72話_呼ばれる男
親父にも、連絡を取る。
オルディス局長の言葉が、小会議室に残っていた。
机の上には、記録板と写し紙が並んでいる。
中央区画。
測定板。
救護区画。
旧礼拝室。
王城の封鎖目録。
昨日までは学院の中だけで完結していると思っていたものが、いつの間にか王城まで伸びている。
そして、今度は親父だ。
俺を拾った人。
俺に名前をくれた人。
飯を食え、寝ろ、怪我を隠すな、と何度も言った人。
その人が、ただの保護者ではない。
オルディス局長はそう言った。
カイルが、俺の横で少しだけ身じろぎした。
何か言おうとしたのだと思う。
けれど、言わなかった。
エルナも、何も聞かない。
アーヴェルも、こちらを見たあと、すぐに視線を戻した。
一人で聞かなくていい。
さっきエルナがそう言ってくれた。
その言葉がなければ、少し呼吸が乱れていたかもしれない。
セイル監査官が、静かに口を開いた。
「リオン。君の保護者について、君自身が知っていることを確認したい」
「はい」
「六歳以前の記憶はない。雨と血の中で目覚め、現在の保護者に拾われた。以降、境界監理局の保護観察下に置かれ、王立学院へは監理局推薦枠で入学。ここまでは正しいか」
「はい」
淡々と並べられると、自分のことではないように聞こえた。
でも、正しい。
俺は、その通りにここまで来た。
「保護者から、君の出自について具体的な説明を受けたことは」
「ありません」
「白鎌については」
「たぶん、知っていました」
部屋の空気が少しだけ動く。
セイル監査官が目を細めた。
「根拠は」
「初めて白鎌を見た時、驚いたようには見えませんでした。触ろうとはしなかったし、俺にも無理に説明させませんでした。ただ、振った理由だけは忘れるな、と」
グレン教官がわずかに頷いた。
オルディス局長は黙って聞いている。
セイル監査官はさらに問う。
「黒い片翼の気配については」
「話したことはありません」
「君の力を恐れていた様子は」
少し考えた。
親父が俺を恐れていたか。
白鎌を持つ俺。
変なものが見える俺。
名前のない俺。
恐れていたかもしれない。
でも、それを俺に向けたことはなかった。
「ありません」
俺は答えた。
「怒ることはありました。無茶した時とか、怪我を隠した時とか。でも、力そのものを怖がられたことはないと思います」
セイル監査官は記録紙へ何かを書いた。
「なるほど」
カイルが少しだけ口を開く。
「それ、普通に良い親父さんってことじゃないですか」
セイル監査官の視線がカイルへ向いた。
カイルは一瞬固まったが、すぐに言い直した。
「すみません。でも、今の話だけなら、そう思ったので」
沈黙。
オルディス局長が低く笑った。
「間違ってはいない」
セイル監査官は少しだけ眉を動かしたが、否定はしなかった。
「保護者としての評価は、別途記録にあります」
「どういう評価ですか」
カイルが聞きそうになったが、アーヴェルが机の下で軽く止めた。
カイルは口を閉じる。
オルディス局長が代わりに言った。
「少なくとも、リオンをここまで育てた。その一点は大きい」
その言い方は、ただの事務的な評価ではなかった。
知っている。
オルディス局長は親父を知っている。
グレン教官も、たぶん知っている。
リュカも、何か知っていそうだった。
封印箱を抱えたまま、いつもの眠そうな目で何も言わない。
俺は聞いた。
「親父は、監理局の人だったんですか」
オルディス局長は、すぐには答えなかった。
沈黙は長くなかった。
でも、部屋の中では十分に重かった。
「本人から聞け」
局長は言った。
「私が話せることもある。王城記録で開示できるものもある。だが、お前が最初に聞くべき相手は、私ではない」
「……はい」
それは、納得できる答えだった。
少しずるいとも思った。
けれど、親父のことを最初に親父から聞くべきだというのは、たぶん正しい。
セイル監査官が記録紙を閉じる。
「保護者への召喚通知は、王城と監理局の連名で送る。到着までの日数は」
オルディス局長が答えた。
「通常なら三日。あの男なら、二日以内だろう」
カイルが小声で言う。
「速い」
リュカがぼそっと返す。
「もっと速いかも」
「え」
「昔から、必要な時は変に早い」
「それ、どういう」
「聞かなかったことにして」
グレン教官がリュカを見る。
「お前は本当に余計なことを言う」
「少しだけ」
「その少しが多い」
リュカは封印箱に視線を落とした。
「反省している」
「嘘をつくな」
「少ししている」
カイルが少しだけ笑いそうになった。
でも、今は笑いきれない。
親父が来る。
二日以内。
その事実が、胸の中で重く座っていた。
エイムが記録板を確認する。
「本日の聞き取りは、王城監査官到着後の追加分を含めて、ここで一度区切ります。午後は休養。第一基礎班は寮棟待機。ただし、夕刻に簡易名称確認を行います」
カイルが安堵したように息を吐く。
「午後休める」
セイル監査官が言う。
「休養も監視下だ」
カイルの肩が少し落ちる。
「ですよね」
グレン教官が立ち上がった。
「監視といっても、部屋の前に職員が立つだけだ。余計なことをしなければ問題ない」
「余計なことって何ですか」
「外へ出る。訓練する。旧礼拝室へ行く。資料室へ忍び込む。右手を使って白鎌を呼ぼうとする。黒月を試す」
カイルが俺を見る。
「最後二つ、リオン向けだな」
「うん」
「しないよな」
「しない」
エルナが静かに確認する。
「本当に?」
「本当に」
アーヴェルも言う。
「考察を始めるなら、紙に書く前に寝ろ」
「それはアーヴェルも」
カイルがすかさず言う。
「私は必要事項だけ整理する」
「セラフィナ先生に言うぞ」
アーヴェルは黙った。
勝ったような顔をするカイルに、グレン教官が低く言った。
「お前も寝ろ」
「はい」
小会議室の空気が、少しだけ緩んだ。
だが、完全には戻らない。
王城封鎖目録。
親父の召喚。
旧礼拝室の未分類反応。
重い言葉は、机の上にまだ残っている。
オルディス局長が俺を見る。
「リオン」
「はい」
「午後は本当に休め。親父が来るまでに、倒れられても困る」
「……はい」
「それと」
局長は少しだけ声を低くした。
「親父が何を話しても、最初から全部を背負おうとするな」
言葉が胸に刺さる。
「お前の過去は、お前だけの責任ではない」
返事が少し遅れた。
「はい」
オルディス局長はそれ以上言わなかった。
セイル監査官は記録をまとめ、王城側の職員と短く確認を交わしている。
エイムは聞き取り内容を整理していた。
ミレイア先生は旧礼拝室の写し紙を慎重に封筒へ入れ、ユーディア先生は結界盤を閉じる。
終わった。
少なくとも、今日の午前は。
小会議室を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
外から入る光が、朝より強くなっている。
学院は動いている。
実技は止まっているが、授業は続いている。
教室から講義の声が聞こえる。
遠くで鐘が鳴る。
普通の音。
その普通の音に、少し救われる。
カイルが大きく伸びようとして、筋肉痛で途中で止まった。
「痛い」
アーヴェルが言う。
「だから動くな」
「伸びただけだ」
「伸びるな」
「厳しい」
エルナが俺を見る。
「大丈夫ですか」
「分からないけど、大丈夫寄り」
「それは大丈夫とは言いません」
「たぶん大丈夫」
「少し近づきました」
カイルが笑う。
「判定厳しいな」
「今日は厳しくします」
「はい」
寮棟へ戻る途中、食堂前の掲示板に人だかりができていた。
新しい告知が貼られている。
月例測定再開延期。
本日午後の実技場使用禁止。
中央棟地下区画への接近禁止。
生徒は各担当教員の指示に従うこと。
その下に、小さく別の紙が貼られていた。
昨日の中央区画第一試合については、正式記録として成立。
第一基礎班、第三基礎班ともに安全対応評価を加点。
詳細点は後日通知。
カイルがそれを見て、少しだけ表情を明るくした。
「第三基礎班もちゃんと加点されてる」
アーヴェルが頷く。
「当然だ」
「当然だけど、良かった」
エルナも静かに言う。
「記録に残るのは大切ですね」
俺は掲示を見た。
第一基礎班。
第三基礎班。
勝者、敗者ではない。
正式記録として並んでいる。
それだけで、昨日の中央区画で踏みとどまった意味がある気がした。
近くにいた一年生たちが、その掲示を見ながら話している。
「第三基礎班も加点なんだ」
「中央の異常に対応したからだろ」
「レオルたち、すごかったもんな」
「第一基礎班も白鎌なしで勝ったって聞いた」
「リオンが長柄で塞いだやつ?」
「そうそう」
名前。
具体的な動き。
普通の噂。
灰色は混じっていない。
俺は強く見すぎないようにしながら、それだけを確認した。
「大丈夫そうか」
カイルが聞く。
「うん。普通の噂」
「普通の噂、だいぶありがたいな」
「うん」
そのまま寮棟へ戻る。
部屋の前には、監理局職員が一人立っていた。
本当に監視がついている。
職員は丁寧に頭を下げた。
「午後の寮棟待機中、何かありましたらお声がけください。水、軽食、医療連絡、すべて対応します」
カイルが小声で言う。
「至れり尽くせり監視」
職員は真面目に答えた。
「監視ではなく、安全確認です」
「すみません」
アーヴェルが職員へ確認する。
「各自の部屋で休む形ですか」
「はい。ただし、体調不良や名称違和がある場合はすぐに申告を」
「承知しました」
エルナは女子寮側へ戻る前に、こちらを見た。
「夕刻の名称確認まで、休んでください」
「うん」
「考えすぎないように」
「努力する」
「努力ではなく、実行です」
昨日のセラフィナ先生の言い方に似ていた。
カイルが笑う。
「増えてるな、セラフィナ先生系」
「必要なら増えます」
「はい」
エルナは少しだけ柔らかく笑い、女子寮側へ向かった。
アーヴェルも自分の部屋の前で立ち止まる。
「リオン」
「うん」
「親父殿の件について、聞きたいことを整理するのは構わない。ただし、今すぐ答えを作るな」
「答えを作る?」
「聞く前に、自分で納得しようとするなという意味だ」
その言葉に、少しだけ痛いところを突かれた気がした。
親父が何を隠していたのか。
なぜ何も言わなかったのか。
俺はもう、頭のどこかで理由を探し始めていた。
仕方なかった。
守るためだった。
言えなかっただけだ。
あるいは、俺を騙していた。
どれも、まだ聞いていない。
「分かった」
俺は答えた。
「聞くまで、決めない」
「それでいい」
カイルが自分の部屋の扉に手をかけながら言う。
「聞く時は、俺らもいるからな」
「うん」
「言いにくかったら、俺が先に飯食ったか聞く」
「それは親父が言う方」
「じゃあ先に言われたら負けだな」
「何の勝負だ」
アーヴェルが呆れる。
少し笑って、それぞれ部屋に入った。
扉を閉めると、急に静かになった。
朝からずっと誰かがいた。
カイル。
エルナ。
アーヴェル。
グレン教官。
エイム。
局長。
王城監査官。
声が多かった。
一人になると、急に親父のことが近づいてくる。
俺は机の引き出しを開けた。
手紙を出す。
『リオンへ』
封筒の文字を見る。
昨日も見た。
その前も見た。
何度も見た。
でも、今日は違う。
この文字を書いた人が、俺の知らない過去を持っている。
監理局長が呼べば来る人。
王城が証言を求める人。
ただの一般人ではない、と言われた人。
親父。
俺は手紙を開けた。
読み慣れた文章。
学院で面倒が起きているらしいな。
飯は食え。
寝ろ。
怪我を隠すな。
姓がないから何だ。
お前はリオンだ。
俺がそう呼んできた。
帰ってきたらもう一度呼んでやる。
振る前に考えろ。
振った理由だけは忘れるな。
親父より。
いつもの言葉。
何も変わっていない。
でも、最後の一文が今は違って見える。
振る前に考えろ。
振った理由だけは忘れるな。
白鎌を知っていたから、そう言ったのか。
俺がいつか、何かを切ると分かっていたからなのか。
それとも、親父自身がそうしてきたからなのか。
分からない。
答えを作るな。
アーヴェルの言葉を思い出す。
俺は手紙を畳み直した。
決めない。
聞くまで、決めない。
そのために、今は休む。
寝台に横になる。
右手の包帯を見て、握らないように布団の上に置く。
目を閉じる。
眠れるかは分からない。
けれど、身体は疲れている。
朝から重い話が多かった。
局長。
王城。
親父。
王城封鎖目録。
旧礼拝室。
全部が頭の中で並ぶ。
それでも、意識は少しずつ沈んでいった。
眠りに落ちる直前。
扉の奥ではなく、遠い炉の火を思い出した。
親父が鍋を見ている。
何も言わずに、火を弱める。
そして、こちらを見ずに言う。
飯は食ったか。
俺は夢の中で、たぶん答えた。
食ったよ、と。
その頃。
王都から離れた小さな村に、灰色の封筒をくわえた伝令鳥が降りた。
鳥は迷わず一軒の家の窓辺へ止まる。
炉の火は消えていない。
男は、すでに外套を着ていた。
机の上には、書きかけの手紙。
宛名は、リオンへ。
男は窓を開け、伝令鳥から封筒を取った。
王城の封印。
境界監理局の封印。
二つ並んだ印を見ても、男は驚かなかった。
ただ、少しだけ面倒そうに息を吐いた。
「遅い」
封筒を開く。
内容に目を通す。
旧礼拝室。
未分類反応。
黒灰線。
王城封鎖目録。
リオン。
そこまで読んで、男の目がわずかに細くなった。
しばらく沈黙する。
やがて、彼は書きかけの手紙を畳まず、そのまま机に置いた。
炉の火を消す。
鍋に蓋をする。
壁に掛けてあった刃のない柄を外す。
ただの柄ではない。
長く使われていないはずなのに、手に取る動作に迷いがない。
男は外套の内側にそれを差し、家の扉へ向かった。
出る前に、一度だけ机の上の手紙を見る。
リオンへ。
まだ、それ以上は書かれていない。
男は低く呟いた。
「直接言うか」
扉を開ける。
夜ではない。
昼の光が、村の道に落ちている。
男は振り返らずに歩き出した。
その足取りは、急いでいるようには見えない。
だが、伝令鳥よりも早く王都へ着く者の歩き方だった。




