64話_呼ばれたのではなく
地下結界室の青い光は、まだ揺れていた。
壁に浮かんでいた灰色の染みは消えている。
白い袖の人影も、もうそこにはいない。
黒月で折った灰色の参道も、グレン教官の剣で断たれ、ユーディア先生の鐘で残滓ごと沈められた。
だが、旧礼拝室の扉は閉じていない。
観測水晶の中で、灰色の扉はわずかに開いたまま止まっていた。
隙間は細い。
人ひとりが通れるほどではない。
けれど、そこから漏れ出す祈祷音は、結界室の床を震わせるには十分だった。
「封鎖班だけでは足りん」
グレン教官の言葉が、まだ部屋に残っている。
次は、扉前へ出る。
誰も反対しなかった。
カイルは大剣を持ち直し、息を整えている。
エルナは防護線を畳みながら、自分の名札と術式具を確認した。
アーヴェルは細剣の刃を布で拭い、鞘には戻さず、低く構えたまま立っている。
俺は白鎌を握っていた。
刃は冷たい。
けれど、さっきよりも手に馴染む。
黒月は消えた。
胸の奥には、まだ黒い弧の余韻が残っている。
ほんの一瞬、二つ目の影が重なりかけた感覚もある。
だが、今は追わない。
必要な時に使った。
そして、消えた。
それでいい。
エイムが記録板を確認する。
「旧礼拝室前封鎖線、第四層まで損傷。第五層は維持。ただし扉面の灰色布目が封鎖札の文字へ浸透しています」
グレン教官が聞く。
「封鎖班の状態は」
「二名軽度名称揺らぎ。すでに後退済み。一名が扉前に残っていますが、交代要請中です」
「誰だ」
「監理局封鎖担当、オルガ・メル。結界杭の維持中」
ユーディア先生が鐘を手に取る。
「扉前へ出るなら、名称防護を持続させます。ただし、扉の近くでは鐘の響きが歪む可能性があります」
「承知した」
グレン教官は迷わなかった。
「エイム、お前は結界室に残れ。全記録と通信の維持。異常があれば即時報告」
「はい」
「ユーディアは同行。鐘で名称を固定しろ。監理局職員二名は後衛。リュカは」
「行く」
入口の方から声がした。
リュカが封印箱を抱えて立っていた。
いつもの眠そうな雰囲気はある。
だが、目だけはまったく眠っていない。
「扉前の布目は、私が見た方が早い。開けに行くんじゃなくて、縫い目を止めに行く」
グレン教官は短く頷いた。
「無理はするな」
「無理は嫌い」
「ならいい」
カイルが小声で言う。
「嫌いでもする時ある人の言い方だ」
「聞こえてる」
リュカが言う。
「すみません」
そのやり取りで、張り詰めた空気がほんの少しだけ緩んだ。
すぐに、グレン教官が俺たちを見る。
「第一基礎班」
全員が姿勢を正す。
「これから扉前まで進む。目的は三つ。封鎖班の回収、扉面布目の固定、開口の拡大阻止。中へ入るな。扉を越えるな。呼ばれても応じるな」
呼ばれても応じるな。
けれど、その言葉はもう、ただ止めるためのものには聞こえなかった。
応じないために、自分で進む。
呼ばれたからではなく、閉じるために向かう。
それが今の行動理由だった。
「カイル。扉前では中央を押さえろ。何かが出てきても、押し返そうとするな。出入口を広げるな」
「了解」
「エルナ。防護は扉ではなく、人に置け。扉そのものを包もうとするな」
「はい」
「アーヴェル。指揮は継続。ただし、扉前で俺が動いたら、第一基礎班を退避線へ寄せろ」
「承知しました」
「リオン」
「はい」
「白鎌は継続。黒月は、俺の許可があるまで使うな。偏軌は消費済みだが、無理に補おうとするな」
「はい」
「お前は扉を見るんじゃない。扉へ繋がる線を見る」
「分かりました」
今度は、自然に答えられた。
扉そのものではなく、繋がる線。
必要な一点を選ぶ。
それならできる。
地下結界室の奥にある扉が開いた。
旧礼拝室へ直接続く道ではない。
封鎖線の外側を回り込む、細い地下通路。
古い石壁。
低い天井。
青い結界灯。
壁に貼られた封鎖札。
床には、複数の退避線が白く刻まれている。
その先に、旧礼拝室の扉前がある。
俺たちは進んだ。
先頭はグレン教官。
その後ろにアーヴェルとカイル。
中央に俺とエルナ。
後方にユーディア先生、リュカ、監理局職員。
白鎌を持って歩くと、通路が少し狭く感じた。
刃を壁に当てないようにする。
だが、白鎌は不思議と石壁へ触れない。
こちらが通るべき場所を知っているように、ぎりぎりの位置で収まっている。
カイルがちらりと見た。
「その鎌、地下向きじゃないな」
「たぶん、どこ向きでもない」
「それはそう」
アーヴェルが前を向いたまま言う。
「余計な会話で緊張を落としすぎるな」
「少しは落とした方が動けるだろ」
「少しならな」
「じゃあ今くらい」
「ぎりぎり許容する」
「厳しい」
エルナが小さく息を吐いた。
笑ったのではない。
でも、少しだけ呼吸が楽になったようだった。
通路の奥へ進むほど、祈祷音が明瞭になる。
低い声が重なっている。
男とも女ともつかない。
老いているようで、幼いようでもある。
言葉は聞き取れない。
だが、音の中に意味が混じる。
失われた半身。
戻るべき場所。
器。
灯。
手。
刃。
そして、第一基礎班。
俺は白鎌を握り直した。
名札は揺れていない。
それでいい。
「前方、封鎖線」
グレン教官が言った。
通路の先が開ける。
そこには、扉前の小広間があった。
旧礼拝室の入口。
学院のどの場所とも違う、古い空気。
壁石は黒ずんでいる。
床には古い礼拝紋が刻まれている。
だが、その多くは封鎖札と結界杭で覆われていた。
小広間の奥に、扉がある。
大きな石扉。
その表面に、灰色の布目が浮かんでいた。
布が貼られているわけではない。
石そのものが、布の繊維を持ったように見える。
そして、中央に文字。
第一基礎班。
その下に、薄く滲んだ役割名。
器。
灯。
手。
刃。
役割名は、さっきより薄い。
だが、消えてはいない。
扉の前では、監理局職員が一人、片膝をついて結界杭を押さえていた。
オルガ・メル。
名札が青く光っている。
彼女は俺たちを見ると、すぐに報告した。
「第四封鎖線、維持困難。第五封鎖線はまだ生きています。扉面の文字がこちらの封鎖札を上書きしようとしています」
グレン教官が近づく。
「下がれるか」
「結界杭を抜かずに下がるなら、代替固定が必要です」
リュカが前へ出た。
「私が留める。杭の根元、見せて」
オルガは一瞬ためらったが、すぐに場所を譲った。
リュカが封印針を取り出し、結界杭の根元へ刺す。
針は石にも杭にも触れない。
だが、見えない縫い目を留めるように、空中で止まった。
青い結界線が少し安定する。
「今」
リュカが言う。
オルガが結界杭から手を離し、後退した。
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「オルガ・メル」
職員は即座に答えた。
「オルガ・メル。境界監理局封鎖担当」
名札の光が落ち着く。
彼女は退避線の後ろへ下がった。
グレン教官は扉を見た。
「第一基礎班、前へ。ただし退避線を越えすぎるな」
俺たちは小広間へ入った。
退避線。
白い線が床に刻まれている。
この線より奥は、扉の影響が強い。
俺は白鎌を構えたまま、その手前に立つ。
カイルが中央。
アーヴェルが左。
俺が右。
エルナは少し後ろ。
グレン教官は俺たちよりさらに前、扉へ最も近い場所に立った。
白い袖の人影はいない。
扉だけがある。
だが、声は聞こえた。
『よく来ました』
石扉の内側から、柔らかく濁った声。
『呼びかけに応じてくださった』
グレン教官が即座に言った。
「違う」
短い否定。
それから、アーヴェルが続けた。
「我々は呼ばれて来たのではない」
カイルも言う。
「閉じに来た」
エルナが静かに言う。
「奪われた場所を、戻しに来ました」
俺は白鎌を握る。
「第一基礎班は、扉を開く鍵じゃない」
扉面の布目が、わずかに震えた。
『では、何ですか』
問われた。
その声には、誘導線がある。
答えを与えた瞬間、その言葉を使われるかもしれない。
けれど、何も言わないことが正解とも限らない。
アーヴェルが俺たちを見る。
ほんの一瞬。
それだけで、答える役が決まった。
アーヴェルが前を向く。
「戦闘科第一基礎班。月例測定第一日目、班連携測定参加班。構成員は、カイル・レグナート、エルナ・シルヴェリア、リオン、アーヴェル・ロア・クラウゼン」
正確な記録。
余計な意味を入れない。
役割も、異名も、感情もない。
ただの事実。
扉面の灰色が、少しだけ鈍る。
『記録は、名を固定する』
「そうだ」
アーヴェルは細剣を構えた。
「そして、改竄を拒む」
エイムが後方で記録板を強く握った。
「今の定義、結界記録へ転写します」
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「固定します」
鐘の音が、小広間へ広がる。
扉面の「第一基礎班」という文字が、わずかに青く縁取られた。
灰色が完全には消えない。
だが、役割名の方が薄くなる。
白い袖の声が、少しだけ低くなった。
『賢い』
リュカが呟く。
「怒ってるね」
「そうなのか」
カイルが聞く。
「うん。たぶん」
「ちょっと嬉しいな」
「調子に乗らない」
アーヴェルが言う。
「はい」
その時、扉面の布目が一気に動いた。
灰色の繊維が「第一基礎班」の文字を避け、床へ流れる。
正面から名を奪えないなら、周囲の封鎖線へ回るつもりだ。
床の礼拝紋が、灰色に光る。
「床、礼拝紋へ流れます」
俺は言った。
「三方向。中央、左、右。全部、扉下へ戻る」
グレン教官の声。
「止めろ」
アーヴェルが即座に指示する。
「カイル、中央。リオン右。私は左。エルナ、退避線固定」
「おう!」
「はい」
カイルが中央の灰色を大剣で押さえる。
今度は出力抑制を解除されている。
大剣が青い結界線を噛み、灰色の流れを強引に止めた。
床が軋む。
「重い、けど止まる!」
エルナの防護線が、カイルの足元へ重なる。
滑らない。
中央の流れは止まった。
アーヴェルは左へ走る。
細剣で灰色を斬るのではなく、礼拝紋の溝に入り込む直前の点を刺す。
灰色の流れが途切れる。
すぐに別の溝へ逃げようとするが、アーヴェルは半歩早い。
正確ではない。
いや、正確すぎない。
相手の逃げ道を潰すように、嫌な位置へ刃を置いている。
俺は右側の流れを見る。
白鎌なら切れる。
だが、切るだけでは散る。
流れは三本に分かれている。
その奥に一つ、戻り先がある。
扉下へ戻る結び目。
そこを刈る。
俺は白鎌を低く構え、床すれすれに刃を通した。
白い刃が、礼拝紋の溝を横切る。
灰色の流れが一瞬止まる。
その奥に結び目が見えた。
大鎌を返す。
力で振らない。
通るべき線へ置く。
結び目が切れる。
右側の灰色が、糸の束のようにほどけた。
「右、断線」
「左も止めた」
アーヴェルが言う。
カイルが歯を食いしばる。
「中央、まだ!」
中央だけが太い。
カイルの大剣で止まっているが、扉下へ戻ろうとする力が強い。
エルナの防護線も押されている。
「中央、名札へ分岐します」
俺は見えたままを言う。
灰色の流れは、床を通っているように見せて、カイルの名札へ細い線を伸ばしていた。
カイルは気づく。
「俺かよ」
「カイル、半歩引くな。名札だけ逸らせ」
アーヴェルの指示。
「器用なこと言うな!」
それでも、カイルはやった。
大剣は中央を押さえたまま。
身体の向きだけを変え、名札の位置を灰色線から外す。
エルナがその空いた場所に防護線を差し込んだ。
灰色線が防護へ弾かれる。
俺は白鎌を振る。
カイルの大剣と床の間、灰色が最も強く圧縮された一点。
そこを刈る。
中央の流れが切れた。
カイルが大きく息を吐く。
「助かった!」
「よく止めた」
グレン教官の声。
カイルは少しだけ笑った。
だが、すぐに大剣を構え直す。
扉はまだ終わっていない。
白い袖の声が、扉の奥から響く。
『手は、やはり戻すのが上手い』
カイルの名札が光る。
だが、揺れない。
カイルは短く言った。
「カイル・レグナート」
それだけ。
役割名は触れられない。
白い袖の声が、今度はエルナへ向く。
『灯は、やはり人を支える』
エルナの名札が光る。
彼女は目を伏せずに答えた。
「エルナ・シルヴェリア」
『刃は、正しさを捨ててもなお美しい』
アーヴェルは冷静に言う。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
最後に。
『器は』
扉面の布目が、俺の方へ集まる。
『器は、もう刈る理由を知っている』
白鎌の柄が、冷たくなる。
呼ばれている。
褒められているようで、縫われている。
俺は白鎌を握り直した。
「リオン」
それだけ言った。
扉面の灰色が、ほんの少し乱れる。
白い袖の声が、微かに笑う。
『ええ。リオン。だからこそ、あなたはよい器です』
その言葉に、白鎌の奥が小さく軋んだ。
黒い衣擦れの音が、ほんの一瞬だけした気がした。
まだ。
俺の中で、女の声はしない。
でも、何かが不快を示した。
グレン教官が一歩前へ出る。
「リオンを器と呼ぶな」
その声は静かだった。
だが、これまでより低い。
「それ以上重ねるなら、こちらも遠慮しない」
白い袖の声が止まった。
小広間の空気が、ぴんと張り詰める。
グレン教官は剣を構えた。
「リュカ、扉面の布目を留めろ。ユーディア、名称固定。第一基礎班は三方向を押さえろ」
「了解」
リュカが封印針を構える。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
俺たちは動く。
扉面の布目が、再び広がろうとする。
だが、さっきより遅い。
アーヴェルの定義で、第一基礎班の名は記録として固定された。
役割名は薄くなった。
床の礼拝紋への流れも切った。
押している。
少しずつだが、扉前を奪い返している。
リュカの封印針が一本、扉面の手前へ刺さる。
何もない空中。
しかし、そこに見えない布の縫い目があった。
灰色の布目が大きく震える。
「一点目、固定」
リュカが言う。
ユーディア先生の鐘。
「名称固定、維持」
セラフィナ先生の通信が入る。
『救護区画、安定。三枚目の残滓、再燃なし』
エイムの声も続く。
『測定場、全生徒待機継続。測定板二枚目、封鎖維持。中央区画一枚目、沈静』
三つの布が、今は抑えられている。
なら、扉前を閉じる好機だ。
グレン教官が剣を振る。
扉面の布目が封鎖札へ伸ばしていた線を、形になる前に斬る。
「今だ」
リュカが二本目の封印針を構える。
俺は白鎌を握る。
右側から灰色が伸びる。
カイルが止める。
エルナが支える。
アーヴェルが左を潰す。
俺は扉下の結び目を刈る。
連携が噛み合っている。
測定の時より速い。
地下結界室の防衛戦よりも、さらに近い。
もう、誰か一人が全部を見る必要はない。
俺が拾った一点を、全員が使っている。
二本目の封印針が刺さった。
灰色の布目がさらに固定される。
扉の隙間が、ほんのわずかに狭まった。
「閉じてる!」
カイルが言う。
「油断するな」
アーヴェルが返す。
だが、その声にも少しだけ手応えがあった。
閉じている。
本当に。
旧礼拝室の扉が、少しずつ閉じようとしている。
白い袖の声が、低く響いた。
『困りましたね』
初めて、余裕が薄れた。
『このままでは、扉が閉じてしまう』
グレン教官が冷たく言う。
「そのために来た」
『ですが』
扉の隙間の奥で、何かが動いた。
白い袖ではない。
もっと奥。
灰色の向こう。
祈祷音が一瞬止まる。
そして、代わりに、低い鼓動のような音が響いた。
どくん。
小広間の床が震える。
どくん。
白鎌の柄が冷たくなる。
どくん。
扉面の布目が、一斉に内側へ引かれた。
リュカが目を見開く。
「待って。布が、向こうに食われてる」
「食われてる?」
カイルが聞く。
「白い袖が動かしてるんじゃない。扉の奥の何かが、布目ごと吸ってる」
ユーディア先生の鐘が、不規則に震えた。
「名称反応が変わります。役割ではありません」
エイムの通信が乱れる。
『旧礼拝室内部、未分類反応上昇。E指定基準に抵触する可能性あり』
グレン教官の剣が、少しだけ下がった。
いや、構え直した。
白い袖の声が、扉の奥で遠くなる。
『……ああ』
その声には、初めて明確な感情があった。
歓喜。
『お目覚めに、間に合いましたか』
扉の隙間が、閉じるのではなく、内側から押し返された。
封印針が一本、軋む。
リュカが歯を食いしばる。
「押される!」
グレン教官が叫ぶ。
「全員、退避線まで下がれ!」
命令。
即座に動く。
カイルが大剣を引き、エルナを守るように下がる。
アーヴェルがリュカの前へ入り、封印針から離れる時間を作る。
俺は白鎌を構えたまま後退する。
その瞬間、扉の隙間から黒灰色の線が一本、飛び出した。
速い。
狙いは封印針ではない。
グレン教官。
「教官!」
俺は叫んだ。
グレン教官は剣で受ける。
黒灰色の線と剣がぶつかる。
音がなかった。
代わりに、空気が歪んだ。
グレン教官の足が床を削る。
強い。
これまでの灰色の布とは違う。
ただの祈祷術式ではない。
線が重い。
意味が濃い。
俺は白鎌を握る。
黒月は許可されていない。
偏軌もない。
でも、白鎌はある。
「右、根元!」
俺は叫ぶ。
グレン教官は反応した。
剣で受けながら、ほんの少し角度を変える。
黒灰色の線の根元が、扉の隙間に見えた。
そこへ、俺は白鎌を振った。
届かない。
距離が足りない。
だが、白鎌の刃が通るべき線は見える。
一歩。
退避線より前へ出る。
エルナがすぐに防護線を足元へ置く。
カイルが俺の背後を押さえる。
アーヴェルが左側の灰色残滓を潰す。
俺は白鎌を振り切った。
刃が、黒灰色の線の根元を掠める。
完全には切れない。
だが、僅かに裂けた。
その瞬間、グレン教官の剣が動く。
斜めに、深く。
黒灰色の線が断たれた。
断たれた線は灰にならない。
黒い水のように床へ落ち、すぐに扉の内側へ引き戻された。
小広間に、重い沈黙が落ちる。
グレン教官は息を乱していない。
だが、剣を握る手から一筋、血が落ちていた。
カイルが低く言う。
「教官」
「問題ない」
即答。
だが、問題ない傷ではなかった。
セラフィナ先生がいれば、すぐ治療に入るだろう。
グレン教官は扉から目を離さない。
「全員、退避線まで下がれ。これは封鎖線の相手ではない」
扉の隙間の奥。
何かが、もう一度動いた。
白い袖の声が、かすかに響く。
『次は、正面で』
さっきと同じ言葉。
だが、意味が変わった。
白い袖と戦う、という意味ではない。
その奥にいる何かと向き合う、という意味。
扉は、まだ完全には開いていない。
でも、内側の何かが目を覚ました。
リュカが封印針を一本だけ回収し、残りを固定したまま下がる。
「扉は、半分閉じた。でも、奥が起きた」
ユーディア先生の鐘が低く鳴る。
「名称で縛れる相手ではありません」
アーヴェルが細剣を構え直す。
「では、どう止める」
グレン教官は血の落ちる手を見もせず、剣を上げた。
「ここで止める」
その声に、迷いはなかった。
「リオン」
「はい」
「次にあれが来たら、黒月を使う。許可を待つな」
胸の奥で、黒い弧が静かに震えた。
全制限解除ではない。
だが、もう一段階、上がった。
グレン教官は続ける。
「第一基礎班。ここからは、扉前を維持する。上には通さない。旧礼拝室の中へは入らない。だが、出てくるものは全部止める」
カイルが大剣を構えた。
「了解」
エルナが防護線を張る。
「はい」
アーヴェルが頷く。
「承知しました」
俺は白鎌を構えた。
扉の隙間の奥に、黒灰色の線がまた揺れる。
呼ばれたから来たのではない。
開けるためでもない。
ここにいる全員を守るために。
そして、扉を閉じるために。
俺たちは、旧礼拝室の前に立った。




