69話_夜に戻る
中央棟の小食堂を出る頃には、学院の外はもう薄暗くなっていた。
測定一日目は、本来なら夕方まで続くはずだった。
結果発表。
次の試合予定。
上級生たちの講評。
食堂での噂話。
勝った班と負けた班の、少し気まずくて、それでもどこか浮ついた空気。
そういうものがあるはずだった。
けれど、今日は違う。
廊下の窓の外では、結界灯がいつもより早く灯っている。
中央棟の通路には教官と監理局職員が立ち、一定の間隔で生徒を寮棟へ誘導していた。
走る者はいない。
叫ぶ者もいない。
ただ、声が少ない。
それだけで、学院全体が何かを飲み込んでいるのが分かった。
カイルが小さく言った。
「静かだな」
アーヴェルが答える。
「全員、何かがあったことは分かっている。だが、何が起きたかまでは知らない」
「それが一番ざわつくやつだろ」
「そうだ」
エルナは廊下の先を見ていた。
「でも、混乱していないのは、教官たちが先に動いてくれたからです」
「それもそうだな」
俺は胸元の名札に触れた。
リオン。
第一基礎班。
小食堂では、怖がりすぎないこと、と言われた。
普通に使う。
でも、旧礼拝室の近くでは慎重に扱う。
名前は、隠せばいいものではない。
捨てれば守れるものでもない。
持つものだ。
それを、今日何度も思い知らされた。
中央棟の出口に近づくと、待機していた生徒たちの一部が、教官に連れられて寮棟の方へ歩いているのが見えた。
その中に、第三基礎班がいた。
レオル・バート。
トーマ・リッジ。
ニア・フロウ。
フィオ・ラント。
四人とも疲れているように見えたが、怪我はなさそうだった。
レオルがこちらに気づく。
彼は少しだけ足を止めた。
引率の教官が何か言いかけたが、グレン教官が片手を上げて制した。
「短くなら構わん」
レオルは頷き、数歩だけ近づいた。
「無事だったんだな」
アーヴェルが答える。
「そちらも無事で何よりだ」
「第三基礎班は全員無事だ。念のため検査は受けたが、名称異常もない」
「それはよかった」
トーマが少し後ろから声をかける。
「次の測定、いつになるんだ?」
カイルが肩をすくめた。
「分からん。でも、やるならまた勝つ」
「次は槍を通す」
「通させねえよ」
短い会話。
でも、それだけで十分だった。
ニアがエルナを見る。
「足場の術式、また教えて。今日のあれ、中央に吸われそうになった時、すごく助かったから」
エルナは頷いた。
「落ち着いたら、ぜひ」
フィオはアーヴェルへ少し頭を下げた。
「補助線を切る場所、見直します。負けた理由が分かったので」
「こちらも、風と補助の重ね方は参考になった」
アーヴェルが返す。
レオルは最後に俺を見る。
「リオン」
名前で呼ばれた。
白鎌でも、勝った班でもない。
俺は顔を上げる。
「うん」
「次は、白鎌ありでも戦えるようにする」
カイルが横で笑った。
「言うなあ」
レオルは真面目な顔のままだ。
「そのための測定だろ」
俺は少しだけ考えて、頷いた。
「次は、こっちもちゃんと戦う」
「今日もちゃんと戦っていた」
レオルはそう言った。
「だから、次もだ」
それだけ言って、第三基礎班は教官に促され、寮棟の方へ歩いていった。
負けた班ではない。
第三基礎班。
それを本人たちが持っている。
少し安心した。
カイルが小さく言う。
「いいやつらだな」
「対戦相手として、良い班だ」
アーヴェルが答える。
「次はもっと厄介だぞ」
「いいじゃん」
カイルは笑った。
「普通の厄介は歓迎だ」
その言葉に、全員が少しだけ同意した。
普通の厄介。
普通の測定。
普通の試合。
普通に勝って、普通に負けて、普通に悔しがる。
それがどれだけ貴重なのか、今日ほど分かった日はない。
寮棟へ向かう途中、観覧席側の通路から聞き覚えのある声がした。
「おい、リオン!」
振り返ると、バルドが教官に腕を掴まれたままこちらを見ていた。
「勝手に止まるな」
引率教官が言う。
「一言だけです!」
「一言で済ませろ」
バルドは大きく息を吸った。
「無事ならいい!」
本当に一言だった。
カイルが吹き出しかける。
俺は頷いた。
「無事です」
「ならいい!」
引率教官がバルドを引っ張る。
「行くぞ」
「はいはい、行きますって」
バルドは連れていかれながら、最後にもう一度だけこちらを見た。
「明日、食堂来いよ! 変な噂出たら俺が訂正しとくからな!」
「余計なことをするな!」
引率教官の声。
「名前間違ってたら直すだけです!」
「それは……ほどほどにしろ!」
バルドの声は廊下の向こうへ消えていった。
カイルが笑った。
「ほどほどならいいんだ」
エルナも少しだけ笑う。
「バルド先輩なりに、助けようとしてくれているんですね」
アーヴェルが静かに言った。
「役割名を正す者は、今の状況では貴重だ」
「真面目に言うとそうなんだけど」
カイルが苦笑する。
「でも、普通にありがたいな」
「うん」
俺は答えた。
名前を呼び直す声。
それが、今日何度もこちらを支えた。
親父の手紙。
カイルの声。
エルナの声。
アーヴェルの声。
バルドの訂正。
第三基礎班の名乗り。
治癒科生徒たちの名前。
たくさんの声で、俺たちは戻ってきた。
寮棟に着くと、入口で点呼が行われていた。
寮監と教官が名簿を確認し、生徒たちは順番に自分の名を告げる。
いつもより丁寧な点呼だった。
「カイル・レグナート」
「確認」
「エルナ・シルヴェリア」
「確認」
「リオン」
寮監の声が少しだけ慎重になる。
俺は答えた。
「リオン。第一基礎班」
名札が淡く光る。
揺れはない。
「確認」
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
「確認」
点呼が終わると、寮監は俺たちへ言った。
「今日は各自の部屋から出ないこと。水や軽食は職員が運ぶ。体調に異変があれば、すぐに呼び鈴を鳴らすように」
カイルが真面目に頷く。
「分かりました」
「特に君だ。廊下で素振りをしないように」
「俺ですか」
「君です」
「しません」
アーヴェルが小さく言う。
「信用されていないな」
「アーヴェルも素振り禁止されてただろ」
「私は廊下ではしない」
「部屋ではしようとしてたってことか?」
「しないと言った」
「今は?」
「今もしない」
「よし」
「なぜお前が確認する」
二人のやり取りを聞きながら、階段を上る。
いつもの寮棟。
木の床。
壁の灯り。
窓の外の夜。
どこかの部屋から聞こえる小さな話し声。
地下の石壁とは違う。
ここは、戻る場所だ。
部屋の前で、エルナが立ち止まった。
女子寮側へ向かう通路と、男子寮側へ向かう通路の分かれ道。
「今日は、本当に休んでください」
彼女は俺たちを見る。
「全員です」
カイルが片手を上げた。
「了解。飯食って寝る」
「もう食べました」
「じゃあ寝る」
アーヴェルも頷く。
「報告書の下書きも明日だ」
「本当に?」
エルナが確認する。
アーヴェルは少しだけ視線を逸らした。
「……要点だけなら」
「明日です」
「承知しました」
カイルが笑う。
「セラフィナ先生化してる」
「必要ならします」
「強い」
エルナは俺を見る。
「リオンも」
「うん」
「右手」
俺は包帯の巻かれた右手を少し上げる。
「握らない」
「はい」
「白鎌も呼ばない」
「はい」
「黒月も」
「使わない」
エルナは頷いた。
「なら、信じます」
その言葉は、今日何度目か分からないくらい、胸に残った。
止めるのではなく、信じる。
それが今の俺たちの距離なのだと思った。
エルナは女子寮側へ歩いていった。
カイルは自分の部屋の前で大きく伸びかけて、途中で腕を下ろした。
「筋肉痛、明日来そう」
「すでに来ているだろう」
アーヴェルが言う。
「気づいてないだけか」
「たぶんな」
「嫌だなあ」
それでも、カイルの声は少し軽かった。
アーヴェルは俺に向き直る。
「リオン」
「うん」
「今日の第二弧について、明日話す。だが今は考えるな」
「分かった」
「考えるなと言われると考える顔をしている」
「……考えないようにする」
「それでいい」
カイルが笑う。
「じゃあ、寝るぞ。明日、普通の食堂な」
「うん」
「普通の食堂で普通に飯食う。今日の次の目標」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
カイルが部屋に入る。
アーヴェルも短く頷き、自分の部屋へ入った。
廊下に一人残る。
静かだった。
俺は自分の部屋の扉を開けた。
中は、朝出た時のままだった。
机。
椅子。
寝台。
窓。
畳まれた制服。
壁に掛けた外套。
たったそれだけなのに、少し懐かしく感じた。
扉を閉める。
靴を脱ぐ。
上着を外す。
右手を使わないように、少し時間をかけて着替える。
包帯を巻かれた手が不自由だった。
けれど、それが逆に今日を終わらせる印のように思えた。
机の上には、親父の手紙が置いてある。
『リオンへ』
何度も読んだ文字。
名前の錨。
俺は椅子に座り、左手で手紙を持った。
読み返すつもりはなかった。
でも、封筒の文字を見るだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
姓がないから何だ。
お前はリオンだ。
俺がそう呼んできた。
帰ってきたらもう一度呼んでやる。
手紙の中の言葉が、音にならずに浮かぶ。
今日、何度も名前を呼ばれた。
仲間に。
教官に。
敵に。
扉に。
でも、最初に俺をリオンと呼んだのは、親父だ。
雨と血の中で拾われた俺に、名前を呼び続けた人。
今、親父はどこで何をしているのだろう。
いつものように、鍋を火にかけているのか。
木を割っているのか。
畑の様子を見ているのか。
何かに気づいているのか。
分からない。
ただ、もし今日のことを知られたら、たぶん怒られる。
怪我を隠すな。
飯は食え。
寝ろ。
だいたい、そう言う。
俺は少しだけ笑った。
「食べたよ」
小さく呟く。
「寝る」
返事はない。
けれど、それでよかった。
手紙を畳み直し、机の上に置く。
寝台へ向かう前に、窓の外を見た。
学院の結界灯が夜の中に並んでいる。
遠く、中央棟の方はまだ明るい。
旧礼拝室の方角は見えない。
でも、そこに扉があることを、もう知っている。
細く開いたままの扉。
奥に目覚めた何か。
白い袖の声。
次は、扉の内側で。
外へ出しましょう。
思い出すと、胸の奥に冷たいものが落ちる。
でも、今日はそこへ行かない。
考えるのは明日だ。
俺は灯りを落とし、寝台に横になった。
右手を握らないように、包帯の手を布団の上へ置く。
目を閉じる。
黒い弧の残響が、遠くにある。
二つ目の月。
まだ名もない影。
追わない。
今日は追わない。
呼吸を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
どこか遠くで、風が窓を撫でた。
その音に混じって、ほんの一瞬だけ、黒い衣擦れのような気配がした。
近くではない。
夢でもない。
ただ、どこかで何かがこちらを見ているような感覚。
声はなかった。
守っているのか。
見張っているのか。
待っているのか。
分からない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
俺は目を閉じたまま、親父の手紙を思い出す。
飯は食え。
寝ろ。
怪我を隠すな。
今日は、全部守った。
たぶん。
「おやすみ」
誰に向けたのか分からないまま、そう呟く。
今度こそ、意識が沈んでいく。
その頃。
王都から遠く離れた、雨の少ない小さな村で、一人の男が炉の火を見ていた。
鍋はすでに下ろしてある。
木の椅子。
古い外套。
壁に掛けられた刃のない柄。
机の上には、書きかけの手紙。
男は筆を止め、ふと窓の外を見た。
夜風が吹いたわけではない。
誰かが呼んだわけでもない。
それでも、彼は長く沈黙した。
やがて、低く呟く。
「……面倒が近いな」
誰に聞かせるでもない声だった。
男は書きかけの手紙へ視線を戻す。
宛名は、まだ書いていない。
少し考えた後、彼は筆を取り、最初に一つだけ書いた。
リオンへ。
そこで、また手を止める。
炉の残り火が小さく揺れる。
男は深く息を吐き、誰もいない部屋で静かに言った。
「飯は食ったか」
返事はない。
それでも、男はしばらく窓の外を見ていた。
まるで、遠くの学院の夜を見ているように。




