78話_刃のない柄
中央棟小会議室には、朝の時より多くの封鎖符が貼られていた。
扉の内側。
窓のない壁。
長机の四隅。
床の結界線。
昨日までは記録と聞き取りのための部屋だった。
今は違う。
誰かが余計な一言を発しただけで、その言葉がどこかへ繋がらないよう、部屋全体が慎重に閉じられている。
東門の灰針。
門衛ネイル・オルクの空白になった名札。
手の甲に縫いつけられた灰色。
あれを見たあとでは、この過剰な封鎖も大げさには思えなかった。
俺たちは席に着いた。
第一基礎班の四人が並び、向かいに親父。
その横にオルディス局長とセイル監査官。
グレン教官は入口近くに立つ。
ユーディア先生、エイム、ミレイア先生も同席している。
リュカはいない。
旧礼拝室の応急封鎖を確認しているらしい。
セラフィナ先生もいない。
東門の門衛ネイルの治療へ回った。
あの門衛の震えが、まだ目の奥に残っている。
灰衣は、人を道具にする。
比喩ではなく、本当に。
親父は席についても、しばらく何も言わなかった。
旅の埃を払うこともない。
疲れた様子を見せることもない。
ただ、腰に差した刃のない柄を外し、机の上に置いた。
古い柄。
刃はない。
なのに、それが置かれただけで、部屋の空気が少し整った気がした。
カイルがその柄を見て、息を呑む。
「それが、さっきの」
親父は短く答えた。
「ああ」
「剣、なんですか」
「昔はな」
アーヴェルが静かに問う。
「今は違うと」
「刃は折れた」
親父は柄に視線を落とす。
「だが、道は残った」
道。
その言葉に、昨日から何度も浮かんでいた感覚が重なる。
帰る線。
親父は、道を知っている。
オルディス局長が言った。
「まず、名乗っておけ。ここにいる者たちには必要だ」
親父は少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「リオンの親父で足りる」
「記録には足りん」
「記録は昔からうるさい」
「今もだ」
親父は、仕方なさそうに顔を上げた。
「ユアン・グレイ。今は、それで通している」
エイムが記録板に書き込む。
ユアン・グレイ。
初めて聞く名前だった。
親父の名前。
俺は、その響きを胸の中で繰り返した。
ユアン。
でも、口には出さなかった。
まだ、少し遠い。
親父は俺を見る。
「呼びにくいなら、親父でいい」
「……うん」
「それで足りる」
その言葉に、少しだけ息がしやすくなった。
セイル監査官が記録紙を開く。
「ユアン・グレイ。元境界監理局特別封鎖班所属。北方封鎖戦、旧街道迷走域、灰祈りの門事件、その他複数の封鎖案件に関与。現在はリオンの保護者として監理局管理下の地方村に居住」
カイルが目を丸くした。
「元監理局」
アーヴェルは表情を変えないが、目だけが少し鋭くなる。
エルナも静かに親父を見ていた。
俺は、言葉が遅れて届いた。
元境界監理局特別封鎖班。
ただの村人ではない。
分かっていたはずなのに、記録として聞くと、やはり重い。
親父はセイル監査官を見る。
「昔の肩書きだ」
「今も必要な情報です」
「なら勝手に読め」
「質問には答えていただきます」
「飯の後ならな」
「食後です」
親父は少しだけ黙った。
「そうだったな」
カイルが小声で言う。
「飯を盾にできなかった」
グレン教官が低く言った。
「黙って聞け」
「はい」
セイル監査官は続ける。
「あなたの能力について、第一基礎班にも共有する必要があります。東門で灰針を戻した力です」
親父は柄の上に手を置いた。
「能力というほど立派なものじゃない」
「記録上は固有能力に分類されています」
「記録が勝手にそうしているだけだ」
「名称は」
「要らん」
セイル監査官は少しだけ眉を寄せた。
オルディス局長が横から言う。
「昔の記録名は『帰路』だ」
親父の目が少しだけ細くなる。
「その名は使うな」
ユーディア先生の鐘が、布の中で微かに鳴った。
名前そのものに、少し重さがあるのだと分かる。
親父は続けた。
「力に名前をつけると、できる気になる。できると思った奴から、戻れなくなる」
その言葉に、グレン教官がわずかに頷いた。
黒月第二弧の時と同じだ。
使えもしないものに名前をつけるな。
親父とグレン教官は、やはりどこか似ている。
親父は机の上の柄を軽く叩いた。
「俺にできるのは、戻すことだ」
部屋が静まる。
「道を、道へ。名前を、本人へ。糸を、布へ。祈りを、祈った場所へ。迷ったものを、帰るべき場所へ戻す」
帰す力。
俺が昨日感じた通りだった。
親父は俺を見る。
「お前とは逆だ」
「逆?」
「お前は歪みを見る。ずらす。切る。俺は、歪んだものを元へ戻す」
「元へ戻せるなら」
言いかけて、止まる。
なら、俺の記憶も戻せるのか。
六歳以前のことも。
親父は先に答えた。
「何でも戻せるわけじゃない」
その声は静かだった。
「帰る場所が分からないものは戻せない。戻ることを拒むものも戻せない。戻した先がもう壊れているものも、戻せない」
胸の奥が、少し冷える。
「俺の記憶は」
「戻せなかった」
即答だった。
言い訳ではない。
誤魔化しでもない。
ただ、できなかった事実として置かれた。
「なぜ」
「お前の記憶は、失われたんじゃない。切り離されていた」
親父の声が少し低くなる。
「帰る場所がなかった。俺が無理に戻せば、お前ごと裂けた」
エルナが息を呑む。
カイルの顔から軽さが消える。
アーヴェルは、黙ったまま机の上の柄を見ていた。
セイル監査官が記録する音だけがする。
親父は続ける。
「だから、戻さなかった」
「俺に、言わなかったのは」
「言えば、お前は探す」
その言葉は、すぐに胸に刺さった。
否定できなかった。
「探せば、向こうも気づく。お前の中の切り離されたものが揺れる。今みたいにな」
「昨日の夢」
「ああ」
親父は俺を見る。
「雨を見たか」
「見た」
「血は」
「見た」
「白い欠片は」
「見た」
親父の表情が、ほんの少しだけ固くなる。
「そこまで出たか」
「白い欠片は何?」
親父はすぐには答えなかった。
部屋の封鎖符が、わずかに震える。
ユーディア先生が鐘へ手を添えた。
ミレイア先生も表情を引き締める。
親父は慎重に言葉を選んだ。
「白鎌の前の形だ」
喉が乾いた。
「白鎌の前」
「お前が持っていたものじゃない。お前のそばに落ちていたものだ」
「翼?」
親父は目を伏せない。
「片翼の欠片だ」
小会議室の空気が、重くなる。
黒いドレスの女。
片翼。
白い大鎌。
欠けた神話。
分かっていたはずのものが、急に近づいた。
ミレイア先生が小さく息を吸う。
「片翼の欠片が、白鎌の元である可能性は、神話上は考えていました。ですが、現物を見たのですか」
親父は短く答える。
「見た」
「状態は」
「白い骨に見えた。だが、骨じゃない。羽でもない。刃でもない。あれは、人の目で理解できる形に落ちていただけだ」
「回収は」
「できなかった」
オルディス局長が言う。
「お前が戻そうとして失敗した記録がある」
「戻そうとしたんじゃない。子供から離そうとした」
子供。
俺のことだ。
親父は机の柄に視線を落とす。
「触った瞬間、柄の刃が消えた」
カイルが思わず聞く。
「折れたんじゃなくて?」
「消えた。戻された」
「どこへ」
親父は少しだけ口を閉じた。
「分からん」
分からない。
親父にも、分からないことがある。
「だが、柄だけ残った。以来、斬れなくなった代わりに、帰す力だけが残った」
アーヴェルが静かに言う。
「あなたの能力は、元々その柄と一体だったのですか」
「昔は刃で道を開いた。今は柄で道を戻す」
「白鎌に触れた影響で変質した」
「そう見ていい」
親父は俺を見る。
「お前のそばにあった白い欠片は、その後消えた。しばらくして、お前の力が落ち着いた頃、白鎌として出るようになった」
俺は右手を見る。
包帯の下に、白鎌の感覚はない。
でも、遠くで聞いている気がした。
「なんで言わなかったの」
声は思ったより静かだった。
でも、胸の奥は静かではなかった。
「親父は、知ってたんだろ。白鎌が何か」
「全部じゃない」
「でも、少しは」
「ああ」
「黒い女のことも?」
小会議室の空気が、さらに冷える。
グレン教官の視線が鋭くなる。
ユーディア先生の鐘が布の中で鳴った。
親父は、俺から目を逸らさなかった。
「見た」
胸が詰まる。
「いつ」
「お前を拾った夜」
夢の中の雨。
遠くで揺れた黒いもの。
あれは。
「いたの?」
「いた」
親父の声は低い。
「お前のそばに立っていた」
「何をしてた」
「何も」
「何も?」
「ああ。雨の中で、お前と白い欠片を見ていた」
ぞわりとした。
守っていたのか。
見張っていたのか。
待っていたのか。
昨日の夜に感じたのと同じ問いが、もっと深くなる。
親父は続ける。
「俺が近づいた時、そいつは俺を見た」
「何か言った?」
「言わなかった」
「何かした?」
「何もしなかった」
「じゃあ、なんで」
俺の声が少しだけ揺れた。
「なんで俺を連れて行けたの」
親父は静かに答えた。
「お前が、生きていたからだ」
その答えは、理由になっているようで、なっていないように聞こえた。
親父は続ける。
「俺は死んだものは戻せない。帰る場所がないものも戻せない。だが、生きている子供は別だ」
一つずつ、言葉を置く。
「お前は神の欠片じゃなかった。器でもなかった。雨の中で震えていた、名前のない子供だった」
胸の奥が痛くなる。
「だから、抱き上げた」
親父の声は変わらない。
「黒い女が止めなかった。それだけだ」
黒いドレスの女。
俺の中にいるもの。
白鎌の奥にいるもの。
それが、止めなかった。
なぜ。
問いは増える。
答えはまだない。
カイルが、机の下で拳を握っていた。
怒っている。
たぶん、親父にではない。
何に怒っていいか分からないものに、怒っている。
エルナは、静かに俺を見ている。
心配そうに。
でも、止めようとはしていない。
アーヴェルは、親父の言葉を一つずつ記録するように聞いていた。
セイル監査官が問う。
「黒衣の存在について、王城記録へ報告しなかった理由は」
親父は監査官を見た。
「報告した」
セイル監査官の目が細くなる。
オルディス局長が低く言った。
「当時の記録は一部封鎖されている。王城の表記には残っていない」
「誰が封鎖した」
セイル監査官の声が冷たくなる。
オルディス局長は答えない。
代わりに、親父が言った。
「王城だ」
小会議室の空気が止まる。
「都合が悪かったんだろう。神話の半身と、雨の中の子供。どちらも、まともに扱えば王国中が騒ぐ」
「その判断は、陛下の前代か」
セイル監査官が問う。
「当時の王城上層だ。今の陛下ではない」
親父の声には、感情が少しだけ混じった。
嫌悪に近い。
「だから俺は、リオンを村へ連れて行った。監理局には最低限だけ渡した。王城には触らせなかった」
オルディス局長は否定しなかった。
つまり、そういうことだ。
俺は聞いた。
「局長も、知ってたんですか」
「一部は」
オルディス局長が答える。
「全てではない。ユアンは、必要以上に話さなかった」
「信用してなかったからな」
親父が言う。
局長は苦笑しない。
「それでも、リオンの保護は認めた」
「それは認める」
二人の間にも、過去がある。
俺の知らない時間。
その重さが、部屋の中にある。
エイムは記録板を持っているが、筆が少し遅い。
さすがのエイムでも、全部をただ記録するだけでは済まないのかもしれない。
グレン教官が口を開いた。
「黒月第二弧について、知っていることは」
親父は俺を見る。
「早すぎる」
昨日も言った言葉。
「本来なら、白鎌を自分の理由で扱い続けた後だ。黒月が一本だけでなく、前後に残る。攻撃を折るだけでなく、通るはずだった道と、通らせない道を同時に作る」
「双月か」
グレン教官が呟く。
親父は睨む。
「名前をつけるな」
「分かっている」
「分かってる顔じゃない」
「記録名だ」
「それが危ない」
親父は短く言った。
「こいつはまだ、自分がどこへ帰るかを全部知らない。そんな状態で二つ目を固定すれば、帰る場所を間違える」
「どうなる」
カイルが聞いた。
親父はカイルを見た。
「白鎌が戻らない」
その言葉で、胸の奥が冷えた。
「どういう意味」
俺が聞くと、親父は答えた。
「白鎌が外に残る。お前の手に戻らず、空間に傷として残る。そこから向こう側が触れる」
向こう側。
旧礼拝室の奥。
黒い女。
神話の半身。
あるいは、その全部。
「最悪の場合は」
セイル監査官が問う。
親父は淡々と答える。
「リオンの位置が、白鎌側へずれる」
意味を理解するのに、少し時間がかかった。
俺の位置。
名前ではなく、身体でもなく。
存在の位置。
「それは、リオンさんがこちらに戻れなくなるということですか」
エルナの声が震えそうで、でも震えなかった。
親父は頷いた。
「そうだ」
誰もすぐには言葉を出さなかった。
これまで、黒月は危険だと言われてきた。
でも、危険の形が今、はっきりした。
強すぎるから危険なのではない。
暴れるから危険なのでもない。
戻れなくなる。
それは、リオンという名前を失うよりもっと深い場所の話だった。
親父は俺を見る。
「だから、まだ追うな」
「……うん」
「ただし」
親父はそこで少しだけ言葉を切った。
「次に扉の奥が本気で来るなら、使わないと間に合わないかもしれん」
グレン教官が低く言う。
「それを鍛えるために来たのか」
「それもある」
「他は」
親父は刃のない柄へ視線を落とした。
「扉を閉じるためだ」
ミレイア先生が問う。
「旧礼拝室の扉を、完全に閉じられるのですか」
「一人では無理だ」
親父は即答した。
「昔ならできたかもしれない。今の柄だけでは足りん」
「何が必要ですか」
「戻す場所と、切る場所。両方だ」
親父の視線が俺に向く。
「俺は帰す。リオンは断つ」
グレン教官が続ける。
「俺が形になる前を斬る」
ユーディア先生が言う。
「私は名前を固定します」
ミレイア先生が頷く。
「私は扉の神話構造を読む」
エイムが記録板を握る。
「私は全記録を同期します」
アーヴェルが静かに言った。
「第一基礎班は、防衛線を維持する」
カイルが頷く。
「出てくるものを止める」
エルナも。
「戻れる場所を支えます」
親父は一瞬だけ、四人を見た。
そして、俺に言った。
「いい班だな」
「うん」
それは少しだけ誇らしかった。
だが、その直後だった。
部屋の封鎖符が、一斉に震えた。
最初は小さな音。
紙が擦れるような音。
次に、結界線が青く光る。
ユーディア先生が即座に鐘を手に取る。
「名称反応ではありません」
エイムの記録板が赤く点滅した。
「旧礼拝室方面、応急封鎖に異常! 扉面の隙間、拡大反応!」
グレン教官が剣に手をかける。
「来たか」
親父は刃のない柄を持つ。
「早いな」
ミレイア先生が顔色を変える。
「旧礼拝室からではなく、東門の残滓を通じて反応が返っています」
東門。
ネイルの手。
灰針。
血。
あの場所がまだ、完全には終わっていなかった。
エイムが叫ぶ。
「東門医療班から通信! ネイル・オルクの手の傷口から、灰色再燃!」
エルナが立ち上がる。
「そんな、針は抜けたはずです!」
エイムの記録板から、通信音が乱れる。
『――傷口ではありません、名札です! 名札の裏に、灰色の門印が――』
通信の向こうで、短い悲鳴が上がった。
誰かのもの。
長くはない。
だが、痛みを押し殺せなかった声。
セラフィナ先生の声が続く。
『東門医療室、封鎖! ネイルさんの名前は保持しています、ですが門印が別の対象へ接続――』
音が途切れる。
結界符が一枚、机の端で黒く焦げた。
カイルが立ち上がる。
「ネイルさんがまた!?」
親父の顔が険しくなる。
「灰針の本体じゃない。戻された針に、返しが仕込まれていた」
「返し?」
「戻した先から、別の道を作る仕込みだ」
グレン教官が低く言う。
「お前を誘うためか」
親父は首を振る。
「違う」
その視線が俺へ向く。
「リオンを呼んでいる」
胸元の名札が、熱を持った。
リオン。
文字は消えない。
だが、その下に、灰色ではなく黒灰色の細い線が浮かびかける。
東門。
門衛。
血。
傷。
名札。
そこを通って、旧礼拝室の奥がこちらを見ている。
カイルが俺の前に立つ。
エルナが防護線を出しかけ、グレン教官の視線で抑える。
アーヴェルが細剣に手をかける。
親父は俺の名札を見た。
「返事をするな」
「うん」
「見るなら一点だけだ」
「うん」
グレン教官が扉へ向かう。
「全員、東門医療室へ向かう」
オルディス局長が黒杖を突く。
「監査官、王城側封鎖線を東門へ回せ。エイム、セラフィナ主任との通信を復旧」
「はい!」
部屋が一気に動き出す。
さっきまで話していた過去は、まだ机の上に残っている。
白い欠片。
黒い女。
親父の名前。
白鎌の危険。
何も消化できていない。
だが、待ってはくれない。
灰衣は、人の傷口すら道にする。
名札の裏に印を残し、治療の場へ返しを仕込む。
ネイルは名前を取り戻した。
それでも、まだ利用されている。
それが、腹の底を冷たくした。
親父が俺の横に来る。
「怒るなとは言わん」
低い声。
「だが、怒りで道を間違えるな」
「うん」
「行くぞ、リオン」
親父が俺の名前を呼ぶ。
その声で、名札の熱が少しだけ落ち着いた。
俺は立ち上がる。
白鎌は呼ばない。
まだ。
でも、呼ぶ理由は近づいている。
東門医療室から、もう一度通信が入った。
今度はセラフィナ先生の声ではない。
ネイルの声だった。
かすれて、震えて、それでも自分の名前を必死で掴んでいる声。
『ネイル……オルク……です……門では、ありません……』
その声が途切れた瞬間、通信の向こうで何かが裂ける音がした。
布ではない。
肉でもない。
名前と役割の間に、無理やり釘を打ち込むような音。
親父の目が鋭くなる。
「急げ」
俺たちは小会議室を飛び出した。
東門へ。
戻れたはずの人を、もう一度奪わせないために。




