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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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75話_帰る線

石橋の上で断たれた灰色の糸は、夜風に流されて消えた。


男はしばらく、その場に立っていた。


川の音が戻ってくる。

石橋の冷たさが戻ってくる。

遠くの森で、夜鳥が鳴く。


腰に戻した刃のない柄は、もう何の気配も持っていない。


ただの古い柄に見える。


握り革は擦り切れ、金具には細かな傷がある。

刃を失った武器の残骸と言われれば、そう見えただろう。


だが、男はそれを捨てていない。


ずっと持っていた。


リオンを拾った日より前から。


男は橋の先を見た。


王都へ向かう街道。

夜の道。

ところどころ、古い境界石が埋まっている。


灰色の糸は一本だけではなかった。


遠く、道の端。

木の根元。

境界石の裏。

街道の轍の隙間。


細く、薄く、眠っているように見せかけた灰色が、いくつも落ちている。


誘導ではない。


足止めでもない。


確認だ。


この道を通る者が、本当にあの男かどうか。


そして、あの男がまだ同じことをできるのかどうか。


男は面倒そうに息を吐いた。


「暇な連中だ」


誰も答えない。


灰色の糸だけが、夜の中でわずかに震えた。


男は歩き出す。


速くは見えない。


だが、一歩ごとに、街道の距離が少しずつ減っていく。


橋を渡る。

道を進む。

境界石の横を通る。


最初の灰糸が、靴の前へ伸びた。


男は止まらない。


腰の柄に手もかけない。


ただ、短く言った。


「帰れ」


灰糸が震えた。


次の瞬間、それは街道の石目から剥がれ、来た方角へ引き戻された。


まるで、糸自身が自分の端を思い出したように。


遠くの木陰で、小さな灰が散った。


二本目。


今度は、道の轍そのものに混ざっていた。


歩けば足が取られる。


足を取られれば、方向感覚がずれる。


旅人なら同じ場所を何度も歩くことになる。

魔術師なら、道の術式を書き換えられたと思うかもしれない。


男はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


「道に触るな」


低い声だった。


腰の柄を抜く。


刃はない。


それでも、男が柄を前へ向けた瞬間、轍の奥にあった灰色が浮き上がった。


切ったのではない。


叩いたのでもない。


道から、余計な意味だけが剥がされた。


灰色の轍は、ただの土の跡へ戻る。


男は柄を戻した。


「人が歩く場所だ」


その言葉に、街道の空気が少しだけ整った。


夜風が吹く。


木々が揺れる。


どこかで、何かがこちらを見ていた。


男はそちらを見ない。


見れば形を与える。


名前をつければ、道を開く。


そういう相手だと知っている。


三本目の灰糸は、境界石の裏に貼りついていた。


古い境界石。


王都へ続く道を示すためのものではなく、かつて何かを封じた位置を示す石。


刻まれた文字は、もうほとんど読めない。


男はその前で足を止めた。


灰糸は石の裏から伸び、街道の先ではなく、横の森へ向かっている。


王都へ行かせたくないのではない。


別の道へ逸らしたい。


森の奥。

旧い祈りの残る場所。

人の足では戻りにくい場所。


男は少しだけ目を細めた。


「俺を迷わせる気か」


灰糸は答えない。


ただ、森の奥へ薄く揺れる。


男は柄を抜かなかった。


代わりに、境界石の前にしゃがみ、石に手を置いた。


「お前はどこへ帰る石だ」


古い石は答えない。


だが、男の手の下で、刻まれた文字の跡がわずかに光った。


王都。

東街道。

第三境界標。


消えかけた文字が、自分の役目を思い出す。


森へ向かっていた灰糸が、行き場を失った。


境界石は、森を指すものではない。


王都への道を示すものだ。


男は立ち上がる。


「そうだ」


灰糸は、自分が重ねていた嘘を保てなくなった。


細く千切れ、風に流れる。


男は境界石を軽く叩いた。


「まだ立ってろ」


それだけ言って、また歩き出した。


空は暗い。


だが、男の足取りに迷いはない。


道が覚えている。


境界石が覚えている。


街道の轍が覚えている。


この男が、かつて何度も王都と地方を行き来したことを。


この男が、封鎖の後に人を連れ帰ったことを。


この男が、戻れなくなった者の名を呼び、帰る道を示してきたことを。


その記憶を、男は踏んで進む。


速く歩いているのではない。


道が、少しだけ短くなる。


王都へ帰る線を、男の足が知っている。


その頃、王立学院の寮棟では、リオンが眠らないまま目を閉じていた。


夕刻の名称確認は終わった。


名札は安定している。

夢の残りも、今は遠い。

白鎌も黒月も沈んでいる。


だが、胸の奥で何かが静かに揺れていた。


旧礼拝室ではない。


扉の奥の鼓動でもない。


もっと別のもの。


道の気配。


誰かがこちらへ向かっている感覚。


それは線として見えない。


見ようとしても、灰色ではない。

黒でもない。

白鎌の軌道でもない。


ただ、遠くで誰かが道を間違えずに歩いている。


そんな感覚だった。


リオンは目を開けた。


部屋は暗い。


窓の外には寮棟の灯りが見える。


呼び鈴を押すほどの異常ではない。


名前は揺れていない。


でも、何かが近づいている。


親父だろうか。


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


怖さもある。


聞きたいこともある。


聞きたくないことも、たぶんある。


けれど、その感覚は旧礼拝室の呼び声とは違った。


こちらを奪うものではない。


こちらへ戻ってくるもの。


リオンは布団の上の右手を見た。


握らない。


代わりに、左手で胸元の名札に触れる。


「リオン」


小さく言う。


名札は静かだった。


揺れない。


ただ、その名前がそこにある。


廊下の外で、監理局職員の足音がした。


巡回しているのだろう。


普通の足音。


それを聞いているうちに、少しだけ眠気が戻ってくる。


リオンは目を閉じた。


親父が来る。


たぶん、思ったより早く。


その時、自分は何を聞くのか。


まだ決めない。


でも、逃げない。


そう決めて、意識を沈めようとした。


その瞬間。


遠くの街道で、男は足を止めた。


前方に、人影が立っている。


白い袖。


夜の道に不自然なほど白い。


袖口の奥には、灰色の布が覗いていた。


男は何も言わず、腰の柄に手を置いた。


白い袖の人物は、丁寧に頭を下げる。


「お久しぶりです」


声は柔らかく濁っている。


男は眉をひそめた。


「知らん」


「覚えておられませんか」


「覚える価値のある相手なら覚えている」


白い袖の人物は、少しだけ笑ったようだった。


「相変わらずですね」


「お前たちは変わらんな。人の道に糸を置く」


「道は、導くためにあります」


「帰るためにある」


男の声は低い。


街道の空気が変わる。


白い袖の人物は、ゆっくりと顔を上げた。


その姿は、はっきり見えない。


見ようとすると、意味が抜ける。


人の形をしている。

だが、誰なのかは分からない。


男は見ない。


顔ではなく、袖を見る。

袖口の灰色を見る。

足元に落ちた糸を見る。


「学院に触ったな」


「迎えに参りました」


「誰を」


「失われた半身を」


「違う」


男は即答した。


「俺の息子だ」


その言葉で、白い袖の人物の周囲にあった灰色の糸がわずかに乱れた。


息子。


役割ではない。


器でもない。

半身でもない。

視る者でもない。


息子。


男がそう定義した瞬間、街道の上にあった灰色の祈りが、ひとつ意味を失った。


白い袖の人物は、ほんの少し首を傾けた。


「血は繋がっていないでしょう」


「だから何だ」


「器は、あなたの家の者ではない」


「家にいた。飯を食わせた。寝かせた。怪我を叱った。名前を呼んだ」


男は一歩進む。


「それで足りる」


白い袖の人物の足元から、灰糸が伸びる。


細い糸ではない。


礼拝布の折り目のような線が、街道を覆う。


左右の森が遠ざかり、前後の道が輪になりかける。


男をここへ留める気だ。


白い袖の声が柔らかく響く。


「あなたがどれほど呼んでも、あれは人の場所へ戻るものではありません」


男は柄を抜いた。


刃はない。


だが、柄の先に、道が集まった。


光ではない。

魔力の刃でもない。

炎でも氷でもない。


ただ、帰るべき方向だけが、一本の線になった。


男はそれを振る。


灰色の礼拝布が、斬られたのではない。


戻された。


折り目が折り目へ。

祈りが祈りへ。

糸が元の布へ。


街道を覆っていた灰色が、一瞬で白い袖の足元へ返っていく。


白い袖の人物が半歩下がった。


初めて、動きに余裕が消える。


「まだ、その柄を」


「錆びてはいない」


「刃はありません」


「刃で斬るものならな」


男はさらに一歩進む。


灰糸が何本も伸びる。


男の足元。

外套。

腰の柄。

胸元。


どれも、触れる前に帰される。


糸が伸びる。

戻る。

伸びる。

戻る。


白い袖の人物は、そのたびに少しずつ後退した。


「あなたは、相変わらず扉を閉じる側に立つ」


「扉は閉じるためにある時もある」


「開かなければ、救われないものもあります」


「開け方を間違えれば、戻れないものが増える」


男の声は変わらない。


怒鳴らない。


ただ、低く重い。


「お前たちは昔から、それが分かっていない」


白い袖の人物の袖口から、灰色の針が出た。


細く、短い。


灰針。


名前ではなく、存在の輪郭に刺すためのもの。


それが一瞬で男の胸元へ飛ぶ。


速い。


普通なら避けられない。


男は避けなかった。


刃のない柄を、胸の前へ置く。


灰針は柄に触れる。


触れた瞬間、向きを失った。


どこへ刺さるべきか分からなくなる。


男は静かに言った。


「帰れ」


灰針は、来た場所へ戻った。


白い袖の人物の袖口へ。


だが、戻る先にあった灰色の布が耐えきれず、内側で裂けた。


白い袖が、初めて大きく乱れる。


「……やはり、厄介ですね」


「退け」


男は言った。


「王都へ行く」


「行かせるとでも」


「お前に許可を取る道ではない」


白い袖の人物は、しばらく黙った。


その背後で、街道の闇が揺れている。


旧礼拝室の扉前にいたものと同じ声ではない。


しかし、同じ祈りを持つ者。


巡礼者。


男は名前をつけない。


ただ、邪魔なものとして見る。


白い袖の人物は、やがて静かに頭を下げた。


「では、学院でお待ちしています」


「待つな」


「扉は、すでにあなたの息子を覚えました」


男の目が少しだけ細くなる。


「そうか」


「そして、あなたもまた、忘れられてはいません」


「忘れられたくてやっている」


「それは叶いません」


白い袖の人物の輪郭が薄くなる。


逃げるのではない。


糸を引き戻して、別の場所へ移る。


男は追わなかった。


追えば、道を逸らされる。


今の目的は、倒すことではない。


王都へ行くこと。


リオンのところへ行くこと。


白い袖の人物は、最後に言った。


「帰す者。あなたがどれほど道を戻しても、あれは歪みの果てへ至る」


男は柄を腰へ戻した。


「なら、果てからでも呼び戻す」


白い袖の人物が消えた。


街道に残った灰色の糸も、全て夜風に散っていく。


男は少しだけ空を見た。


王都の方角に、遠い結界光が滲んでいる。


「待ってろ」


誰に向けた言葉かは明らかだった。


男は再び歩き出す。


道はもう、輪にならない。


境界石も、轍も、草も、彼の足を止めない。


帰る線が、王都へ伸びている。


その先に、リオンがいる。


だから、男は迷わない。


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