61話_扉前警戒
救護区画の外で、測定の鐘が三度鳴った。
いつもの試合開始や終了の鐘ではない。
短く、硬い音。
一度目。
二度目。
三度目。
歓声が止まる。
遠くの実技場で、教官たちの声が飛んだ。
「全生徒、区画内で待機!」
「武器を下ろせ!」
「名札を確認しろ!」
測定場全体が、ざわめきながら止まっていく。
完全な混乱ではない。
だが、普通の測定ではなくなったことは、誰の耳にも分かったはずだった。
カイルが救護区画の入口を見る。
「中断か」
グレン教官が通信術式を閉じながら答えた。
「一時停止だ」
「測定、止めるんですね」
「今はな」
その短い言葉だけで、大人側の判断が切り替わったのが分かった。
測定を守る段階から、測定にいる人間を守る段階へ。
セラフィナ先生は治癒科の生徒たちへ指示を出していた。
「負傷者はそのまま。軽傷者も勝手に出ないこと。記録札は机から動かさない。治癒術式を切る時は必ず担当教員に声をかけてください」
治癒科生徒たちはすぐに動いた。
泣き出す者はいない。
手が震えている者はいたが、それでも名札を確認し、記録を押さえ、負傷者のそばを離れない。
ミリアもその一人だった。
彼女はさっきより少し青ざめている。
それでも、記録札を両手で抱え、救護机の横に立っていた。
エルナが近づく。
「ミリアさん」
「はい」
「無理はしないでください。でも、ここに立つなら、自分の名前を忘れないでください」
ミリアは小さく頷いた。
「ミリア・セイン。治癒科一年」
その声は弱くない。
エルナも答える。
「エルナ・シルヴェリア。第一基礎班」
二人の名が、救護区画の白い光の中に落ちる。
それだけで、さっきまで灰色に揺れていた場所が、少し落ち着いた気がした。
リュカは封印箱を抱え、グレン教官の横に立っていた。
「三枚目は閉じた。でも、扉前は動いた」
「旧礼拝室の状況は」
グレン教官が聞く。
エイムが記録板を見ながら答える。
「封鎖札一枚剥離。扉面の灰色布目、拡大中。祈祷音は微弱ですが継続。封鎖班二名が名称確認を受けています」
「名前を失ったか」
「いえ。ユーディア先生の予備鐘で復帰済みです」
ユーディア先生は腰の鐘に手を添えたまま言った。
「扉側から呼ばれています。個人名ではなく、役割名で」
カイルの声が低くなる。
「器とか灯とか、そういうやつですか」
「ええ」
ユーディア先生は頷く。
「ただし、封鎖班の名前へ直接ではありません。旧礼拝室前に置かれた記録札、封鎖札、警戒名簿を通じて、役割を重ねようとしています」
アーヴェルが細剣の柄に触れた。
「測定線、測定板、救護導線。その三つで、扉前の封鎖札を揺らした」
「そう見ていい」
グレン教官が言った。
「三枚の礼拝布は、扉を直接開く鍵ではない。鍵を守る手を鈍らせるためのものだった可能性が高い」
「守る手を鈍らせる」
俺は呟いた。
つまり、測定場を混乱させる。
観衆の声を燃料にする。
救護区画の治癒導線を汚す。
その結果、大人たちの封鎖対応を遅らせる。
扉を開くのは、旧礼拝室の前にいる何か。
白い袖の人影。
扉の前で待っている、と言った声。
グレン教官は俺たちを見る。
「第一基礎班は、これより中央棟地下結界室へ移動する」
カイルがすぐに聞いた。
「旧礼拝室じゃないんですか」
「まだ向かわせない」
「まだ」
「中央棟地下結界室は、旧礼拝室封鎖線の外側にある。そこを予備防衛線にする。お前たちはそこで待機。状況次第で動く」
アーヴェルが頷く。
「旧礼拝室の扉前に直接行くのではなく、封鎖線が破れた場合の受け止めですね」
「そうだ」
「承知しました」
カイルは大剣を握り直した。
「つまり、いよいよ戦闘の可能性があるってことですよね」
「ある」
グレン教官は誤魔化さなかった。
「だから言っておく。ここからは測定用の評価ではない。生存と封鎖が優先される」
その言葉で、胸の奥が静かになった。
測定ではない。
勝つためだけではない。
誰かを守るために、止めるために、必要なら振る。
俺は右手を軽く開いた。
白い大鎌の感覚が、さっきより近い。
まだ呼ばない。
でも、呼ぶ理由は近づいている。
グレン教官は俺の手元を見た。
「リオン」
「はい」
「白鎌の顕現を予備許可する」
カイルが小さく息を呑む。
エルナの指が名札へ触れる。
アーヴェルも視線を鋭くした。
「ただし、今ここで出すな。地下結界室へ着き、俺が合図した時点で呼べ」
「はい」
「黒月はまだ禁止。偏軌は、自己判断で一度まで許可する。二度目以降は俺の指示を待て」
測定の時より、少し緩い。
だが、無制限ではない。
それが逆に現実味を持っていた。
「必要な一点を選べ。全部拾うな。拾ったものは短く言え」
「はい」
「お前の目は、もう止めるだけのものじゃない。班が動くために使え」
その言葉は、今までのどの指示より重かった。
カイルが俺の肩を軽く叩く。
「任されたな」
「うん」
「なら、俺らも動く」
エルナが頷く。
「リオンが拾ったものを、私たちが形にします」
アーヴェルはすでに班の並びを考えていた。
「移動時は、私が前。カイルが後方。リオンとエルナは中央。ただし、戦闘時は変更する」
「了解」
カイルが答える。
「中央棟地下結界室まで、最短で行くか?」
「いや」
グレン教官が言う。
「最短路は使わない。旧礼拝室側の古い搬送路と一部近い。第二通路を使う」
エイムが地図を表示する。
中央棟へ向かう通路。
測定場からの避難導線。
治癒棟へ続く搬送路。
そして、旧礼拝室の封鎖線。
いくつもの線が重なっている。
俺は地図を見た。
紙の線ではない。
実際の導線が、頭の中で少しだけ浮かぶ。
測定線。
観衆の声。
救護導線。
三枚の布が使った経路。
それらが全部、旧礼拝室へ向かっていた。
「第二通路の途中」
俺は言った。
エイムがすぐにこちらを見る。
「何かありますか」
「古い搬送路と交差はしない。でも、壁の向こうを並走する場所がある。そこだけ、声が届くかもしれません」
「場所は」
俺は地図の一点を指す。
「ここ。中央棟へ入る前の曲がり角」
エイムが記録板に印をつける。
「確認します」
グレン教官は短く頷いた。
「その地点は隊列を詰める。ユーディア、鐘を一つ先行させられるか」
「できます」
「セラフィナ主任、救護区画は」
「こちらで維持します」
セラフィナ先生は白い術式を静かに閉じながら言った。
「ミリアさんはこちらに残します。治癒科の生徒は全員、私の指示下に置きます」
ミリアが少しだけ身を固くする。
だが、逃げるような反応ではなかった。
「私は、ここにいます」
ミリアは言った。
「治癒科一年、ミリア・セインとして、ここにいます」
セラフィナ先生は一瞬だけ彼女を見た。
それから頷く。
「分かりました。ただし、無理をしたら即座に休ませます」
「はい」
エルナがミリアへ言う。
「必ず戻ります」
ミリアは頷いた。
「はい。待っています。エルナさん」
エルナは静かに微笑んだ。
その言葉は、灯としての呼びかけではない。
友人を待つ声だった。
救護区画を出ると、測定場の空気はさっきまでと違っていた。
全生徒が区画内待機を命じられている。
観覧席の生徒たちは座ったまま、胸元の名札を押さえている者が多い。
教官たちが各所に立ち、監理局職員が通路を封鎖している。
だが、悲鳴はない。
大人たちが動いている。
それが分かるから、生徒たちも踏みとどまっている。
観覧席の上段で、バルドがこちらを見ていた。
彼は何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。
代わりに、短く言った。
「リオン」
名前だけ。
俺は頷いた。
それだけでよかった。
余計な声はいらない。
第二通路へ入ると、外のざわめきが遠ざかった。
石壁に囲まれた通路。
魔力灯の光。
足音。
前方にアーヴェル。
その後ろに俺とエルナ。
最後尾にカイル。
グレン教官は俺たちの少し横を歩く。
エイムと監理局職員が後方に続く。
ユーディア先生の鐘は、職員の一人が小さな箱に入れて先行させている。
一定の間隔で、低く澄んだ音が響いた。
進む。
中央棟へ向かう。
一歩ごとに、測定場の日常が遠くなる。
その代わり、古い石の匂いが近づいてくる。
途中の曲がり角。
俺が地図で指した場所に近づいた時、壁の向こうからかすかな音がした。
祈祷音。
言葉にならない低い響き。
カイルがすぐに後方を固める。
アーヴェルが足を止めず、しかし剣の柄に手をかけた。
エルナは名札に触れる。
俺は壁を見る。
壁そのものではない。
その向こうを走る古い搬送路。
さらに奥へ続く灰色の糸。
そこに、白い袖の声が混じる。
『器』
俺の名札が微かに熱を持つ。
だが、揺れない。
俺は短く言った。
「役割名。壁向こう。接続は弱い」
グレン教官がすぐに言う。
「隊列維持。止まるな」
進む。
声は続く。
『灯』
エルナの名札が光る。
彼女は前を向いたまま言った。
「エルナ・シルヴェリア」
それだけで、光は落ち着く。
『手』
カイルが鼻で笑った。
「カイル・レグナート」
声が乱れる。
『刃』
アーヴェルが静かに答える。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
細剣の鞘が、わずかに鳴った。
役割名は、俺たちに触れられない。
触れようとして、名前に弾かれる。
グレン教官が低く言う。
「いい。止まるな」
曲がり角を抜ける。
祈祷音が少し遠ざかる。
だが、完全には消えない。
エイムが記録する。
「役割名干渉、四名とも自己名乗りで安定。接続未成立」
カイルが小声で言う。
「自己紹介しながら歩くの、慣れてきたな」
「慣れすぎるのもどうかと思う」
俺が答える。
「それはそう」
少しだけ空気が戻る。
だが、すぐに前方の魔力灯が揺れた。
中央棟地下へ続く扉が見える。
その手前に、監理局職員が二人立っていた。
二人とも名札を押さえ、緊張した様子でこちらを見ている。
「グレン教官」
一人が報告する。
「地下結界室、起動済み。旧礼拝室封鎖班より追加報告あり。扉面の灰色布目が、文字の形を取り始めています」
グレン教官が問う。
「文字?」
「はい。判読はまだ不完全ですが、繰り返し浮かぶ語があります」
職員は一瞬ためらった。
そして、言った。
「第一基礎班」
通路の空気が止まった。
俺たちの班名。
役割ではない。
正しい名前。
だが、扉はそれを呼んでいる。
アーヴェルが低く言う。
「こちらの名を、扉側が覚えたか」
エイムの記録板が赤く点滅する。
「封鎖対象が、第一基礎班の正式名称を参照。極めて危険です」
カイルが大剣を握った。
「役割名じゃなくて、こっちの名前を使ってきたってことか」
ユーディア先生が言う。
「ええ。名前は守りですが、呼ばれ方によっては扉にもなる」
リオン。
第一基礎班。
胸元の名札は安定している。
だが、その文字が遠くの扉に映されていると思うと、胸の奥が冷える。
グレン教官は少しだけ黙った。
そして、決めた。
「地下結界室へ入る」
扉が開く。
冷たい空気が流れてきた。
石造りの階段。
青い結界灯。
地下へ続く道。
グレン教官は振り返らずに言った。
「リオン。結界室に入ったら、白鎌を呼べ」
右手の奥で、白い大鎌が応えた。
理由は来た。
扉が、俺たちの名を呼んでいる。
なら、こちらも自分の名で立つしかない。
俺は頷いた。
「はい」
第一基礎班は、地下へ降りた。




