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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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59話_救護導線

測定板の表示が変わると、観覧席の空気も少しずつ変わっていった。


勝者。

敗者。


その二つの言葉が消えたことで、声の向きが少し鈍った。


完全に静かになったわけではない。


生徒たちは相変わらず騒いでいる。

次の試合を見て歓声を上げる。

誰が強いとか、どの班が伸びているとか、そういう話は続いている。


けれど、さっきよりも言葉が一つに固まりにくい。


第一基礎班が勝った。

第三基礎班が負けた。


その形ではなく。


第一基礎班は中央を避けて押し切った。

第三基礎班は名札を保った。

レオルの盾が粘った。

カイルが止めた。

エルナが足場を支えた。

アーヴェルが指揮した。

リオンが長柄で通路を塞いだ。


そういうふうに、声が細かく分かれていく。


それだけで、灰色の火種は燃えにくくなるらしい。


通路の壁越しに聞こえる声は、まだ少し怖い。


でも、さっきよりはましだった。


カイルが息を吐いた。


「測定板の表示変えるだけで、けっこう違うんだな」


エイムが記録板を見ながら答える。


「表示は人の認識を誘導します。勝者、敗者という語は便利ですが、役割化しやすい」


「便利な言葉ほど危ないってことか」


「場合によります」


「だいたい危なそう」


「今回に限れば、危ないです」


アーヴェルは測定板の方を見ていた。


「得点表示だけなら、勝敗は分かる。だが、呼び名にはなりにくい」


「はい」


エイムが頷く。


「今回の調整は有効です。ただし、二枚目の焼き写しは完全に消えたわけではありません」


エルナが聞く。


「封じたのではないのですか」


「一時封鎖です。測定板裏に残った反応はユーディア先生が抑えています。リュカ司書が回収作業へ入る予定です」


「じゃあ、まだ触れる可能性がある?」


カイルが嫌そうに言う。


「あります」


「ですよね」


第二測定区画の方から、次の班が移動していく音がした。


測定は続いている。


一枚目が中央区画の測定線。

二枚目が測定板と観衆の声。


どちらも見つかった。


どちらも、完全ではないが防いだ。


残り一枚。


それがどこにあるのか。


考えすぎるな、と言われている。


だが、考えないこともできない。


「リオン」


エルナが言った。


「今、追おうとしていますか」


「考えてただけ」


「考えすぎています」


「……うん」


カイルが笑う。


「エルナ、だんだん読めるようになってきたな」


「分かりやすい時があります」


「だってさ、リオン」


「気をつける」


アーヴェルが少しだけ目を細める。


「三枚目の位置は、大人が探す。今の我々がすべきことは、次の測定項目に備えることだ」


「次って何だっけ」


カイルが聞く。


「簡易負傷確認と、魔力疲労測定です」


エルナが答えた。


「救護区画へ行くんだったな」


「はい。班連携測定の後、全参加者は救護区画で負傷確認を受けます」


救護区画。


その言葉に、少し引っかかった。


怪我をした生徒たちが集まる場所。

治癒術師がいる場所。

名前と負傷記録が並ぶ場所。

誰がどこを傷めたか、誰を治したかが記録される場所。


治癒。


繋ぎ直す力。


ミリアは、最初の灯として使われかけた。

エルナは、二つ目の灯として狙われている。


灰衣にとって、治癒は意味を持つ。


「リオン」


今度はアーヴェルの声だった。


「はい」


「考えたな」


「……救護区画って」


全員が少しだけこちらを見た。


「怪我した人が集まる。治癒術式が使われる。名前と負傷記録もある。もし三枚目があるなら」


「救護導線」


エルナが静かに言った。


その声は、少しだけ冷えていた。


カイルが眉を寄せる。


「救護導線って?」


「測定中に怪我人が出た時、どの区画からどの救護担当へ運ぶか、あらかじめ導線が決められています。負傷者名簿、治癒順、応急術式、記録札。そういうものが一箇所に集まります」


「つまり、治すための場所」


「はい」


エルナは防護符に触れた。


「そして、灯に使われたミリアさんも治癒科でした」


通路の空気が、また重くなる。


エイムの記録板が動いた。


「救護区画、治癒導線、負傷者名簿。三枚目候補として上位に追加します」


「今すぐ確認した方がいいんじゃないか」


カイルが言う。


エイムはすでに通信術式を起動していた。


「確認要請を出します」


青い光が記録板から伸びる。


少しして、グレン教官の声が返った。


『どうした』


エイムが簡潔に報告する。


「三枚目の候補として、救護区画および負傷者名簿を挙げます。第一基礎班内で推測が出ました。治癒術式、負傷記録、名簿が集中します」


しばらく沈黙。


それから、グレン教官の声が少し硬くなった。


『セラフィナ主任へ確認を回す。第一基礎班は予定通り救護区画へ移動。ただし、現場確認は大人が行う。リオンは見るな』


「はい」


言われる前に、返事が出た。


通信の向こうで、ほんの少しだけ間があった。


『よし』


それだけで切れた。


カイルが俺を見る。


「先に返事したな」


「うん」


「成長」


「さっきも言われた」


「何回でも言う」


エルナは少しだけほっとしたようだった。


だが、その手はまだ防護符に触れている。


救護区画へ向かう途中、通路の空気が変わった。


測定場の近くとは違う匂い。


薬草。

清潔な布。

治癒術式に使う淡い香油。

それに、少しだけ汗と土の匂い。


救護区画は、実技場の脇に設営された広い部屋だった。


治癒棟から運ばれた簡易寝台が並び、白い衝立で区切られている。

負傷者名簿を管理する机があり、その上に記録札が整然と並ぶ。

治癒科の生徒と教員が忙しく動いていた。


セラフィナ先生もいた。


細い眼鏡。

淡い栗色の髪を後ろでまとめ、穏やかな佇まい。


だが、俺たちを見る目は鋭かった。


「第一基礎班ですね。こちらへ」


彼女の声は静かだが、有無を言わせない。


カイルが小声で言う。


「セラフィナ先生がいると安心するけど、ちょっと怖い」


「聞こえています」


「すみません」


セラフィナ先生はカイルの肩と腕を確認した。


「打撲の再発はありません。ただ、力の入れすぎです」


「はい」


「測定中に無理をしないこと」


「はい」


次にアーヴェル。


「細かい筋疲労があります。大きな問題はありませんが、午後の項目では肩を冷やしてください」


「承知しました」


エルナ。


セラフィナ先生は少しだけ手を止めた。


「疲れていますね」


「未来視は一度だけです」


「未来視だけではありません。防護と足場補助を繰り返しています。神経も使っているでしょう」


「……はい」


「休憩中に目を閉じてください。治癒術式を扱う者が、自分の消耗に鈍いのは悪い癖です」


エルナは素直に頷いた。


「はい」


最後に俺。


セラフィナ先生は俺の肩、腕、目の状態を確認した。


「軽い熱傷。魔力疲労は中程度。目の負荷は、思ったより抑えられています」


「見ないようにしているので」


「それは良いことです」


褒められた。


だが、セラフィナ先生はすぐに続けた。


「ですが、考えすぎていますね」


「それは見えるんですか」


「見えなくても分かります」


カイルが小さく笑った。


俺は黙るしかなかった。


セラフィナ先生は治癒術式を俺の腕にかけながら言った。


「救護区画の件は聞いています」


空気が変わる。


「負傷者名簿、治癒記録、応急布、搬送札。全て確認中です。あなたたちは確認を受けるだけです」


「三枚目は」


俺が言いかけると、セラフィナ先生は静かに遮った。


「あなたが探すものではありません」


「はい」


「特にここは治癒の場所です。見る力で壊せる場所を探さないこと」


「はい」


治癒術式の白い線が、腕を包む。


柔らかい。

けれど強い。


壊せる場所は、見えないわけではない。


でも、触れようとする気が起きない。


セラフィナ先生の術式は、壊させないように包み方を変える。


「分かりましたか」


「はい」


「なら結構です」


その時、救護区画の奥で、小さな声がした。


「エルナさん」


振り向くと、衝立の向こうにミリア・セインがいた。


完全復帰ではないのだろう。

白い治癒科の補助服を着て、記録札を運ぶ手伝いをしている。


顔色はまだ少し悪いが、立っている。


エルナが驚いたように目を開いた。


「ミリアさん。もう動いて大丈夫なのですか」


「少しだけです。セラフィナ先生の許可はあります」


ミリアはすぐにセラフィナ先生を見た。


セラフィナ先生は頷く。


「短時間の補助のみ許可しています。本人が戻りたいと言いました」


ミリアは少し緊張した様子で、俺たちの方へ来た。


俺を見ると、ほんの少しだけ肩がこわばる。


それでも、逃げなかった。


「リオンさん」


名前で呼ばれた。


「こんにちは」


「こんにちは」


ミリアは胸元の小さな記録札を握った。


「測定、見ました。少しだけ」


「見てたんだ」


カイルが聞く。


「はい。救護区画の記録水晶で。第一基礎班も、第三基礎班も……名前を呼んでいて、少し安心しました」


エルナが静かに聞く。


「安心?」


「私、あの時、自分の名前が遠くなった感じがしたので」


ミリアの声は小さい。


「灯って呼ばれた時、自分がミリア・セインだったことが、少し曖昧になりました。でも、今日は皆さんが何度も名前を呼んでいたので……戻れる感じがしました」


戻れる感じ。


その言葉は、たぶん大事だった。


名前を呼ぶことは、本人だけでなく、見ている人にも作用する。


ミリアのように、一度名前を揺らされた人にも。


「ミリアさん」


エルナが言う。


「無理はしないでください」


「はい。でも、何もせずにいる方が怖かったんです」


ミリアは記録札を見た。


「治すための場所に、自分の名前で立っていたかったので」


エルナは少しだけ黙った。


それから、静かに頷いた。


「分かります」


その時、ミリアが持っていた記録札が、淡く光った。


全員の動きが止まる。


セラフィナ先生が即座に近づいた。


「ミリア、その札を机に置いて」


「はい」


ミリアは慌てず、言われた通りに札を机へ置いた。


記録札には、負傷者名が刻まれている。


測定で軽傷を負った生徒の名前。

治療内容。

処置済みかどうか。


その中の一枚。


文字が、薄く滲んでいた。


負傷者の名前ではない。


処置内容の欄。


『応急布処置』


その布、という文字が淡く灰色を帯びている。


「触るな」


セラフィナ先生の声は鋭かった。


救護区画の空気が一気に変わる。


治癒科生徒たちが動きを止める。

監理局職員が入口を塞ぐ。

エイムがすぐに記録板を起動する。


グレン教官へ通信が飛ぶ。


俺は見ないようにした。


だが、見えてしまう。


記録札の灰色。


それは中央線の布目ほど強くない。

測定板の声ほど広くもない。


しかし、治癒術式の白い線へ絡もうとしている。


白い布。

応急布。

治すための布。


そこへ、灰色の礼拝布の意味を重ねようとしている。


「三枚目……?」


カイルが呟いた。


セラフィナ先生が静かに言った。


「断定はまだです」


だが、その声は硬い。


エルナはミリアの前に立っていた。


無意識だったのかもしれない。


でも、その立ち位置ははっきりしていた。


ミリアを背にして、記録札と向かい合う。


セラフィナ先生が言う。


「エルナさん、下がりなさい」


「はい」


エルナはすぐに従った。


しかし、記録札の灰色が一瞬だけ揺れる。


まるで、エルナが下がることを惜しむように。


俺は息を呑んだ。


灰色の線が、応急布処置という文字から、エルナの名札へ伸びかける。


「エルナ、名」


俺が言うより早く、彼女は自分で言った。


「エルナ・シルヴェリア。第一基礎班」


名札が青く光る。


灰色の線が止まる。


ミリアも震える声で続けた。


「ミリア・セイン。治癒科一年」


彼女の記録札が白く光った。


灰色の線が、さらに鈍る。


セラフィナ先生の治癒術式が、白い布のように広がった。


しかし、今回は治すためではない。


包むため。


灰色を、白い術式の中へ閉じ込める。


「エイムさん」


セラフィナ先生が言う。


「記録を」


「はい」


エイムがすぐに応じる。


「救護区画、負傷者記録札、応急布処置欄に灰衣礼拝布由来反応。三枚目の候補。治癒術式への接続未遂。エルナさん、ミリアさんの自己名乗りにより進行停止」


セラフィナ先生は淡々と言った。


「候補ではありません」


全員が彼女を見る。


「これは三枚目です」


救護区画に、沈黙が落ちた。


残り一枚。


それがここにあった。


測定線。

測定板。

救護導線。


場所。

声。

治癒。


灰衣は、測定の流れすべてに布を仕込んでいた。


戦う場所。

見る場所。

治す場所。


「燃やしていない」


リュカの声が入口から聞こえた。


いつの間にか来ていた。


手には封印針の箱。


眠そうな目は、今は鋭い。


「これは焼き写しじゃない。布片そのものの端だ」


セラフィナ先生の表情がさらに厳しくなる。


「現物ですか」


「うん。三枚目だけ、残してた。たぶん、治癒術式で育てるつもりだった」


「育てる?」


カイルの声が掠れる。


リュカは記録札を見る。


「治すための白い布に、礼拝布の意味を重ねる。怪我人の名前、治癒の順番、痛み、助かった安堵。そういうものを吸わせる」


ミリアの肩が震えた。


エルナが彼女のそばに立つ。


「それで、何をするつもりだったんですか」


エルナの声は静かだった。


だが、怒りがあった。


リュカは少しだけ黙った。


「灯を、治癒の形で作る」


救護区画の白い布が、かすかに揺れた。


誰も触れていない。


それなのに、奥の応急布の棚から、一枚の白布が床へ落ちた。


白い布の端。


そこに、灰色の繊維が一本だけ混じっている。


セラフィナ先生が低く言った。


「全員、下がりなさい」


グレン教官の声が通信から響く。


『救護区画を封鎖する。第一基礎班、単独行動禁止。その場で大人の指示に従え』


大人たちが動く。


俺たちは、動かない。


見える。


灰色の繊維が、白い布の中で脈打っている。


まるで、まだ火がついていない芯のように。


三枚目は、見つかった。


けれど、一枚目や二枚目とは違う。


これは、まだ使い切られていない。


これから燃えるつもりで、ここに残っている。


俺は名札に触れた。


リオン。

第一基礎班。


エルナが横で静かに言った。


「私は、灯ではありません」


ミリアも震えながら続いた。


「私も、灯ではありません」


セラフィナ先生の白い術式が、床へ落ちた布を包む。


リュカが封印針を構える。


そして、救護区画の奥。


白い衝立の影から、かすかな声が聞こえた。


『治すことは、繋ぐこと』


柔らかく濁った声。


白い袖の人影の声。


『ならば、灯はここで育つ』


全員が、その声の方を見た。


だが、そこには誰もいない。


ただ、白い応急布の棚だけが、静かに揺れていた。


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