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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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66話_灰を断つ剣

旧礼拝室の扉は、完全には閉じなかった。


指一本分ほどの隙間。


そこに黒灰色の闇を残したまま、扉は沈黙している。


灰色の布目は薄くなり、役割名も消えた。

扉面に残っていた「第一基礎班」の文字も、今はもう読めない。


だが、消えたわけではない。


奥へ沈んだ。


そう感じた。


名を忘れたのではなく、覚えたまま奥へ持ち帰った。


だから、勝ったとは言い切れない。


それでも。


通さなかった。


測定場へも。

救護区画へも。

資料室へも。

誰の名前にも。


俺たちは、扉前で止めた。


グレン教官は剣を下ろし、扉から視線を外さないまま言った。


「封鎖を張り直す」


リュカが封印針を確認しながら頷く。


「応急ならできる。本格修復はミレイア先生と監理局の封鎖班が必要」


ユーディア先生が鐘を片手に、床の退避線を見た。


「名称反応は沈静化しています。ただし、この場所で第一基礎班という名を不用意に使うのは避けた方がいいでしょう」


カイルが少しだけ嫌そうに眉を寄せる。


「俺たちの班名なのにか」


「はい。あなたたちの班名だからこそです」


ユーディア先生は静かに答えた。


「守りにもなりますが、ここでは扉がその名を覚えています。使うなら、意味をこちらで固定できる時だけに」


アーヴェルが頷く。


「不用意な呼称は避ける。必要な時は正式に、ですね」


「ええ」


俺は胸元の名札に触れた。


リオン。

第一基礎班。


文字は安定している。


けれど、さっきまでとは少し違って見えた。


軽い札ではない。


持つものになった。


名前も、班名も。


グレン教官が通信術式を開く。


「エイム。状況」


少し雑音が入ってから、エイムの声が返った。


『測定場、生徒待機継続。全区画、名称異常なし。測定板二枚目、封鎖維持。中央区画一枚目、反応なし。救護区画三枚目、セラフィナ主任の管理下で安定』


「資料室は」


『隔離完了。旧災害対応記録への追加干渉なし。ただし、黒灰線の接続痕が棚外縁に残っています』


「消すな。記録しろ」


『はい』


「測定は中止だ。午後の項目は全て延期。表向きは地下結界設備の不調と安全確認でいい」


『了解しました』


カイルが小さく息を吐いた。


「さすがに続けないか」


「続けられる状態ではない」


アーヴェルが言う。


「いや、そうなんだけど。さっきまで結構続けてたから」


「測定として扱える範囲を超えた」


エルナが静かに言った。


「もう、上の生徒たちを待機させるだけでも負担です」


「だな」


カイルは大剣を肩に乗せかけて、すぐにやめた。


地下の狭い小広間では邪魔になると気づいたのだろう。


それだけでも、少し前とは違う。


リュカが封印針を三本、扉前の空間に刺した。


針は宙に止まり、見えない布を留めるように青銀の光を放つ。


「応急封鎖、固定」


ユーディア先生が鐘を鳴らす。


「名称補助、固定」


グレン教官が剣を一度だけ振った。


扉面に残っていた灰色の細い線が、音もなく切れる。


本当に、音がなかった。


俺にはその一撃が見えた。


いや、見えたというより、結果だけが先にあった。


線が形を持つ前に、切られていた。


白鎌で線を刈る時とは違う。


俺は通るべき線を見て、そこへ刃を置く。

グレン教官は、その線がこちらへ届く前に、出どころを斬っている。


見えているのか。


それとも、見なくても分かるのか。


分からない。


ただ、あの剣には余計なものがない。


怖いほどに。


カイルも気づいたらしい。


「教官の剣、やっぱ変ですよね」


グレン教官が振り返る。


「何がだ」


「いや、変っていうか……さっきの、何を斬ったんですか」


「出かけた線だ」


「出かけた線」


「形になる前の灰だ」


カイルは俺を見た。


「分かる?」


「少しだけ」


「俺は分からん」


リュカが封印箱を閉じながら言った。


「分からない方が普通。グレン先生の剣は、昔からそういう記録が多い」


グレン教官の視線がリュカへ向く。


「余計なことを言うな」


「余計かどうかは聞き手による」


「今は余計だ」


「じゃあ少しだけ」


「おい」


リュカは眠そうな声音のまま続けた。


「境界監理局の古い記録に、灰断ちって呼ばれてる戦闘記録がある。灰が形を取る前に、原因だけ断って封鎖する剣。術式でも固有能力でもなく、戦闘技術として分類されてるけど、正直かなり変」


カイルの目が輝きかけた。


「灰断ち」


アーヴェルも反応した。


「聞いたことがあります。北方封鎖戦で、灰化した城門を一晩維持した剣士がいたと」


グレン教官は低く言った。


「噂だ」


「記録にもあります」


アーヴェルはすぐに返した。


「記録が全部正しいと思うな」


「では、完全な事実ではないと」


「誇張が多い」


リュカが小さく言う。


「誇張で済む部分もある」


グレン教官の視線がまたリュカへ向いた。


リュカは封印箱を抱えて、一歩だけ後ろへ下がる。


「私は封印作業で忙しい」


「その割に喋っている」


「気のせい」


カイルが小声で言う。


「教官、やっぱ有名人なんですか」


「知らん」


グレン教官は即答した。


「本人が知らんって言うことある?」


「ある。今だ」


「強い」


エルナが少しだけ息を緩めた。


だが、グレン教官の手から落ちる血に気づき、すぐに表情を引き締めた。


「教官、手当てを」


「後でいい」


「後では駄目です」


エルナの声が強くなる。


グレン教官は一瞬黙った。


カイルが口元を押さえた。


「セラフィナ先生みたい」


「聞こえています」


エルナは少しだけ恥ずかしそうにしたが、引かなかった。


「ここで倒れられる方が困ります」


アーヴェルも頷く。


「指揮官の負傷は、軽く扱うべきではありません」


俺もグレン教官の手を見る。


血は止まっていない。


切られたというより、線に削られたような傷だった。


普通の刃傷とは違う。


黒灰線が触れた場所だけ、皮膚の奥まで少し暗く見える。


「黒灰線の残りがある」


俺は言った。


グレン教官は自分の手を見て、ようやく少しだけ眉を寄せた。


「見えるか」


「はい。薄いです。でも、傷の奥に残ってる」


カイルが声を低くする。


「それ、まずいやつでは」


「すぐに死ぬようなものではない」


グレン教官が言う。


「すぐに、じゃなくても駄目です」


エルナが即座に返した。


ユーディア先生も頷く。


「名称ではなく、存在接触の残滓に近いです。放置は推奨しません」


リュカが封印針を一本取り出す。


「抜くなら今。深く入る前なら留められる」


グレン教官は小さく息を吐いた。


「分かった。短くやれ」


「患者の態度が悪い」


リュカが言う。


「患者ではない」


「怪我人」


「……短くやれ」


リュカは封印針を、グレン教官の手の少し上に刺した。


空中に。


針が止まる。


傷口から、黒灰色の細い線が一本、引き出される。


それは生き物のようにうねり、扉の方へ戻ろうとした。


俺は白鎌を消している。


右手は空だ。


それでも、その線が見えた。


グレン教官がこちらを見た。


「リオン」


「はい」


「切る必要はない。位置だけ言え」


「手首側、内側へ逃げます」


「分かった」


グレン教官は自分の剣を短く動かした。


左手で。


傷を負っていない方の手で、針に引き出された黒灰線の逃げ道だけを断つ。


リュカが封印針を捻る。


黒灰線が針へ巻き取られ、青銀の光に封じられた。


「残滓、回収」


リュカが言う。


エルナがすぐに治癒術式をかける。


簡易だが、丁寧な白い光。


グレン教官は何も言わずに受けた。


カイルがにやりとする。


「教官、怒られてますね」


「黙れ」


「はい」


エルナは術式を終えると、静かに言った。


「応急処置です。戻ったらセラフィナ先生に診てもらってください」


「分かった」


「必ずです」


「分かった」


二回言わせた。


カイルは笑いをこらえていたが、アーヴェルに肘で軽く止められた。


小広間に、少しだけ普通の空気が戻る。


だが、扉の隙間は残っている。


リュカの封印針とユーディア先生の鐘で応急固定しているだけだ。


グレン教官は処置を受けた手を軽く動かし、問題ないと判断したのか、再び扉を見た。


「撤収する」


カイルが少し驚いた。


「ここを離れていいんですか」


「応急封鎖は張った。ここに居続けても消耗するだけだ。本格封鎖は専門班が行う」


「でも、また出てきたら」


「そのために監理局がいる」


グレン教官は短く言った。


「全部をお前たちが背負うな」


その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。


俺たちは止めた。


でも、全部を終わらせたわけではない。


だからといって、今ここで限界まで立ち続ける必要もない。


役割を背負いすぎることは、灰衣が望む形に近い。


第一基礎班は、扉の鍵ではない。

封鎖の全てでもない。


俺たちは、今できる場所を守った。


それでいい。


アーヴェルが頷く。


「撤収時の隊列は」


「来た時と同じ。ただしリオンは中央。白鎌は消したままでいい」


「承知しました」


カイルが大剣を担ぎ直す。


「帰ったら、飯ですかね」


グレン教官が呆れたように見る。


「この状況で飯か」


「こういう状況だからですよ。腹減ると判断鈍ります」


一瞬、沈黙。


それから、グレン教官は小さく言った。


「正しい」


カイルは嬉しそうにした。


「正しいいただきました」


アーヴェルがため息をつく。


「調子に乗るな」


「今だけ」


「今だけなら許す」


エルナも少しだけ笑った。


俺も、息を吐いた。


白鎌は消えた。

黒月も消えた。

でも、身体にはまだ緊張が残っている。


右手の感覚も、少し遠い。


二つ目の黒月。


まだ扱えない。


でも、確かに出た。


エイムの記録にも残ったはずだ。


これから検証される。


たぶん、またたくさん説明される。


少し面倒だ。


でも、必要なことだ。


小広間を出る前、俺はもう一度だけ扉を見た。


隙間の奥は暗い。


白い袖の声はしない。


奥で目覚めたものの鼓動も、今は聞こえない。


けれど、そこにいる。


次は、扉の内側で。


白い袖はそう言った。


外へ出すとも言った。


どちらが先になるのかは分からない。


ただ、今日で終わりではない。


俺は名札に触れた。


リオン。

第一基礎班。


覚えられた名。


守った名。


これから狙われる名。


それでも、捨てるものではない。


通路へ戻ると、地下結界室の青い光が見えた。


エイムが入口で待っていた。


記録板を抱えたまま、いつもより少しだけ早口で言う。


「全員の生存確認。名称安定確認。黒月第二弧の観測記録あり。グレン教官の負傷記録あり。扉前維持成功。旧礼拝室本体の未分類反応、暫定でE指定相当として上申します」


カイルが目を丸くした。


「情報量」


「必要事項です」


「黒月第二弧って、もう名前ついてるんですか」


「仮称です」


「早い」


「記録は早さが重要です」


グレン教官が言う。


「今は記録より撤収だ」


「はい。ですが一点だけ」


エイムは俺を見た。


「リオン君。二つ目の黒月を意図的に出しましたか」


「いいえ」


「偶発発生ですか」


「半分。必要だと思ったけど、出し方は分かってません」


「分かりました。偶発的二重弧、条件は高負荷接続線への対処中。後で詳しく聞き取ります」


「はい」


やっぱり面倒そうだった。


だが、エイムの記録板を見ていると、少しだけ安心もする。


起きたことを残す人がいる。


勝手な役割ではなく、事実として。


それは、灰衣への対抗になる。


地下結界室へ戻ると、通信が次々に入ってきた。


測定場の生徒たちは、順次寮棟へ戻される。

月例測定一日目は正式に中止。

再開日は未定。

表向きの理由は、地下結界設備の安全確認。


救護区画は無事。

ミリアも無事。

第三基礎班も待機解除後、教官引率で寮棟へ戻る予定。


バルドが最後まで観覧席に残ろうとして教官に怒られた、という報告も入った。


カイルが笑った。


「バルド先輩らしい」


「余計な見学は危険です」


エルナが言う。


「でも、心配してくれたのかもしれません」


「たぶんな」


アーヴェルが静かに言った。


「今日、あの人もリオンの名を正した」


「うん」


それは覚えている。


白鎌ではなく、リオン。


あの声も、今日の防衛の一部だった気がする。


グレン教官は全員を見た。


「この後、第一基礎班は中央棟小会議室へ移動。セラフィナ主任の検査、ユーディアの名称確認、エイムの簡易聞き取りを受ける。その後、食事だ」


カイルが小さく拳を握る。


「飯、来た」


「喜ぶ順番が違う」


アーヴェルが言う。


「でも必要です」


エルナが言う。


「ほら」


カイルが得意げにする。


「調子に乗るな」


「はい」


俺は少し笑った。


疲れている。


かなり。


でも、立っている。


みんなもいる。


グレン教官も、傷はあるが立っている。


扉は完全には閉じていない。


奥のものは目覚めた。


白い袖は、こちらの名前を覚えた。


それでも、今日は通さなかった。


地下結界室を出る直前、グレン教官が俺に言った。


「リオン」


「はい」


「今日の黒月は、よく使った」


短い言葉だった。


褒められたのだと、少し遅れて分かった。


「ありがとうございます」


「ただし、次に使う時は反動を読む。お前の力は増えたんじゃない。扱える範囲が少し広がっただけだ」


「はい」


「焦るな。だが、鍛えろ」


「はい」


グレン教官はそれ以上言わなかった。


けれど、それで十分だった。


止められているわけではない。


恐れられているだけでもない。


鍛えろ、と言われた。


なら、次までに。


俺は右手を軽く握った。


白鎌の感覚は、もうそこにはない。


でも、黒い弧の余韻は残っている。


二つ目の月。


まだ名もない影。


それをいつか、自分の意思で出せるようになる。


その時までに、振る理由を間違えないように。


俺たちは地下結界室を後にした。


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