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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
58/93

58話_正しい名前

第二測定区画での基礎確認が終わると、第一基礎班は一度、観覧席下の待機通路へ移された。


そこは中央区画と各測定区画をつなぐ裏側の通路だった。


表の観覧席ほど騒がしくはない。

けれど、壁の向こうから歓声や足音が響いてくる。


測定は進んでいた。


中央区画では、第二試合が終わりかけているらしい。

別の区画では、魔力制御の確認が続いている。

生徒たちは自分の出番を待ち、終えた者は結果を話し合い、次の相手を見に行く。


学院全体が、測定という大きな流れの中にある。


その流れの中に、灰衣の二枚目が紛れているかもしれない。


そう考えると、壁の向こうの歓声すら少し違って聞こえた。


カイルは通路の壁にもたれながら言った。


「声、多いな」


「測定だからな」


アーヴェルが答える。


「分かってるけどさ。さっきから、どの声が普通でどれがまずいのか分からなくなってくる」


「全部を聞くな」


「それ、リオンだけじゃなく俺らにも必要だな」


「そうだ」


エルナは胸元の名札を確認していた。


「今のところ、反応はありません」


「こっちも」


カイルが名札を軽く押さえる。


アーヴェルも頷いた。


俺も自分の名札を見る。


リオン。

第一基礎班。


文字は安定している。


勝者という声が飛んだ時の熱は、もうない。


ただ、耳の奥にはまだ残っている。


白鎌。

勝者。

灯。

敗者。


そういう言葉が、ただの声ではなく、細い火種のように思える。


声は燃える。

噂は広がる。

広がった名前は、役割になる。


「正しい名前を増やす、か」


カイルが呟いた。


俺が見ると、彼は少しだけ照れたように肩をすくめる。


「いや、さっきリオンが言ってただろ。白鎌とか勝者とかじゃなくて、ちゃんと名前で呼ぶって」


「うん」


「それ、俺にもできるよな」


「できると思う」


「なら、やる」


カイルは簡単に言った。


その簡単さが、今は少し頼もしい。


アーヴェルが言う。


「ただし、わざとらしくやるな。呼称を広めようとすれば、それ自体が意味を持ちすぎる」


「自然に呼べってことだろ」


「そうだ」


「難しいな」


「お前は普段通りでいい」


「それ褒めてる?」


「今回は褒めている」


「今回は」


エルナが少しだけ笑った。


その時、待機通路の向こうから第三基礎班がやってきた。


基礎確認を終えたのだろう。


レオルは盾を背負い、トーマは槍の留め具を直している。

ニアとフィオも少し疲れているようだったが、名札は安定していた。


カイルが手を上げる。


「レオル」


レオルは足を止めた。


「カイル」


名前で呼び返した。


それだけのことなのに、少し空気が軽くなる。


「基礎確認、どうだった?」


カイルが聞く。


「盾の制御で少し減点された。中央の件が頭に残って、押し込みが甘くなった」


「俺は押しすぎで注意された」


「逆だな」


「混ぜたらちょうどいいかもな」


「測定で混ぜるな」


レオルは少し笑った。


トーマが俺の方を見る。


「リオンは?」


「長柄で三体止めるやつ。少し抜かせた」


「意外だな」


「偏軌なしだと、まだ遅れる」


トーマは真面目に頷いた。


「それでも、あの試合では通せなかった」


「ギリギリだった」


「本当に?」


「本当に」


そう答えると、トーマは少しだけ納得したようだった。


ニアはエルナへ近づいた。


「エルナさん、さっきの足場術式、測定後に少し教えてもらえますか」


「もちろんです。ただ、風で足場を崩す側の感覚も聞きたいです」


「それなら話せます」


フィオはアーヴェルへ、少し緊張しながら言った。


「アーヴェルさん、防護線の端を叩いた動き、あれはわざとですか」


「そうだ」


「正面から破らなかったのは、測定制限ですか」


「制限もある。だが、防護を壊すより、術者の意識をずらした方が早い場合がある」


フィオは真剣に聞いていた。


対戦相手同士が、普通に話している。


名前で呼び、技術を聞き、次を考える。


それは、観衆の声よりずっと静かだった。


けれど、強い気がした。


「いいな」


カイルが小さく言った。


「何が」


俺が聞く。


「こういうの。勝った負けたの後に、ちゃんと話せるやつ」


「うん」


「灰色のやつらに使われるの、腹立つな」


「うん」


「だから、次も勝つ」


「そこに戻るんだ」


「戻る」


レオルがその言葉を聞いていたらしい。


「次はこっちが勝つ」


カイルは笑った。


「じゃあ次もちゃんとやろうぜ。レオル」


「ああ。カイル」


その時だった。


待機通路の外側、観覧席へ続く階段の上から、誰かの声が落ちてきた。


「第三って、負けた班だろ?」


ほんの軽い声だった。


悪意があったのかは分からない。


測定の結果を言っただけかもしれない。


だが、その瞬間。


レオルの名札が、かすかに光った。


第三基礎班。


その文字の端が、ほんの一瞬だけ薄くなる。


「レオル」


俺はすぐに呼んだ。


レオルも気づいていた。


彼は胸元の名札を押さえ、深く息を吸う。


「レオル・バート。第三基礎班」


トーマが続いた。


「トーマ・リッジ。第三基礎班」


ニア。


「ニア・フロウ。第三基礎班」


フィオ。


「フィオ・ラント。第三基礎班」


四人の声が通路に落ちる。


名札の揺れが止まった。


カイルが階段の上を見上げる。


さっきの声を出した生徒は、もう気まずそうに黙っていた。


カイルは怒鳴らなかった。


ただ、少し大きめの声で言った。


「負けた班じゃなくて、第三基礎班な」


アーヴェルも続ける。


「先ほど中央区画で我々と対戦した班だ。測定結果だけで呼ぶな」


言い方は硬い。


だが、それが逆に効いた。


階段の上の生徒たちは、少しざわついた。


「第三基礎班……」


「レオルたちの班か」


「そういや、途中で中央避けてたよな」


「安全対応で加点って言われてた」


「粘ってたよな」


声が変わる。


敗者。


負けた班。


そういう言葉が、少しずつ別の言葉に置き換わっていく。


第三基礎班。

レオルたち。

中央を避けた班。

粘った班。


完全に安全な言葉ばかりではない。


けれど、さっきよりはましだった。


レオルは少しだけ驚いたようにカイルとアーヴェルを見た。


「助かった」


カイルは肩をすくめる。


「さっき一緒に防いだしな」


アーヴェルは短く言った。


「測定結果だけで相手を見るのは、こちらにとっても危険だ」


「それでも、助かった」


レオルはそう言った。


その名札は、もう揺れていない。


だが、俺は見てしまった。


階段の上から落ちてきた声。


その声が、細い灰色の糸のようになって、レオルたちの名札へ触れようとした瞬間を。


灰衣の糸ではない。


もっと薄い。


人の言葉に混ざった、灰の火種。


「リオン」


エルナの声。


俺は視線を下げた。


「見すぎない」


「はい」


「見えたのですか」


「少し。声が線みたいになってた。でも、灰糸とは違う」


アーヴェルが聞く。


「観衆の声そのものか」


「たぶん。声に、灰色が混じってる」


カイルが嫌そうに言う。


「つまり、二枚目か?」


「まだ分からない」


俺は答えた。


「でも、観衆の声に何かが混ざってる」


そこへ、エイムが足早にやってきた。


たぶん、観測盤でも反応を拾ったのだろう。


「今の接触を確認しました」


「やっぱりか」


カイルが言う。


「階段上の生徒に悪意はありません。ですが、呼称が第三基礎班の所属名へ微弱接触しました」


「声に灰色が混じっていました」


俺が言う。


エイムは記録板へ書き込む。


「リオン君の視認と観測盤反応が一致。観衆経由の呼称接触、確定に近づきました」


「二枚目は観衆席か」


アーヴェルが言う。


「可能性が高いです。ただし、物理的に観衆席全体へ仕込まれているわけではないかもしれません」


「どういう意味だ」


「言葉を燃料にする焼き写しが、どこか一点にある。そこから観衆の声へ灰色を混ぜている可能性があります」


「一点」


俺は呟いた。


エイムが頷く。


「中央区画の一枚目は、測定線の下でした。二枚目が観衆を使うなら、観覧席、記録板、拡声術式、または掲示板が候補です」


掲示板。


測定板。


そこには班名、勝敗、順番、停止判定が表示されている。


観衆はそれを見る。

見て、呼ぶ。

呼んで、噂する。


もしそこに灰色が混じれば。


「測定板」


俺は言った。


「何か見えますか」


エイムが聞く。


「今は見てません。でも、声が落ちてきた時、階段上じゃなくて、もっと上の方から引かれてた気がします」


「上」


「観覧席の上。測定板がある方」


エイムの表情が少し変わった。


「確認します。第一基礎班と第三基礎班は、この通路で待機してください」


「俺たちは行かない」


俺が先に言った。


エイムが少しだけ瞬きをした。


「はい。正解です」


カイルが笑う。


「成長」


「うん」


「リオンが先に言うと安心するな」


「そうか」


「そう」


エイムはすぐに監理局職員へ合図を送った。


通路の向こうで数人が動き出す。


観覧席の上部。

測定板の裏側。


そこへ向かっている。


その間にも、測定は続いていた。


歓声。

名前。

班名。

勝った、負けた。

強い、弱い。


いくつもの声が壁の向こうで揺れている。


俺はその全部を見ないようにした。


見れば、火種が見える。


でも、今は俺が追う場所ではない。


レオルが隣に立った。


「リオン」


「うん」


「見えると、追いたくなるか」


「なる」


「俺は、盾を構えてると押したくなる。中央へ押せば勝てるって、さっき少し思った」


「うん」


「似てるのかもな」


「そうかもしれない」


レオルは少しだけ笑った。


「なら、こっちも止める。君が見すぎてたら、第一基礎班ほど上手くはないが、名前を呼ぶ」


「ありがとう」


「リオン、でいいんだな」


「うん」


「分かった」


それだけの会話。


でも、名札が少し温かくなった。


リオン。


正しい名前。


その時、観覧席の上部から、小さく鐘の音が鳴った。


ユーディア先生の鐘ではない。


もっと低い。


測定場に設置されている、警戒鐘の一つ。


エイムが顔を上げた。


通信術式が淡く光る。


『測定板裏、異常反応あり。灰衣礼拝布由来の焼き写し反応を確認。拡声術式へ接続しかけています』


控え通路の空気が一気に冷えた。


カイルが低く言う。


「二枚目」


エイムが通信へ返す。


「測定進行への影響は」


『現時点では軽微。ただし、観衆の呼称に反応しています。測定板の勝敗表示が媒介です』


測定板。


やはり、そこだった。


勝者。

敗者。

班名。

名前。

観衆の声。


そこへ二枚目がいた。


アーヴェルが言う。


「測定を止めるか」


通信の向こうで、少し間があった。


グレン教官の声が聞こえた。


『止めない。測定板の勝敗表示を一時的に簡略化する。班名と個人名を優先表示。勝者、敗者の語を消す』


勝者、敗者を消す。


結果は残すが、役割として固定しない。


エイムがすぐに記録板を操作する。


観覧席の方で、少しざわめきが起きた。


測定板の表示が変わったのだろう。


勝者、敗者。


その文字が消える。


代わりに、班名と得点、判定だけが残る。


カイルが息を吐いた。


「勝者って書かれないの、ちょっと寂しいな」


アーヴェルが言う。


「今はその方がいい」


「分かってる」


レオルが測定板のある方向を見た。


「負けた側には、そっちの方が助かる」


「そうか」


「勝者、敗者って出ると、思っていたより刺さる」


レオルは正直に言った。


「第三基礎班、得点いくつ。第一基礎班、得点いくつ。それなら、次に直せる」


アーヴェルが頷いた。


「良い考え方だ」


「負けたからな。考えるしかない」


「それができるなら、次はさらに面倒な相手になる」


レオルは少し笑った。


「そうなる」


その時、観覧席の上部で、もう一度鐘が鳴った。


今度はユーディア先生の鐘だった。


澄んだ音が、結界を通じて測定場全体へ広がる。


観衆の声が、一瞬だけ静まった。


完全な沈黙ではない。


だが、さっきまでのざわつきとは違う。


声が、少し整ったように感じる。


通信からグレン教官の声が届く。


『二枚目の反応を封じる。測定は続行。第一基礎班、第三基礎班は待機継続』


二枚目。


やはり、測定板の裏にあった。


中央区画の一枚目。

測定板の二枚目。


残りは一枚。


カイルが言った。


「一枚目、防いだ。二枚目、見つけた」


「封じきったかはまだ分からない」


アーヴェルが言う。


「でも、見つけた」


エルナが静かに言った。


「残り一枚です」


その言葉で、通路が少し重くなった。


残り一枚。


灰衣が持ち去った三枚の礼拝布断片。


一枚目は、測定線。

二枚目は、測定板と観衆の声。


なら、三枚目は。


俺は考えかけて、すぐに止めた。


今は追わない。


名札に触れる。


リオン。

第一基礎班。


その時、遠くの観覧席から、誰かが言った。


「第一基礎班、すごかったな」


別の声が続く。


「第三基礎班も粘ってた」


「レオルの盾、よかった」


「カイルの大剣も止めてたな」


「リオン、白鎌なしでも強いんだな」


「エルナの足場、見えなかったけど助かったやつだろ」


「アーヴェルの指揮、早かった」


名前が増えていく。


正しいとまでは言えない声もある。

まだ噂は噂だ。


でも、勝者や敗者だけではない。


名前がある。


班がある。


動きがある。


それだけで、二枚目の灰色は少し燃えにくくなる気がした。


カイルが小さく笑った。


「正しい名前、増えてるな」


俺は頷いた。


「うん」


観覧席の声は、まだ怖い。


でも、全部が敵ではない。


人が集う場所は、よく燃える。


なら、燃やされる前に、何を燃料にするかを変えればいい。


役割ではなく、名前を。

噂ではなく、見たものを。

勝者や敗者ではなく、そこに立った人を。


測定は続いている。


二枚目は、見つかった。


そして残り一枚は、まだ姿を見せていない。


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