表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
74/88

74話_夕刻の名札

夕刻の鐘が鳴る少し前、寮棟の談話室に集められた。


談話室といっても、今日は普段のような空気ではない。


長椅子は壁際に寄せられ、中央の低い机には結界盤が置かれている。

窓には薄い防護符。

入口には監理局職員が二人。

暖炉には火が入っているが、炎の音よりも、結界盤の低い震えの方が耳に残った。


先に来ていたのはカイルだった。


長椅子に座って、足を伸ばしたいのを我慢しているような姿勢で固まっている。


「階段、勝てなかった」


「階段と戦ったの?」


俺が聞くと、カイルは真面目に頷いた。


「負けはしてない。でも勝ってもない」


「引き分け?」


「実質引き分け」


「何の話だ」


後ろからアーヴェルの声がした。


彼も少し遅れて談話室へ入ってくる。


歩き方はいつも通りに近い。

けれど、足首をかばっているのが少し分かった。


「アーヴェルも階段?」


カイルが聞く。


「私は階段とは戦っていない」


「じゃあ勝ちだな」


「そういう話ではない」


さらに少し遅れて、エルナが来た。


手には小さな水筒を持っている。

セラフィナ先生に持たされたものらしい。


「遅くなりました」


「大丈夫?」


俺が聞くと、エルナは頷いた。


「休めました。少しだけですが」


カイルがすぐに言う。


「治癒術式は?」


「使っていません」


「防護術式は?」


「使っていません」


「頭の中では?」


エルナは少しだけ考えた。


「考えかけたので、やめました」


「偉い」


「なぜカイルさんが褒めるんですか」


「俺も今日は何もしてないから、仲間意識」


アーヴェルが椅子に腰を下ろしながら言った。


「お前は何かしようとしたら止められる側だ」


「否定できない」


その会話で、談話室の空気が少しだけ柔らかくなった。


すぐに、ユーディア先生が入ってくる。


鐘を布で包み、片手に持っていた。

後ろにはエイムと、グレン教官もいる。


グレン教官の手には薄い包帯が巻かれていた。


カイルがそれを見て、言いかける。


「教官、手――」


「処置済みだ」


「セラフィナ先生に?」


「そうだ」


「怒られました?」


「黙れ」


「はい」


でも、怒られたらしい。


それだけは分かった。


ユーディア先生が結界盤の前に立つ。


「夕刻の名称確認を始めます。昨日から今日にかけて、皆さんの名前は何度も異常の対象になっています。今後も、朝と夕に確認を行う予定です」


カイルが小声で言う。


「点呼の強いやつ」


エイムが即座に答える。


「概ねそうです」


「概ねそうなんだ」


ユーディア先生は少しだけ目元を緩めた。


「分かりやすく言えば、そうですね。ただし、これは疑っているわけではありません。自分の名前が自分の場所にあるか、毎日確認するだけです」


「名前の健康診断みたいなものですか」


エルナが言う。


「ええ。良い表現です」


名前の健康診断。


そう言われると、少しだけ怖さが薄れる。


ユーディア先生は結界盤に手をかざした。


青い光が広がる。


「まず、カイル・レグナート」


カイルが名札を外し、結界盤へ置く。


「カイル・レグナート。戦闘科一年。第一基礎班」


名札が青く光る。


揺れはない。


ユーディア先生が頷く。


「安定しています」


カイルはほっとしたように名札を戻した。


「よし」


次にエルナ。


「エルナ・シルヴェリア。戦闘科一年。第一基礎班」


淡い白い光が青に重なる。


ほんのわずかに、昨日の灯という役割名の残滓が外側で揺れた。

しかし、すぐに名札の文字がそれを押し返す。


ユーディア先生が鐘に触れた。


鳴らさない。


ただ、触れただけ。


「安定。灯の残響はありますが、本人名に接続していません」


エルナは静かに息を吐く。


「はい」


次は俺だった。


右手ではなく、左手で名札を外す。


結界盤へ置く。


少しだけ、胸の奥が冷える。


リオン。

第一基礎班。


旧礼拝室の扉に覚えられた名前。


親父が最初に呼んだかもしれない名前。


俺は言った。


「リオン。戦闘科一年。第一基礎班」


青い光が、強くなった。


揺れてはいない。


けれど、光が深い。


結界盤の上で、文字の周囲に薄い輪のようなものが出た。


ユーディア先生が目を細める。


エイムが記録板を構えた。


カイルが身体を起こしかける。


「大丈夫か」


「大丈夫」


本当に揺れてはいない。


ただ、名札の向こう側に、何か遠い影が重なっている。


旧礼拝室ではない。


灰色でもない。


雨。


血。


男の声。


名前は。


そして。


リオン。


俺はゆっくり息を吸った。


「夢の残りです」


ユーディア先生が頷く。


「見えています。名称干渉ではありません。記憶側の反応です」


「危ないですか」


「今すぐ危険ではありません。ただ、夢の中で名前を得た場面が、現在の名札反応と重なっています」


エイムが記録する。


「記憶断片と名札反応の重複。外部干渉なし。灰衣系反応なし」


ユーディア先生は俺を見る。


「リオンさん。もう一度だけ、自分の名前を言ってください。今度は所属をつけずに」


俺は頷いた。


「リオン」


青い光が落ち着く。


輪のような反応も消えはしないが、遠くへ沈んだ。


ユーディア先生が小さく鐘を鳴らす。


澄んだ音が談話室に広がった。


「安定です」


肩から力が抜けた。


カイルが小さく息を吐く。


「心臓に悪いな」


「ごめん」


「謝るやつじゃない」


エルナが静かに言う。


「今のは、戻ってきた感じがしました」


「うん」


たぶん、そうだ。


奪われかけたのではない。


戻ってきた。


過去から、今の名札へ。


最後はアーヴェル。


「アーヴェル・ロア・クラウゼン。戦闘科一年。第一基礎班」


名札は強く、安定していた。


ただ、クラウゼン家の名に少しだけ黒灰色の擦れが見えた気がした。


俺は言うか迷った。


迷った瞬間、グレン教官の視線がこちらへ向いた。


「見えたなら言え」


止められているのではない。


任されている。


俺は頷いた。


「クラウゼンの名前の外側に、少しだけ黒灰色の擦れがあります。名札じゃなくて、家名の方です」


アーヴェルの表情が硬くなる。


エイムが記録板に書き込む。


「クラウゼン家名外縁に黒灰色擦過反応。旧災害対応記録への接続痕と関連の可能性」


ユーディア先生が結界盤の光を少し強める。


「本人名に異常はありません。家名の外側ですね」


アーヴェルは静かに言った。


「資料室の記録棚と、王城封鎖目録に触れた反応が、クラウゼン家名にも波及している可能性がありますか」


「ありえます」


エイムが答える。


「ただし、現時点では接続ではなく擦過です」


カイルが眉を寄せる。


「こすっただけ、みたいな?」


「表現としては近いです」


「それでも嫌だな」


「嫌な反応です」


アーヴェルは少しだけ目を伏せた。


だが、すぐに戻した。


「記録してください。必要なら、クラウゼン家側へも正式に確認を」


グレン教官が頷く。


「こちらで手配する」


「お願いします」


アーヴェルの声は落ち着いている。


でも、その下には固いものがあった。


家名。


アーヴェルにとって、それはただの姓ではない。


誇りであり、重さであり、逃げられないものだ。


俺には姓がない。


だからこそ、その重さを全部は分からない。


でも、揺らされたくないものだということは分かる。


ユーディア先生が四人分の名札確認を終え、結界盤を閉じた。


「全員、本人名は安定しています。ただし、リオンさんは記憶反応、アーヴェルさんは家名外縁反応があります。明朝も重点確認を行います」


カイルが名札を指で押さえる。


「俺は何もなし?」


「現時点では」


「良かったけど、なんか置いていかれた感じもある」


アーヴェルが冷静に言う。


「異常がないことを喜べ」


「喜んでる」


エルナが小さく言った。


「でも、カイルさんの名前が安定しているのは、たぶん私たち全員にとって大事です」


カイルは少し驚いたように見た。


「そうか?」


「はい。引き戻す声が、揺れないということですから」


役割名ではない。


でも、カイルの声に何度も戻されたのは事実だ。


カイルは少し照れたように鼻の下をこすりかけて、筋肉痛で腕を止めた。


「痛っ」


「何をしている」


アーヴェルが言う。


「照れようとしたら痛かった」


「照れなくていい」


談話室に少しだけ笑いが落ちた。


グレン教官も、表情は変えないが、空気を止めなかった。


ユーディア先生が鐘を布で包み直す。


「では、確認は終了です。今日はこの後、各自部屋へ戻ってください。談話室での長居は禁止です」


カイルが残念そうにする。


「少し話してからじゃ駄目ですか」


「駄目です」


「即答」


エイムが補足する。


「休養指示が出ています」


「はい」


グレン教官が俺を見る。


「リオン。夢のことは、親父が来たら話せ。それまでは追加で掘るな」


「はい」


「アーヴェル。家名反応については、こちらが確認する。お前も勝手に実家へ連絡しようとするな」


アーヴェルが少しだけ黙る。


「……承知しました」


「今、するつもりだったな」


カイルが言う。


「確認を検討しただけだ」


「それをするつもりって言うんだ」


グレン教官が短く言った。


「禁止だ」


「承知しました」


グレン教官は最後に全員を見た。


「今日はこれ以上、過去にも記録にも触れるな。休め。寝ろ。飯は夕食で食え」


カイルが頷く。


「分かりやすい」


「お前向けにも言った」


「ありがとうございます」


それぞれ部屋へ戻ることになった。


談話室を出る前、アーヴェルが俺の横に来た。


「リオン」


「うん」


「先ほどの家名反応、言ってくれて助かった」


「見えたから」


「それでもだ」


少しだけ間が空く。


「クラウゼンの名に何かが触れるのは、不快だ」


「うん」


「だが、隠される方がもっと不快だ」


その言い方は、アーヴェルらしかった。


「次も言う」


「頼む」


カイルが横から入ってくる。


「俺の名前に何かあったら?」


「言う」


「よし」


エルナも静かに言った。


「私もお願いします」


「うん」


四人で廊下へ出る。


もう夜が近い。


窓の外は青く沈み、寮棟の灯りが一つずつ強くなっている。


朝からずっと、何かを確認している。


名前。

記録。

夢。

家名。

親父。

王城。

扉。


確認ばかりだ。


でも、それが今の戦い方なのかもしれない。


すぐに剣を振るのではなく。

白鎌を呼ぶのでもなく。

黒月を試すのでもなく。


自分たちの立っている場所を、ひとつずつ確かめる。


部屋の前で、カイルが言った。


「明日の朝も普通の食堂な」


アーヴェルが答える。


「状況次第だ」


「じゃあ、状況が許せば」


「それならいい」


エルナも頷く。


「行けるなら、行きましょう」


俺も答える。


「うん」


普通の食堂。


それは、思ったより大事な目標になっていた。


各自の部屋へ戻る。


扉を閉めると、また静かになった。


俺は灯りを少しだけ落とし、机の前に座った。


手紙は引き出しの中。


出さない。


今日はもう過去を掘らない。


そう決めた。


代わりに、水を飲む。


エイムに言われたから。


右手を握らない。


エルナに確認されたから。


寝る準備をする。


親父に言われそうだから。


自分だけではない。


誰かの言葉で、自分を保つ。


それは弱いことではないと思った。


俺は寝台へ入り、目を閉じる。


夢を見たら報告する。


でも、夢を見に行くわけではない。


雨を探さない。

血を探さない。

白い欠片を探さない。


リオン。


その名前だけを胸の中で確かめる。


遠くで風の音がした。


黒い衣擦れは、今日は聞こえなかった。


代わりに、どこかで鳥が鳴いた。


夜の鳥ではない。


伝令鳥の声に似ていた。


親父は、もう歩いているのだろうか。


そう思ったが、それ以上は考えなかった。


明日ではないかもしれない。

明後日かもしれない。

もっと早いかもしれない。


来たら聞く。


来るまでは、待つ。


それだけ決めて、俺は目を閉じた。


その頃、街道の途中にある古い石橋で、男は足を止めていた。


橋の下には細い川が流れている。


夕暮れの光はほとんど消え、空には薄い星が出始めていた。


男は腰の刃のない柄に手を置く。


前方の道に、灰色の糸が一本だけ落ちていた。


細い。


旅人なら気づかず踏む。

魔術師なら埃だと思う。

封鎖術師なら、札の残滓と見誤る。


男はそれを見下ろし、面倒そうに息を吐いた。


「迎えか」


灰色の糸は、返事をするように少しだけ震えた。


男は柄を抜く。


刃はない。


ただの柄。


しかし、彼がそれを握った瞬間、周囲の空気が変わった。


川の音が遠ざかる。

橋の石目が静まる。

灰色の糸が、逃げるように縮む。


男は柄を軽く振った。


何も出ない。


光もない。

刃もない。

音もない。


だが、灰色の糸は途中で断たれていた。


断たれた糸は灰になり、風に流される。


男は刃のない柄を腰へ戻した。


「まだ早い」


誰に向けた言葉でもない。


だが、どこかへ届くような声だった。


「俺の息子に触るな」


灰が夜風に消える。


男は再び歩き出した。


王都は、まだ遠い。


けれど、もう彼を止めるものは少なそうだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ