71話_局長来訪
朝食は、最後まで食べられた。
左手で食べるのには少し時間がかかったが、残さずに済んだ。
カイルは完食したあと、まだ何か食べられそうな顔をしていた。
アーヴェルに見られて、追加を取りに行くのはやめていた。
第三基礎班とは、食堂の前で別れた。
レオルたちは第二講義室へ向かう。
俺たちは中央棟小会議室へ向かう。
別れる前、レオルが言った。
「必要なら呼べ。昨日の中央区画で見たことは話せる」
アーヴェルが頷く。
「その時は頼む」
「対戦相手だからな」
レオルは短くそう返した。
負けた班でも、巻き込まれた班でもない。
対戦相手。
その言い方が、少し良かった。
中央棟へ向かう道は、昨日より人が多かった。
授業はある。
ただし、実技場へ向かう生徒はいない。
剣や杖を持った生徒も、今日はほとんど教室棟の方へ歩いている。
昨日のことを話している声はある。
だが、誰も大声では話していない。
「地下結界設備の安全確認だって」
「測定再開いつだろうな」
「第一試合、最後まで見たかった」
「いや、終わってただろ」
「第三基礎班、普通に強かったよな」
「第一基礎班も、白鎌なしだったんだろ」
「リオン、長柄だけで止めてた」
名前が聞こえる。
少しだけ身体が反応した。
けれど、灰色は混じらない。
ただの噂。
ただの評価。
少し大げさで、少し雑な、普通の学院の声。
それなら大丈夫だ。
カイルが隣で小さく言った。
「白鎌なしって、しばらく言われそうだな」
アーヴェルが答える。
「事実ではある」
「まあな。でも、白鎌ありの時にどうなるか、勝手に盛られそう」
「それは避けたい」
エルナが頷く。
「白鎌を出していない時のリオンさんも、リオンさんですから」
「うん」
俺はそう答えた。
白鎌があるからリオンなのではない。
白鎌がなくても、俺は俺だ。
その当たり前のことを、昨日から何度も確かめている。
中央棟小会議室には、すでにエイムがいた。
記録板が三枚。
昨日の測定記録。
中央区画、測定板、救護区画、旧礼拝室の簡易図。
それから、名札反応の写し。
机の上は、朝から重かった。
カイルが入口で足を止める。
「思ったより本格的だ」
エイムは顔を上げる。
「詳細聞き取りですので」
「要点のみでは」
「昨日で終わりました」
「ですよね」
グレン教官、ユーディア先生、ミレイア先生、リュカも順に入ってきた。
セラフィナ先生はいない。
救護区画と治癒棟の確認があるらしい。
ただし、扉に貼られた小さな札には、セラフィナ先生の筆跡でこう書いてあった。
過度な聞き取りを禁ず。
食後一刻は休憩を挟むこと。
体調不良者が出た場合、即時中断。
カイルが札を見て言う。
「守護札だ」
リュカが頷く。
「強い封印」
グレン教官が無言で札を見たあと、何も言わず席についた。
守るつもりらしい。
俺たちも座る。
右手は膝の上。
包帯はそのまま。
エイムが記録板を開いた。
「では、昨日の時系列確認から始めます。まず、中央区画第一試合。第一基礎班対第三基礎班」
カイルが少しだけ身構える。
「そこから全部ですか」
「はい。全部ではなく、必要な時系列です」
「必要な全部ですね」
「理解が早くなりました」
「嬉しくない」
エイムは淡々と進めた。
中央区画。
第一基礎班と第三基礎班の名乗り。
中央白線下の灰衣礼拝布焼き写し。
第一と第三の所属名を利用し、その間に第二を置こうとした構造。
エルナが名乗り、進行を止めたこと。
両班が勝者と敗者に呑まれず、自分たちの班名を保ったこと。
白鎌、偏軌、黒月を使わずに試合を成立させたこと。
次に測定板。
観衆の声。
勝者、敗者、白鎌、灯という呼称。
二枚目の焼き写し。
勝敗表示を消し、班名、個人名、得点、判定へ切り替えたこと。
そして救護区画。
三枚目の現物端。
応急布処置。
負傷者名簿。
治癒導線。
ミリアとエルナの名乗り。
セラフィナ先生とリュカの封印。
リオンが三枚目の接続先を特定したこと。
その後、旧礼拝室本体反応。
地下結界室。
白鎌顕現。
黒月使用。
扉前移動。
黒灰線。
扉奥の未分類反応。
第二弧の兆候。
資料室への接続線断絶。
一つずつ確認されるたびに、昨日が遠くなったり近くなったりした。
食堂で食べていた時は、少し日常に戻った気がした。
けれど、記録として並べられると、やはり昨日の出来事は大きすぎる。
カイルが途中で水を飲み、呟いた。
「よく生きて戻りましたね、俺ら」
グレン教官が短く言う。
「戻した」
「はい」
「ただし、運もあった」
アーヴェルが頷く。
「三枚目を救護区画で見つけるのが遅れていれば、旧礼拝室本体の反応はもっと大きかった可能性があります」
「中央区画で両班が名を保てなかった場合も、でしょう」
エルナが続ける。
「そうだ」
グレン教官は否定しなかった。
「だから、昨日の件は第一基礎班だけの成果ではない。第三基礎班、治癒科、観覧席の訂正、封鎖班、大人側の初動。全部が噛み合った」
それは、少し救いだった。
全部を俺たちが背負ったわけではない。
でも、俺たちも確かにその中にいた。
エイムは記録板へ書き込みながら言う。
「次に、旧礼拝室扉面の名称参照について確認します。リオン君、扉に『第一基礎班』と浮かんだ時、名札側に引かれる感覚はありましたか」
「少し。でも、名札が揺れる感じではなかったです」
「班名そのものを奪われる感覚ではなく、呼ばれている感覚ですか」
「はい。でも、呼ばれているというより、使われそうな感じ」
ユーディア先生が頷いた。
「正しい感覚です。扉側は、第一基礎班という名を壊すのではなく、その名の意味を上書きしようとしていました」
「器、灯、手、刃」
エルナが静かに言う。
「ええ」
ユーディア先生は結界盤を机に置いた。
「正しい名は強い。ですが、正しい名ほど、定義を奪われると危険です。昨日、アーヴェルさんが班の構成を正式記録として述べたことで、かなり防げました」
アーヴェルは少しだけ目を伏せた。
「役割ではなく、記録として言う方が安全だと判断しました」
「良い判断でした」
ユーディア先生が言う。
アーヴェルは短く頷いた。
カイルが小声で言う。
「褒められてる」
「黙れ」
「はい」
エイムが次の記録板を開く。
「黒月第二弧について」
部屋の空気が少しだけ変わった。
カイルの軽口も止まる。
俺は右手を握りそうになって、やめた。
包帯を見る。
使わない。
今日は、確認するだけ。
エイムが言う。
「二度の観測のうち、一度目は出口接続線を折った直後に残影として発生。二度目は資料室接続線を断つ際、先行軌道として発生。リオン君、二度目について詳しく説明してください」
「振る前に、そこへ黒い傷がある気がしました」
「見えたのですか」
「見えた、というより……白鎌が通る場所より、少し先に空間が待っていた感じです」
「待っていた」
エイムが記録する。
「その時、意図して二つ目を出そうとしましたか」
「いいえ。資料室へ伸びる線を折りたいと思いました。一本だと足りないと思った。でも、二つ出そうとは思ってません」
グレン教官が腕を組む。
「足りないと判断した瞬間、先行して軌道が刻まれた可能性がある」
「危険ですか」
俺が聞く。
「危険だ」
即答だった。
「だが、使えない兆候ではない。危険というだけだ」
リュカが封印箱の上に顎を乗せるようにして言った。
「危険じゃない力なんて、この部屋には少ない」
カイルが周りを見る。
「確かに」
「納得するな」
アーヴェルが言う。
ミレイア先生は写し紙を見ながら言った。
「黒月が空間に軌道を刻む力だとすれば、第二弧は時間差か、先行した軌道固定に近いのかもしれません。ただし、神話的には少し気になる点があります」
グレン教官が視線を向ける。
「何だ」
「片翼の神話では、欠けたものは常にひとつではありません。片翼、半身、欠けた月、失われた名。欠けたものは、対になるものを呼ぶ」
カイルが少し難しそうな顔をする。
「つまり、二つ目が出るのは神話的に意味がある?」
「可能性はあります」
ミレイア先生は俺を見た。
「ですが、意味を急いで決めてはいけません。力に名前を与えすぎれば、灰衣と同じように役割を重ねてしまう」
「はい」
俺は頷いた。
名前は大事だ。
でも、早すぎる名前は危険だ。
昨日、それも学んだ。
エイムも記録板へ書く。
「第二弧は当面、現象記録のみ。技名化しない。訓練は監督下でのみ」
グレン教官が頷く。
「それでいい」
聞き取りは続いた。
白い袖の声。
誘導線。
扉奥の未分類反応。
資料室への接続線。
グレン教官の負傷。
黒灰線の性質。
途中で一度、セラフィナ先生の札に従って休憩が入った。
本当に一刻ではなく、短い休憩だったが、グレン教官は何も言わなかった。
カイルが茶を飲みながら言う。
「この札、効いてるな」
リュカが頷く。
「強い封印」
エイムが真面目に言う。
「医療指示です」
「そうとも言う」
休憩明け、部屋の外が少し騒がしくなった。
足音。
複数人。
監理局職員の声。
廊下にいた教官が、少し緊張した声で挨拶する。
「局長」
その一言で、部屋の空気が変わった。
エイムがすぐに立ち上がる。
グレン教官も席を立った。
ミレイア先生、ユーディア先生、リュカも、それぞれ姿勢を正す。
カイルが小声で言う。
「来た」
アーヴェルが静かに答える。
「黙っていろ」
扉が開いた。
入ってきたのは、灰色の長衣を着た男だった。
年齢は、グレン教官より上に見える。
だが、老いているという印象はない。
背は高く、動きに無駄がない。
薄い銀の髪。
落ち着いた目。
片手には細い黒杖。
境界監理局長。
オルディス・レイン。
その後ろには、監理局職員が二人。
さらに、黒に近い紺色の外套を着た人物が一人いた。
王城側の臨時監査官だろう。
その人物は、フードを下ろしている。
年齢は読みにくい。
男とも女ともつかない低い声で、静かに名乗った。
「王城臨時監査官、セイル・ヴァラント。陛下の命により、本件を確認する」
王城。
陛下。
その言葉で、昨日の扉前とは別の重さが部屋に落ちた。
オルディス局長は俺たちを一人ずつ見た。
視線は鋭いが、敵意はない。
ただ、深く測られているような感覚があった。
最後に、俺を見る。
「リオン」
名前で呼ばれた。
俺は立ち上がる。
「はい」
「飯は食ったか」
一瞬、部屋が静まった。
カイルが目を丸くする。
エイムも少しだけ瞬いた。
俺も、少し遅れて答えた。
「食べました」
オルディス局長は頷いた。
「ならいい」
その言い方が、妙に親父と似ていた。
グレン教官が少しだけ眉を動かす。
「局長」
「重要な確認だ」
「否定はしません」
「だろう」
オルディス局長は席を勧められる前に、長机の前に立ったまま言った。
「詳細報告は受けている。旧礼拝室、灰衣礼拝布三枚、扉面名称参照、黒灰線、未分類反応、黒月第二弧。どれも軽い話ではない」
セイル監査官が静かに続ける。
「王城としても、学院内の単独異常ではなく、王国封鎖案件として扱う可能性がある」
カイルが少しだけ表情を引き締めた。
エルナの手が名札へ触れかけて、止まる。
アーヴェルはまっすぐ二人を見ていた。
オルディス局長は続ける。
「だが、その前に確認する。第一基礎班」
その呼び方に、ユーディア先生の鐘が微かに鳴った。
揺れではない。
確認。
「昨日、扉はお前たちの班名を参照した。ならば、こちらでも正しく扱う必要がある」
局長はゆっくりと言った。
「カイル・レグナート」
カイルが答える。
「はい」
「エルナ・シルヴェリア」
「はい」
「リオン」
「はい」
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
「はい」
「四名。戦闘科第一基礎班。昨日の中央区画第一試合参加班。旧礼拝室扉前防衛協力者。以上が現時点の正式記録だ」
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
器、灯、手、刃ではない。
正式な記録。
役割ではなく、事実。
ユーディア先生が頷いた。
「名称固定、安定しています」
セイル監査官が記録紙に視線を落とす。
「では、王城側の確認を始める」
その声は静かだった。
だが、冷たい。
「リオン。昨日、黒月の第二弧が観測された時、旧礼拝室内部の未分類反応へ、君自身が接続された可能性はあるか」
質問が、鋭く来た。
カイルが口を開きかける。
アーヴェルが視線で止めた。
俺は少しだけ息を吸う。
昨日の感覚を思い出す。
黒月。
接続線。
資料室へ伸びる細い線。
二つ目の弧。
扉奥の呻き。
「接続された感じはありません」
俺は答えた。
「白鎌へ絡みかけた線はありました。でも、二つ目の黒月が出た時は、向こうへ繋がったというより、向こうの線を挟んで潰した感じです」
セイル監査官はすぐに聞く。
「向こうから君へ伸びたのではなく、君が向こうの線へ干渉した」
「はい」
「その干渉は、君の意思か」
「線を止めようとはしました。でも、二つ目を出そうとはしていません」
「制御外の発現と見るべきか」
グレン教官が口を開く。
「兆候だ。暴走ではない」
セイル監査官の視線がグレン教官へ向く。
「判断根拠は」
「発現後、リオンは自力で立っていた。名称も安定。白鎌も自分の意思で消している。周囲への無差別干渉もない」
「黒月の危険性は」
「ある」
グレン教官は短く答えた。
「だから管理下で鍛える」
セイル監査官はしばらく黙った。
それから、オルディス局長を見る。
局長は静かに言った。
「王城が恐れるのは分かる。だが、封じるだけでは次に対応できない」
セイル監査官は答える。
「陛下も同じ判断です。ただし、条件があります」
王城の条件。
その言葉で、部屋の空気がまた重くなる。
「リオンを含む第一基礎班は、当面の間、学院外への無断移動を禁ずる。旧礼拝室、資料室、救護区画、創世廊への接近は許可制。月例測定の再開は王城と監理局の承認後」
カイルが小さく言う。
「まあ、それは分かる」
「さらに」
セイル監査官は俺を見る。
「白鎌、黒月、および第二弧兆候の訓練は、グレン教官、監理局職員、医療担当の立ち会いを必須とする」
グレン教官が頷く。
「妥当だ」
「最後に」
監査官の声が、少しだけ低くなった。
「旧礼拝室内部の未分類反応が外へ出た場合、リオンの拘束も選択肢に含まれる」
カイルが椅子を鳴らして立ちかけた。
「それは――」
「座れ」
グレン教官の声。
カイルは止まった。
だが、拳は握られている。
エルナの表情も硬い。
アーヴェルは監査官をまっすぐ見ている。
俺は、思ったより静かだった。
拘束。
王命。
いつか聞いた言葉だ。
リオンは保護対象であり、監視対象。
暴走時は王命により拘束。
それが、ここで現実の言葉になっただけだ。
オルディス局長が言う。
「選択肢だ。決定ではない」
セイル監査官も頷いた。
「陛下はリオンの排除を望んでいない。保護が最優先であることは変わらない。ただし、王国全体への危険が発生した場合、ためらわない」
それは冷たい。
でも、嘘ではない。
王国には王国の守るものがある。
俺たちには俺たちの守るものがある。
いつか、そこがぶつかるかもしれない。
そう思った。
グレン教官が静かに言う。
「その時が来ないように、今鍛える」
セイル監査官は頷いた。
「だから来ました」
オルディス局長が俺を見る。
「リオン」
「はい」
「今の条件を聞いて、どう思う」
部屋の全員が、こちらを見た。
俺は少し考えた。
怖くないわけではない。
拘束という言葉は、冷たい。
自分が自分でなくなる可能性を、他人の判断で止められる。
それは嫌だ。
でも、昨日の扉の奥のものを思い出す。
あれが外へ出た時、俺がもし向こうに引かれたら。
仲間を傷つけるくらいなら、誰かに止めてほしいと思う部分もある。
けれど、それだけでは終わりたくない。
「嫌です」
俺は言った。
カイルがこちらを見る。
エルナも。
アーヴェルも。
俺は続ける。
「拘束されたいとは思いません。でも、俺が誰かを傷つけるなら、止められるべきだとも思います」
右手の包帯を見る。
「だから、そうならないように鍛えます。止められる前に、自分で止まれるように。必要な時に、ちゃんと使えるように」
少しだけ息を吸う。
「俺は、器じゃありません。鍵でもありません。リオンです」
その言葉は、もう何度も言ってきた。
でも、今は少し違う。
敵へ返すためではない。
王城へ。
監理局へ。
仲間へ。
そして、自分へ。
「リオンとして、力を使えるようになります」
小会議室は静かだった。
オルディス局長は、しばらく俺を見ていた。
やがて、頷く。
「よい答えだ」
セイル監査官も記録紙へ何かを書いた。
「王城記録へ残します」
カイルが小さく息を吐く。
「心臓に悪い」
アーヴェルが低く言う。
「同感だ」
エルナは静かに俺を見る。
「今の言葉、覚えています」
「うん」
グレン教官が言った。
「なら、次は実行だ」
「はい」
その時、オルディス局長がエイムへ視線を向けた。
「資料室の隔離記録を見せろ」
「はい」
エイムが記録板を差し出す。
局長はそこに目を通し、眉をわずかに動かした。
「黒灰線の接続痕が棚外縁に残った、とあるな」
「はい。旧災害対応記録への追加侵入は阻止しました」
「棚外縁だけか」
「現時点では」
局長は記録板をセイル監査官へ渡した。
「王城側にも確認してもらう必要がある」
セイル監査官は記録を見る。
その表情が、初めて少し変わった。
「これは」
ミレイア先生が問う。
「何か?」
セイル監査官は短く息を吐いた。
「王城の古い封鎖目録にも、同じ接続痕がある」
部屋の空気が止まった。
グレン教官の声が低くなる。
「いつ確認した」
「今朝。旧礼拝室の速報を受け、王城内の封鎖目録を照合した。目録そのものは無事だが、外縁に黒灰色の擦過痕があった」
「つまり」
アーヴェルが静かに言う。
「昨日の接続線は、学院資料室だけを狙ったわけではない」
オルディス局長が頷いた。
「王城の記録にも触れようとした可能性がある」
カイルが呟く。
「規模、でかくなってきたな」
誰も否定しなかった。
旧礼拝室。
学院資料室。
クラウゼン家の旧災害対応記録。
王城の封鎖目録。
線は、学院の中だけで終わっていない。
俺は右手の包帯を見た。
昨日、資料室へ伸びる線を折った。
二つ目の黒月が出た。
でも、もしあれが王城にも伸びていたなら。
俺たちは、思っていたより大きなものを止めたのかもしれない。
あるいは。
止めきれていないのかもしれない。
オルディス局長は静かに言った。
「ここから先は、学院だけの事件ではない」
その言葉が、小会議室に落ちる。
朝の食堂で感じた普通の時間が、また少し遠ざかった。
けれど、完全には消えない。
さっき食べた朝食の温かさは、まだ身体に残っている。
カイルがいる。
エルナがいる。
アーヴェルがいる。
グレン教官がいる。
俺は息を整えた。
オルディス局長の声が続く。
「そして、リオン」
「はい」
「お前の親父にも、連絡を取る」
胸の奥が、少しだけ跳ねた。
親父。
昨夜、遠くの村で何かを感じているかもしれないと思った人。
飯は食ったか、と書きそうな人。
「必要なことですか」
俺が聞くと、局長は頷いた。
「必要だ。あの男は、お前を拾っただけの一般人ではない」
部屋の空気が、また変わった。
カイルがこちらを見る。
エルナも。
アーヴェルも。
俺は言葉が出なかった。
親父は、親父だ。
寡黙で、料理ができて、飯を食えとうるさくて、怪我を隠すなと言う人。
でも。
刃のない柄。
雨と血の中で拾われた記憶。
六歳以前の空白。
俺をリオンと呼び続けた人。
何も知らないはずがない。
そう思ったことが、一度もなかったわけではない。
オルディス局長は俺を見たまま言った。
「詳しい話は、本人が来てからだ」
「来るんですか」
「ああ」
局長は短く答えた。
「呼べば来る。昔から、面倒事には遅れない男だ」
グレン教官がわずかに目を細めた。
「局長」
「隠しても仕方ない段階に入った」
セイル監査官も頷く。
「王城としても、彼の証言を求めます」
彼。
親父。
俺の知らない場所で、親父の名前が当然のように扱われている。
そのことが、扉の黒灰線よりも少しだけ怖かった。
カイルがそっと言う。
「リオン」
「うん」
「大丈夫か」
大丈夫か。
すぐには答えられなかった。
でも、右手は握らない。
呼吸をする。
「分からない」
俺は正直に言った。
「でも、聞きたい」
親父が何を知っているのか。
なぜ俺を拾ったのか。
なぜリオンと名付けたのか。
なぜ監理局と繋がっているのか。
知りたい。
怖いけれど、逃げたくはない。
オルディス局長は頷いた。
「なら、聞けるようにしておけ」
その声は、厳しいが冷たくはなかった。
「まずは今日の聞き取りを終える。午後は休め。親父への連絡は、こちらで行う」
カイルが小さく呟いた。
「また重い話が増えた」
アーヴェルが静かに返す。
「だが、避けられない」
エルナは俺を見る。
「一人で聞かなくていいです」
その言葉に、少しだけ胸が楽になった。
一人で聞かなくていい。
それなら、聞けるかもしれない。
エイムが記録板に書き込む音がする。
王城封鎖目録。
旧災害対応記録。
親父への連絡。
昨日の扉は、まだ細く開いている。
けれど、別の扉も開き始めた気がした。
俺自身の過去へ続く扉。
そこから何が出てくるのかは、まだ分からない。
でも、もう目を逸らすだけでは済まない。
俺は胸元の名札に触れた。
リオン。
親父が呼び続けてくれた名前。
その名前の理由を、もうすぐ聞くことになる。




