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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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60話_任される目

救護区画の空気が変わった。


さっきまで、そこは治すための場所だった。


怪我をした生徒が座り、治癒科の生徒が布を替え、教員が記録を確認する。

痛みを抑え、裂けた皮膚を閉じ、腫れを冷やす。

測定の熱を、少しずつ日常へ戻す場所。


だが今は違う。


白い衝立。

応急布の棚。

記録札。

治癒術式の淡い光。


その全ての間に、灰色が混ざっていた。


床へ落ちた白布の端で、一本だけ灰色の繊維が脈打っている。


細い。

けれど、ただの汚れではない。


まるで、布の中に古い祈りが息を潜めているようだった。


『治すことは、繋ぐこと』


柔らかく濁った声。


白い袖の人影。


姿はない。


けれど、その声は救護区画のどこかからではなく、白い布そのものから染み出しているように聞こえた。


『ならば、灯はここで育つ』


セラフィナ先生の術式が広がる。


白い光が床へ落ちた布を包み、灰色の繊維を外へ出さないように閉じ込める。


リュカは封印針を構えたまま、棚の前に立った。


「触らないで。布は、見た目より広い」


カイルが大剣の柄へ手を置く。


「広いって、どういう意味ですか」


「一枚の布じゃない。救護区画中の白布に、意味だけ移りかけてる」


「うわ」


カイルは短く息を吐いた。


「殴れるやつじゃないな」


「殴ると増えるかも」


「最悪だな」


「うん」


エルナはミリアの少し前に立っていた。


だが、さっきのように無意識に庇っているだけではない。


自分の位置を選んでいる。


ミリアを背に隠しすぎない。

自分も前に出すぎない。

セラフィナ先生の術式を邪魔しない位置。


ミリアも震えながら、逃げてはいなかった。


彼女は自分の記録札を胸元に抱え、何度も小さく息を整えている。


「ミリア・セイン。治癒科一年」


声は細い。


けれど、消えない。


エルナも静かに続けた。


「エルナ・シルヴェリア。第一基礎班」


二人の名札と記録札が、白く光る。


灰色の繊維がわずかに鈍った。


白い袖の声が、微かに笑ったように揺れる。


『名はよいものです。呼べば、そこに立てる。呼べば、そこへ戻れる。だからこそ、名は捧げるにふさわしい』


セラフィナ先生の声音が低くなる。


「治癒の場所で、その言葉を使わないでください」


『治癒とは、戻すことでしょう』


「違います」


即答だった。


穏やかさは残っている。

けれど、刃のように鋭い声。


「治癒とは、本人が戻る道を支えることです。誰かを別の役割へ縫い付けることではありません」


白布の棚が、かすかに揺れた。


『美しい詭弁です』


「詭弁で結構です」


セラフィナ先生は一歩も引かなかった。


リュカが封印針を一本取り出す。


針先には細い青銀の光が宿っている。


「セラフィナ先生、包める?」


「包めます。ただし、芯が見えません」


「こっちも布目が重なって読みにくい」


リュカは眠そうな目を細めた。


「現物の端があるのに、中心がここじゃない」


「中心が別にある?」


アーヴェルが聞く。


「うん。ここには端だけ。救護区画を足場にして、別の場所へ伸びてる」


「旧礼拝室か」


「たぶん」


その言葉に、救護区画の空気がさらに重くなる。


旧礼拝室。


副経路は閉じた。

だが、本体は残っている。


白い袖の人影は、扉の前で待っていると言った。


なら、三枚目はただの仕掛けではない。


そこへ続く布。


「リオン」


グレン教官の声が聞こえた。


通信ではない。


いつの間にか、救護区画の入口に立っていた。


すでに剣を帯び、横には監理局職員が数名いる。

ユーディア先生も鐘を持って入ってきた。


グレン教官は俺を見た。


「必要な一点だけ拾え」


その言葉に、一瞬だけ息が止まった。


止めるためではない。


任せるための声だった。


「布がどこへ繋がっているか。芯がどこにあるか。それだけだ」


「はい」


俺は長柄を握っていた手を緩めた。


戦う構えではない。


見るための姿勢。


ただし、全部は見ない。


救護区画全体を暴く必要はない。

治癒術式の継ぎ目を覗く必要もない。

ミリアの記録を読む必要もない。

エルナへ伸びる線に名前をつける必要もない。


灰色の繊維。


その芯だけ。


俺は息を吸う。


世界の輪郭が、少しだけ細くなる。


白い布の繊維。

治癒術式の淡い線。

記録札に刻まれた名前。

負傷者名簿の順番。

応急布の束。

治癒科生徒たちの緊張。

セラフィナ先生の術式が作る白い囲い。

リュカの封印針が狙う細い隙間。


その中に、灰色がある。


一本ではない。


細い灰色の繊維は、床の布から棚へ。

棚から応急布の束へ。

応急布から記録札へ。

記録札から負傷者名簿へ。

名簿から、治癒済みの札と未処置の札の間へ。


そこからさらに、救護区画の床下へ落ちている。


いや、床下ではない。


通路。


古い導線。


学院の治癒棟へ繋がる搬送路。


さらに奥。


浄化室。


ミリアが救い出された場所の残滓。

そこに、灰色が一度触れている。


そして、そこから曲がる。


創世廊ではない。


中央棟でもない。


もっと古い石の下。


旧礼拝室の扉前。


「芯はここじゃない」


俺は言った。


「布の端だけが救護区画にある。応急布、記録札、負傷者名簿を通って、治癒棟側の古い搬送路に落ちてる。そこから旧礼拝室の扉前へ繋がってる」


グレン教官の判断は速かった。


「エイム、搬送路の封鎖」


「はい」


エイムが記録板を操作する。


「ユーディア、救護区画の名称防護を維持」


「分かっています」


「セラフィナ主任、治癒術式を切るな。包んだまま固定してください」


「もちろんです」


「リュカ、端を留められるか」


「芯の位置が分かれば、端は留められる」


リュカが封印針を構え直す。


「リオン、端の縫い目は?」


俺は灰色の繊維を辿る。


床の布ではない。

記録札でもない。

応急布の束の中。


白い布が何十枚も重なっている。


その一番下。


端が折り込まれた場所。


そこに、灰色の繊維が結ばれている。


「棚の下段。右から三束目。一番下の布。折り目の内側」


リュカが迷わず動いた。


封印針が空気を縫う。


針は布へ直接刺さらない。


布の少し手前、何もない空間へ刺さった。


しかし、そこに見えない縫い目があったのだろう。


灰色の繊維が大きく震えた。


『よい目ですね』


白い袖の声が近くなる。


『やはり、あなたは扉を見つける』


俺は答えない。


その声に、長い反論はいらない。


自分の名前だけでいい。


「リオン」


そう言ったのは、俺自身ではなかった。


カイルだった。


続いてエルナ。


「リオン」


アーヴェル。


「リオン」


ミリアも、小さく。


「リオンさん」


名札が青く光る。


俺は息を整える。


「俺はリオンだ」


それだけ言った。


白い袖の声が、わずかに遠のく。


リュカの封印針が二本目を刺す。


セラフィナ先生の白い術式が布を包み込む。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


一度。


救護区画に澄んだ音が広がる。


灰色の繊維が、白布の中で暴れた。


応急布の棚が揺れる。

記録札が机の上で震える。

負傷者名簿の紙が勝手にめくれかける。


そこに書かれた名前たちへ、灰色が触れようとする。


セラフィナ先生が強く言った。


「全員、自分の名札を押さえなさい。治癒科の生徒も、声に出して」


救護区画のあちこちで声が上がった。


「マルク・ディーン、戦闘科一年」


「リネ・オルタ、治癒科二年」


「ハンス・ベル、戦闘科一年」


「ミリア・セイン、治癒科一年」


「エルナ・シルヴェリア、第一基礎班」


「カイル・レグナート、第一基礎班」


「アーヴェル・ロア・クラウゼン、第一基礎班」


「リオン、第一基礎班」


名が重なる。


混ざるのではなく、それぞれが立つ。


灰色の繊維が、名簿へ触れ損ねる。


白い袖の声が、少し低くなった。


『名を抱えたまま、扉を開くこともできますよ』


その瞬間、床の下から音がした。


石がずれるような、重い音。


救護区画ではない。


もっと遠い場所。


だが、確かに繋がっている。


エイムの記録板が赤く光った。


「古い搬送路、封鎖線に反応。中央棟地下方向ではありません。旧礼拝室方面です」


グレン教官が剣の柄に手を置く。


「開いたか」


「完全ではありません。ですが、扉前の封鎖札が一枚剥離」


ユーディア先生の鐘が、低く震えた。


「旧礼拝室本体が反応しています」


ついに。


その言葉は誰も口にしなかった。


だが、全員が分かった。


一枚目で測定線を使った。

二枚目で観衆と記録を使った。

三枚目で治癒導線を使った。


三つは別々ではない。


全部、扉へ向かっている。


リュカが三本目の封印針を構えた。


「端は留める。けど、向こう側の芯はもう動いた」


「どこまで」


グレン教官が聞く。


「扉前まで。まだ開いてない。でも、待ってた相手には十分かも」


『ええ』


白い袖の声が、救護区画の奥からではなく、床下から響いた。


『扉の前で、お待ちしています』


灰色の繊維が、ふっと力を失った。


いや、失ったように見えた。


リュカの封印針が刺さる。


セラフィナ先生の術式が布を閉じる。


ユーディア先生の鐘が二度目を鳴らす。


床へ落ちた白布から、灰色の色が抜けていく。


応急布の棚も静まる。

記録札の震えも止まる。

負傷者名簿の紙も閉じる。


救護区画は、ゆっくりと治癒の場所へ戻っていく。


だが、誰も安心したとは言わなかった。


三枚目は封じた。


しかし、旧礼拝室本体が動いた。


グレン教官が通信術式を開く。


「中央棟、旧礼拝室封鎖班へ。扉前の状況を報告しろ」


雑音。


数秒。


そして、監理局職員の緊迫した声。


『封鎖札、一枚落下。扉面に灰色の布目が浮上。内部から微弱な祈祷音を確認』


カイルが小さく呟いた。


「始まったのか」


アーヴェルは細剣の柄に手を置いた。


「まだ始まりきってはいない」


エルナはミリアの肩へそっと手を添えた。


「大丈夫です。ここには戻ってきました」


ミリアは震えながら頷いた。


「はい。私は、ミリア・セインです」


その声は、さっきより少し強かった。


セラフィナ先生がミリアの記録札を確認する。


「名称安定。治癒記録も無事です」


リュカが封印箱へ白布を収める。


「三枚目、回収。ただし、向こうへ合図は行った」


グレン教官は俺たちを見た。


「第一基礎班」


その呼び方に、全員が姿勢を正した。


「ここから先は、測定ではない可能性がある」


静かに、空気が変わる。


「現時点で、お前たちを旧礼拝室へ向かわせる命令は出さない。だが、向こうが第一基礎班を名指しで使ってきた場合、待機のままでは済まない」


カイルが大剣を握る。


「つまり」


「備えろ」


グレン教官は短く言った。


「測定用の制限は、状況次第で解除する」


俺の胸の奥で、白い大鎌が静かに震えた。


黒い衣擦れの音はしない。


だが、遠くで何かが目を開けた気がした。


グレン教官は俺を見る。


「リオン。さっきの目はよかった」


驚いて、返事が少し遅れた。


「はい」


「次も、全部を見る必要はない。必要な一点を選べ」


「はい」


止められているわけではない。


任されている。


それが、はっきり分かった。


救護区画の外では、まだ測定の歓声が聞こえている。


学院は完全には止まっていない。


だが、その下で、旧礼拝室の扉が息をし始めている。


三枚の礼拝布は、全て使われた。


一枚目は測定線。

二枚目は測定板。

三枚目は救護導線。


そして、その全部が示した先は一つ。


扉の前。


白い袖の人影が待っている場所。


俺は名札に触れた。


リオン。

第一基礎班。


白鎌はまだ出していない。


けれど、もう遠くない。


次に呼ぶ時は、理由が必要になる。


そしてたぶん、その理由はすぐ来る。


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