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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
63/91

63話_黒月、許可

地下結界室の奥の壁に、人影が浮かんでいた。


灰色の染みから滲み出した、白い袖の輪郭。


実体ではない。

扉の向こうから投げられた影。

旧礼拝室の封鎖線を越え、地下結界室の壁へ映ったもの。


それでも、ただの幻ではなかった。


結界線が震えている。

ユーディア先生の鐘が低く鳴っている。

エイムの記録板は赤い光を放ったまま沈黙していない。


あれは、こちらへ触れられる。


名前へ。

名札へ。

結界へ。

そして、たぶん白鎌へも。


白い袖の人影は、壁から半身だけを出すようにして、ゆっくりと腕を伸ばした。


『第一基礎班』


その声が、地下結界室に落ちる。


柔らかい。

濁っている。

丁寧なのに、踏み込まれた感覚がある。


『扉の前へ』


グレン教官が剣を構えた。


「行かせると思うか」


『行かせるのではありません。呼ぶのです。名は、呼ばれれば応えるもの』


「呼び方を間違えている」


グレン教官の剣先が、青い結界光を受けて細く光る。


「第一基礎班は、お前たちの儀式名じゃない」


白い袖の人影は、わずかに揺れた。


笑ったようにも見えた。


『ええ。だから美しい。正しい名を持つものほど、扉は開きやすい』


結界室の床が、また震える。


水晶の中では、旧礼拝室の扉面に浮かんだ布目が広がっていた。


第一基礎班。


その文字の周囲に、器、灯、手、刃という役割名が絡みつく。

だが、完全には重なれていない。


俺たちが、それぞれ自分の名前で立っているからだ。


アーヴェルが短く言う。


「第一基礎班、陣形維持」


カイルが中央で大剣を構える。


「おう」


エルナが石台の後方に防護線を重ねる。


「はい」


俺は右側で白鎌を構えた。


白い刃が、青い結界線の上に静かに浮かぶ。


測定ではない。


観覧席もない。

他の学院生もいない。

ここにいるのは、第一基礎班と、グレン教官、エイム、ユーディア先生、監理局職員たちだけ。


この力は、ここで使う。


使う理由がある。


白い袖の人影が、壁からもう一歩こちらへ出た。


足はない。


床には触れていない。


しかし、袖口から灰色の布糸が何本も伸び、結界室の壁と床を縫うように走った。


「床、三本。壁、二本。石台へ一本」


俺は短く言った。


アーヴェルがすぐに指示を出す。


「カイル、中央床。リオン、石台線。私は壁側。エルナ、名札防護優先」


「了解!」


「分かった」


「はい」


灰色の糸が走る。


カイルは中央の床線へ大剣を置いた。


叩き斬らない。

押し潰さない。


青い結界線の厚い場所へ、灰糸を押し込む。


糸が焼けるように震えた。


「っ、重い!」


「押すな。留めろ」


アーヴェルの声。


「分かってる!」


アーヴェルは壁側へ走り、細剣で糸そのものではなく、糸が壁に縫いつこうとする点を突いた。


灰色が乱れる。


だが、白い袖の人影が指を動かすと、糸はすぐに別の場所へ縫い直される。


速い。


今までの布手とは違う。


ただ伸びてくるだけではない。


結界室そのものを縫い替えようとしている。


俺は石台へ向かう一本を見る。


太い。


いや、太く見えるだけだ。


本当は複数の細い糸が束になっている。


その中に、一番奥から伸びる芯がある。


白鎌の刃を立てる。


刈るのは、束ではない。


芯だけ。


「石台線、芯を切る」


声に出す。


白鎌を振る。


刃は空を撫でるように通った。


灰糸の束が一瞬遅れてほどける。


石台へ伸びていた線が切れ、青い結界光が強く戻った。


エイムが記録する。


「石台接続、断線。白鎌干渉有効」


白い袖の人影が、こちらへ向いた気がした。


『あなたは、扉を閉じるために刈るのですね』


俺は答えない。


白鎌を戻す。


返事ではなく、次の線を見る。


白い袖の指が、再び動いた。


今度は糸ではない。


壁に浮かんだ灰色の布目が、文字の形になる。


リオン。

エルナ・シルヴェリア。

カイル・レグナート。

アーヴェル・ロア・クラウゼン。


個人名。


結界室の空気が冷える。


カイルが大剣を握り直した。


「俺らの名前まで書くなよ」


ユーディア先生の鐘が鳴る。


「呼び名を返さないで。自分の名として持ってください」


グレン教官は剣を構えたまま言った。


「各自、名札確認。声は短く」


アーヴェルが最初に言った。


「アーヴェル・ロア・クラウゼン」


カイル。


「カイル・レグナート」


エルナ。


「エルナ・シルヴェリア」


俺。


「リオン」


四つの名前が結界室に落ちる。


壁の文字は消えない。


だが、こちらへ引っ張る力を失った。


白い袖の人影が、ゆっくりと手を開く。


『ならば、名を壊すのではなく、名のままお招きしましょう』


水晶の中で、旧礼拝室の扉が軋んだ。


扉面の布目が内側から膨らむ。


結界室の壁が、大きく震えた。


「来る」


グレン教官が言った。


壁の灰色が一気に広がる。


今度は糸でも布手でもない。


結界室の奥の壁いっぱいに、灰色の布が張られる。


まるで、壁そのものを礼拝布で覆うように。


そこに、いくつもの手形が浮かんだ。


十。

二十。

もっと多い。


それらが一斉にこちらへ伸びる。


カイルが目を見開く。


「多い!」


アーヴェルの声が飛ぶ。


「全員、石台から離すな。防衛優先!」


カイルが前へ出る。


大剣を横に構え、青い結界線に沿って広く道を塞ぐ。


エルナが床へ防護線を広げる。

白い線が青い結界と重なり、薄い壁になる。


アーヴェルは左側の侵入点を潰す。


俺は右側。


白鎌を低く構える。


灰色の手形が、いくつも来る。


狙いはばらばらに見える。


だが違う。


全部が別々に見せかけて、最終的に石台へ集まる。


「全線、石台終点」


俺は言った。


「途中で止めるな。終点手前でまとめる」


アーヴェルが即座に判断する。


「カイル、下げろ。押し返すな。集める」


「集める!?」


「リオンの前へ流せ」


「了解!」


カイルは大剣を振り回さなかった。


迫る手形を弾き飛ばすのではなく、大剣の腹で受け、角度を変える。

灰色の手形が結界線に沿って右へ流れる。


アーヴェルも左側の手形を斬らず、突きで進路をずらす。


エルナの防護線が、手形を受け止める壁ではなく、誘導する溝になる。


灰色の手形が、俺の前に集まってくる。


多い。


一本ずつ切れば間に合わない。


でも、終点は同じ。


石台へ触れる直前、線が一つに束になる。


そこだけを刈ればいい。


白鎌を振る。


刃が青い光の中を通る。


灰色の手形の束が、まとめて裂けた。


いや、裂けたというより、行き先を失って崩れた。


いくつもの手が空中でほどけ、灰色の糸になって消える。


エイムが叫ぶ。


「広域投影、七割断線!」


七割。


残りがある。


床下から細い手形が二本、石台の裏へ回り込む。


見えている。


だが、白鎌は今、振り抜いた後。


間に合わない。


偏軌は一回残っている。


使う。


「偏軌」


俺は白鎌を戻しながら、床下の二本の進路だけをずらした。


灰色の手形が石台を外れ、エルナの防護線へ触れる。


そこで止まる。


エルナが息を呑む。


「受けます」


白い防護線が強く光る。


手形は名札へ向かわない。

結界へも触れない。


アーヴェルがそこへ細剣を入れ、継ぎ目を断つ。


残りも消えた。


「偏軌二回目使用。広域投影、全断線」


エイムの声。


俺は息を吐いた。


偏軌は使い切った。


白鎌はまだある。


黒月はまだ。


白い袖の人影は、壁の灰色の中で静かに揺れていた。


『よく耐えますね』


グレン教官が前へ出た。


「耐えているだけに見えるなら、お前の目は節穴だ」


その言葉と同時に、グレン教官が剣を振った。


初めて、動いた。


速い。


剣筋は余計な線を持たない。


灰色の布目が再び壁に縫い付こうとする、その始点。


まだ形になる前の一点。


グレン教官の剣が、そこを斬った。


音はほとんどなかった。


だが、結界室の灰色が一気に薄くなる。


エイムが息を呑む。


「投影基部、断裂。旧礼拝室側へ反応逆流」


白い袖の人影が、初めて大きく揺れた。


『……やはり、よい教官です』


「褒められる筋合いはない」


グレン教官は剣を下ろさない。


「生徒を扉の鍵に使う相手に、礼儀を返す気もない」


白い袖の人影の輪郭が、少し濃くなる。


これまでより、近い。


投影が薄くなったのではない。


むしろ、奥から押し出されてきている。


ユーディア先生の鐘が、今までより激しく震えた。


「封鎖線が削れています」


エイムの記録板が赤く明滅する。


「旧礼拝室扉、開口率上昇。第四層封鎖札、連続剥離」


水晶の中で、扉が軋む。


わずかな隙間。


黒ではない。


灰色の奥に、白い光でもない何かが見えた。


それを見た瞬間、白鎌の柄が冷たくなる。


奥にいる。


白い袖の人影だけではない。


扉の内側に、もっと古い何かがある。


まだ出てきてはいない。


だが、扉の隙間から、空気が変わった。


カイルの声が低くなる。


「何だよ、あれ」


アーヴェルは答えない。


エルナは名札を押さえ、目を細めている。


未来視はもう使っている。


それでも、何かを感じているのだろう。


「このままだと」


彼女は静かに言った。


「防衛線が押し切られます」


グレン教官の表情は変わらない。


だが、剣を握る手に力が入った。


「エイム、上への避難状況」


「測定場生徒、各区画で待機継続。避難導線確保中。救護区画、安定。中央棟地下周辺、封鎖完了」


「よし」


グレン教官は短く息を吐いた。


そして、俺たちを見た。


「ここから一段上げる」


その言葉だけで、全員が理解した。


カイルが大剣を構える。


エルナが防護線を張り直す。


アーヴェルが細剣を持ち替える。


俺は白鎌を握る。


グレン教官の声が響く。


「制限を一部解除する」


地下結界室の空気が、さらに冷えた。


「カイル。出力抑制を解除。壊すな、だが止めるために全力を使え」


「了解!」


「エルナ。未来視の追加使用を許可。ただし一度ごとに申告」


「はい」


「アーヴェル。測定用の寸止め制限を解除。必要なら斬れ」


「承知しました」


最後に、俺を見る。


「リオン」


「はい」


「黒月を許可する」


胸の奥で、黒い弧が目を開けた。


カイルが小さく息を呑む。


エルナの防護線がわずかに揺れる。


アーヴェルは何も言わない。ただ、こちらを一瞬だけ見た。


グレン教官は続ける。


「一本だけだ。持続は短くていい。扉から来る次の大きな線を断つために使え」


「はい」


黒月。


大鎌の軌道に残る、黒い弧。


空間に刻む傷。


これまで測定では抑えてきた。

使わないことを覚えた。

消すことも覚えた。


今は、使う理由がある。


扉を通さないため。


旧礼拝室から伸びる大きな線を、ここで断つため。


白い袖の人影が、壁の奥で静かに言った。


『ようやく』


扉の隙間が、さらに開く。


灰色の布目が渦を巻き、一本の太い線になって結界室へ伸びてくる。


それは手でも糸でもない。


扉そのものから伸びる道。


第一基礎班という名へ向かう、灰色の参道。


「来るぞ!」


グレン教官の声。


カイルが全力で大剣を構える。


エルナが防護線を重ねる。


アーヴェルが左側の支点へ走る。


俺は白鎌を振り上げた。


黒い弧が、刃の先に生まれる。


地下結界室の青い光が、一瞬だけ欠けた。


黒月(ノクス・ルナ)


白鎌を振る。


黒い月が、灰色の参道の前に刻まれた。


音が消えた。


灰色の線が、黒い弧へ触れる。


触れた瞬間、その進路が折れた。


まっすぐ石台へ向かっていた参道が、ありえない角度で曲がり、結界室の空いた壁へ流れる。


そこには、グレン教官の剣が待っていた。


一閃。


灰色の参道が断たれる。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


エルナの防護線が残滓を包む。


カイルが大剣で流れを押さえ、アーヴェルが最後の継ぎ目を斬る。


全部が、噛み合った。


黒月は一瞬だけ残った。


黒い弧。


空間の傷。


そこに、もう一つ。


ほんの薄く、二枚目の影が重なりかけた。


俺は息を止めた。


双つ。


そう思う前に、黒い影は消えた。


まだ早い。


まだ届かない。


でも、確かに兆しがあった。


エイムの記録板が震える。


「黒月発生確認。灰色参道、進路折曲。グレン教官の斬撃により断線。旧礼拝室側へ逆流」


白い袖の人影が、壁の灰色の中で大きく乱れた。


『……素晴らしい』


その声には、初めてわずかな濁り以外のものが混じった。


喜びか。


驚きか。


あるいは、期待か。


グレン教官は剣を構えたまま言った。


「リオン、状態」


「立てます。黒月は消えました。偏軌は残りなし」


「目は」


「絞れています」


「よし」


カイルが息を荒くしながら笑う。


「今の、やばかったな」


アーヴェルが静かに言う。


「測定場で見せなくて正解だ」


「同感」


エルナは俺を見る。


「無理はしていませんか」


「してない」


「なら、信じます」


その言葉が、少し嬉しかった。


止められるのではなく、確認される。

そして、信じられる。


白鎌の刃が、静かに鳴った。


だが、安心するには早かった。


水晶の中で、旧礼拝室の扉は閉じていない。


むしろ、今の黒月で断たれた灰色の参道が、扉の内側へ逆流し、何かを叩き起こしたように見えた。


扉の隙間の奥で、白い袖とは別の影が動く。


白い袖の人影が、壁から薄れていく。


逃げるのではない。


後退して、扉の前へ戻っている。


『よい防衛線でした』


声が遠ざかる。


『では、次は正面で』


壁の灰色が消えていく。


結界室に残ったのは、青い光と、荒い息と、白鎌の冷たい重み。


エイムが記録板を見たまま言う。


「投影反応、撤退。旧礼拝室扉前へ収束」


グレン教官は水晶を見つめる。


「撤退じゃない」


アーヴェルが頷いた。


「誘導ですね」


「そうだ」


扉の向こうで、白い袖の人影が待っている。


今度は投影ではなく、正面から。


カイルが大剣を担ぎ直す。


「行くんですか」


グレン教官はすぐには答えなかった。


水晶の中、旧礼拝室の扉はわずかに開いたまま止まっている。


開ききってはいない。


だが、閉じてもいない。


封鎖線は傷ついている。


このまま放置すれば、また内側から押される。


やがて、上の学院生たちのいる場所まで届くかもしれない。


グレン教官は静かに言った。


「封鎖班だけでは足りん」


そして、第一基礎班を見た。


「次は、扉前へ出る」


地下結界室に、誰も驚きの声を上げなかった。


もう、分かっていた。


防衛線は守った。


黒月も使った。


それでも、扉は閉じていない。


なら、次は扉の前へ行くしかない。


俺は白鎌を握り直した。


リオン。

第一基礎班。


胸元の名札は、まだ消えていない。


扉が呼ぶなら。


今度は、こちらの足で向かう。


呼ばれたからではなく。


閉じるために。


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