67話_検査と記録
中央棟小会議室は、戦場の後始末をする場所に変わっていた。
長机の上には記録板が三枚。
名称確認用の結界盤。
治癒道具。
封印箱。
水差しと、冷めかけた茶。
窓はない。
その代わり、壁に埋め込まれた魔力灯が淡く光っている。
地下から戻ったばかりの俺たちは、椅子に座らされた。
座らされた、という言い方が正しい。
グレン教官も含めて。
セラフィナ先生は小会議室に入ってくるなり、まずグレン教官の手を見た。
「軽傷、と報告がありました」
「軽傷だ」
「私が判断します」
「……分かった」
グレン教官が一瞬で引いた。
カイルが隣で肩を震わせる。
「笑うな」
グレン教官が言う。
「笑ってません」
「震えている」
「地下で疲れたんです」
「あとで走らせるぞ」
「怪我人なので」
「お前は怪我人ではない」
「精神的に」
「黙れ」
アーヴェルが小さくため息をついた。
「カイル、今はやめろ」
「はい」
セラフィナ先生はそのやり取りを気にせず、グレン教官の手に治癒術式をかけた。
白い光が傷を包む。
黒灰線の残滓はリュカが抜いたはずだが、傷の周囲にはまだ暗い痕が残っていた。
普通の切り傷なら、セラフィナ先生の術式でかなり早く閉じる。
だが、今回は少し時間がかかった。
「……深いですね」
セラフィナ先生の声が低くなる。
「軽傷だ」
「もう一度言いますか」
「言わない」
「賢明です」
カイルがまた肩を震わせた。
アーヴェルが無言で肘を入れる。
カイルは黙った。
セラフィナ先生は術式を重ねながら言った。
「黒灰線の接触痕は、通常の魔力傷ではありません。身体より先に、存在の輪郭を削る傷です。放置すれば、手の感覚が戻らない可能性もありました」
部屋の空気が少し重くなる。
グレン教官は平然としている。
「だから、すぐに抜いた」
「リュカさんとリオンさんが気づいたからでしょう」
「そうだ」
「次からは、気づかれる前に申告してください」
「善処する」
「善処ではなく、実行です」
「……実行する」
セラフィナ先生は頷いた。
「よろしい」
リュカが封印箱を抱えたまま、小さく言った。
「勝った」
「何にですか」
エルナが聞く。
「グレン先生に」
「勝負だったんですか」
「だいたい」
グレン教官は無言でリュカを見た。
リュカは少しだけ視線を逸らす。
「私は封印箱の管理で忙しい」
「さっきからそればかりだな」
「便利」
セラフィナ先生はグレン教官の処置を終えると、今度は俺たちへ向いた。
「次は第一基礎班です。全員、順番に」
最初はカイルだった。
腕、肩、脚。
大きな外傷はない。
ただ、全力で大剣を支えた反動が出ているらしい。
「筋繊維の負荷が大きいです。今日は大剣を持たないこと」
「え、寮まで」
「持たないこと」
「はい」
カイルはすぐに頷いた。
セラフィナ先生の言葉には逆らわない方がいいと、もう全員分かっていた。
次にエルナ。
魔力疲労は測定後より進んでいた。
足場、防護、未来視。
救護区画でも名を支え、扉前でも術式を切り替え続けた。
セラフィナ先生は静かに言った。
「今日は治癒術式を使わないこと」
エルナが少しだけ迷う。
「緊急時もですか」
「緊急時は私か他の治癒担当を呼びます。あなたは今日、十分働きました」
「……はい」
「自分が倒れるまで支えることは、支援ではありません」
エルナはその言葉を受け止めるように頷いた。
「はい」
次にアーヴェル。
細かい筋疲労と、魔力強化の偏り。
それに、扉前で何度も左側の支点を潰したせいで、足首に負荷が残っていた。
「歩行は問題ありません。ただし、今日は追加訓練禁止です」
アーヴェルは即座に言った。
「承知しました」
「本当に?」
セラフィナ先生が問う。
アーヴェルは一瞬だけ黙った。
「……素振りも禁止ですか」
「禁止です」
「承知しました」
カイルが小声で言う。
「聞かなきゃやるつもりだったな」
「確認しただけだ」
「確認しないとやるやつだ」
「黙れ」
最後に俺。
セラフィナ先生は俺の右手、腕、肩、目の反応、魔力の流れを順に見た。
治癒術式の白い光が触れる。
右手の奥に、白鎌の余韻がまだ残っている。
黒月の後に残った、少し冷たい熱のようなものも。
セラフィナ先生はしばらく黙っていた。
その沈黙が少し怖い。
「痛みは」
「少し」
「場所は」
「胸の奥と、右腕。あと、目の奥が少し重いです」
「吐き気は」
「ないです」
「視界の歪みは」
「今はありません」
「黒い弧が残って見えたりは」
「見えません。ただ、感覚は残っています」
セラフィナ先生は頷き、治癒術式を弱めた。
「身体の損傷は軽度です。ただし、魔力と感覚の負荷が普通ではありません。今日は能力使用禁止。白鎌も呼ばないこと」
「はい」
「明日以降も、許可が出るまで黒月は禁止です」
「はい」
エイムがすぐに記録板へ書いた。
「黒月使用後、身体損傷軽度。感覚負荷中度。第二弧発生後も意識安定。医療判断により当日能力使用禁止」
カイルが覗き込む。
「エイムさん、全部記録するんですね」
「全部ではありません。必要なことだけです」
「今の、かなり全部っぽかったです」
「必要な全部です」
「強い」
セラフィナ先生は俺の右手に薄い包帯を巻いた。
怪我をしているわけではない。
でも、感覚を休ませるためらしい。
「これは治療というより、休ませる印です。外さないこと」
「はい」
「右手を握り込む癖も、今日は控えてください」
「……分かりました」
自覚があった。
白鎌の感覚を確かめるように、何度も手を握っていた。
カイルが俺の右手を見て言う。
「包帯つくと、それっぽいな」
「何が」
「いや、なんかこう、強いやつっぽい」
「怪我人っぽい、でいいだろ」
グレン教官が言った。
「すみません」
カイルは素直に謝った。
検査が終わると、ユーディア先生が名称確認を行った。
結界盤の上に名札を順番にかざす。
カイル・レグナート。
第一基礎班。
安定。
エルナ・シルヴェリア。
第一基礎班。
安定。
アーヴェル・ロア・クラウゼン。
第一基礎班。
安定。
リオン。
第一基礎班。
一瞬だけ、青い光が強くなる。
揺れではない。
結界盤が反応した。
ユーディア先生は目を細めた。
「不安定ではありません。ただ、扉側の記憶に触れた痕があります」
「扉側の記憶?」
俺が聞く。
「あなたたちの班名が、旧礼拝室の扉に参照されました。名札そのものには異常はありませんが、向こうに写しが残っています」
アーヴェルが言う。
「つまり、こちらの名は守れているが、相手は呼び方を覚えた」
「はい」
ユーディア先生は結界盤を閉じた。
「今後、第一基礎班という名前を使う場面は慎重にします。とはいえ、日常で全く呼ばないのも不自然です。避けすぎれば、その名が特別な禁忌になってしまう」
カイルが眉を寄せる。
「じゃあどうすればいいんですか」
「普通に使う。ただし、扉や旧礼拝室に近い場所では正式記録として扱う。噂や役割と混ぜない」
「難しいけど、分かりました」
「簡単に言うなら」
ユーディア先生は少し考えた。
「あなたたちは、あなたたちの班名を怖がりすぎないことです」
その言葉は、少し意外だった。
怖がりすぎない。
守るために気をつける。
でも、避けすぎて奪われたように扱わない。
第一基礎班は、俺たちの班名だ。
扉に覚えられても、それは変わらない。
エイムが記録板を置き、聞き取りに入った。
「では、簡易聞き取りです。詳細は明日以降に分けます。今日は要点のみ」
カイルが明らかに安心した。
「要点のみ」
「はい。要点のみ五項目です」
「多い」
「少ないです」
「そうですか」
エイムはまず、三枚の礼拝布について整理した。
中央区画の測定線。
測定板裏の勝敗表示と観衆の声。
救護区画の応急布処置と負傷者名簿。
三枚はそれぞれ、測定の中で人が立つ場所、見られる場所、治される場所へ仕込まれていた。
戦うこと。
呼ばれること。
治ること。
その三つを通じて、旧礼拝室の扉前へ合図を送った。
「今回、三枚の礼拝布は全て回収または封鎖済みです」
エイムは言った。
「ただし、旧礼拝室本体は反応しました。扉の奥の未分類存在も一時的に覚醒しています」
カイルが聞く。
「未分類存在って、結局何なんですか」
「分かりません」
即答。
「分からないって記録するんですか」
「はい。分からないものを分かったことにすると危険です」
リュカが頷く。
「いい言葉」
「ありがとうございます」
「でも、分からないものに仮名をつけたくなる人は多い」
リュカの言葉に、俺は扉の奥で浮かびかけた読めない文字を思い出した。
読もうとしたら、頭の奥が滑った。
名前ではない。
分類ではない。
世界が、まだ呼び名を持っていないような空白。
「名前をつけない方がいい」
俺は言った。
エイムがこちらを見る。
「扉の奥の存在についてですか」
「はい。読もうとすると、こっちがずれます。たぶん、仮の名前でも危ない」
ユーディア先生が頷く。
「同意します。現時点では『旧礼拝室内部未分類反応』で十分です」
カイルが小声で言う。
「長い」
「長い方が安全な時もあります」
エイムが答える。
「なるほど」
グレン教官が腕を組む。
「次に、黒月第二弧」
エイムの記録板が即座に反応した。
「はい。扉前維持中、高負荷接続線への対処時に二度、黒月の第二弧を観測しました。一度目は出口接続線対処後の残影。二度目は資料室への接続線断絶時、短時間ですが二弧が接続線を挟み込む形で発生しています」
カイルが手を上げた。
「質問です」
「どうぞ」
「それって、リオンが強くなったってことですか」
エイムは少しだけ考えた。
「表現が雑ですが、方向としては否定しません」
「雑って言われた」
アーヴェルが言う。
「実際、雑だ」
「でも分かりやすいだろ」
グレン教官が俺を見た。
「リオン。お前はどう感じた」
「一つ目は、振った後に影が残りかけた感じです。二つ目は……振る前の場所にも、先に黒い傷があったように感じました」
「振る前の軌道か」
「はい。たぶん、刃が通る場所を先に刻みかけた」
エイムが記録する。
「第二弧候補。残影型と先行軌道型の二種反応。本人感覚では後者が強い」
「名前をつけるな」
グレン教官がすぐに言った。
エイムの筆が止まる。
「仮称も不可ですか」
「記録上の整理名ならいい。技名にするな」
「承知しました」
カイルが少し残念そうにする。
「かっこいい名前、まだ駄目か」
「駄目だ」
グレン教官が即答した。
「使えもしないものに名前をつけると、使える気になる。危険だ」
俺は頷いた。
「まだ分かってません」
「それでいい」
グレン教官は言った。
「今は兆候だ。力そのものではない」
アーヴェルが静かに言う。
「ただ、次に必要になる可能性はある」
「ある」
グレン教官は否定しなかった。
「だから鍛える。測定ではなく、管理下でな」
その時、小会議室の扉が軽く叩かれた。
監理局職員が入ってくる。
「失礼します。第三基礎班のレオル・バートより伝言です」
カイルが少し身を起こす。
「レオル?」
「はい。本人は寮棟へ戻る前に、第一基礎班の無事を確認したいとのことでした。直接の接触は止めていますので、伝言のみ預かりました」
アーヴェルが聞く。
「内容は」
職員は少しだけ紙を見た。
「『第三基礎班は全員無事。次の測定がいつになっても、こちらは次に勝つ準備をする。そちらも無事なら、それでいい』とのことです」
カイルが笑った。
「あいつらしい」
エルナも少しだけ表情を緩めた。
「全員無事でよかったです」
アーヴェルは頷いた。
「返答を頼めますか」
「はい」
「第一基礎班は全員無事。次も勝つ。そう伝えてください」
カイルがすぐに言う。
「もうちょっと柔らかく」
アーヴェルは考えた。
「……第一基礎班は全員無事。次も互いに全力で」
「まあ、いいか」
職員は頷いた。
「伝えます」
扉が閉まる。
小会議室に、少しだけ静かな余韻が残った。
第三基礎班。
レオルたち。
彼らも、今日の測定の中にいた。
ただの対戦相手ではなかった。
灰衣に使われかけ、それでも自分たちの名前を保った班。
彼らが無事だと聞いて、ようやく少し肩の力が抜けた。
グレン教官が立ち上がった。
「聞き取りは今日はここまでだ」
エイムが少しだけ不満そうにした。
「まだ二項目あります」
「明日だ」
「記憶が薄れます」
「食わないと倒れる」
カイルが小さく拳を握る。
「教官が飯を優先した」
「お前は黙って立て」
「はい」
セラフィナ先生も頷いた。
「食事は必要です。特にリオンさんとエルナさんは、今日は必ず温かいものを食べてください」
「はい」
「カイルさんは食べすぎないように」
「はい」
「アーヴェルさんは食後に素振りしないように」
「……はい」
セラフィナ先生は全員を見た。
「全員、今日は自分が思っているより消耗しています。無事だったから平気、ではありません」
その言葉に、誰も反論しなかった。
無事だった。
でも、平気ではない。
扉の奥の鼓動。
黒灰線の重さ。
二つ目の黒月。
グレン教官の傷。
扉に覚えられた班名。
全部、身体のどこかに残っている。
グレン教官が扉へ向かう。
「食堂ではなく、中央棟の小食堂を使う。一般生徒とは分ける」
カイルが少し残念そうにする。
「食堂の方が量ありますよ」
「量の問題ではない」
「重要です」
「小食堂でも出る」
「なら大丈夫です」
アーヴェルが呆れたように言った。
「本当に飯で戻るな」
「戻れるものがあるのはいいことだろ」
カイルはそう返した。
それは、何気ない言葉だった。
でも、少し胸に残った。
戻れるものがある。
食事。
名前。
班。
仲間の声。
教官の小言。
セラフィナ先生の注意。
エイムの記録。
リュカの眠そうな言葉。
ユーディア先生の鐘。
それらは全部、扉の向こうへ持っていかれなかったものだ。
俺たちは小会議室を出た。
廊下には、外より少し柔らかい光が落ちている。
測定は中止になった。
学院中が不安になっているだろう。
噂も出るはずだ。
でも、今はまず食べる。
寝る。
それから、明日考える。
中央棟の小食堂へ向かう途中、俺は右手の包帯を見た。
白鎌は呼ばない。
黒月も使わない。
けれど、消えたわけではない。
次に使う時まで、理由を間違えないように休ませる。
隣でカイルが言った。
「リオン」
「うん」
「飯、食えるか」
「食べる」
「よし」
エルナも静かに言う。
「私も食べます」
アーヴェルが頷く。
「私もだ」
カイルは満足そうに笑った。
「じゃあ、今日の勝ちはそれでいいな」
今日の勝ち。
扉を完全に閉じたわけではない。
奥のものを倒したわけでもない。
でも、誰も欠けずに戻って、飯を食べる。
それを勝ちと呼ぶなら。
「うん」
俺は答えた。
「今日の勝ちは、それでいい」
俺たちは小食堂へ向かった。




