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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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80話__夜を待たない扉

中央棟へ戻る道で、誰も軽口を言わなかった。


カイルでさえ、黙っていた。


東門医療室に残った灰の匂い。

ネイル・オルクの名札。

門印が胸を押し潰す音。

名前を言い続ける、かすれた声。


それが、全員の中に残っていた。


昨日まで、灰衣は気味の悪い相手だった。


名を奪う。

役割を重ねる。

旧礼拝室へ呼ぶ。

礼拝布で学院の導線を使う。


そう聞けば危険だと分かる。


けれど、分かることと、見ることは違う。


人が門にされかける。


自分の名前を言い続けなければ、自分ではなくなる。


痛みがあり、血があり、戻れない者もいた。


それを見た。


だから、廊下の石床を踏む足音が重かった。


グレン教官が先頭を歩く。

その横に親父。

二人の背中は似ていない。


グレン教官は、前にあるものを斬る背中。

親父は、戻る道を絶対に見失わない背中。


その後ろを、俺たちは歩いた。


中央棟小会議室に戻ると、机の上はすでに作戦室のようになっていた。


学院の簡易図。

旧礼拝室周辺の封鎖線。

地下結界室。

創世廊。

資料室。

東門。

救護区画。


赤い印がいくつも置かれている。


昨日までの事件の場所。


そして、今も扉へ繋がりかけている場所。


エイムが記録板を並べる。


「現時点の危険接続点は四箇所です。旧礼拝室扉本体。東門医療室の門印残滓。戦闘科資料室の旧災害対応記録棚。王城封鎖目録への擦過痕」


アーヴェルが図を見ながら言う。


「全て、旧礼拝室本体から伸びていると見ていいのですか」


ミレイア先生が答えた。


「完全には断定できません。ただ、扉本体が中心である可能性は高いです。灰衣は扉を開くための案内役。扉の奥の未分類反応は、その案内を利用して外へ届こうとしている」


「灰衣と奥のものは、同じ目的ではない」


エルナが静かに言った。


ミレイア先生は頷く。


「ええ。灰衣は迎えるつもりです。奥のものは、外を味わい始めています」


外を味わう。


嫌な言葉だった。


親父が机に置かれた旧礼拝室の図を見た。


「味を覚えたものは、次に口を探す」


カイルが眉を寄せる。


「口?」


「通り道だ」


親父は言う。


「門、人の名札、記録、治癒経路、噂。何でもいい。外へ繋がる穴を探す」


東門のネイル。


名札の裏に刻まれた門印。


あれは、口にされかけたのだ。


セラフィナ先生が遅れて入ってきた。


袖には新しい灰がついている。

だが、声は落ち着いていた。


「ネイルさんは治癒棟隔離室へ移送しました。名前は安定。精神負荷は大きいですが、会話は可能です」


カイルが少しだけ息を吐く。


「よかった」


「よかった、で終わる状態ではありません」


セラフィナ先生は厳しく言った。


「ですが、戻っています」


その言葉で、少しだけ空気が緩んだ。


戻っている。


今は、それだけで十分だった。


グレン教官が机の前に立つ。


「今夜まで待たない」


その一言で、部屋が締まった。


「旧礼拝室を閉じる作戦を、夕刻前に行う。夜を待てば向こうの接続が増える可能性が高い」


オルディス局長が頷く。


「王城封鎖線も同期させる。だが、王城側の準備完了を待てば遅れる。学院側で先に扉本体を押さえる」


セイル監査官が記録紙を閉じる。


「王城として承認します。ただし、リオンの白鎌および黒月使用については、現場指揮官の明確な許可下に限定」


「当然だ」


グレン教官が答えた。


親父は俺を見る。


「黒月は使うな」


「でも、必要なら」


「必要にならないようにする」


親父の声は硬い。


「それでも必要なら?」


俺が聞くと、親父は少しだけ黙った。


「その時は、俺が言う」


グレン教官も続ける。


「俺も判断する。リオン、お前は自分で抱えるな」


「はい」


黒月。


二つ目の弧。


出せば、扉を折れるかもしれない。


でも、戻れなくなるかもしれない。


その危険の形を、もう聞いている。


白鎌が外に残る。

俺の位置が、白鎌側へずれる。

扉が俺の場所を覚える。


怖くないわけがない。


でも、怖いから使わない、だけでも駄目なのだと思う。


必要な時に使えるようにする。


そのために、今はまだ使わない。


グレン教官が配置を示した。


「第一防衛線は旧礼拝室扉前。俺、ユアン、リオン、ユーディア、エイム、リュカ、ミレイア」


親父が少し眉を寄せる。


「リオンは前に出しすぎるな」


「見なければ始まらん」


「見すぎれば終わる」


「だから俺とお前がいる」


二人の声は低い。


争っているわけではない。


だが、譲っていない。


オルディス局長が間に入った。


「リオンは扉正面ではなく、右斜め後方。白鎌使用時のみ前進。黒月は禁止。偏軌は許可制」


グレン教官が頷く。


親父も、渋々というように頷いた。


「第二防衛線は地下結界室。カイル、アーヴェル、エルナ、監理局職員二名。扉前から漏れたものを通さない。名札接触を最優先で防ぐ」


カイルがすぐに言う。


「前に出ないんですか」


「前に出るな」


グレン教官の返事は即答だった。


カイルが悔しそうに口を閉じる。


グレン教官は続けた。


「今のお前は大剣を持てない。力で止めようとすれば、東門の椅子みたいに役割を重ねられる」


「でも」


「カイル」


親父が声をかけた。


「お前の役目は、リオンが戻る声を絶やさないことだ」


カイルは親父を見る。


「戦わないってことですか」


「違う」


親父は短く言った。


「戻す戦いだ」


カイルの表情が変わる。


親父は続けた。


「前へ出て殴るだけが戦いじゃない。道を塞ぐ。声をかける。手を伸ばさずに戻れる場所を作る。それができないと、リオンは帰ってこない」


カイルはしばらく黙った。


そして、頷く。


「分かりました」


アーヴェルが言う。


「第二防衛線では、私は指揮補佐と漏出線の進路遮断ですね」


「そうだ」


グレン教官が頷く。


「エルナは治癒術式の使用を原則禁止。ただし、名称保持と意識維持の声かけ、未来視は一度のみ許可する」


エルナは静かに答えた。


「はい」


「一度だ」


「はい」


「見えたものを全部言うな。必要な一点だけだ」


「分かりました」


昨日から、みんな同じことを言われている。


全部見るな。

全部言うな。

全部背負うな。


それはリオンだけの課題ではなくなっていた。


ミレイア先生が旧礼拝室の図へ手を置く。


「問題は、扉を閉じる方法です」


親父が答える。


「閉じるだけなら、また隙間が残る」


「完全に閉じるには」


「扉が外へ伸ばした道を戻す。戻った瞬間、扉本体の継ぎ目を斬る。名前を固定して、灰衣が再定義できないようにする」


「戻す、斬る、固定する」


アーヴェルが整理する。


親父が頷く。


「それだけだ」


カイルが小さく言う。


「それだけって言うには重すぎる」


誰も否定しなかった。


エイムが記録板を見ながら言う。


「扉本体の継ぎ目は、前回リオン君が見た黒灰線の根元に近いと推定されます。ただし、通常観測では見えません」


「リオンが見るしかない」


グレン教官が言う。


親父は俺を見る。


「見えるか」


「分からない」


「それでいい」


「いいの?」


「見えると言い切るやつよりましだ」


親父らしい答えだった。


俺は少しだけ息を吐く。


「見えたら言う。触らない。必要な一点だけ」


「そうしろ」


セラフィナ先生が俺の右手を見た。


「白鎌使用は、本当に必要になった時だけです。今の痕は浅いですが、二度重なれば神経ではなく、存在側に痕が残る可能性があります」


存在側。


医療の言葉ではないはずなのに、セラフィナ先生はそれを当然のように言った。


「分かりました」


「分かっているだけではなく、守ってください」


「はい」


カイルが横で小さく言う。


「今日は全員厳しいな」


アーヴェルが答える。


「厳しくなければ死ぬ」


その言葉は重かった。


でも、今は大げさではない。


死ぬ。


あるいは、死ぬより悪い形で戻れなくなる。


ネイルを見た後では、冗談にできなかった。


その時、会議室の扉が叩かれた。


監理局職員が入ってくる。


「失礼します。旧礼拝室前のリュカ管理司書より伝言です。封鎖札の内側で、礼拝音が増えています」


グレン教官が問う。


「扉の隙間は」


「拡大は停止。ただし、隙間の奥に白い布片らしきものが見えるとのことです」


白い布片。


白い袖。


灰衣の案内者。


親父の目が細くなる。


「向こうも待っているな」


「こちらが来るのを?」


俺が聞く。


「ああ」


「罠?」


「罠でもある。招待でもある」


親父は机の上の柄に触れた。


「どちらでも、踏まなければ閉じられない」


グレン教官が言う。


「準備時間は」


エイムが記録板を確認する。


「封鎖線再調整に半刻。王城同期に同じく半刻。治癒棟からの名称防護符配布に四半刻」


「遅い」


親父が言った。


「扉は待たない」


オルディス局長が判断する。


「四半刻で出る。王城同期は途中接続。治癒棟の防護符は第一、第二防衛線へ優先配布」


セイル監査官が頷く。


「王城側へ伝達します」


四半刻。


思ったより短い。


カイルが深く息を吸った。


「準備する時間、ほぼないですね」


アーヴェルが答える。


「迷う時間がないという意味では、良い」


「そういう前向きさある?」


「必要だ」


エルナが少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


でも、その笑いはすぐに消える。


会議室の空気は、もう作戦前のものになっていた。


セラフィナ先生が医療用の小箱を開く。


「第一基礎班、全員こちらへ。応急処置具と安定薬を渡します。飲むのは指示があった場合だけ。勝手に飲まないこと」


カイルが受け取りながら言う。


「勝手に飲む人います?」


セラフィナ先生はグレン教官を見た。


グレン教官は視線を逸らした。


カイルが小さく言う。


「いるんだ」


「黙れ」


「はい」


少しだけ、空気が緩む。


すぐに戻る。


アーヴェルは細剣の刃を確認した。

エルナは名札を指先でなぞり、深く息を吸う。

カイルは武器のない両手を見て、ゆっくり開いたり閉じたりした。


俺は右手の包帯を見る。


白鎌を呼ぶかもしれない。


でも、黒月は呼ばない。


呼びたくなっても、呼ばない。


自分だけで決めない。


親父が近づいてきた。


「リオン」


「うん」


「今から言うことを覚えておけ」


「うん」


「扉の奥が、お前に見せるものを信用するな」


「見せるもの?」


「雨。血。白い欠片。黒い女。俺。お前自身。どれを見せられても、全部本物だと思うな」


胸が冷える。


「本物も混じる?」


「混じる」


親父はそこを否定しなかった。


「嘘だけなら楽だ。本物に少しだけ嘘を混ぜるから、人は戻れなくなる」


「どう見分けるの」


「一人で見分けるな」


親父は言った。


「見たものを、こちらへ持ち帰れ。お前一人で判断するな。名前を呼ばれたら返事をするな。俺か、カイルか、エルナか、アーヴェルか、グレンの声で戻れ」


「親父の声でも?」


「俺が本物ならな」


その言葉が、嫌に現実的だった。


扉の奥は、親父の姿さえ見せるかもしれない。


「本物かどうか、分からなかったら」


「飯の話をしろ」


一瞬、意味が分からなかった。


「飯?」


「俺が変なことを言ったら疑え。俺が飯を食えと言ったら、半分は本物だ」


カイルが横で小さく吹き出しかけた。


こんな時なのに。


でも、親父は真面目だった。


「生活の言葉は強い。祈りや神話より、ずっと人を戻す」


飯を食え。

寝ろ。

怪我を隠すな。


その全部が、俺を戻す言葉。


「分かった」


「ならいい」


グレン教官が全員を見た。


「四半刻後に出る。それまで各自準備。会議室外への単独移動は禁止。水を飲め。名札を確認しろ。余計な会話はするな」


「余計な会話ってどこからですか」


カイルが聞いた。


「今の質問あたりからだ」


「分かりました」


でも、その一言で少しだけ緊張がほどけた。


カイルは本当にすごい。


本人はたぶん、そう思っていない。


けれど、誰かが笑える隙間を作るのは、戦いの一部なのだと思う。


準備の時間は、短かった。


水を飲む。

名札を見る。

包帯を確認する。

配置を覚える。

戻る合図を確認する。


それだけで終わってしまう。


やがて、廊下の向こうで鐘が鳴った。


出発の合図ではない。


旧礼拝室方面からの警告鐘。


一回。

二回。

三回。


エイムの記録板が赤く光る。


「旧礼拝室扉面、再反応。封鎖札内側より文字浮上」


グレン教官が問う。


「何と出ている」


エイムが読み上げる声が、少しだけ低くなった。


「第一基礎班、リオン」


空気が固まる。


俺の名札が、かすかに熱を持った。


だが、揺れない。


俺は左手で名札に触れる。


「返事しない」


親父が頷いた。


「それでいい」


エイムは続ける。


「文字、追加されます」


誰も息をしなかった。


「東門、開きました」


カイルが低く言った。


「ふざけんな」


その言葉に、誰も注意しなかった。


東門は開いていない。


ネイルは戻った。

門印は剥がした。


それでも、扉はそう書いた。


こちらの現実ではなく、向こうが望む現実を。


旧礼拝室の扉が、自分に都合のいい記録を作り始めている。


親父の目が鋭くなる。


「始まったな」


グレン教官が剣を取った。


「行くぞ」


四半刻を待つ必要はなくなった。


扉は夜を待たない。


俺たちも、待てない。


会議室の扉が開く。


廊下の向こうに、地下へ続く階段がある。


そこから、かすかに礼拝の音が聞こえた。


歌ではない。


祈りでもない。


誰かの名前を、口の中で噛み砕いているような音。


俺は息を吸った。


右手は握らない。


まだ。


名札を胸に戻し、前を見る。


カイルが横に立つ。


エルナが少し後ろへ。

アーヴェルが反対側へ。

親父が前に。

グレン教官が剣を抜く。


戻る場所はある。


それを確かめて、俺たちは旧礼拝室へ向かった。


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