70話_普通の食堂
朝は、思ったより普通に来た。
夢は見なかった。
旧礼拝室の扉も。
白い袖の声も。
黒灰色の線も。
二つ目の黒月も。
何も見なかった。
目を開けると、寮室の天井があった。
窓の外は薄く明るい。
学院の朝鐘はまだ鳴っていない。
廊下の向こうで、誰かが水差しを運ぶ音がする。
俺はしばらく動かなかった。
右手は布団の上に置いたままだった。
握っていない。
セラフィナ先生に巻かれた包帯は、昨夜と同じように白い。
少しだけ違和感がある。
けれど、痛みは強くない。
胸の奥に黒月の残響はある。
遠くに沈んでいる。
触ろうと思えば触れられそうで、でも、触れたら駄目だと分かる場所にある。
今日は使わない。
白鎌も呼ばない。
俺は左手で布団を押し、ゆっくり起き上がった。
机の上には、親父の手紙がある。
『リオンへ』
封筒の文字を見て、少し息を吐く。
昨日の夜、遠くのどこかで親父のことを考えた。
いや。
考えたというより、思い出した。
飯は食え。
寝ろ。
怪我を隠すな。
全部守った。
たぶん。
俺は手紙を机の引き出しにしまい、着替えを始めた。
右手を使いすぎないようにすると、思ったより時間がかかる。
シャツの袖を通すだけでも、普段より面倒だった。
それでも、誰かを呼ぶほどではない。
そう思ったところで、昨日のセラフィナ先生の声が頭に浮かんだ。
無事だったから平気、ではありません。
俺は少しだけ迷ってから、無理に速くするのをやめた。
時間をかける。
それだけのことなのに、少し難しい。
朝鐘が鳴る頃、廊下に出た。
ちょうど隣の部屋からカイルが出てくる。
髪が少し跳ねていた。
「おはよう」
「おはよう」
カイルは俺の右手を見た。
「握ってないな」
「握ってない」
「よし」
「カイルは」
「筋肉痛が来た」
真顔だった。
「だいぶ来た」
「大丈夫?」
「大丈夫ではある。でも階段が敵」
少し遅れて、アーヴェルも部屋から出てきた。
いつも通り整っている。
ただ、目元に少し疲れが残っていた。
「二人とも、体調は」
カイルが先に答える。
「階段が敵」
「それは体調ではなく筋疲労だ」
「敵であることは否定しないのか」
「否定はしない」
アーヴェルは俺を見る。
「リオンは」
「痛みは少しだけ。白鎌の感覚は遠い。黒月は残ってるけど、触ってない」
「それでいい」
「アーヴェルは?」
「問題ない」
カイルがすぐに言った。
「素振りしてない?」
「していない」
「本当に?」
「していない」
「頭の中では?」
アーヴェルが一瞬だけ黙った。
カイルが指を差す。
「やったな」
「頭の中で型を確認することは素振りではない」
「セラフィナ先生に言うぞ」
「それはやめろ」
俺は少し笑った。
朝の廊下。
馬鹿みたいな会話。
昨日の扉前から、ちゃんと戻ってきた気がした。
女子寮側の通路から、エルナが来る。
昨日より少し顔色は戻っていた。
ただ、歩き方はいつもより慎重だった。
「おはようございます」
「おはよう」
カイルがすぐに聞く。
「治癒術式、使ってない?」
「使っていません」
「本当に?」
「使っていません」
「頭の中では?」
エルナは少し困ったように瞬いた。
「治癒術式は頭の中で使っても、人は治りません」
「確かに」
アーヴェルが低く言う。
「今のはお前が悪い」
「はい」
エルナは俺の右手を見る。
「包帯、外していませんね」
「うん」
「痛みは」
「少しだけ」
「無理は」
「してない」
「なら、信じます」
その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。
信じます。
昨日から、その言葉は少し重くなった。
止められるより、ずっと。
四人で寮棟を出る。
朝の学院は、やはりいつもと少し違った。
中庭には生徒がいる。
けれど、剣を振っている者は少ない。
魔法科の生徒たちも、昨日の測定中止の話をしているのか、何人かで固まって小声で話している。
掲示板には、昨日の月例測定一日目中止の告知が貼られていた。
理由は、地下結界設備の安全確認。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
カイルが掲示板を見て言う。
「便利な言い方だな」
アーヴェルが答える。
「必要な言い方だ」
「それも分かる」
エルナが周囲の声を聞くように少しだけ足を止める。
「噂は出ていますね」
「出るだろうな」
生徒たちの声が、ところどころ聞こえる。
中央区画の白線が変に光った。
測定板が途中で切り替わった。
第一試合が長かった。
第三基礎班、意外と強かった。
第一基礎班、白鎌を出さなかったらしい。
地下で何かあったらしい。
結界設備の不調って何だ。
教官たちが妙に真剣だった。
まだ、危険な呼び名は少ない。
勝者。
敗者。
器。
灯。
そういう言葉は、少なくとも今ここでは聞こえなかった。
それだけで、昨日の対処が効いているのだと分かる。
食堂へ向かう途中で、バルドと出くわした。
彼は食堂の入口近くで、同じ二年生らしい生徒に何か言っていた。
「だから、白鎌じゃなくてリオンだって言ってんだろ。昨日は白鎌出してねえんだから、なおさら違うだろ」
相手の生徒が肩をすくめる。
「いや、別に悪い意味じゃなくて」
「悪い意味じゃなくても雑なんだよ。あと第三基礎班は負けた班じゃなくて第三基礎班な。レオルたち、普通に粘ってたからな」
「お前、急に真面目だな」
「俺は元から真面目だ」
「それはない」
バルドはそこで俺たちに気づいた。
少し気まずそうに咳払いする。
「おう」
カイルが笑った。
「朝から訂正してる」
「うるせえ。昨日、教官にほどほどならいいって言われた」
アーヴェルが言う。
「ほどほどにしているようには見えないが」
「俺基準ではほどほどだ」
「危険な基準だ」
エルナが柔らかく言った。
「でも、ありがとうございます」
バルドは少しだけ困ったように視線を逸らす。
「別に。俺も変な呼び方で面倒になった側だしな」
あの木槍の件。
握ってもいないのに握らされていた、と言った時のことを思い出す。
バルドは俺を見た。
「右手、大丈夫か」
「うん。休ませてるだけ」
「ならいい。飯食えよ」
「食べる」
「よし」
なぜか満足そうに頷いた。
カイルが小声で言う。
「親戚のおじさんみたいになってる」
「聞こえてるぞ」
「すみません」
食堂に入る。
昨日、小食堂で食べた時とは違う匂いがした。
大鍋のスープ。
焼いた卵。
硬めのパン。
肉と豆を煮たもの。
人の声。
椅子を引く音。
食器がぶつかる音。
普通の食堂。
その言葉が、胸の中に落ちる。
昨日の目標。
普通に食堂で飯を食う。
カイルが配膳台を見て、目を輝かせた。
「量がある」
アーヴェルが言う。
「食べすぎるな」
「朝は回復」
「またその分類か」
「必要な分類だ」
エルナが皿を受け取りながら言った。
「今日は少し多めに食べた方がいいとは思います」
カイルが勝ち誇ったような顔をする。
アーヴェルは諦めたように息を吐いた。
「ただし、動けなくなるほど食べるな」
「了解」
俺は左手で盆を持った。
右手は添えるだけにする。
少し危なかったが、カイルがさりげなく横から支えた。
「無理すんな」
「ありがとう」
「いいって」
席は、いつもの端の方。
ただ、今日は少し視線が多かった。
直接話しかけてくる者はいない。
だが、見られているのは分かる。
第一基礎班。
昨日、中央区画第一試合で勝った班。
その後、測定中止の直前まで何かの中心にいたらしい班。
噂になるには十分だった。
カイルが椅子に座りながら小さく言う。
「見られてんな」
アーヴェルが淡々と答える。
「昨日の第一試合は公開されていた。見られる理由はある」
「地下のことじゃなくて?」
「表向きは、試合の話だ」
エルナが食堂を見渡す。
「今のところ、危ない呼び方は少ないです」
俺も少しだけ見る。
声が線になるかどうか。
強く見ない。
必要なところだけ。
いくつかの視線はある。
好奇心。
憧れ。
警戒。
悔しさ。
だが、灰色は薄い。
役割名のように重なるものはない。
「大丈夫」
俺は言った。
「普通の噂だと思う」
カイルが笑う。
「普通の噂なら歓迎だな」
「歓迎はしない」
アーヴェルが言う。
「いや、白鎌なしで勝った噂ならいいだろ」
「それも過剰になれば面倒だ」
「まあな」
朝食を始める。
スープは昨日より少し濃い。
パンは硬い。
豆の煮物は温かい。
普通だ。
それがうまかった。
しばらく食べていると、食堂の入口から第三基礎班が入ってきた。
レオルたちもこちらに気づく。
少し迷った後、レオルが盆を持ったまま近づいてきた。
「隣、空いているか」
カイルが即答する。
「空いてる」
アーヴェルも頷いた。
「構わない」
第三基礎班の四人が同じ卓に座る。
少しだけ周囲がざわついた。
昨日戦った班同士が、同じ卓で朝食を取る。
それだけでも、昨日の勝者と敗者という見方を弱めるには十分だった。
レオルが静かに言う。
「昨日の伝言、受け取った」
アーヴェルが答える。
「こちらも受け取った」
「次も互いに全力で、だったな」
「そうだ」
トーマがパンを割りながら言う。
「次は中央に寄せられない場所でやりたい」
カイルが笑った。
「それは分かる」
ニアがエルナを見る。
「足場術式、今日聞いてもいい?」
エルナは少しだけ申し訳なさそうにした。
「今日は術式使用を止められています。説明だけなら」
「説明だけでも聞きたい」
「では、後で」
フィオが俺を見る。
「リオンの長柄の置き方も、少し聞きたい。あれ、槍の進路が気持ち悪いくらい塞がれた」
トーマが横から言う。
「俺の話だな」
「はい」
「気持ち悪いくらい塞がれたのは事実」
俺は少し考える。
「白鎌じゃない時は、通る場所を先に塞ぐ感じ」
「それが難しい」
「うん」
「うんで終わった」
カイルが笑う。
「リオンの説明、たまに感覚派だからな」
アーヴェルが補足する。
「相手の踏み込み後ではなく、踏み込みたくなる地点に置くという意味だ。槍の穂先ではなく、槍を出すための肩と足の進路を見る」
フィオが頷く。
「分かりやすい」
俺はアーヴェルを見る。
「そういうこと」
「自分で言えるようにしろ」
「はい」
レオルが少しだけ笑った。
その笑いは、昨日の緊張とは違う。
普通の測定後の会話に近かった。
食堂の周囲で、噂の色が変わる。
勝った班。
負けた班。
そういう呼び方よりも、レオル、トーマ、ニア、フィオ。
カイル、エルナ、リオン、アーヴェル。
名前が増える。
具体的な動きが増える。
中央を避けた。
盾で止めた。
槍が通らなかった。
足場が支えた。
風が流れた。
補助線を切った。
灰色は混じらない。
俺は少しだけ安心した。
普通の会話は、強い。
役割を薄める。
食事が半分ほど進んだ頃、食堂の入口にエイムが現れた。
記録板を抱えている。
昨日より少し眠そうに見えた。
カイルが小声で言う。
「記録の人が来た」
「聞こえています」
エイムはまっすぐこちらへ来た。
「第一基礎班、第三基礎班。食事中に失礼します」
カイルが身構える。
「聞き取りですか」
「いえ。午前の予定変更の連絡です」
全員が少しだけ姿勢を正す。
エイムは記録板を確認しながら言った。
「本日午前の通常授業は、全学年とも座学中心へ変更。実技訓練は中止。第一基礎班は、朝食後に中央棟小会議室へ集合。第三基礎班は、第二講義室で昨日の測定報告整理を行います」
レオルが頷く。
「分かりました」
カイルが少しだけ肩を落とす。
「やっぱり聞き取りあるか」
「あります」
「要点のみ?」
「今日は詳細です」
「来た」
アーヴェルが言う。
「必要なことだ」
「分かってる」
エイムは少しだけ声を落とした。
「それと、第一基礎班へ追加連絡です」
俺たちを見る。
「王城および境界監理局本部への速報が受理されました。午後、局長オルディス・レインが学院へ入ります」
その名前に、空気が少し変わった。
境界監理局長。
リオンは幼い頃から監理局の保護下にある。
名前だけではない。
俺にとって、遠いようで近い大人。
カイルが小声で言う。
「局長って、偉い人ですよね」
エイムが即答する。
「偉い人です」
「分かりやすい」
「さらに、王城側の臨時監査官も同行予定です」
アーヴェルの目が細くなる。
「王城側」
「はい。現時点で氏名は未通達です」
グレン教官ではなく、局長でもなく、王城の監査官。
昨日の件が、学院内だけで収まらなくなった。
それが分かった。
エルナが静かに問う。
「私たちも会うことになりますか」
「可能性が高いです」
エイムは答えた。
「旧礼拝室の扉が第一基礎班の正式名称を参照したため、事情聴取の対象になります」
カイルが小さく呟く。
「朝飯中に重い話来たな」
「申し訳ありません」
「いや、エイムさんのせいじゃないです」
レオルがこちらを見る。
「俺たちも必要なら話す。昨日、第一試合で見たことはある」
アーヴェルが頷いた。
「助かる」
トーマも言う。
「中央へ寄せられる感じ、あれは説明できる」
ニアとフィオも頷いた。
第三基礎班は、もう巻き込まれた側ではない。
証言できる者たちだ。
エイムは記録板へ書き込む。
「第三基礎班、追加証言協力意思あり。記録します」
カイルが言う。
「本当に何でも記録する」
「必要なことです」
「それはもう分かりました」
エイムは頷き、少しだけ表情を和らげた。
「ただ、食事は続けてください。セラフィナ主任から、第一基礎班は朝食を完食するよう指示されています」
カイルが嬉しそうにする。
「完食指示」
アーヴェルが言う。
「食べすぎていい指示ではない」
「分かってるって」
エイムは用件を終えると、食堂を出ていった。
その背中を見送りながら、俺はスプーンを置いた。
局長。
王城の監査官。
旧礼拝室。
未分類反応。
第一基礎班という名を覚えた扉。
昨日、扉前で止めた。
でも、それで終わりではない。
むしろ、ここから広がっていく。
学院から王城へ。
監理局本部へ。
第零局という名前の見えない場所へ。
そして、たぶん親父のいる場所へも。
カイルが俺を見る。
「リオン」
「うん」
「飯、残すなよ」
俺は少しだけ瞬いた。
「分かってる」
「重い話は来たけど、飯は飯」
エルナが頷く。
「はい。食べましょう」
アーヴェルも静かに言った。
「これから忙しくなるなら、なおさらだ」
レオルがパンを割る。
「それは第三基礎班も同じだ」
トーマが言う。
「次勝つ準備もしないとだしな」
ニアが頷く。
「座学でも聞けることはある」
フィオが真面目に言う。
「昨日の補助線、反省点が多すぎる」
普通の朝食。
普通ではない連絡。
その両方が同じ卓にある。
俺はスプーンを持ち直した。
右手ではなく、左手で。
スープを飲む。
温かい。
まだ、朝は続いている。
今日も、名前を持って始められる。
それなら、まずは食べる。
俺たちは食堂のざわめきの中で、朝食を続けた。




