63話_黒月、許可
地下結界室の奥の壁に、人影が浮かんでいた。
灰色の染みから滲み出した、白い袖の輪郭。
実体ではない。
扉の向こうから投げられた影。
旧礼拝室の封鎖線を越え、地下結界室の壁へ映ったもの。
それでも、ただの幻ではなかった。
結界線が震えている。
ユーディア先生の鐘が低く鳴っている。
エイムの記録板は赤い光を放ったまま沈黙していない。
あれは、こちらへ触れられる。
名前へ。
名札へ。
結界へ。
そして、たぶん白鎌へも。
白い袖の人影は、壁から半身だけを出すようにして、ゆっくりと腕を伸ばした。
『第一基礎班』
その声が、地下結界室に落ちる。
柔らかい。
濁っている。
丁寧なのに、踏み込まれた感覚がある。
『扉の前へ』
グレン教官が剣を構えた。
「行かせると思うか」
『行かせるのではありません。呼ぶのです。名は、呼ばれれば応えるもの』
「呼び方を間違えている」
グレン教官の剣先が、青い結界光を受けて細く光る。
「第一基礎班は、お前たちの儀式名じゃない」
白い袖の人影は、わずかに揺れた。
笑ったようにも見えた。
『ええ。だから美しい。正しい名を持つものほど、扉は開きやすい』
結界室の床が、また震える。
水晶の中では、旧礼拝室の扉面に浮かんだ布目が広がっていた。
第一基礎班。
その文字の周囲に、器、灯、手、刃という役割名が絡みつく。
だが、完全には重なれていない。
俺たちが、それぞれ自分の名前で立っているからだ。
アーヴェルが短く言う。
「第一基礎班、陣形維持」
カイルが中央で大剣を構える。
「おう」
エルナが石台の後方に防護線を重ねる。
「はい」
俺は右側で白鎌を構えた。
白い刃が、青い結界線の上に静かに浮かぶ。
測定ではない。
観覧席もない。
他の学院生もいない。
ここにいるのは、第一基礎班と、グレン教官、エイム、ユーディア先生、監理局職員たちだけ。
この力は、ここで使う。
使う理由がある。
白い袖の人影が、壁からもう一歩こちらへ出た。
足はない。
床には触れていない。
しかし、袖口から灰色の布糸が何本も伸び、結界室の壁と床を縫うように走った。
「床、三本。壁、二本。石台へ一本」
俺は短く言った。
アーヴェルがすぐに指示を出す。
「カイル、中央床。リオン、石台線。私は壁側。エルナ、名札防護優先」
「了解!」
「分かった」
「はい」
灰色の糸が走る。
カイルは中央の床線へ大剣を置いた。
叩き斬らない。
押し潰さない。
青い結界線の厚い場所へ、灰糸を押し込む。
糸が焼けるように震えた。
「っ、重い!」
「押すな。留めろ」
アーヴェルの声。
「分かってる!」
アーヴェルは壁側へ走り、細剣で糸そのものではなく、糸が壁に縫いつこうとする点を突いた。
灰色が乱れる。
だが、白い袖の人影が指を動かすと、糸はすぐに別の場所へ縫い直される。
速い。
今までの布手とは違う。
ただ伸びてくるだけではない。
結界室そのものを縫い替えようとしている。
俺は石台へ向かう一本を見る。
太い。
いや、太く見えるだけだ。
本当は複数の細い糸が束になっている。
その中に、一番奥から伸びる芯がある。
白鎌の刃を立てる。
刈るのは、束ではない。
芯だけ。
「石台線、芯を切る」
声に出す。
白鎌を振る。
刃は空を撫でるように通った。
灰糸の束が一瞬遅れてほどける。
石台へ伸びていた線が切れ、青い結界光が強く戻った。
エイムが記録する。
「石台接続、断線。白鎌干渉有効」
白い袖の人影が、こちらへ向いた気がした。
『あなたは、扉を閉じるために刈るのですね』
俺は答えない。
白鎌を戻す。
返事ではなく、次の線を見る。
白い袖の指が、再び動いた。
今度は糸ではない。
壁に浮かんだ灰色の布目が、文字の形になる。
リオン。
エルナ・シルヴェリア。
カイル・レグナート。
アーヴェル・ロア・クラウゼン。
個人名。
結界室の空気が冷える。
カイルが大剣を握り直した。
「俺らの名前まで書くなよ」
ユーディア先生の鐘が鳴る。
「呼び名を返さないで。自分の名として持ってください」
グレン教官は剣を構えたまま言った。
「各自、名札確認。声は短く」
アーヴェルが最初に言った。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
カイル。
「カイル・レグナート」
エルナ。
「エルナ・シルヴェリア」
俺。
「リオン」
四つの名前が結界室に落ちる。
壁の文字は消えない。
だが、こちらへ引っ張る力を失った。
白い袖の人影が、ゆっくりと手を開く。
『ならば、名を壊すのではなく、名のままお招きしましょう』
水晶の中で、旧礼拝室の扉が軋んだ。
扉面の布目が内側から膨らむ。
結界室の壁が、大きく震えた。
「来る」
グレン教官が言った。
壁の灰色が一気に広がる。
今度は糸でも布手でもない。
結界室の奥の壁いっぱいに、灰色の布が張られる。
まるで、壁そのものを礼拝布で覆うように。
そこに、いくつもの手形が浮かんだ。
十。
二十。
もっと多い。
それらが一斉にこちらへ伸びる。
カイルが目を見開く。
「多い!」
アーヴェルの声が飛ぶ。
「全員、石台から離すな。防衛優先!」
カイルが前へ出る。
大剣を横に構え、青い結界線に沿って広く道を塞ぐ。
エルナが床へ防護線を広げる。
白い線が青い結界と重なり、薄い壁になる。
アーヴェルは左側の侵入点を潰す。
俺は右側。
白鎌を低く構える。
灰色の手形が、いくつも来る。
狙いはばらばらに見える。
だが違う。
全部が別々に見せかけて、最終的に石台へ集まる。
「全線、石台終点」
俺は言った。
「途中で止めるな。終点手前でまとめる」
アーヴェルが即座に判断する。
「カイル、下げろ。押し返すな。集める」
「集める!?」
「リオンの前へ流せ」
「了解!」
カイルは大剣を振り回さなかった。
迫る手形を弾き飛ばすのではなく、大剣の腹で受け、角度を変える。
灰色の手形が結界線に沿って右へ流れる。
アーヴェルも左側の手形を斬らず、突きで進路をずらす。
エルナの防護線が、手形を受け止める壁ではなく、誘導する溝になる。
灰色の手形が、俺の前に集まってくる。
多い。
一本ずつ切れば間に合わない。
でも、終点は同じ。
石台へ触れる直前、線が一つに束になる。
そこだけを刈ればいい。
白鎌を振る。
刃が青い光の中を通る。
灰色の手形の束が、まとめて裂けた。
いや、裂けたというより、行き先を失って崩れた。
いくつもの手が空中でほどけ、灰色の糸になって消える。
エイムが叫ぶ。
「広域投影、七割断線!」
七割。
残りがある。
床下から細い手形が二本、石台の裏へ回り込む。
見えている。
だが、白鎌は今、振り抜いた後。
間に合わない。
偏軌は一回残っている。
使う。
「偏軌」
俺は白鎌を戻しながら、床下の二本の進路だけをずらした。
灰色の手形が石台を外れ、エルナの防護線へ触れる。
そこで止まる。
エルナが息を呑む。
「受けます」
白い防護線が強く光る。
手形は名札へ向かわない。
結界へも触れない。
アーヴェルがそこへ細剣を入れ、継ぎ目を断つ。
残りも消えた。
「偏軌二回目使用。広域投影、全断線」
エイムの声。
俺は息を吐いた。
偏軌は使い切った。
白鎌はまだある。
黒月はまだ。
白い袖の人影は、壁の灰色の中で静かに揺れていた。
『よく耐えますね』
グレン教官が前へ出た。
「耐えているだけに見えるなら、お前の目は節穴だ」
その言葉と同時に、グレン教官が剣を振った。
初めて、動いた。
速い。
剣筋は余計な線を持たない。
灰色の布目が再び壁に縫い付こうとする、その始点。
まだ形になる前の一点。
グレン教官の剣が、そこを斬った。
音はほとんどなかった。
だが、結界室の灰色が一気に薄くなる。
エイムが息を呑む。
「投影基部、断裂。旧礼拝室側へ反応逆流」
白い袖の人影が、初めて大きく揺れた。
『……やはり、よい教官です』
「褒められる筋合いはない」
グレン教官は剣を下ろさない。
「生徒を扉の鍵に使う相手に、礼儀を返す気もない」
白い袖の人影の輪郭が、少し濃くなる。
これまでより、近い。
投影が薄くなったのではない。
むしろ、奥から押し出されてきている。
ユーディア先生の鐘が、今までより激しく震えた。
「封鎖線が削れています」
エイムの記録板が赤く明滅する。
「旧礼拝室扉、開口率上昇。第四層封鎖札、連続剥離」
水晶の中で、扉が軋む。
わずかな隙間。
黒ではない。
灰色の奥に、白い光でもない何かが見えた。
それを見た瞬間、白鎌の柄が冷たくなる。
奥にいる。
白い袖の人影だけではない。
扉の内側に、もっと古い何かがある。
まだ出てきてはいない。
だが、扉の隙間から、空気が変わった。
カイルの声が低くなる。
「何だよ、あれ」
アーヴェルは答えない。
エルナは名札を押さえ、目を細めている。
未来視はもう使っている。
それでも、何かを感じているのだろう。
「このままだと」
彼女は静かに言った。
「防衛線が押し切られます」
グレン教官の表情は変わらない。
だが、剣を握る手に力が入った。
「エイム、上への避難状況」
「測定場生徒、各区画で待機継続。避難導線確保中。救護区画、安定。中央棟地下周辺、封鎖完了」
「よし」
グレン教官は短く息を吐いた。
そして、俺たちを見た。
「ここから一段上げる」
その言葉だけで、全員が理解した。
カイルが大剣を構える。
エルナが防護線を張り直す。
アーヴェルが細剣を持ち替える。
俺は白鎌を握る。
グレン教官の声が響く。
「制限を一部解除する」
地下結界室の空気が、さらに冷えた。
「カイル。出力抑制を解除。壊すな、だが止めるために全力を使え」
「了解!」
「エルナ。未来視の追加使用を許可。ただし一度ごとに申告」
「はい」
「アーヴェル。測定用の寸止め制限を解除。必要なら斬れ」
「承知しました」
最後に、俺を見る。
「リオン」
「はい」
「黒月を許可する」
胸の奥で、黒い弧が目を開けた。
カイルが小さく息を呑む。
エルナの防護線がわずかに揺れる。
アーヴェルは何も言わない。ただ、こちらを一瞬だけ見た。
グレン教官は続ける。
「一本だけだ。持続は短くていい。扉から来る次の大きな線を断つために使え」
「はい」
黒月。
大鎌の軌道に残る、黒い弧。
空間に刻む傷。
これまで測定では抑えてきた。
使わないことを覚えた。
消すことも覚えた。
今は、使う理由がある。
扉を通さないため。
旧礼拝室から伸びる大きな線を、ここで断つため。
白い袖の人影が、壁の奥で静かに言った。
『ようやく』
扉の隙間が、さらに開く。
灰色の布目が渦を巻き、一本の太い線になって結界室へ伸びてくる。
それは手でも糸でもない。
扉そのものから伸びる道。
第一基礎班という名へ向かう、灰色の参道。
「来るぞ!」
グレン教官の声。
カイルが全力で大剣を構える。
エルナが防護線を重ねる。
アーヴェルが左側の支点へ走る。
俺は白鎌を振り上げた。
黒い弧が、刃の先に生まれる。
地下結界室の青い光が、一瞬だけ欠けた。
「黒月」
白鎌を振る。
黒い月が、灰色の参道の前に刻まれた。
音が消えた。
灰色の線が、黒い弧へ触れる。
触れた瞬間、その進路が折れた。
まっすぐ石台へ向かっていた参道が、ありえない角度で曲がり、結界室の空いた壁へ流れる。
そこには、グレン教官の剣が待っていた。
一閃。
灰色の参道が断たれる。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
エルナの防護線が残滓を包む。
カイルが大剣で流れを押さえ、アーヴェルが最後の継ぎ目を斬る。
全部が、噛み合った。
黒月は一瞬だけ残った。
黒い弧。
空間の傷。
そこに、もう一つ。
ほんの薄く、二枚目の影が重なりかけた。
俺は息を止めた。
双つ。
そう思う前に、黒い影は消えた。
まだ早い。
まだ届かない。
でも、確かに兆しがあった。
エイムの記録板が震える。
「黒月発生確認。灰色参道、進路折曲。グレン教官の斬撃により断線。旧礼拝室側へ逆流」
白い袖の人影が、壁の灰色の中で大きく乱れた。
『……素晴らしい』
その声には、初めてわずかな濁り以外のものが混じった。
喜びか。
驚きか。
あるいは、期待か。
グレン教官は剣を構えたまま言った。
「リオン、状態」
「立てます。黒月は消えました。偏軌は残りなし」
「目は」
「絞れています」
「よし」
カイルが息を荒くしながら笑う。
「今の、やばかったな」
アーヴェルが静かに言う。
「測定場で見せなくて正解だ」
「同感」
エルナは俺を見る。
「無理はしていませんか」
「してない」
「なら、信じます」
その言葉が、少し嬉しかった。
止められるのではなく、確認される。
そして、信じられる。
白鎌の刃が、静かに鳴った。
だが、安心するには早かった。
水晶の中で、旧礼拝室の扉は閉じていない。
むしろ、今の黒月で断たれた灰色の参道が、扉の内側へ逆流し、何かを叩き起こしたように見えた。
扉の隙間の奥で、白い袖とは別の影が動く。
白い袖の人影が、壁から薄れていく。
逃げるのではない。
後退して、扉の前へ戻っている。
『よい防衛線でした』
声が遠ざかる。
『では、次は正面で』
壁の灰色が消えていく。
結界室に残ったのは、青い光と、荒い息と、白鎌の冷たい重み。
エイムが記録板を見たまま言う。
「投影反応、撤退。旧礼拝室扉前へ収束」
グレン教官は水晶を見つめる。
「撤退じゃない」
アーヴェルが頷いた。
「誘導ですね」
「そうだ」
扉の向こうで、白い袖の人影が待っている。
今度は投影ではなく、正面から。
カイルが大剣を担ぎ直す。
「行くんですか」
グレン教官はすぐには答えなかった。
水晶の中、旧礼拝室の扉はわずかに開いたまま止まっている。
開ききってはいない。
だが、閉じてもいない。
封鎖線は傷ついている。
このまま放置すれば、また内側から押される。
やがて、上の学院生たちのいる場所まで届くかもしれない。
グレン教官は静かに言った。
「封鎖班だけでは足りん」
そして、第一基礎班を見た。
「次は、扉前へ出る」
地下結界室に、誰も驚きの声を上げなかった。
もう、分かっていた。
防衛線は守った。
黒月も使った。
それでも、扉は閉じていない。
なら、次は扉の前へ行くしかない。
俺は白鎌を握り直した。
リオン。
第一基礎班。
胸元の名札は、まだ消えていない。
扉が呼ぶなら。
今度は、こちらの足で向かう。
呼ばれたからではなく。
閉じるために。




