68話_温かいもの
中央棟の小食堂は、普段は教職員や監理局職員が使う場所らしい。
広くはない。
長い卓が三つ。
壁際の配膳台。
湯気の立つ鍋。
焼いたパンの匂い。
薬草茶の香り。
ただそれだけの場所なのに、扉前から戻ってきた身体には、少し眩しく感じた。
石の冷たさ。
祈祷音。
黒灰色の線。
白鎌の重み。
黒月の欠けた音。
それらが、温かい湯気の中で少しずつ遠くなる。
カイルが配膳台を見て、心底ほっとしたように言った。
「飯だ」
アーヴェルが隣でため息をつく。
「第一声がそれか」
「大事だろ」
「大事ではあるが」
「ほら、認めた」
「調子に乗るな」
エルナは小さく笑いそうになって、それを飲み込むように息を吐いた。
俺も少しだけ口元が緩んだ。
セラフィナ先生が配膳台の前に立つ。
「全員、座ってください。食事はこちらで運びます」
カイルが反射的に立ち止まる。
「自分で取れますよ」
「座ってください」
「はい」
強い。
カイルは一瞬で従った。
グレン教官も何も言わずに席へ向かう。
それを見て、カイルが小声で言った。
「教官も従うんだな」
「合理的な指示には従う」
グレン教官が答える。
「なるほど」
「お前も従え」
「従ってます」
俺たちは長卓の一つに座った。
第一基礎班が並ぶ。
少し離れて、グレン教官、ユーディア先生、エイム、リュカ。
セラフィナ先生は配膳の指示を出しながら、こちらの状態を見ている。
出されたのは、温かいスープと柔らかいパン、焼いた肉を薄く切ったもの、甘くない果実の煮物だった。
重すぎない。
でも、力が戻る食事。
カイルはスープを見て、真剣な顔になった。
「これ、ありがたいな」
「食べすぎるなと言われただろう」
アーヴェルが言う。
「これは食べすぎの対象じゃない。回復」
「都合のいい分類だな」
「必要な分類だ」
エルナがスプーンを手に取った。
「でも、温かいものは本当に必要です」
「ほら」
カイルが得意げにする。
「エルナまで利用するな」
アーヴェルが言った。
俺はスープを一口飲んだ。
喉を通る。
思っていたより、身体が冷えていたのだと気づいた。
温かいものが胃に落ちると、右手の包帯の中まで少し熱が戻るようだった。
白鎌は呼ばない。
黒月も使わない。
右手を握り込まない。
そう言われているせいで、逆に何度も右手を意識してしまう。
カイルがそれに気づいた。
「リオン、手」
「握ってない」
「握りそうだった」
「うん」
「パン持てば?」
「パン」
「握るならパン」
エルナが少しだけ困ったように笑った。
「柔らかいものなら、いいかもしれません」
アーヴェルが真面目に言う。
「右手を休ませるためなら、左手で食べればいい」
カイルが俺を見る。
「左手でパン持てるか」
「持てる」
「じゃあそうしろ」
俺は左手でパンを持った。
右手は膝の上に置く。
少し変な感じがした。
けれど、そのおかげで右手を握り込まずに済んだ。
グレン教官がスープを飲みながら言った。
「食べながら聞け。正式な報告は明日だが、今分かっていることだけ共有する」
カイルが口を止める。
「食べながら、ですよね」
「口に入れたまま喋るな」
「はい」
グレン教官はエイムへ視線を向けた。
エイムは記録板を開く。
食事の横に記録板。
いつものことのようで、少し異様でもある。
「月例測定一日目は、地下結界設備の不調を理由に正式中止となりました。再開日は未定。生徒たちは寮棟へ戻され、各棟で点呼中です」
「混乱は」
アーヴェルが聞く。
「限定的です。中央区画での異常は見られましたが、教官側が測定内の安全対応として処理したため、大規模な騒ぎにはなっていません」
「噂は出るな」
グレン教官が言う。
「出ます」
エイムは即答した。
「ただし、測定板の表示変更と観衆席の名称防護が効いています。勝者、敗者、灯、器などの役割語の拡散は抑制されています」
カイルがパンを飲み込んでから言った。
「白鎌は?」
エイムは俺を見た。
「出ていません。少なくとも、観衆の前では」
「なら、まだましですね」
カイルが言う。
グレン教官が頷く。
「地下で使った力は、現時点では封鎖班と関係者のみの機密扱いだ。学院生に共有する必要はない」
アーヴェルが静かに言った。
「いずれ知られる可能性はあります」
「ある」
グレン教官は否定しない。
「だが、今ではない。今広がれば、噂が先に形を作る」
その言葉はよく分かった。
白鎌。
黒月。
二つ目の弧。
扉前維持。
そういう言葉が、観衆の声の中で勝手に育てば、灰衣でなくても危険になる。
俺はスープの表面を見た。
「見せる場所を選ぶ」
グレン教官がこちらを見る。
「そうだ」
「隠すためじゃなくて、間違った形で広がらないように」
「その理解でいい」
カイルが腕を組みかけて、セラフィナ先生に見られてすぐ姿勢を戻した。
「じゃあ、いつか見せるんですか」
「必要があればな」
グレン教官は答えた。
「公開序列戦、上級生込みの合同演習、外部実地演習、あるいは防衛戦。学院には、力を正式に見せる場がある。噂ではなく記録として残せる場だ」
アーヴェルの目が少し鋭くなる。
「公開序列戦」
「気が早い」
「分かっています」
カイルは少し楽しそうにする。
「でも、いつかそういう場で白鎌出したら、上級生たち腰抜かすんじゃないか」
「腰は抜かさんだろう」
アーヴェルが言う。
「いや、何人かは抜かす」
「お前はなぜそこを見たがる」
「反応は大事だろ」
エルナが静かに言った。
「その時は、リオンだけではなく、班として見られる方がいいと思います」
その言葉に、少し空気が落ち着いた。
班として。
第一基礎班として。
扉に覚えられた名前。
でも、こちらが持つ名前でもある。
「そうだな」
俺は言った。
「俺だけじゃなくて、四人で」
カイルが頷く。
「もちろん」
アーヴェルも言う。
「そのためにも、今日の記録は整理する必要がある」
エイムが少し嬉しそうに記録板を持ち直した。
「明日、詳細聞き取りを行います」
カイルの表情が沈む。
「しまった。自分で話を戻した」
「必要なことだ」
アーヴェルが言う。
「分かってるけどさ」
エルナはスープを飲み終え、少しだけ目を閉じた。
「明日でいいなら、今日は食べましょう」
「そうだった」
カイルが再び食事へ戻る。
そうしてしばらく、食器の音だけが続いた。
誰も完全には黙っていない。
けれど、無理に話すこともなかった。
食べる。
温かいものを飲む。
息をする。
それだけで、身体が少しずつ戻っていく。
途中で、扉が開いた。
入ってきたのはミレイア先生だった。
外套を羽織り、手には数枚の写し紙を持っている。
急いできたのだろうが、歩き方は乱れていない。
「食事中に失礼します」
グレン教官が顔を上げる。
「旧礼拝室か」
「はい。扉面の写しと、封鎖札の損傷確認です」
ミレイア先生は長卓の端に写し紙を置いた。
食事中に見せる内容ではない、とセラフィナ先生が視線だけで抗議したが、ミレイア先生は少しだけ頭を下げた。
「詳細は明日で構いません。ただ、一点だけ共有したいことがあります」
グレン教官が頷く。
「言え」
「扉面に浮かんだ文字のうち、第一基礎班という表記は沈みました。役割名も消えています。ですが、封鎖札の裏側に、別の痕跡が残っていました」
エイムが記録板を構える。
「別の痕跡」
ミレイア先生は写し紙の一枚を広げた。
そこには、黒灰色のかすれた線が写っている。
文字のようで、文字ではない。
紋様のようで、紋様でもない。
見ていると、紙の上の線が少し遠ざかるように感じる。
俺は視線を強く固定しないようにした。
読まない。
形だけを見る。
「これは名前ではありません」
ミレイア先生が言う。
「神話学上の分類でもありません。ただ、古い封鎖記録に似た表現があります」
アーヴェルが反応する。
「クラウゼン家の旧災害対応記録ですか」
「おそらく」
「消された箇所に関係すると」
「はい」
ミレイア先生の声は落ち着いているが、重い。
「都市が地図から消えた旧災害。その中心にいたものと、同種ではないかもしれません。ただ、封鎖方法が似ています」
カイルが少し顔をしかめた。
「都市が消えたやつと似てるって、だいぶまずいですよね」
「まずいです」
ミレイア先生は誤魔化さない。
「ただし、旧礼拝室の内側にある反応は、まだ完全に外へ出ていません。今日の段階では、扉越しに接触しただけです」
リュカが静かに言う。
「扉越しであれ」
「はい」
「本体が出てきたら、学院の結界だけでは足りないかも」
小食堂が静まった。
グレン教官はスープの器を置いた。
「王城と境界監理局本部へ上げる」
エイムが即座に頷く。
「すでに速報は準備しています。暫定E指定相当、旧礼拝室内部未分類反応。旧災害対応記録との関連疑い」
「第零局への共有は」
その言葉で、空気が一段冷えた。
第零局。
表向き存在しない、王国の最後の切り札。
名前だけは何度か聞いた。
だが、具体的に何をする組織なのかは知らない。
エイムは少しだけ表情を引き締めた。
「局長判断です。ただし、今回の件は共有対象になる可能性が高いです」
カイルが小声で言う。
「第零局って、実在するんですか」
グレン教官が即答した。
「知らん」
「出た。知らん」
「知らんものは知らん」
リュカがぼそっと言う。
「知らないことになってる」
「リュカ」
グレン教官の声が低くなる。
「私は食事中」
「関係ない」
ミレイア先生が少しだけ困ったように笑い、すぐ真面目な表情へ戻った。
「それと、もう一つ。白い袖の人物についてです」
俺は顔を上げた。
「扉前での反応を見る限り、あの人物は旧礼拝室内部の未分類反応そのものではありません」
「やっぱり」
リュカが言う。
「ええ。媒介者、案内者、あるいは信徒。扉を開く側ではありますが、奥の反応を完全に制御しているわけではないようです」
アーヴェルが言った。
「つまり、敵は二層ある」
「はい」
ミレイア先生は頷いた。
「白い袖の人物。灰衣の巡礼者。そして、その奥にある旧礼拝室内部の未分類反応。目的が完全に一致しているとは限りません」
カイルがパンを置いた。
「敵同士でもズレがあるかもしれないってことですか」
「可能性はあります。ただし、だから安全という話ではありません」
「ですよね」
白い袖は、奥のものが目覚めたことを喜んでいた。
お目覚めに間に合った、と。
でも、黒灰線の動きは、白い袖が操っているというより、奥のものが勝手に押してきたように見えた。
信仰している者が、信仰対象を制御できるとは限らない。
その言葉が、リュカの声で頭に残っている。
グレン教官は俺たちを見た。
「聞いた通りだ。第一章……ではないな」
一瞬、変な間が空いた。
グレン教官は咳払いした。
「今後の対応は、今日のような小規模封鎖だけでは済まない可能性がある」
カイルが首を傾げる。
「今、何か言い直しました?」
「気のせいだ」
「ですよね」
アーヴェルが無視して続ける。
「大規模戦闘になる可能性は」
グレン教官は少しだけ黙った。
そして、はっきり言った。
「ある」
その一言で、小食堂の空気が固まる。
「旧礼拝室内部の未分類反応が外へ出る。灰衣側が学院内の別地点で同時に仕掛ける。封鎖班だけで対応できなくなる。どれか一つでも起きれば、学院内での防衛戦になる」
カイルの手が大剣のない腰へ伸びかけ、空を掴んだ。
今は大剣を持たないように言われている。
それでも、構えようとした。
「学院生は」
エルナが聞いた。
「避難させる」
グレン教官が答える。
「戦わせるための大規模戦闘ではない。守るための戦闘だ。お前たちも同じだ。名を呼ばれているから前に出るのではない。必要な場所に配置されるだけだ」
俺はその言葉を聞いて、少しだけ息を吸った。
大がかりな戦闘。
それは来る。
でも、派手に力を見せるためではない。
旧礼拝室の扉が開くかもしれない。
白い袖が何かを外へ出すかもしれない。
奥の未分類反応が、学院の結界を押し曲げるかもしれない。
その時、第一基礎班は戦う。
ただし、鍵としてではなく。
防衛線として。
エイムが記録板へ書き込む。
「今後の想定。学院内防衛戦、封鎖線維持戦、旧礼拝室前再接触。第一基礎班は重点保護対象かつ重点戦力候補」
「重点戦力候補」
カイルが呟いた。
「なんか、急に重いな」
アーヴェルが答える。
「実際、重い」
「そこは軽くしてくれよ」
「嘘をつく場面ではない」
「だよな」
エルナは自分の名札を見た。
「戦力でも、灯でもなく、私たちは私たちです」
「そうだ」
グレン教官が頷いた。
「役割に呑まれるな。だが、役割から逃げるな。自分で選べ」
その言葉が、小食堂の温かい空気の中に落ちた。
重い。
けれど、嫌な重さではなかった。
逃げるな。
でも、飲まれるな。
選べ。
俺は右手の包帯を見る。
白鎌は呼ばない。
黒月も使わない。
今日はもう休ませる。
でも、次は来る。
その時に、振る理由を間違えないようにする。
ミレイア先生は写し紙を畳んだ。
「食事中にすみませんでした。詳細は明日、改めて」
セラフィナ先生が静かに言う。
「本当に明日にしてください。これ以上は消化に悪いです」
「はい」
ミレイア先生は素直に頭を下げた。
カイルが小声で言う。
「セラフィナ先生、神話学講師にも強い」
「治癒棟主任ですから」
エルナが真面目に答える。
「なるほど」
グレン教官が立ち上がる。
「食べ終えた者から茶を飲め。その後、寮棟へ戻る。今日は解散後、外出禁止。個別訓練禁止。資料室立ち入り禁止。旧礼拝室方面への接近は論外だ」
カイルが指を折りながら聞いていた。
「飯、茶、寮、寝る」
「そうだ」
「分かりやすい」
「お前にはそれでいい」
「はい」
俺は残っていたスープを飲み干した。
温かいものが、まだ身体に残っている。
今日の勝ちは、誰も欠けずに戻って食べること。
さっきそう言った。
でも、もう一つ増えた気がした。
明日考えるために、今日を終えること。
扉の向こうに何かがいる。
白い袖はまだいる。
大がかりな戦いは、たぶん来る。
グレン教官にも、まだ見せていない力がある。
第一基礎班にも、まだ足りないものがある。
それでも、今は茶を飲む。
寝る。
名前を持って、朝を待つ。
カイルが茶を受け取りながら言った。
「リオン」
「うん」
「明日、聞き取り終わったらさ」
「うん」
「飯、普通の食堂で食えるかな」
少し考える。
普通の食堂。
学院生たちの声。
噂。
視線。
測定中止の話。
中央区画の異常。
第一基礎班と第三基礎班の試合。
いろいろあるだろう。
でも。
「食べたい」
俺は言った。
「普通に」
カイルは笑った。
「じゃあ、それ目標な」
エルナも頷く。
「普通に食べに行きましょう」
アーヴェルは茶を置き、静かに言った。
「そのために、今日は休む」
グレン教官が小さく頷いた。
「それでいい」
小食堂の外では、まだ学院が騒がしい。
けれど、この部屋の中には、温かい茶の香りがあった。
大きな戦いは、まだ来ていない。
だが、遠くで足音はしている。
その音を聞きながら、俺たちは少しだけ、今日を終える準備をした。




