62話_白鎌を呼ぶ理由
地下へ降りる階段は、ひどく静かだった。
上ではまだ、生徒たちが待機している。
測定場には教官たちが立ち、観覧席では名札を押さえた生徒たちが、不安を飲み込んでいるはずだった。
けれど、その音はここまで届かない。
届くのは、靴音だけ。
石の階段を踏む音。
誰かが装備を直す小さな音。
エイムの記録板が低く震える音。
ユーディア先生の鐘が、箱の中で微かに鳴る音。
そして、もっと奥。
旧礼拝室の方から伝わってくる、祈祷音。
言葉にはなっていない。
だが、音の奥には呼びかけがある。
こちらへ来い。
扉の前へ立て。
名を持つなら、その名を差し出せ。
そんな意味が、石壁を通して染みてくる。
アーヴェルが先頭で足を止めた。
階段の下に、青い光が見える。
地下結界室。
中央棟の地下に作られた、旧礼拝室封鎖線の外側にある予備防衛区画。
扉の向こうに、監理局職員が二人立っていた。
一人が短く報告する。
「地下結界室、起動済み。封鎖線外縁、安定。ただし旧礼拝室扉面の布目は拡大中です」
グレン教官が頷く。
「中へ入る」
扉が開いた。
冷たい空気が流れ出す。
地下結界室は、思ったより広かった。
円形の部屋。
床には青い結界線が刻まれ、壁には古い封鎖札が何重にも貼られている。
中央には低い石台があり、その上に旧礼拝室方面を映す観測水晶が置かれていた。
水晶の中には、灰色の扉が映っている。
実物ではない。
遠隔の映像だ。
それでも、見ただけで分かった。
あれは、もうただの封鎖扉ではない。
扉面に、灰色の布目が浮かんでいる。
繊維のような線が縦横に走り、古い祈祷文の形を取りかけている。
そして、その中央付近に文字がある。
第一基礎班。
俺たちの班名。
それが、扉の表面に浮かんでいる。
カイルが低く言った。
「気持ち悪いな」
「同感だ」
アーヴェルが返す。
エルナは名札に触れた。
「揺れてはいません」
俺も自分の名札を見る。
リオン。
第一基礎班。
文字は安定している。
だが、遠くの扉に同じ班名が浮かんでいると思うと、胸の奥が冷えた。
名前は守りになる。
だが、呼ばれ方を間違えれば、扉にもなる。
ユーディア先生が結界室の中央に立ち、鐘を取り出した。
「この部屋では、名前を確認する声が結界に乗ります。必要な時だけ、短く名乗ってください。何度も繰り返す必要はありません」
何度も繰り返す必要はない。
その言葉に、少しだけ空気が変わった。
今までのように、呼ばれるたびに戻るだけではない。
自分たちで立っている。
だから、必要な時にだけ名を置く。
それでいい。
グレン教官は俺を見る。
「リオン」
「はい」
「ここで白鎌を呼べ」
右手の奥が、静かに震えた。
呼べば来る。
いつもそうだった。
けれど、今日は少し違う。
測定で見せるためではない。
噂に応えるためでもない。
相手を驚かせるためでもない。
扉が、第一基礎班を呼んでいる。
俺たちの名前を、鍵のように使おうとしている。
なら、その前に立つ理由がある。
俺は右手を開いた。
息を吸う。
「来い」
白い光が、手の中に落ちた。
それは刃の形を取りながら、音もなく伸びる。
細い柄。
白い刃。
翼の先端のように欠けた輪郭。
柄に走る黒い亀裂模様。
白い大鎌が、地下結界室の青い光の中に顕現した。
空気が少し歪む。
カイルが大剣を持つ手に力を込めた。
「何回見ても、やっぱ変な武器だな」
「持たせない」
俺は言った。
「持ちたくない」
カイルは即答した。
アーヴェルが白鎌を見る。
「今日は測定ではない。出した以上、意味を持つ」
「うん」
エルナが静かに言う。
「リオンが振る理由を、私たちも支えます」
白鎌が、ほんのわずかに重くなった。
いや、重くなったのではない。
こちらの理由を確かめたようだった。
グレン教官は全員を見た。
「ここからは防衛戦だ。旧礼拝室の封鎖線が破れた場合、この結界室で受ける。上の生徒たちには見せない。見せる必要もない」
カイルが頷く。
「はい」
「アーヴェル、指揮はお前が取れ。ただし、俺の命令が入った場合は即時上書きする」
「承知しました」
「エルナ、未来視は一度まで許可する。危険な分岐だけ拾え」
「はい」
「カイル、前衛中央。押し返すより、通さないことを優先しろ」
「了解」
最後に、グレン教官は俺を見た。
「リオン。白鎌の使用を許可。偏軌は自己判断で二度まで許可する」
さっきより一つ増えた。
カイルがわずかに息を呑む。
グレン教官は続ける。
「黒月はまだ待て。ただし、俺が許可した瞬間に出せるよう、感覚だけは持っておけ」
胸の奥で、黒い弧の気配が沈む。
まだ。
でも、遠くない。
「はい」
俺は白鎌を構えた。
青い結界線の上に、白い刃が静かに浮かぶ。
エイムが観測水晶を調整した。
「旧礼拝室扉前、封鎖班より追加報告。祈祷音が明瞭化。扉面の文字変化」
水晶の中の灰色が揺れる。
第一基礎班。
その文字の下に、新しい言葉が浮かぶ。
器。
灯。
手。
刃。
カイルが舌打ちした。
「まだそれ言うか」
アーヴェルの声は冷静だった。
「正式名称と役割名を重ねている」
エルナが言う。
「第一基礎班という名前に、器、灯、手、刃を縫い付けようとしているんですね」
ユーディア先生が頷く。
「ええ。正しい名を奪えないなら、正しい名の中に役割を混ぜるつもりでしょう」
扉面の文字が滲む。
第一基礎班。
その下に、器。灯。手。刃。
まるで、俺たちの班名を解体して、中身を勝手に決めようとしているようだった。
白鎌の柄を握る手に、少し力が入る。
怒りはある。
でも、振り回すほどではない。
俺は白鎌の刃を床へ向けた。
「第一基礎班は、俺たちの班名だ」
声は大きくない。
でも、結界室の中でよく通った。
「役割を入れる箱じゃない」
カイルが続く。
「カイル・レグナート。第一基礎班」
エルナ。
「エルナ・シルヴェリア。第一基礎班」
アーヴェル。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン。第一基礎班」
俺も言う。
「リオン。第一基礎班」
四つの名が、青い結界線に落ちる。
結界室の床が淡く光った。
扉面の役割名が、わずかに歪む。
白い袖の声が、水晶越しに響いた。
『よい名です』
柔らかく濁った声。
『だからこそ、扉は開く。名を持つ者は、呼ばれれば応える。応えれば、道になる』
エイムが記録板を押さえる。
「声に誘導線。結界室へ到達しています」
ユーディア先生が鐘を構えた。
「まだ弱いです。防げます」
グレン教官は剣を抜かなかった。
まだだ。
ここは防衛線。
相手の本体は、まだ扉前にいる。
だが、次の瞬間、観測水晶の中で封鎖札が一枚弾けた。
紙が燃える音はしない。
代わりに、布を裂くような音。
エイムが声を上げる。
「封鎖札、二枚目剥離。扉前の祈祷音増大」
水晶の向こうで、監理局職員の声が乱れる。
『扉面、灰色の腕状反応! 封鎖線を押しています!』
「映せ」
グレン教官の声が鋭くなる。
水晶の映像が揺れる。
扉面から、灰色の布が伸びていた。
腕ではない。
布。
だが、人の手のような形を取り、扉前の封鎖札へ触れようとしている。
封鎖班の一人が剣で払う。
布は切れた。
しかし、切れた先から灰色の糸が散り、再び束になろうとする。
カイルが大剣を構えた。
「あれがこっちまで来るんですか」
エイムが答える。
「封鎖線が破れれば、結界室の外縁へ投影される可能性があります」
「投影?」
「実体ではなく、意味の手です。ですが、触れれば名札や結界へ干渉します」
「つまり、殴りにくいやつ」
「はい」
「最近そればっかだな」
グレン教官が言う。
「来るぞ」
水晶の中で、三枚目の封鎖札が剥がれかける。
ユーディア先生の鐘が鳴った。
結界室の床が強く光る。
部屋の奥、旧礼拝室側の壁に灰色の染みが浮かんだ。
そこから、布のような手が滲み出す。
実体は薄い。
でも、確かにこちらへ伸びてくる。
狙いは、中央の結界石台。
いや、その前に立つ俺たち。
「第一基礎班、陣形」
アーヴェルの声。
速い。
「カイル中央。リオン右。私は左。エルナ、石台後方」
「おう!」
「はい」
「分かった」
カイルが前へ出る。
大剣を横に構え、灰色の布手の進路を塞ぐ。
「触るな。押さえるだけだ」
アーヴェルの指示。
カイルは頷き、大剣の腹を結界線の上に置く。
布手が大剣に触れる寸前で、青い結界に阻まれる。
だが、布手は大剣ではなく、カイルの名札へ回り込もうとした。
「右下、名札へ」
俺は言った。
カイルは即座に身体をひねる。
大剣の角度が変わり、布手の回り込みを遮る。
エルナの防護線が名札の前に薄く重なる。
布手が弾かれた。
「助かった!」
「はい」
エルナの声は落ち着いている。
アーヴェルが左から入る。
細剣で布手そのものを斬るのではなく、布手が結界線に触れている一点を突いた。
灰色が乱れる。
「リオン、継ぎ目」
アーヴェルの声。
俺は白鎌を構えた。
見える。
布手の本体ではない。
結界室へ投影されるための継ぎ目。
旧礼拝室の扉から伸びて、封鎖線を経由し、結界室の壁へ映っている細い灰色の折り目。
そこだけを刈る。
白鎌の刃を横に通す。
力はいらない。
線に沿って、置く。
白い刃が灰色の折り目を通った。
布手が、途中でほどける。
灰色の糸が空気へ散り、床に落ちる前に青い結界へ吸われた。
エイムが叫ぶ。
「投影反応、一時断線!」
カイルが振り返らずに言う。
「今の、白鎌?」
「うん」
「やっぱずるいな」
「たぶん禁止」
「今は許可出てるだろ」
「そうだった」
少しだけ息が戻る。
しかし、水晶の中で、白い袖の声が笑った。
『やはり、よく切れる』
扉面の布目が広がる。
次は一つではない。
結界室の壁に、灰色の染みが三つ浮かぶ。
そこから、それぞれ布手が伸びた。
中央。
右上。
床下。
「三方向」
俺が言う。
「中央はカイル。右上、私。床下、リオン。エルナは全体補助」
アーヴェルの指示が飛ぶ。
カイルが中央を受ける。
アーヴェルが右上の投影点へ走る。
エルナが青白い防護線を床に広げる。
俺は床下から来る灰色を見る。
それは布手というより、細い帯だった。
床の結界線の隙間を縫い、石台へ向かっている。
狙いは俺たちではない。
結界そのもの。
「床下、石台へ」
俺は言った。
グレン教官の声。
「止めろ」
短い。
それで十分だった。
白鎌を下へ向ける。
帯は速い。
普通に刈るには間に合わない。
偏軌。
一度目。
俺は白鎌の刃ではなく、帯の進路の線へ触れた。
「偏軌」
声に出す。
灰色の帯が、ほんのわずかに横へ逸れる。
石台の中心から外れ、青い結界線の厚い部分へ触れた。
結界が鳴る。
帯が焼けるように縮む。
ユーディア先生の鐘が重なる。
灰色の帯は千切れた。
エイムが記録する。
「偏軌一回使用。石台接続阻止」
カイルが中央の布手を押さえながら叫ぶ。
「よし!」
だが、右上の布手が急に方向を変えた。
アーヴェルを避け、エルナの方へ伸びる。
速い。
細い灰色の糸が、彼女の名札を狙う。
エルナは動かない。
いや、動かないのではない。
未来視を使った。
ほんの一瞬、彼女の周囲の空気が白く澄む。
「来ます」
その言葉と同時に、彼女は防護線を自分の名札ではなく、半歩前の空間へ置いた。
灰色の糸がそこへ突っ込む。
弾かれる。
だが、弾かれた糸は二つに割れた。
片方がエルナへ。
もう片方が、俺の名札へ。
「リオン」
アーヴェルの声。
俺は白鎌を引き戻す。
間に合う。
だが、斬ればエルナ側が残る。
偏軌はあと一度。
使うか。
その前に、カイルが動いた。
中央の布手を押さえていた大剣を、力任せではなく、滑らせる。
布手を押し返すのではなく、回り込む線を潰し、その勢いで自分の身体を半歩こちらへ寄せた。
大剣の柄が、俺へ伸びる糸の前に入る。
「こっちは任せろ!」
エルナ側の糸は、彼女自身の防護線が受ける。
俺は残った中央の継ぎ目を見る。
白鎌を振る。
灰色の分岐点を刈る。
糸がまとめてほどけた。
結界室に、短い静寂が落ちる。
エイムが息を呑む。
「三方向投影、全て断線」
グレン教官が頷いた。
「よくやった」
カイルが大きく息を吐く。
「やったけど、これ何回も来るときついぞ」
「同感だ」
アーヴェルの呼吸も少し荒い。
エルナは名札を確認する。
「接触なし。未来視、一度使用しました」
「了解」
グレン教官が言う。
「リオン、偏軌は一回残っている。白鎌継続」
「はい」
白鎌の刃が、青い光を受けて淡く光る。
黒月はまだ出していない。
でも、白鎌だけでも、今までの測定とはまるで違った。
地下結界室にいる全員が、それを見ている。
グレン教官。
エイム。
ユーディア先生。
第一基礎班。
この力は、観覧席に見せるものではない。
そう思った。
これは噂になるための力ではない。
誰かを守るために、封じるために、必要な場所で使うものだ。
白い袖の声が、再び水晶から響く。
『それでよいのです。名を持ち、刃を持ち、扉の前へ近づく。あなたたちは、自分で選んでいる』
グレン教官が低く言う。
「返すな」
誰に向けた言葉かは分かった。
俺たちは誰も答えない。
白い袖の声は、少しだけ残念そうに揺れた。
『では、こちらから開きましょう』
水晶の中で、旧礼拝室の扉が震えた。
封鎖札が一枚。
また一枚。
灰色の布目に飲まれていく。
エイムの記録板が赤く染まる。
「封鎖線、第三層まで侵食。扉面、開口反応」
ユーディア先生の鐘が強く震えた。
「来ます」
結界室の奥の壁に、これまでで一番大きな灰色の染みが浮かんだ。
布手ではない。
人影の輪郭。
白い袖。
まだ薄い。
まだ完全にはこちらへ来ていない。
しかし、その輪郭は確かに、人の形をしていた。
カイルが大剣を構える。
「本人か?」
アーヴェルが細剣を抜く。
「投影だとしても、先ほどまでとは違う」
エルナは石台の後方で防護線を張る。
俺は白鎌を構え直した。
白い袖の人影は、壁の灰色からゆっくりと腕を伸ばした。
『第一基礎班』
正式な班名。
その呼び方に、結界室の床が震える。
『扉の前へ』
グレン教官が剣を抜いた。
「ここが防衛線だ」
青い結界光が強まる。
白鎌の刃が、静かに鳴った。
まだ全制限解除ではない。
黒月もまだ出ていない。
だが、測定はもう終わっている。
ここから先は、地下での戦いだった。




