55話_第一と第三の間
勝った。
その事実は、すぐには身体に入ってこなかった。
中央区画の白線の内側で、俺は長柄を下ろしたまま立っていた。
観覧席の歓声が聞こえる。
審判教官の声も聞こえた。
第一基礎班の勝利。
測定第一試合、終了。
けれど、耳の奥にはまだ、ユーディア先生の鐘の音が残っている。
澄んだ音。
灰色の布目が、中央線の下へ沈んでいく時の、きしむような感覚。
完全に消えたわけではない。
退いた。
逃げた。
あるいは、こちらが思うほど単純ではなく、ただ次の場所へ移った。
「リオン」
カイルの声で、俺は息を吐いた。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「見すぎてない?」
「今は見てない」
「今は、か」
カイルは少しだけ眉を寄せた。
「見たくなる?」
「なる」
「正直」
「でも、見ない」
そう言うと、カイルは安心したように大剣を肩へ担ぎ直した。
「ならよし」
アーヴェルは、細剣を収めた後も中央線から目を離していなかった。
ただし、近づかない。
グレン教官の指示通り、俺たちは中央へ寄らず、その場で名札の確認を続けていた。
エルナも胸元の名札と名称防護符を確認している。
「揺れはありません」
「こっちも」
カイルが自分の名札を見せる。
「第一基礎班、ちゃんとある」
アーヴェルも頷く。
「こちらもだ」
俺も名札を見る。
リオン。
第一基礎班。
文字は消えていない。
第一。
その部分も、今は熱を持っていない。
反対側では、第三基礎班も同じように名札を確認していた。
レオル・バート。
第三基礎班。
トーマ・リッジ。
ニア・フロウ。
フィオ・ラント。
全員の名前がある。
所属もある。
負けたからといって、第三基礎班の名が薄くなったわけではない。
それを見て、少しだけ胸が軽くなった。
測定では、第一基礎班が勝った。
でも、灰衣には両班とも取られなかった。
レオルが盾を下ろしたまま、こちらへ歩いてきた。
中央線には近づかず、白線の外側を回るように。
「リオン」
「うん」
「さっき、中央のやつに気づいたのは、君か」
「最初は、たぶん」
「そうか」
レオルは少しだけ息を吐いた。
「助かった。気づいてなかったら、俺たちは中央を踏んでた」
「俺たちも危なかった」
「でも、そちらは勝った」
「試合は」
レオルは一瞬黙り、それから頷いた。
「試合は、だな」
トーマも近づいてきた。
槍を肩に担いでいるが、悔しさが隠れていない。
「長柄、嫌だった」
俺は少し考えた。
「槍も嫌だった」
「そう言われると、少し救われる」
トーマは苦笑した。
「白鎌出る前に崩すつもりだったけど、普通の長柄でも通れなかった」
カイルが横から言う。
「リオン、通せんぼ上手いからな」
「その呼び方は測定中だと危ない」
アーヴェルがすぐに指摘する。
カイルは慌てて口を閉じた。
「今のは……」
「測定区画内だ。気を抜くな」
「すみません」
レオルはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「そっちも大変だな」
「だいぶ」
カイルが言う。
「でも、今の注意は正しい」
ニアとフィオも後ろで頷いていた。
第三基礎班も、昨日の夜から名札の揺れを経験している。
だから、名前や呼び方の重さを分かっている。
知らずに笑う相手ではなかった。
その時、中央線の近くでエイムが声を上げた。
「第一基礎班、第三基礎班。その場で待機。中央区画の初期観測を行います」
グレン教官、ユーディア先生、監理局職員が中央線を囲む。
結界柱の光が強まった。
観覧席のざわめきは、教官たちによって抑えられている。
「何があったんだ?」
「測定の仕掛けか?」
「中央線、光ってたよな」
「でも試合続いてたぞ」
「第一基礎班、勝ったな」
「第三もかなり強かった」
声はいくつもある。
だが、大きな混乱にはなっていない。
グレン教官たちが試合を止めず、測定の形を保ったからだ。
もし途中で完全中断していたら、もっと騒ぎになっていたかもしれない。
ユーディア先生が鐘を片手に、中央線へ近づく。
ただし、踏まない。
鐘が小さく鳴った。
一度。
中央線の下に、薄い灰色の模様が浮かぶ。
布目。
やはり、そこにある。
しかし、もう俺たちの名札へ伸びる線は見えない。
代わりに、中央線の下で、小さな輪のような形を作っていた。
エイムが記録板を操作する。
青い観測線が床へ落ちる。
「残留反応、確認。灰衣礼拝布由来と推定。未燃焼布片に近い波長。ただし、現物ではなく、焼き写しのような反応です」
「焼き写し?」
カイルが小声で聞く。
俺は首を横に振る。
分からない。
リュカなら説明できるかもしれないが、今ここにはいない。
グレン教官が短く聞く。
「危険度は」
エイムが答える。
「現時点では低下しています。ただし、測定試合中に両班の所属名へ接続を試みた反応があります」
「接続先は」
「第一基礎班と第三基礎班。加えて、中央線上に未成立の第二接続痕」
未成立の第二接続痕。
エルナの指が、名札に触れた。
俺も息を止める。
第二。
灯。
エルナ。
やっぱり、そういう形だった。
アーヴェルが低く言う。
「第一と第三の間に、第二を置こうとした」
エイムがこちらを見る。
「おそらく」
「測定の順番と班名を利用して?」
「はい。第一基礎班と第三基礎班の対戦構造を使い、その間に第二の灯を成立させる補助線を作ろうとした可能性があります」
カイルが眉を寄せる。
「めちゃくちゃ回りくどくないですか」
エイムは淡々と答える。
「儀式とは、だいたい回りくどいものです」
「納得したくない」
ユーディア先生が中央線を見ながら言った。
「ただし、成立していません」
エルナが顔を上げる。
「なぜですか」
「両班が、班名を失わなかったからです」
ユーディア先生は鐘を握ったまま言った。
「第一基礎班も第三基礎班も、測定の勝敗に呑まれながら役割化されることを拒みました。特に、第三基礎班が敗北後も自分たちの名を保っていたことが大きい」
レオルが目を見開いた。
「俺たちも?」
「はい」
ユーディア先生は静かに頷いた。
「もし敗北した瞬間、第三基礎班の名が崩れていれば、第一と第三の間に、欠けた第二を押し込む余地が生まれたかもしれません」
フィオが小さく息を呑む。
「負けたら、使われていたかもしれないってことですか」
「負けたから使われる、ではありません」
ユーディア先生は慎重に言った。
「勝敗そのものではなく、勝敗によって名や自分たちの立つ意味が揺らぐこと。それを利用される可能性がありました」
レオルは盾を強く握った。
「なら、悔しがってるだけじゃ危なかったのか」
「悔しがること自体は問題ありません」
グレン教官が言った。
「問題は、悔しさで自分たちを見失うことだ」
レオルはしばらく黙っていた。
それから、こちらへ向き直る。
「第三基礎班は、負けた。でも、第三基礎班のままだ」
トーマが頷く。
「次は勝つ」
ニアも続く。
「風の使い方、まだ甘かった」
フィオが小さく言う。
「補助も、中央に引かれた時に切る判断が遅れました」
レオルは息を整え、もう一度言った。
「第三基礎班は、次に勝つ」
その名札が、淡く青く光った。
第三基礎班。
文字は揺れない。
ユーディア先生が頷いた。
「安定しました」
カイルが小声で言う。
「かっこいいな」
「同感だ」
アーヴェルも言った。
素直だった。
レオルは少し照れたように視線を逸らす。
「そっちに言われると複雑だ」
「褒めている」
アーヴェルが言う。
「それも分かってる」
空気が、少しだけ戻った。
だが、中央線の調査はまだ続いている。
エイムが観測盤に表示された線を見て、眉を寄せた。
「もう一つ、反応があります」
グレン教官がすぐに問う。
「何だ」
「中央線の下から、測定記録板へ接続しかけた痕跡があります」
「測定記録板?」
「はい。勝敗、停止判定、個人評価、班評価。その記録へ触れようとしたようです」
アーヴェルが言う。
「つまり、試合の結果そのものを儀式に組み込もうとした」
「可能性があります」
「勝敗を使うのかよ」
カイルが呟く。
「負けたとか勝ったとか、そういうのまで」
ミレイア講師の声が、通信術式越しに聞こえた。
『記録される勝敗は、名と役割を固定しやすいものです。第一基礎班、勝者。第三基礎班、敗者。その形を使うつもりだったのでしょう』
勝者。
敗者。
それもまた、名前ではないが役割になる。
勝った側。
負けた側。
そこに第二の灯を挟む。
第一、第二、第三。
順序を作る。
「でも、成立しなかった」
俺は言った。
グレン教官がこちらを見る。
「なぜだと思う」
少し考える。
「第三基礎班を、敗者だけにしなかったから」
レオルたちが俺を見る。
「俺たちも、勝者だけにならなかった」
勝った。
でも、灰衣を完全に消したわけではない。
第三基礎班は負けた。
でも、名を保った。
俺たちは互いを敵ではなく、対戦相手として見た。
測定を儀式ではなく、試合として続けた。
たぶん、それがよかった。
グレン教官は頷いた。
「その理解でいい」
アーヴェルも静かに言った。
「勝敗に呑まれなかった。それが対抗になったわけか」
「そうだ」
ユーディア先生の鐘が、もう一度鳴る。
中央線の布目がさらに薄くなった。
エイムが記録する。
「残留反応、沈静化。完全消失ではありません。中央区画下層へ沈降」
「下層?」
カイルが嫌そうに言う。
「また下か」
「学院は上より下に厄介なものが多い」
エイムが淡々と答える。
「嫌な学院だな」
「歴史ある学院です」
「言い方」
グレン教官が中央区画全体を見る。
「第一試合は有効とする。勝者、第一基礎班。第三基礎班も安全対応評価に加点する」
観覧席が再びざわめいた。
「安全対応評価?」
「第三も加点?」
「何かあったのは確かなんだな」
「でも試合、すごかったな」
測定は続く。
完全には普通ではない。
だが、壊れてもいない。
それが大事だった。
グレン教官は続ける。
「中央区画は一時確認のため、次試合まで十五分遅延。第二試合以降は予定通り行う。両班は退場」
退場。
ようやく、中央区画から出られる。
俺たちは白線の外へ向かった。
踏まないように、中央線を避けて。
区画の外へ出た瞬間、観覧席の音が少し近くなった。
カイルが大きく息を吐く。
「勝ったな」
「勝った」
俺は答える。
「白鎌なしで」
「うん」
「偏軌なしで」
「うん」
「四人で」
俺は頷いた。
「四人で」
エルナも静かに言う。
「第三基礎班も、守れました」
「一緒に守った、だな」
カイルが言う。
「試合は勝ったけど」
「そうですね」
アーヴェルは少しだけ考えてから言った。
「勝敗と協力が同時に成立した。測定としては珍しいが、悪くない」
「アーヴェル、そういう言い方すると難しい」
カイルが言う。
「つまり、いい試合だった」
「それでいい」
「最初からそう言え」
レオルたちが区画の反対側から出てくる。
レオルは少し迷ってから、こちらへ歩いてきた。
「第一基礎班」
アーヴェルが答える。
「第三基礎班」
レオルは手を差し出した。
「負けた。次は勝つ」
アーヴェルはその手を取った。
「こちらも次も勝つ」
「だから言い方」
カイルが横で呟く。
レオルは少し笑った。
「いや、それでいい」
トーマが俺の前に立つ。
「次は槍を通す」
「次も通さない」
「だよな」
そう言って、トーマは笑った。
ニアはエルナへ軽く頭を下げた。
「足場、すごかったです。風が通らなかった」
エルナも一礼する。
「そちらの風も、何度も崩されかけました」
フィオは少し緊張した様子で言った。
「補助線、中央に引かれて切りそこねました。次は、もっと早く切ります」
「私も、切る判断はまだ遅いです」
エルナはそう返した。
相手と話している。
敵ではなく、対戦相手として。
それだけで、中央線の下に沈んだ灰色への対抗になる気がした。
その時、観覧席の上の方から声がした。
「おい、リオン!」
バルドだった。
周囲が少し静まる。
バルドは腕を組んだまま、こちらを見下ろしていた。
「白鎌なしで勝つなよ。見学の意味が半分減っただろ」
一瞬、空気が止まった。
それから、カイルが吹き出した。
「そこ文句言うんですか!」
バルドは少し気まずそうに視線を逸らした。
「いや、褒めてる」
「分かりにくいです」
俺は少しだけ笑って、答えた。
「次は、出すかもしれません」
バルドは目を細めた。
「なら見てる」
それだけ言って、腕を組み直した。
以前なら、白鎌と呼ばれていたかもしれない。
でも今は、リオンと呼ばれた。
それも、悪くなかった。
エイムがこちらへやってくる。
「第一基礎班、第三基礎班。測定後確認を行います。負傷確認、名札確認、異常反応確認。その後、休憩です」
カイルが言う。
「休憩あるんですか」
「あります」
「よかった」
「ただし記録確認もあります」
「結局ありますよね」
俺たちは測定後確認用の控え区画へ向かった。
中央区画では、教官たちがまだ白線を調べている。
灰色の布目はもう見えない。
少なくとも、俺が普通に見る範囲では。
けれど、完全に消えたわけではない。
中央区画下層へ沈んだ。
それは、ただの先送りだ。
でも、今回は勝った。
試合にも。
名前を奪う仕掛けにも。
少なくとも、一度は。
俺は胸元の名札に触れた。
リオン。
第一基礎班。
文字は、しっかりそこにあった。




