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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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76話_戻る者の足音

朝は、騒がしく始まらなかった。


寮棟の廊下にはいつもの足音があり、窓の外には薄い朝の光があった。


ただ、空気は少しだけ張っている。


実技場の使用禁止は続いている。

中央棟地下区画への接近禁止もそのまま。

月例測定の再開日は、まだ掲示されていない。


それでも、生徒たちは朝食へ向かう。


眠そうな顔。

昨日の話を小声で続ける者。

教本を抱えて急ぐ者。

食堂の献立を気にする者。


学院は止まっていない。


旧礼拝室の扉が細く開いていても。

王城の監査官が来ていても。

親父がこちらへ向かっていても。


朝は来る。


俺は寮室で着替えを終え、右手の包帯を確認した。


痛みは昨日より軽い。


指は動く。

握ろうと思えば握れる。


でも、握らない。


白鎌も呼ばない。

黒月にも触れない。


机の引き出しには、親父の手紙が入っている。


今日は出さなかった。


出せば、また読み返してしまう。

読み返せば、考えすぎる。


聞く前に答えを作るな。


その言葉を思い出し、引き出しには触れなかった。


廊下に出ると、カイルが壁に手をついて立っていた。


「おはよう」


「おはよう。階段は?」


「今日も強い」


「負けた?」


「負けてはいない。ただ、こっちも万全じゃない」


「引き分け?」


「昨日より劣勢」


後ろからアーヴェルが来る。


「階段に評価をつけるな」


「毎日戦ってるんだよ」


「なら、手すりを使え」


「使ってる」


「なら黙って降りろ」


「厳しい」


アーヴェルの歩き方は、昨日より自然だった。


ただ、足首に負担をかけないよう、わずかに歩幅が狭い。


それを見ていたら、アーヴェルに見返された。


「言いたいことがあるなら言え」


「足、大丈夫?」


「問題ない。セラフィナ主任の指示通り、追加訓練はしていない」


カイルがすぐに言う。


「頭の中では?」


「昨日の反省はした」


「それは訓練では?」


「反省だ」


「怪しい」


「黙れ」


女子寮側からエルナも来た。


昨日より顔色はいい。

ただ、少し眠そうだった。


「おはようございます」


「おはよう」


カイルがすぐに確認する。


「治癒術式は?」


「使っていません」


「防護術式は?」


「使っていません」


「未来視は?」


エルナは少しだけ視線を逸らした。


カイルが目を細める。


「見た?」


「見ようとはしていません。ただ、目が覚めた時に、少しだけ嫌な予感がありました」


アーヴェルが表情を引き締める。


「何についてだ」


「分かりません。旧礼拝室ではないと思います。もっと外の方です」


外。


その言葉で、胸の奥が少し反応した。


親父。


そう思ったが、口には出さなかった。


エルナは俺を見る。


「リオンさんは、何か感じましたか」


「昨日の夜、誰かがこっちへ向かっている感じはあった。たぶん、親父だと思う」


カイルが少し目を丸くする。


「もう近いのか?」


「分からない」


アーヴェルが静かに言う。


「昨日、局長は二日以内と言っていた。だが、周囲の反応を見る限り、それより早い可能性はある」


「親父さん、どんな移動してるんだよ」


カイルが呟く。


「歩いてると思う」


俺が言うと、カイルはさらに不思議そうな顔をした。


「歩いて早いって何だよ」


「道が短くなるのかも」


自分で言って、少し変な説明だと思った。


でも、昨夜感じたものはそうだった。


誰かが速く走っているというより、道を間違えずに、帰る場所へまっすぐ進んでいる。


そんな感覚。


アーヴェルが低く言う。


「帰る線」


俺はアーヴェルを見る。


「今、何て?」


「いや、思いついただけだ。親父殿の能力が、そういうものなら説明がつくかもしれないと思った」


カイルが首を傾げる。


「帰る線?」


「道や対象を、本来あるべき場所へ戻す。昨日の話から考えるなら、灰糸への対抗としては自然だ」


エルナが頷く。


「リオンさんの名前を、ずっと呼び続けていたことにも繋がる気がします」


俺は黙った。


帰る線。


親父が俺をリオンと呼んだこと。


飯を食えと言ったこと。

寝ろと言ったこと。

怪我を隠すなと言ったこと。


それは全部、俺を人の場所へ戻すためのものだったのかもしれない。


考えすぎるな。


でも、考えてしまう。


カイルが俺の肩を軽く叩いた。


「まず飯」


「うん」


「親父さんが来ても、飯食ってなかったら怒られそうだしな」


「たぶん」


「じゃあ食う」


その結論は強かった。


俺たちは食堂へ向かった。


食堂は昨日より少し賑やかだった。


測定中止の異常さに、生徒たちが少し慣れたのかもしれない。

不安はある。

だが、空腹はある。


配膳台には、温かい麦粥と焼いた肉、薄切りの野菜、豆のスープが並んでいた。


カイルは麦粥を見て、真剣な顔になった。


「これは追加していいやつだ」


アーヴェルが即座に言う。


「適量にしろ」


「適量の定義が人によって違う」


「医療担当の定義に従え」


「厳しい」


俺は昨日と同じ端の席へ向かった。


右手はまだ使いにくいので、左手で盆を持つ。

今日は昨日より安定していた。


席に着くと、ほどなく第三基礎班も来た。


レオルたちは昨日と同じように、少し迷ってからこちらへ来る。


「隣、いいか」


「もちろん」


カイルが答える。


昨日と同じ卓。


第一基礎班と第三基礎班。


周囲の反応は、昨日ほど強くない。


むしろ、すでにそういうものとして受け入れられ始めている。


レオルが座るなり言った。


「昨日の報告整理、思ったより長かった」


アーヴェルが答える。


「こちらもだ」


トーマがスープを置きながら言う。


「中央へ寄せられる感覚、説明しろって言われても難しいな。勝ちたい動きの中に、別の勝たされ方が混じってる感じだった」


「分かる」


カイルが頷く。


「止めたい方向と、止めさせられる方向がちょっと違う感じ」


ニアがエルナへ言う。


「風もそうだった。自分で流してるのに、途中から中央へ行くのが正しいみたいに思えた」


フィオが続ける。


「補助線も。繋げた方がいい場所と、繋げたいと思わされる場所が違った」


エイムが聞けば喜びそうな会話だった。


普通の朝食の中で、昨日の異常が技術の反省として語られている。


怖いだけの話ではない。


次にどうするかの話になっている。


それが少し良かった。


レオルが俺を見る。


「リオンは、昨日の後、大丈夫だったか」


「うん。少し疲れたけど」


「白鎌は使ったのか」


その質問に、卓の空気が少し止まりかけた。


レオルはすぐに言い直す。


「答えられないならいい」


俺は少し考えた。


地下のことは機密扱い。

ただし、白鎌を使ったかどうか自体は、無理に話す必要はない。


「今は、話せない」


「分かった」


レオルはそれ以上聞かなかった。


その反応がありがたかった。


トーマがすぐに話題を変える。


「じゃあ、次の測定の話だ。白鎌ありでもなしでも、リオンの長柄を抜くには、中央を取らされる前に左右を広げないと駄目だと思う」


カイルが目を輝かせる。


「お、作戦会議か」


「敵に聞かせていいのか」


アーヴェルが言う。


トーマは笑った。


「聞かせても、どうせ次までに変える」


「ならこちらも変える」


「そう来なくちゃ」


普通の対戦相手。


普通の技術の話。


こういう会話が、昨日の灰色を少しずつ薄めていく気がした。


朝食の途中、食堂の入口が少し騒がしくなった。


監理局職員が入ってくる。


その後ろに、エイム。


いつもより明らかに急いでいる。


食堂のざわめきが小さくなる。


エイムはまっすぐこちらへ来た。


「第一基礎班」


グレン教官はいない。


だが、エイムの声だけで、ただの連絡ではないと分かった。


カイルが箸を置く。


「何かありましたか」


エイムは俺を見た。


「リオン君。落ち着いて聞いてください」


その時点で、あまり落ち着ける内容ではない。


俺は頷いた。


「はい」


「王都外縁の東街道に、灰衣系祈祷痕が複数確認されました」


アーヴェルの表情が鋭くなる。


「東街道」


「はい。リオン君の保護者が学院へ向かう場合、通る可能性が高い経路です」


カイルが低く言う。


「親父さんが狙われた?」


「可能性があります」


食堂の音が遠くなる。


俺は右手を握りそうになって、止めた。


包帯の下で指が少し震える。


エルナが静かに俺の名を呼ぶ。


「リオンさん」


それだけで、少し戻る。


「親父は」


俺は聞いた。


「無事なんですか」


エイムはすぐに答えた。


「現時点で、保護者本人からの通信はありません。ただし、東街道第三境界標付近で、灰衣系祈祷痕が逆流処理された痕跡が確認されています」


「逆流処理」


レオルが小さく呟く。


エイムは続けた。


「灰糸、灰針、礼拝布型の誘導痕が、全て発生源側へ戻されています。現場に残っていたのは、灰衣側の残滓のみ。戦闘痕は軽微」


カイルが目を丸くした。


「それって、親父さんが勝ったってことじゃ」


「断定は避けます」


エイムは真面目に言った。


「ただし、保護者本人のものと思われる経路反応は、王都方面へ継続しています」


胸の奥に、息が戻る。


親父は生きている。


たぶん、止まっていない。


王都へ向かっている。


でも、灰衣が狙った。


それは確かだ。


アーヴェルが聞く。


「灰衣側は、保護者の到着を妨害したと見るべきですね」


「はい」


「なら、到着されたくない理由がある」


エイムは頷いた。


「境界監理局も同じ判断です。オルディス局長は、保護者の学院到着を早めるため、東門側の封鎖確認を強化しました」


カイルが言う。


「迎えに行かないんですか」


「行きません」


エイムは即答した。


「東街道に罠が残っている可能性があります。こちらが不用意に動けば、学院側の防衛が薄くなります。また、保護者本人が自力で進行中のため、合流地点は王都東門内側に設定されました」


「つまり、待つしかない」


俺が言うと、エイムは少しだけ表情を和らげた。


「はい。ですが、ただ待つわけではありません。学院側は受け入れ準備を進めます」


「俺は何をすれば」


「食事を続けてください」


「え」


「グレン教官からです」


エイムは記録板を見た。


「『飯を残すな。立つな。右手を握るな。親父が来る前に倒れるな』とのことです」


カイルが少しだけ笑いそうになり、すぐに堪えた。


エルナは真面目に頷く。


「正しい指示です」


アーヴェルも言う。


「従うべきだ」


レオルまで頷いた。


「食べた方がいい」


トーマも言う。


「親父さん、飯食ってなかったら怒りそうだしな」


「会ったことないだろ」


カイルが言う。


「でも分かる」


「分かるのか」


少しだけ、変な空気になった。


重い話なのに。


親父が狙われたかもしれないのに。


飯を食え、という指示が強すぎる。


俺は左手で器を持った。


麦粥を食べる。


味は少し分かりにくい。


でも、食べられる。


食べることは、戻ることだ。


親父がずっと言ってきた。


なら、今ここで食べる。


エイムはそれを確認して、記録板に何か書いた。


「食事継続確認」


「本当に記録するんですね」


「重要です」


そう言って、エイムは次にアーヴェルを見た。


「もう一点。クラウゼン家名外縁反応について、王城側が追加照合を行いました」


アーヴェルの表情が引き締まる。


「結果は」


「旧災害対応記録の欠損箇所と、王城封鎖目録の擦過痕。そしてクラウゼン家名外縁反応は、同一対象に由来する可能性が高いとの暫定判断です」


カイルが眉を寄せる。


「同一対象って、扉の奥のやつ?」


「暫定では」


エイムは言った。


「旧礼拝室内部未分類反応が、過去の旧災害対応記録と王城封鎖目録、その両方に記録された何かと関連している可能性があります」


アーヴェルは黙っていた。


レオルたち第三基礎班も、さすがに口を挟まない。


エルナが静かに言う。


「つまり、今回の旧礼拝室の件は、過去の災害と繋がっている」


「可能性が高まりました」


エイムは答えた。


「ただし、同一個体か、同種の現象か、関連する封鎖体系なのかは不明です」


アーヴェルはゆっくり息を吐いた。


「分かりました。クラウゼン家側への確認は」


「監理局と王城から正式照会中です。個人での連絡は禁止継続です」


「承知しました」


少し悔しそうだった。


でも、受け入れた。


俺はアーヴェルを見る。


「大丈夫?」


「大丈夫ではないが、崩れてはいない」


「うん」


「お前もな」


「うん」


カイルが器を置く。


「何かさ、全員別方向から狙われてないか?」


誰もすぐには答えなかった。


リオンは器。

エルナは灯。

カイルは引き戻す手。

アーヴェルは正しき刃。

さらに、親父。

クラウゼン家名。

王城封鎖目録。

資料室の記録。


灰衣は、人を一人だけ狙っているのではない。


関係ごと狙ってくる。


名前。

家。

記録。

道。

治癒。

試合。

食堂の噂。


人が立っている場所全部を、利用しようとしている。


それが、気持ち悪かった。


エイムが言う。


「だからこそ、個別に孤立しないことが重要です。第一基礎班は、今後も可能な限り班単位で行動してください」


カイルが頷く。


「それは得意です」


アーヴェルが少しだけ眉を上げる。


「得意か?」


「最近得意になった」


「それならいい」


エルナも静かに頷いた。


「一人で抱えないようにします」


俺も言う。


「うん」


エイムは少しだけ満足そうに記録した。


「班単位行動意思確認」


「それも記録」


カイルが言う。


「必要です」


「もう驚かない」


食事を終える頃、食堂の入口にグレン教官が現れた。


こちらへ来る足取りは速い。


でも、慌ててはいない。


手の包帯は昨日より薄くなっていた。


「第一基礎班」


全員が姿勢を正す。


「朝食後、中央棟へ移動する。予定を変更する」


カイルが聞く。


「聞き取りですか」


「いや」


グレン教官は俺を見る。


「東門へ向かう」


胸が跳ねた。


「親父が来るんですか」


「ああ」


グレン教官は短く答えた。


「予想より早い。王都東門外縁の監視術式に、もう引っかかった」


カイルが目を丸くした。


「歩いてですよね?」


「たぶんな」


「たぶん」


アーヴェルが静かに言う。


「灰衣の妨害を抜けて、予定より早く到着する。やはり、普通の人物ではありませんね」


グレン教官は否定しなかった。


「だから、会う前に言っておく」


俺を見る。


「何を聞いても、その場で全部を決めるな」


「はい」


「怒ってもいい。黙ってもいい。聞き返してもいい。だが、一人で結論を出すな」


「はい」


「それから」


グレン教官は少しだけ間を置いた。


「親父も、万能ではない」


その言葉は意外だった。


「万能なら、最初から全部話している。万能なら、今ここまで拗れていない。あの男にも、できなかったことがある」


できなかったこと。


親父にも。


胸の奥が少し重くなる。


「だから、責めるなとは言わん。だが、神みたいに答えを求めるな」


「……はい」


その言葉は、たぶん大事だった。


俺にとって親父は、ずっと親父だった。


飯を作り、怪我を叱り、名前を呼ぶ人。


でも同時に、どこか絶対だった。


何も言わなくても、必要な時にはそこにいる人。


その人にも、できなかったことがある。


それを、今から聞く。


エルナが静かに言った。


「私たちも同行していいのですか」


グレン教官が頷く。


「局長の判断だ。リオン一人では会わせない。第一基礎班として同席する」


カイルが真面目な顔で頷いた。


「分かりました」


アーヴェルも。


「承知しました」


レオルが席を立ちかけて、止まった。


「俺たちは」


グレン教官はレオルを見る。


「第三基礎班は第二講義室へ。昨日の補足証言は午後に取る。今は待機だ」


「分かりました」


レオルは俺を見る。


「リオン」


「うん」


「飯は食ったな」


少し驚いた。


それから頷く。


「食べた」


「なら行け」


レオルは真面目な顔でそう言った。


トーマが隣で笑う。


「何かもう、みんなそれ言うな」


「大事だからだろ」


ニアが言う。


フィオも頷いた。


「記録にも残る重要事項」


エイムが真面目に頷いた。


「残ります」


「残るんだ」


カイルが呟いた。


少しだけ笑いが起きた。


その笑いのおかげで、立ち上がることができた。


盆を片づける。


右手は使わない。

左手で持ち、カイルが少し支えてくれる。


食堂を出る前、バルドが遠くの席からこちらを見ていた。


何か言いかけたが、今回は黙って手だけ上げた。


俺も小さく頷く。


名前は呼ばれなかった。


でも、十分だった。


廊下へ出る。


中央棟ではなく、王都東門へ。


学院の外へ向かう道。


昨日までなら、単独行動禁止の延長にしか感じなかったかもしれない。


今は違う。


親父が来る。


俺の過去を知る人が。


俺をリオンと呼んだ人が。


灰衣の糸を帰して、こちらへ歩いてくる。


胸の奥で、不安と安心が同じくらいの重さで揺れていた。


カイルが隣に来る。


「大丈夫か」


「分からない」


「じゃあ、分からないまま行こうぜ」


エルナが頷く。


「分からないままでも、一人ではありません」


アーヴェルが前を向いたまま言う。


「聞くために行く。結論を出すためではない」


「うん」


俺は答えた。


東門へ向かう廊下の先に、朝の光が落ちている。


その向こうに、親父がいる。


俺は右手を握らないまま、胸元の名札に触れた。


リオン。


その名前で、会いに行く。


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