57話_観衆の声
十分間の休憩は、驚くほど短かった。
椅子に座り、水を飲み、名札を確認する。
それだけで半分以上が消えた。
カイルは水筒を空にしてから、深く息を吐いた。
「十分って、こんな短かったか」
「測定中だからな」
アーヴェルが答える。
「いや、普段の十分より絶対短い」
「感覚の問題だ」
「その感覚が大事なんだよ」
エルナは控え区画の外を見ていた。
「中央区画、再開するようです」
白い仕切り布の向こうから、観覧席のざわめきが戻ってくる。
さっきより少し高い。
第一試合の熱が残っているのだろう。
第一基礎班が勝った。
第三基礎班も異常対応で加点された。
中央線が光った。
何かが起きた。
でも測定は続いている。
そういう断片が、観衆の中で噂になっている。
控え区画にいても、いくつかの声は聞こえた。
「白鎌、出さなかったな」
「出さずに勝ったぞ」
「第一基礎班、やばいな」
「第三も粘ったよな」
「中央の光、何だったんだ?」
「安全対応評価って初めて聞いた」
「エルナが何か言ってたよな」
「第二……とか?」
その言葉で、俺は顔を上げた。
カイルも気づいたらしい。
「今の」
「うん」
エルナは落ち着いていたが、防護符に触れる指は少し硬い。
アーヴェルが仕切り布の向こうを見た。
「観衆の声か」
「たぶん」
「噂になるのが早いな」
「観覧席だからな」
カイルが言う。
「見てるやつが多い」
エイムが近くで記録板を開いた。
「観衆反応は想定内です。現在、観覧席には名称防護と拡散抑制の結界を追加しています」
「拡散抑制?」
カイルが聞く。
「特定の言葉が、意味を持ちすぎないようにする術式です」
「それ、すごいですね」
「万能ではありません。噂を消すものではなく、儀式的な反響を弱めるものです」
エイムは淡々と続けた。
「ただし、人の声は数が多い。完全制御はできません」
人の声。
それは灰糸や灰札より、ずっと普通のものだ。
だから厄介なのかもしれない。
誰かが悪意で呼ぶわけではない。
見たものを話す。
驚いたことを言う。
強かった者に異名をつける。
負けた者に役割を与える。
それだけで、線になる。
俺は仕切り布の向こうを見ないようにした。
見れば、たぶん声の線が見える。
そして、見すぎれば拾ってしまう。
「リオン」
エルナが言った。
「今は見ないでください」
「うん」
カイルが少しだけ笑う。
「最近、エルナのそれ、完全に合図だな」
「必要なので」
「助かってる」
「なら、聞いてください」
「聞いてる」
アーヴェルが言う。
「次の基礎測定に移る。余計な声は置いていけ」
「基礎測定って、もうこの後なのか」
カイルが嫌そうに言う。
「班連携の後、各班ごとに簡易の基礎項目確認がある。正式な個人項目は明日以降だが、今日は安全確認を兼ねる」
「つまり、まだ測られる」
「そうだ」
カイルは大剣を持ち上げた。
「勝った後くらい休ませてくれてもいいのにな」
「勝った後に乱れるかどうかも見られている」
グレン教官が入口から言った。
いつの間にか戻ってきていた。
「第一基礎班、移動する。中央区画ではなく、第二測定区画だ」
「中央は?」
アーヴェルが聞く。
「調査後、再開する。お前たちは別区画で基礎確認だ」
「灰衣の反応は」
「今は沈静化している」
「今は、ですね」
カイルが言う。
「そうだ。だから動ける時に動く」
グレン教官は俺たちを見た。
「観衆の声に引っ張られるな。測定中の噂はすぐ膨らむ。白鎌、勝者、敗者、灯。そういう言葉は、耳に入っても拾うな」
「拾うな、ですか」
俺が聞く。
「反応するなという意味だ」
グレン教官の視線は鋭い。
「否定しようとして振り返るな。怒って返すな。自分の名前だけ持っていろ」
「はい」
自分の名前だけ持っていろ。
俺は名札に触れた。
リオン。
第一基礎班。
第二測定区画へ向かう途中、観覧席の脇を通った。
中央区画の次試合を待つ生徒たちがこちらを見る。
視線は多い。
噂も多い。
でも、以前ほど刺さらない。
「第一基礎班だ」
「リオン、白鎌出さなかったんだって」
「出さずに勝ったのか」
「アーヴェルの指揮、すごかったな」
「カイル、盾止めてた」
「エルナの足場、あれ何だ?」
言葉が通り過ぎていく。
俺は拾わない。
拾わないように、足元を見る。
すると、観覧席の上の方から別の声がした。
「白鎌!」
一瞬、足が止まりかけた。
カイルが俺の肩を軽く叩く。
「進め」
俺は頷く。
だが、その声に重なるように、さらに大きな声が飛んだ。
「リオンだ」
バルドの声だった。
観覧席の上段。
腕を組んだバルドが、さっき「白鎌」と呼んだ生徒の方を見ている。
「白鎌じゃなくて、リオンだ。測定名簿にもそう出てる」
周囲が少し静まる。
呼ばれた生徒は、気まずそうに目を逸らした。
「いや、分かってるけど」
「分かってるなら名前で呼べ」
バルドはそれだけ言うと、また腕を組んだ。
カイルが小さく笑った。
「バルド先輩、変わったな」
アーヴェルが言う。
「良い変化だ」
俺は少しだけ観覧席を見上げた。
バルドと目が合う。
彼は少し気まずそうに眉を寄せた。
礼を言うべきか迷ったが、今は測定中だ。
俺は軽く頷くだけにした。
バルドも、ほんのわずかに頷き返した。
それで十分だった。
第二測定区画は、中央区画より小さい。
個人の基礎確認用に作られた場所だ。
そこには魔力測定水晶、反応速度標的、基礎武器動作用の白線が並んでいた。
観覧席からは少し離れているため、声は遠い。
グレン教官が説明する。
「ここでは勝敗はつかない。各自、基礎動作と制限内での安定を確認する」
カイルが少しほっとする。
「戦わないんですね」
「戦わないが測る」
「それはそれで嫌だな」
「測定だ」
「はい」
最初はカイルの出力制御。
大剣を振り下ろすのではなく、決められた位置で止める。
さらに、止めた状態で魔力強化を一定に保つ。
カイルは一度目、大剣を止めた後に魔力が少し膨らみ、防護標的が押し込まれた。
「過剰」
グレン教官が言う。
「はい」
二度目は、止めた。
三度目は、かなりよかった。
「カイル・レグナート。出力抑制、改善」
エイムが記録する。
次はエルナ。
三つの治癒補助標的に、必要最小限の術式を当てる。
治しすぎず、足りなさすぎず。
彼女の白い術式は、静かに標的を包んだ。
ただ、一つだけ術式が揺れる。
観覧席の遠い声。
「灯って何だったんだ?」
その声に、エルナの指が一瞬止まりかけた。
俺は思わず言いそうになる。
戻れ。
でも、先に彼女自身が小さく息を吐いた。
「エルナ・シルヴェリア」
自分で名を言った。
術式が戻る。
標的の光が安定した。
ユーディア先生が遠くから頷く。
グレン教官も短く言った。
「良い」
エルナは少しだけ目を伏せた。
「はい」
次にアーヴェル。
基礎剣技の型を、測定用標的へ三連続で入れる。
正確さ、速度、力の制御。
アーヴェルの動きは綺麗だった。
一撃目。
二撃目。
三撃目。
しかし、三撃目で標的を完全に止めるのではなく、わずかに角度をずらした。
標的が想定された停止位置から半歩外れる。
測定盤が少し遅れて反応した。
エイムが記録する。
「基礎型からの崩し。減点なし。むしろ実戦評価加点」
アーヴェルは息を吐いた。
「整えすぎない、ですね」
グレン教官が頷く。
「そうだ」
最後に俺。
測定用長柄を持つ。
白鎌はまだ出さない。
項目は、反応速度と制限内対応。
三方向から標的が動く。
俺は干渉なしで、指定位置へ止める。
一回目。
正面、右、低い左。
線は見える。
外せる場所も見える。
使わない。
足を動かす。
長柄を置く。
標的の進路を塞ぐ。
二体止めた。
一体、少し抜けた。
「遅い」
グレン教官が言う。
「はい」
二回目。
今度は、最初から偏軌を使わない前提で構える。
見えた線のうち、外すための線ではなく、止めるための位置だけを見る。
正面標的を長柄の中央で押さえる。
右は石突き。
低い左は足を下げて進路を塞ぐ。
三体停止。
「よし」
短い評価。
俺は息を吐いた。
三回目。
標的が動く直前、遠くの観覧席から声が届いた。
「勝者、第一基礎班!」
その声に、胸元の名札が一瞬だけ熱を持った。
勝者。
第一基礎班。
言葉が、名札へ触れようとする。
標的が動く。
一瞬、反応が遅れた。
右の標的が抜ける。
追うか。
追えば、正面が空く。
見える。
偏軌を使えば、戻せる。
いや、使わない。
「リオン」
カイルの声。
「名前だけ持て」
俺は息を吸った。
「リオン」
自分で言った。
名札の熱が引く。
右の標的はもう少しで抜ける。
俺は追わない。
正面を止め、低い標的を塞ぎ、右は抜ける寸前で長柄の端だけを届かせる。
完全停止ではない。
速度低下。
測定盤が反応する。
「二体停止。一体減速。許容範囲」
エイムが記録する。
グレン教官は俺を見た。
「今のは、遅れた」
「はい」
「だが、崩れなかった」
「はい」
「勝者という言葉に反応したな」
「しました」
「次は拾うな」
「はい」
胸元の名札は、もう熱くない。
リオン。
第一基礎班。
勝者ではない。
それは結果だ。
名前ではない。
グレン教官は全員を見渡した。
「今のが二枚目の入口かもしれん」
空気が少し固まる。
カイルが言う。
「観衆の声ですか」
「可能性がある」
エイムが記録板を見ながら答えた。
「観覧席からの呼称が、名札へ微弱接触。勝者、敗者、白鎌、灯などの語に反応が見られます」
アーヴェルが問う。
「二枚目は観衆に仕込まれていると?」
「断定はできません。ただし、観衆の声を媒介にする反応は確認されています」
エルナが静かに言った。
「人が集う場所は、よく燃える」
白い袖の人影の言葉。
今は、その意味がさらに近い。
人が集まるだけではない。
人が見て、呼んで、噂して、意味を与える。
それが燃料になる。
「でも」
カイルが観覧席の方を見る。
「全員が悪いわけじゃないだろ」
「当然だ」
グレン教官が言った。
「観衆は敵ではない。だからこそ利用される」
その言葉は重かった。
敵ではないものを、敵のように扱ってはいけない。
観衆の声を全部消すことはできない。
生徒たちを疑って止めることもできない。
測定を完全に沈黙させれば、それはもう測定ではない。
なら、どうするか。
「正しい名前を増やす」
俺は呟いた。
グレン教官がこちらを見る。
「何だ」
「白鎌とか、勝者とか、灯とかじゃなくて。正しい名前で呼ぶ声が増えれば、少し変わるかもしれない」
バルドがさっき、そうした。
白鎌ではなく、リオンだと。
レオルたちも、名を保った。
第三基礎班として。
ユーディア先生が近づいてきた。
「良い視点です」
「本当ですか」
「ええ。名称干渉に対して、正しい呼称を増やすことは有効です。ただし、無理に広めようとすると逆に儀式化します」
「難しいですね」
「はい。だから、自然に行う必要があります」
自然に。
名前で呼ぶ。
班名で呼ぶ。
測定結果だけではなく、そこに立つ人を見る。
簡単なようで、難しい。
カイルが言った。
「じゃあ、俺らは次からもちゃんと名前で呼べばいいんだな」
「まずはそこからです」
ユーディア先生が頷く。
「相手も、自分たちも」
エイムが追加で記録する。
「観衆経由の呼称反応に対し、正名呼称による安定化の可能性。後で局へ報告します」
「名前で呼ぶだけなのに、報告になるんですね」
カイルが言う。
「重要です」
「ですよね」
その時、中央区画の方から歓声が上がった。
次の試合が決着したらしい。
測定は進んでいる。
人が見ている。
人が呼んでいる。
人が意味を与えている。
その中で、二枚目はどこかにある。
まだ発動していない。
でも、声の中に薄く混じっている。
俺は観覧席の方を見ないまま、名札へ触れた。
リオン。
第一基礎班。
名前だけ持て。
勝者でも、白鎌でも、器でもない。
俺は、俺の名前でここに立つ。
測定は続く。
そして、灰衣の二枚目は、たぶん観衆の声のどこかで、静かに火を待っていた。




