表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
73/88

73話_待つ日の午後

午後の寮棟は、静かだった。


実技訓練が中止になったせいで、いつもなら外にいるはずの生徒たちが部屋や談話室に戻っている。

それでも、廊下を走る音はない。

大声で笑う声も少ない。


学院全体が、昨日の続きをまだ警戒している。


俺は寝台に横になっていた。


眠ったのか、眠っていないのか分からない時間がしばらく続いた。


目を閉じれば、親父の手紙が浮かぶ。

目を開ければ、机の引き出しが見える。


そこに手紙が入っている。


リオンへ。


その文字を何度も思い出す。


親父が来る。


たぶん、二日以内。

もしかすると、もっと早く。


来たら、何を聞けばいいのだろう。


なぜ俺を拾ったのか。

六歳以前の俺を知っているのか。

白鎌を知っていたのか。

監理局とどういう関係なのか。

刃のない柄は何なのか。

俺の名前は、どこから来たのか。


聞きたいことはある。


けれど、考えすぎるなとも言われた。


聞く前に答えを作るな。


アーヴェルの声が頭に残っている。


俺は右手を見た。


包帯はまだ巻かれている。


白鎌は呼ばない。

黒月も使わない。

右手を握り込まない。


できることは少ない。


だからこそ、頭だけが勝手に動こうとする。


俺は息を吐き、天井を見た。


「寝ろ、か」


親父ならそう言う。


でも、眠れない時はどうすればいいのか、そこまでは言わなかった。


呼び鈴が小さく鳴った。


部屋の外から、監理局職員の声がする。


「リオン君。起きていますか」


「はい」


俺が答えると、少し間を置いて扉が開いた。


入ってきたのはエイムだった。


記録板は持っている。

ただ、いつもより枚数は少ない。


「休養中に失礼します」


「聞き取りですか」


「違います」


エイムは真面目に答えた。


「セラフィナ主任より、水分摂取の確認。ユーディア先生より、名称違和の有無確認。グレン教官より、余計なことをしていないか確認です」


「全部確認ですね」


「はい」


エイムは机の上に小さな水差しを置いた。


「水は飲みましたか」


「少し」


「もう少し飲んでください」


「はい」


俺は寝台から起き上がり、左手で杯を取った。


水を飲む。


冷たすぎない水だった。


喉を通ると、少し身体が戻る。


エイムは記録板に短く書き込んだ。


「水分摂取確認」


「それも記録するんですね」


「今日はします」


「今日は」


「重要観察日ですので」


そう言われると、少し落ち着かない。


エイムは俺の名札を確認した。


「名称違和は」


「ありません」


「呼ばれている感じは」


「今はないです」


「白鎌の感覚は」


「遠いです。呼べば来ると思います。でも、呼びません」


「黒月は」


「胸の奥に残ってます。触ってません」


「右手は」


「握ってません」


「よろしい」


エイムは記録板に書いた。


その動きはいつも通りだった。


だから少し安心する。


「エイムさん」


「はい」


「局長は、親父を知ってるんですよね」


筆が止まった。


エイムは少し考える。


「知っています」


「エイムさんは?」


「私は、直接はほとんど」


「ほとんど」


「記録上では知っています。ただし、開示権限がありません」


「そうですか」


予想通りの答えだった。


でも、少しだけ聞いておきたかった。


エイムは記録板を閉じた。


「リオン君」


「はい」


「私は、個人的なことを言うのは得意ではありません」


「はい」


「ですので、記録上の一般論として言います」


「一般論」


「保護者が過去を隠している場合、理由は複数あります。危険から遠ざけるため。本人の意思を待つため。命令に縛られているため。あるいは、話すことで状態が変わるため」


話すことで状態が変わる。


名前を与えることが、扉になることがある。


その話と似ている気がした。


「親父も、そうだったんですか」


「分かりません」


エイムは即答した。


「ただ、言わなかったことと、リオン君を大事にしていなかったことは同じではありません」


胸の奥が、少しだけ重くなる。


「はい」


「これは記録ではなく、私見です」


「珍しいですね」


「はい。今のは記録しません」


エイムはそう言って、本当に記録板を開かなかった。


それが少しおかしくて、少しありがたかった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


エイムは立ち上がる。


「夕刻の名称確認は、寮棟談話室で行います。第一基礎班全員、同時確認です」


「分かりました」


「それまで休んでください。考えごとは、紙に書かない方がいいです」


「なぜですか」


「未整理の言葉は、今は少し危険です」


なるほど、と思った。


名前。

役割。

定義。

記録。


文字にした瞬間、それが形になることがある。


今の俺が、親父について勝手な答えを書いてしまうのは、確かに良くないかもしれない。


「書きません」


「よろしい」


エイムは扉へ向かった。


出る前に、少しだけ振り返る。


「飯は食べましたね」


「食べました」


「なら、次は寝てください」


「みんなそれ言いますね」


「重要事項ですので」


エイムは真面目な顔のまま出ていった。


扉が閉まる。


部屋がまた静かになる。


俺は杯を机に置き、もう一度寝台に横になった。


紙に書かない。


答えを作らない。


考えすぎない。


難しい。


でも、やるしかない。


目を閉じる。


今度は少しだけ眠れた。


夢は、見た。


けれど、旧礼拝室ではなかった。


雨の音がしていた。


強い雨ではない。

冷たい雨。


どこかの森の中。


地面はぬかるんでいる。

血の匂いがする。


俺はそこに立っているのではなく、低い場所から見上げていた。


小さい。


今よりずっと小さい。


身体が重い。

寒い。

声が出ない。


視界の端で、白いものが倒れている。


鎌ではない。


翼でもない。


何かが欠けた、白い骨のようなもの。


それを見ようとした瞬間、誰かの足音が近づいた。


泥を踏む音。


雨の中でも、迷いのない足取り。


男の声がした。


「生きてるな」


低い声。


淡々としている。


けれど、冷たくはない。


小さな俺は、返事をしない。


できない。


男が膝をつく。


濡れた外套の裾が、泥に沈む。


手が伸びる。


その手は、剣を握る手のように硬かった。


でも、触れ方は乱暴ではなかった。


「名前は」


聞かれた。


答えられない。


記憶がない。


言葉も出ない。


男はしばらく黙っていた。


雨が降る。


血が流れる。


遠くで、何か黒いものが揺れた気がした。


男は、小さく息を吐いた。


「……そうか」


それだけ言って、俺を抱き上げた。


視界が揺れる。


男の肩越しに、地面が遠ざかる。


白い欠片のようなものが、雨の中に沈んでいく。


男は歩き出した。


少し進んでから、ふと足を止める。


そして、誰に聞かせるでもなく言った。


「リオン」


その声で、夢が揺れた。


名前。


最初の名前。


俺は目を開けた。


寮室の天井がある。


窓の外は、午後の光。


胸が少し早く動いていた。


右手を握りそうになって、止める。


包帯の下で、指が少し震えている。


今のは夢か。


記憶か。


分からない。


六歳以前の記憶はない。


そう思っていた。


でも、今の夢には、雨の匂いがあった。


血の匂いがあった。


男の声があった。


リオン。


親父が、俺をそう呼んだ。


最初に。


呼び鈴を押そうか迷った。


名称違和はない。

白鎌の感覚も暴れていない。

黒月も沈んでいる。


ただ、夢を見ただけ。


でも、怪我を隠すなと同じように、こういうことも隠さない方がいいのかもしれない。


俺は起き上がり、扉の外へ声をかけた。


「すみません」


監理局職員がすぐに応じた。


「どうしました」


「夢を見ました。たぶん、昔の」


短い沈黙。


それから職員の声が少し緊張する。


「エイム補佐を呼びます。体調に異常は」


「ありません」


「右手は」


「握ってません」


「分かりました。そのままお待ちください」


廊下の足音が遠ざかる。


俺は寝台に座ったまま、夢の内容を繰り返し思い出す。


紙には書かない。


でも、忘れないようにする。


雨。

血。

白い欠片。

男の外套。

名前は、と聞かれたこと。

答えられなかったこと。

親父が、リオンと呼んだこと。


すぐにエイムが来た。


今度は記録板を二枚持っている。


グレン教官も一緒だった。


「リオン」


グレン教官の声。


「状態は」


「大丈夫です」


「立てるか」


「はい」


「右手は」


「大丈夫です」


グレン教官は俺を見て、少しだけ頷いた。


「話せ」


俺は夢の内容を話した。


雨の場所。

血の匂い。

白い欠片。

男が名前を聞いたこと。

答えられなかったこと。

リオンと呼ばれたこと。


エイムは記録している。


だが、いつもより少し慎重だった。


「白い欠片について、形は」


「分かりません。骨みたいにも見えました。翼かもしれない。でも、見ようとしたら夢が揺れました」


グレン教官の目が少し鋭くなる。


「黒いものは」


「遠くで揺れた気がしただけです。黒い布か、影か……分かりません」


「声は」


「親父の声だけです」


エイムが記録を止める。


「六歳以前の記憶断片の可能性。旧礼拝室反応後、保護者召喚通知と時期が一致。外部干渉の可能性もあります」


「危険ですか」


俺が聞くと、グレン教官はすぐに答えなかった。


少し考えてから言う。


「今のところ、危険な反応は出ていない。だが、偶然とは限らん」


「親父が来るから、思い出したんですか」


「その可能性もある。扉側が何かを揺らした可能性もある。親父の名が出たことで、お前の中の記憶が浮いた可能性もある」


「分からない」


「そうだ」


グレン教官は誤魔化さない。


「だから、決めるな。記録だけする」


エイムが頷いた。


「ユーディア先生にも確認を依頼します。夢の中で名前を呼ばれたことによる名称影響がないか」


「はい」


グレン教官は俺の机を見た。


「手紙は読んだか」


「昨日と今日、少し」


「変化は」


「ありません」


「ならいい」


グレン教官はしばらく黙ってから言った。


「その夢が記憶だとしても、今すぐ全部を取りに行くな」


「はい」


「過去は、武器と同じだ。持ち方を間違えると自分を切る」


その言葉は、少し意外だった。


でも、グレン教官らしい言い方でもあった。


「分かりました」


「本当に分かった顔ではないが、返事はよし」


「……はい」


エイムが記録板を閉じる。


「夕刻の名称確認時に、追加で簡易夢見反応の検査を行います。それまでは再度休養を」


「寝ても大丈夫ですか」


「はい。ただし、同じ夢を見た場合、起床後すぐ報告してください」


「分かりました」


グレン教官は扉へ向かいかけて、足を止めた。


「リオン」


「はい」


「親父が来たら、今の夢を話せ」


「はい」


「たぶん、あの男は嫌な顔をする」


「嫌な顔」


「だが、答えるだろう」


そう言って、グレン教官は部屋を出た。


エイムも続く。


また静かになる。


俺はしばらく寝台に座っていた。


親父は嫌な顔をする。


それが少しだけ想像できて、なぜか少し安心した。


困ったように眉を寄せて、面倒そうに息を吐く。


そして、たぶん言う。


先に飯を食え。


俺は少しだけ笑った。


夢の重さは消えない。


雨の匂いも、血の匂いも、白い欠片も、まだ胸に残っている。


でも、今すぐ追わない。


過去は、武器と同じ。


持ち方を間違えると自分を切る。


なら、今は鞘に入れておく。


名前だけを忘れないようにして。


リオン。


親父が最初に呼んだ名前。


俺はその名前を胸の内で一度だけ確かめて、もう一度横になった。


今度は眠らなかった。


ただ、目を閉じて待った。


夕刻の鐘が鳴るまで。


その頃、王都へ続く街道を、一人の男が歩いていた。


馬は使っていない。


馬車もない。


ただ歩いている。


だが、その速度は旅人のものではなかった。


道端の草が揺れる。

遠くの森が後ろへ流れる。

男の外套は、風を受けても乱れない。


腰には、刃のない柄。


それはまだ眠っている。


男は一度だけ空を見た。


西の空が、少し赤くなり始めている。


「夢に出たか」


小さく呟く。


誰も答えない。


男は歩みを止めなかった。


「早いな」


面倒そうな声。


けれど、その奥にはほんの少しだけ、焦りがあった。


王都は、まだ遠い。


だが、男の足は迷わない。


まるで、呼ばれた場所へ戻る線を知っているように。


彼は日暮れの街道を、ただまっすぐ進んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ