺は視線を細める。


必要な一点だけ。


亀裂の奥。


黒灰色の根。


そこに、扉が外へ伸ばした道が集まっている。


東門。

第一基礎班。

リオン。

王城封鎖目録。

旧災害対応記録。


全部が、細い束になっている。


「根があります」


俺は言った。


声が震えないように、ゆっくり。


「亀裂の奥。全部の線が束になってる。そこを戻せば、扉が外に伸ばした道を一度引き戻せると思う」


親父が柄を構える。


「距離は」


「遠いです。白鎌なしだと、俺は示せるだけ」


グレン教官が言う。


「白鎌はまだ待て」


親父も頷く。


「俺が届くか試す」


親父が一歩前へ出た。


刃のない柄を、亀裂の奥へ向ける。


「帰れ」


空気が沈んだ。


地下通路全体が、息を止めたようになる。


亀裂の奥の黒灰色の束が、わずかに震えた。


東門へ伸びていた線が、少し戻る。

第一基礎班へ伸びていた線が、少し緩む。

王城封鎖目録への擦過痕が、遠くで薄くなる。


届いている。


だが、足りない。


黒灰色の奥から、何かが親父の柄へ噛みついた。


見えない歯のようなもの。


親父の手首に、黒い筋が浮かぶ。


「親父!」


俺が叫ぶ。


親父は歯を食いしばるが、声は低いままだった。


「動くな」


「でも」


「まだ戻せる」


柄が軋む。


刃のない柄に、細い亀裂が入った。


カイルが叫ぶ。


「教官!」


グレン教官が剣を構える。


だが、斬れば親父の帰る線まで切れる。


一瞬、全員が動けない。


その時、エルナが目を開いた。


未来視。


許可された一度。


彼女の目に、薄い光が宿る。


「リオンさんが白鎌で、親父さんの柄ではなく、噛みついた黒灰線の横を塞げば、戻せます!」


グレン教官が即座に判断した。


「リオン、白鎌許可。黒月は禁止。偏軌なし。置くだけだ」


親父も低く言う。


「来い」


俺は右手を握った。


包帯の下で熱が走る。


「来い」


白い大鎌が顕れる。


昨日より重い。


いや、俺が怖がっている分、重く感じる。


でも、持てる。


カイルが背後から言う。


「戻れって言ったら戻れよ」


「うん」


エルナが続ける。


「こちらにいます」


アーヴェルも。


「位置を間違えるな。噛みついた線の横だ」


俺は前へ出る。


亀裂の奥を見る。


親父の柄へ噛みついた黒灰線。


それ自体を斬ってはいけない。


横。


黒灰線が広がるための場所。


そこを塞ぐ。


白鎌の刃を、亀裂の手前へ置く。


振らない。


ただ、通る場所をなくす。


黒灰線が白鎌に触れた。


重い。


胸の奥が引かれる。


扉の奥で、また親父の声がした。


「リオン」


本物ではない。


「飯は――」


本物の親父が、噛みつかれたまま低く言った。


「今それどころじゃない」


思わず、ほんの少しだけ笑いそうになった。


それで戻った。


俺は白鎌を傾ける。


黒灰線の広がる先を塞ぐ。


親父の柄が軋みながらも、帰る線を保つ。


「帰れ」


親父の声。


グレン教官の剣が、白鎌と柄の間に生まれた余計な噛み跡を斬る。


黒灰線が剥がれた。


親父の手首から黒い筋が消える。


亀裂の奥の束が、大きく引き戻された。


扉全体が震える。


東門の文字が消えた。


第一基礎班の文字が薄くなった。


リオンの文字だけが、まだ残る。


それは、消えない。


むしろ、こちらを見ている。


親父が息を吐く。


「そこは後だ」


グレン教官が頷く。


「一度下がる」


「いや」


親父が扉を見る。


「今、扉の外へ伸ばした道は大半戻った。次に来る前に、本体を閉じる」


「本気か」


「今逃すと、もう一度東門を作られる」


沈黙。


それは正しい。


怖いほど正しい。


オルディス局長が黒杖を強く突く。


「全員、最終封鎖準備。第二防衛線、地下結界室へ下がれ」


カイルが俺を見る。


「リオン」


「大丈夫」


「大丈夫じゃなくても戻れ」


「うん」


エルナが言う。


「次に呼ばれたら、必ず声をかけます」


アーヴェルも頷く。


「班名は保つ。お前は継ぎ目を見ろ」


三人は後ろへ下がる。


俺は白鎌を持ったまま、扉の前に残った。


親父。

グレン教官。

ユーディア先生。

エイム。

ミレイア先生。

リュカ。

オルディス局長。


旧礼拝室の亀裂は、まだ開いている。


その奥で、黒灰色の何かが形を持とうとしていた。


白い袖は、もうほとんど飲まれている。


それでも、最後に声がした。


「扉の内側で、お待ちしています」


その声は途中で潰れた。


黒灰色が、白い布を完全に飲み込む。


そして、旧礼拝室の奥から、別の音がした。


一歩。


何かが、内側で足を動かした音。


グレン教官が剣を構える。


親父が柄を構える。


俺は白鎌を握る。


黒月は使わない。


まだ。


でも、扉の奥のものは、もうこちらを待ってはいなかった。


出ようとしていた。


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