77話_東門の灰
東門へ向かう道は、学院の中でもあまり使わない通路だった。
王都と学院を繋ぐ外門。
生徒が普段出入りする正門とは違い、物資搬入や監理局の移動、王城からの急使が使う場所。
石造りの長い廊下を抜けると、空気が変わった。
学院の空気ではない。
王都の空気。
城壁の石と、馬車の轍と、門衛たちの革鎧の匂いが混じった、外へ続く空気。
俺たちはグレン教官の後ろを歩いていた。
カイルは大剣を持っていない。
医療指示で、今日は持つなと言われている。
それでも、腰のあたりへ手が伸びそうになるたび、彼は自分で止めていた。
エルナは名札に触れず、両手を前で軽く重ねている。
アーヴェルは歩きながら周囲の兵と結界石の位置を見ていた。
俺は右手を握らないようにして、左手で名札に触れる。
リオン。
まだ揺れていない。
東門の手前には、すでに監理局職員が並んでいた。
オルディス局長もいる。
王城監査官セイルも、黒に近い紺色の外套を着て立っていた。
門は閉じている。
だが、完全な閉門ではない。
外側の確認を終えた者だけを通すため、片側の小扉だけが開いていた。
その隙間から、王都外縁の朝の光が差し込んでいる。
カイルが小声で言った。
「ここ、空気重いな」
アーヴェルが答える。
「王都側の封鎖線も混ざっている」
「分かるのか」
「雰囲気だけだ」
「十分すごいな」
グレン教官が足を止めた。
俺たちも止まる。
オルディス局長がこちらを見た。
「来たか」
「状況は」
グレン教官が聞く。
局長はすぐには答えず、門の内側に視線を向けた。
そこに、一人の門衛が立っていた。
いや。
立たされていた。
革鎧を着た若い門衛。
剣は腰にある。
兜は片手に持ったまま落としている。
目は開いているが、焦点が合っていない。
左手が、門柱の古い鉄輪に押しつけられていた。
その手の甲に、灰色の針が刺さっている。
深く。
血は多くない。
けれど、針の周りの皮膚が灰色に滲み、まるで手の中に別の文字を縫い込まれているように見えた。
門衛の名札は、空白だった。
カイルが息を呑む。
「……何だよ、これ」
エルナの顔色が変わる。
アーヴェルも目を細めた。
俺は見てしまった。
灰色の線が、門衛の手から門柱へ伸びている。
門柱から鉄輪へ。
鉄輪から小扉へ。
小扉から外の道へ。
門衛本人ではなく、門という役割へ縫いつけようとしている。
門衛の口が動いた。
「東門、開門確認」
乾いた声だった。
人の声なのに、人の声に聞こえない。
「東門、通行確認」
ユーディア先生がすでに到着していたらしく、鐘に手をかける。
「名前が剥がれています。本人名が奥に押し込まれて、門の役割が上に被っています」
「戻せるか」
グレン教官が聞く。
「名前が分かれば」
エイムが記録板を確認する。
「門衛名簿照合。該当者、ネイル・オルク。王都東門補助門衛、二年目」
ユーディア先生が鐘を鳴らした。
「ネイル・オルク」
鐘の音が門の内側に広がる。
門衛の唇が震えた。
「東門、開門確認」
「ネイル・オルク」
ユーディア先生がもう一度呼ぶ。
門衛の喉が引きつる。
言葉を出そうとしている。
でも、灰色の針がそれを許さない。
門衛の指が、鉄輪を掴んだまま震えた。
爪の下に血が滲む。
それでも手を離せない。
エルナが一歩前へ出かける。
「治療を――」
「待て」
グレン教官が止めた。
声は低い。
「針を抜く前に触ると、治癒術式ごと門に縫われる」
エルナの足が止まる。
顔に悔しさが浮かんだ。
「では」
「名前を先に戻す」
ユーディア先生が言った。
「ただ、針が深いです。本人が自分の名を一音でも返せれば、抜けます」
門衛の口が動く。
「と……」
違う。
東門と言いかけている。
灰色の針が、手の甲の中でわずかに沈んだ。
門衛の身体がびくりと震える。
カイルの拳が固くなる。
「これ、ずっとやられてたのか」
エイムが記録板を見る。
「外縁監視の乱れは半刻前です。長くとも、それ以内」
「半刻でこれかよ」
誰も答えなかった。
俺は見ている。
灰色の針から伸びる細い線。
門衛の名前を、門という役割の下へ押し込んでいる線。
その奥に、ほんの少しだけ本人の名前が残っている。
ネイル。
音ではなく、震えのように。
「リオン」
グレン教官が言った。
「見えるか」
「見えます」
「触るな。位置だけ言え」
「針の根元じゃない。手の甲の中、名前の上に被さってる折り目があります」
リュカはいない。
封印針も、ここにはない。
だが、ユーディア先生の鐘と、エイムの記録がある。
オルディス局長が黒杖を床へ突いた。
「名前を呼べ」
ユーディア先生が頷く。
「全員ではなく、必要な声だけ。門衛名簿と一致させます」
エイムが記録板を読み上げる。
「ネイル・オルク。王都東門補助門衛。所属、東門第二交替班。生家、王都東区。記録上の本人名、ネイル・オルク」
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「ネイル・オルク」
門衛の口が震える。
「と……」
灰色がまた沈む。
俺は思わず言った。
「違う。東門じゃない。ネイル」
門衛の目が、ほんの少し動いた。
こちらを見たのかは分からない。
でも、反応した。
「ネ……」
灰色の針が、激しく震えた。
門柱の鉄輪が鳴る。
小扉が、内側から開こうとする。
門衛の手を使って。
アーヴェルが鋭く言った。
「扉を押さえろ!」
監理局職員が結界を張る。
カイルは武器がないまま、それでも前へ出た。
「俺、押さえます!」
「触るな!」
グレン教官が止める。
その瞬間、小扉の隙間から灰色の糸が吹き込んだ。
細い。
だが、速い。
狙いは門衛ではない。
俺たちの名札。
カイルが前に出かける。
アーヴェルが彼の肩を掴んで引き戻す。
エルナが防護線を張ろうとして、ぐっと堪えた。
治癒や防護を雑に出せば、門の役割に縫われる。
昨日学んだばかりだ。
俺は右手を握りそうになった。
白鎌は呼ばない。
今日は呼ばない。
でも、灰色の糸がこちらへ来る。
グレン教官が剣を抜く。
一閃。
糸は形になる前に断たれた。
だが、一本だけではない。
小扉の外から、さらに灰色が伸びる。
門衛の手の甲の針が、名前を押し潰すように震えた。
門衛が声にならない声を上げる。
その喉が、東門という言葉を吐き出そうとしている。
違う。
それを言わせたら、戻れなくなる。
俺は前へ出た。
グレン教官がこちらを見る。
「リオン」
「見ます。触りません」
短く言う。
必要な一点だけ。
全部は見ない。
灰色の針。
手の甲。
名前。
門の役割。
その重なりの中で、一番薄い場所。
本人の名前が、まだ残っているところ。
「ネイル」
俺は言った。
「そこにいる」
門衛の目が揺れる。
「ネ……」
ユーディア先生の鐘。
「ネイル・オルク」
エイムの記録。
「王都東門補助門衛、ネイル・オルク」
オルディス局長の声。
「ネイル・オルク。任務解除。門を離れろ」
門衛の唇が震えた。
灰色の針が、手の中で折れかける。
でも、まだ抜けない。
門衛の顔に、初めて苦痛が浮かんだ。
今まで無表情だった分、その変化がひどく痛々しい。
「ネ……イ……」
血が一滴、手の甲から落ちる。
「ネイル……オルク」
言えた。
その瞬間、灰色の針が手の甲から浮き上がった。
だが、ただ抜けたのではない。
針は門衛の名前を諦めた代わりに、外へ逃げようとした。
小扉へ。
外の道へ。
白い袖が待つ方へ。
逃がせば、また誰かに刺さる。
グレン教官が動こうとした。
しかし、その前に、開いた小扉の向こうから声がした。
「帰れ」
低い声。
聞いたことがある。
何度も。
飯を食え、と言った声。
寝ろ、と言った声。
怪我を隠すな、と言った声。
灰色の針が、空中で止まった。
逃げる先を失ったように、震える。
小扉の外に、男が立っていた。
古い外套。
旅の埃。
無精に伸びた髪。
腰には、刃のない柄。
親父。
男は小扉をくぐる前に、もう一度言った。
「帰れ」
灰色の針が、逆向きに折れた。
逃げるのではない。
来た場所へ戻る。
針は灰色の線になり、小扉の外へ飛び出した。
遠くで、何かが裂けるような音がした。
白い布が破れたような音。
灰が風に流れ込む。
門衛は膝から崩れた。
エルナが今度こそ動いた。
「治療します」
グレン教官は止めなかった。
灰針は抜けた。
名前も戻った。
エルナの治癒術式が門衛の手を包む。
セラフィナ先生ほどではないが、白い光は確かに傷を閉じようとしていた。
門衛は震えながら、自分の名札を見た。
空白だった名札に、ゆっくり文字が戻る。
ネイル・オルク。
彼はそれを見て、涙をこぼした。
声は出ない。
ただ、何度も名札を握りしめている。
カイルは唇を噛んでいた。
アーヴェルの表情も硬い。
これは、試合ではない。
測定でもない。
灰衣に触れられたら、人はこうなる。
名前を奪われるというのは、少し気持ち悪い現象ではない。
苦痛がある。
血が出る。
戻れなくなるかもしれない。
その現実が、東門の冷たい石床に落ちていた。
親父は、ようやく小扉をくぐった。
俺を見る。
思ったより、普通だった。
遠くの村で見ていた時と同じ。
少し疲れた外套。
無駄のない歩き方。
目立つことを嫌うような佇まい。
でも、周囲の大人たちが誰も軽く扱っていない。
オルディス局長が言う。
「早かったな」
親父は答える。
「遅いくらいだ」
「道中、灰衣と接触したか」
「した」
「数は」
「数える価値はなかった」
カイルが小さく息を呑む。
親父はそれを気にせず、グレン教官を見る。
「手」
「処置済みだ」
「下手をしたな」
「うるさい」
グレン教官が低く返した。
二人は知り合いだ。
それも、ただ名前を知っているだけではない。
親父は次に、俺を見た。
まっすぐ。
「リオン」
名前。
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが少し崩れた。
安心なのか。
怖さなのか。
怒りなのか。
分からない。
俺は答えた。
「親父」
それだけで、少し息が詰まった。
親父は近づいてくる。
俺の右手を見る。
包帯。
次に顔を見る。
それから、いつもと同じ声で言った。
「飯は食ったか」
カイルが横で小さく息を吐いた。
笑いそうになったのかもしれない。
でも、俺は笑えなかった。
ただ、頷いた。
「食べた」
「寝たか」
「少し」
「怪我は」
「隠してない」
親父は短く頷いた。
「ならいい」
それだけだった。
抱きしめることもない。
泣くこともない。
大げさな再会でもない。
でも、その三つを確認された瞬間、ようやく戻ってきた気がした。
親父は俺の胸元の名札を見た。
リオン。
第一基礎班。
少しだけ、目を細める。
「いい名札だ」
「うん」
「持ってろ」
「うん」
オルディス局長が咳払いする。
「再会の途中で悪いが、話は多い」
親父は局長を見る。
「多いだろうな」
「旧礼拝室が動いた」
「聞いた」
「王城封鎖目録にも触れた」
「だろうな」
「リオンが黒月の第二弧を出した」
親父の表情が、初めて少し変わった。
ほんの少し。
だが、俺には分かった。
驚いた。
そして、嫌な顔をした。
グレン教官が言った通りだった。
「早い」
親父は低く言った。
俺は聞く。
「知ってるの?」
「今は話す」
「今?」
「飯の後だ」
カイルが小声で言う。
「徹底してる」
親父はカイルを見る。
「お前がカイルか」
「はい。カイル・レグナートです」
「飯は食ったか」
「食いました」
「ならいい」
カイルはなぜか姿勢を正した。
親父はエルナを見る。
「エルナ・シルヴェリア」
「はい」
「リオンを戻してくれたらしいな」
エルナは少しだけ目を見開いた。
「私だけではありません」
「それでもだ」
親父は短く言った。
「助かった」
エルナは静かに頭を下げた。
「こちらこそ、リオンさんには何度も助けられています」
「そうか」
次にアーヴェル。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
「はい」
「クラウゼンの記録が触られたな」
アーヴェルの表情が硬くなる。
「ご存じなのですか」
「昔から面倒な記録だ」
「昔から」
「後で話す」
親父の答えは短い。
だが、逃げている感じではなかった。
順番を決めている。
今ここでは話さないだけ。
親父は最後に、倒れた門衛へ視線を向けた。
エルナの治療で、門衛の手の傷は閉じ始めている。
だが、顔色は悪い。
名札を握ったまま、まだ震えていた。
親父はその前にしゃがんだ。
「名前」
門衛はかすれた声で答える。
「ネイル・オルク」
「帰ったな」
門衛は泣きそうな顔で頷いた。
「はい」
「次に道具にされそうになったら、自分の名を先に言え。門はお前じゃない」
「はい」
親父は立ち上がった。
グレン教官が静かに言う。
「灰衣は、門衛まで使った」
「あいつらは使う」
親父の声は低かった。
「布も、道も、名前も、人も。使えると思えば使う」
その言葉には、経験があった。
見てきた者の言い方だった。
オルディス局長が言う。
「だから呼んだ」
「呼ばれなくても来た」
「だろうな」
親父は俺を見る。
「リオン」
「うん」
「話すことがある」
胸が固くなる。
でも、逃げない。
「うん」
「ただし、ここではない」
親父は東門の小扉を見た。
灰色の残滓は消えたが、石床にはまだ血の跡がある。
門衛ネイルの震えも、完全には収まっていない。
「ここは、今は人を戻す場所だ。話をする場所じゃない」
グレン教官が頷く。
「中央棟へ戻る。局長、監査官、ユーディア、エイム、第一基礎班。親父殿も同席」
親父が眉をひそめる。
「親父殿はやめろ」
カイルが思わず言った。
「親父さん?」
「それも違う」
「じゃあ何て呼べば」
親父は少しだけ考えた。
「今は、リオンの親父でいい」
「結局親父なんですね」
「それで足りる」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
血は繋がっていない。
それは白い袖も言っていた。
でも、足りる。
親父がそう言うなら、たぶん足りる。
東門から中央棟へ戻る。
門衛ネイルは医療班に引き継がれた。
名札は戻った。
傷も閉じるだろう。
でも、あの震えはすぐには消えない。
灰衣は、本当に人を使う。
名前を奪い、役割へ縫いつけ、門の一部にしようとした。
それを見た。
もう、ただ気味の悪い敵ではない。
許せない敵だ。
右手が少し震える。
握りそうになる。
親父の声が横から飛んだ。
「握るな」
俺は止めた。
「……見てた?」
「見てなくても分かる」
「なんで」
「お前は考えすぎると手を握る」
昔から、という言い方だった。
俺は少しだけ黙る。
親父は歩きながら言った。
「怒るのはいい。怒りで振るな」
「うん」
「振るなら、理由を持て」
「うん」
同じ言葉。
でも、今は重さが違う。
東門の血の跡。
ネイルの名札。
灰色の針。
親父の「帰れ」。
全部が重なっている。
中央棟へ向かう廊下に入る前、親父は一度だけ振り返った。
東門を見る。
「まだ来る」
低い声だった。
グレン教官が問う。
「灰衣か」
「灰衣もだ」
「他は」
親父は少しだけ黙った。
「扉の奥が、外の味を覚えた」
その言葉で、廊下の空気が冷えた。
俺は昨日の黒灰線を思い出す。
門を使おうとした灰針。
王城封鎖目録へ伸びた線。
親父を狙った街道の糸。
全部、ただの前触れなのかもしれない。
親父は歩き出す。
「急げ。話しておかないと、間に合わん」
間に合わない。
その言葉が、胸に残った。
第1章の終わりが、近づいている気がした。
でも、まだ終わっていない。
これから、聞く。
俺がどこから来たのか。
白鎌が何なのか。
黒月の二つ目が、なぜ早すぎるのか。
そして、親父がなぜ俺をリオンと呼んだのか。
中央棟の扉が開く。
俺たちは、親父と共に中へ入った。




