53話_中央区画
朝食は、思っていたより喉を通った。
緊張していないわけではない。
むしろ、指先は少し冷えている。
胸元の名札も、いつもより重く感じる。
食堂の騒がしさも、普段より遠い。
それでも、パンを食べ、スープを飲み、肉も少し取った。
親父が見ていたら、たぶん何も言わない。
ただ、皿が空になったのを見てから頷くだけだ。
「食ってるな」
カイルが向かいから言った。
「食べてる」
「いいことだ」
「カイルは食べすぎじゃないか」
アーヴェルが言う。
カイルの皿には、明らかに朝食としては多めの量が乗っている。
「初戦だぞ。腹減ったら困るだろ」
「動きが鈍る」
「そこまでは食べない」
「もう少しでその域だ」
エルナは自分のスープを混ぜながら、静かに言った。
「でも、食べないよりはいいと思います」
「だよな」
カイルがすぐに乗る。
「ただし、食べすぎもよくありません」
「はい」
即座に沈んだ。
俺は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
それだけでも、身体の緊張が薄くなる。
食堂には、測定に出る生徒たちが集まっていた。
みんな胸元に白い名札をつけている。
名前と所属班。
青い縁取り。
名札は光っていない。
少なくとも、見える範囲では。
昨日の夜、第一基礎班と第三基礎班の所属名が揺れたことは、まだ一部にしか知らされていないのだろう。
周囲の生徒たちは、測定の話をしている。
「中央区画の第一試合、第一基礎班だろ」
「相手、第三基礎班だって」
「白鎌、出すのかな」
「最初からは出ないらしいぞ」
「アーヴェルとリオンが同じ班って、相手きついな」
「第三基礎班も前衛強いぞ」
噂は多い。
でも、以前のように俺一人だけを見るものではなかった。
第一基礎班。
第三基礎班。
中央区画。
測定の形として見られている。
それは、少しだけありがたかった。
食事を終えると、俺たちは名札と護符を確認した。
カイル・レグナート。第一基礎班。
エルナ・シルヴェリア。第一基礎班。
アーヴェル・ロア・クラウゼン。第一基礎班。
リオン。第一基礎班。
全員、文字は安定している。
アーヴェルが言った。
「行くぞ」
誰も余計なことは言わなかった。
中央区画は、普段の第一実技場をさらに広く使う形で設営されていた。
床には測定用の白線が引かれ、四隅には結界柱が立っている。
観覧席には、すでに生徒たちが集まり始めていた。
教官席は高い位置にあり、グレン教官、数人の戦闘科教官、監理局職員が並んでいる。
ユーディア先生は結界柱の近くにいた。
腰の鐘は、今日は布を外されている。
鳴らすための位置だ。
エイムは中央区画の外側で記録板を持っている。
いつもより大きな観測盤が横にあり、そこへ青い線が何本も伸びていた。
観覧席の一角には、バルドの姿もあった。
見学扱い。
腕を組んで、こちらを見ている。
以前のような挑発的な感じはない。
ただ、何かを確かめるように、静かに立っていた。
カイルが小声で言う。
「見られてるな」
「たくさん」
俺は答える。
「嫌か」
「少し」
「俺も」
「カイルも?」
「初戦で中央区画は普通に嫌だろ」
「そうか」
「そうだよ」
アーヴェルは区画の白線を見ながら言った。
「嫌でも立つ。測定は待ってくれない」
「分かってる」
カイルは大剣の柄を軽く叩いた。
エルナは静かに息を吸い、名札に触れる。
「大丈夫です。文字は揺れていません」
「うん」
俺も名札に触れる。
リオン。
第一基礎班。
消えていない。
中央区画の反対側から、第三基礎班が入ってきた。
先頭はレオル・バート。
盾と片手剣を持っている。
胸元の名札には、レオル・バート。第三基礎班。
その横に槍を持った男子。
名札には、トーマ・リッジ。
後方に風系魔法士の少女。
名札には、ニア・フロウ。
もう一人、補助術式用の短杖を持つ小柄な生徒。
名札には、フィオ・ラント。
名前がある。
相手前衛、相手後衛ではなく、それぞれの名前がある。
レオルは俺たちを見ると、短く頷いた。
アーヴェルも頷き返す。
余計な言葉はない。
それでよかった。
中央区画の横で、グレン教官が声を張った。
「第一試合。第一基礎班、第三基礎班。両班、入場」
白線の内側へ入る。
床が、微かに震えた。
結界柱が起動した音だ。
青い薄膜が区画を包む。
観覧席の騒がしさが少し遠ざかる。
完全に消えるわけではない。
だが、測定区画の中と外が分かれる。
ここから先は、試合の場だ。
グレン教官が続ける。
「開始前確認を行う。両班、名札を確認」
俺たちは胸元に触れる。
第三基礎班も同じように名札を確認した。
「自分の名と所属班を、班内で確認しろ」
最初にアーヴェルが言った。
「アーヴェル・ロア・クラウゼン。第一基礎班」
カイルが続く。
「カイル・レグナート。第一基礎班」
エルナ。
「エルナ・シルヴェリア。第一基礎班」
最後に俺。
「リオン。第一基礎班」
四つの名前。
四人の所属。
名札の青い縁取りが、一度だけ淡く光る。
揺れない。
反対側で、レオルたちも名乗る。
「レオル・バート。第三基礎班」
「トーマ・リッジ。第三基礎班」
「ニア・フロウ。第三基礎班」
「フィオ・ラント。第三基礎班」
第三基礎班の名札も、青く光る。
揺れない。
ユーディア先生の鐘は鳴らない。
エイムが記録板に何かを書き込む。
「名札安定。所属名固定」
その声が小さく聞こえた。
グレン教官が中央の審判線へ立つ。
「測定条件を確認する。急所への直撃は禁止。過剰攻撃は禁止。降参、戦闘不能、または審判判断で停止。異常を確認した場合、両班は直ちに退避線を確認し、審判指示を待つ」
全員が頷く。
「リオン」
グレン教官が俺を見る。
「はい」
「大鎌顕現は申告制。黒月禁止。偏軌は一度まで、使用時に申告。術式干渉禁止」
「はい」
「エルナ。未来視は測定範囲内で許可するが、連続使用は禁止」
「はい」
「両班とも、相手へ不必要な呼称を与えるな。名が必要な場合は名で呼べ。分からない場合は位置と役割で呼べ。ただし異名化するな」
「はい」
第一基礎班と第三基礎班の声が重なった。
試合前なのに、妙に静かだった。
観覧席のざわめきも、今は遠い。
レオルが盾を構える。
トーマが槍を半身に引く。
ニアの周囲に薄い風が巻く。
フィオが短杖を床へ向ける。
第三基礎班は、しっかり準備してきている。
相手も勝つ気だ。
それが分かる。
カイルが大剣を構える。
「最初、俺が中央で受ける」
アーヴェルが短く返す。
「押すな」
「分かってる」
「リオン、右寄り。通路を消せ。エルナ、足元」
「はい」
「うん」
俺は訓練用の長柄を握る。
白鎌ではない。
まだ出さない。
開始時には出さないと決めた。
必要なら申告する。
理由を持て。
右手の奥に、白い大鎌の感触はある。
でも今は、ただの長柄で立つ。
グレン教官の手が上がる。
一瞬。
中央区画の白線が、ほんの少しだけ淡く光った。
俺だけが見たのかと思った。
だが、レオルもわずかに足元を見る。
彼も何か感じたのかもしれない。
「始め」
手が下りた。
最初に動いたのは第三基礎班だった。
レオルが盾を前に出し、まっすぐカイルへ向かう。
トーマはその後ろではなく、斜め右へ抜けた。
槍の先端は低い。
こちらの足元を狙う構え。
ニアの風が床を撫でる。
白線の上に薄い風が走り、俺たちの足場をわずかに滑らせる。
フィオの補助術式が、レオルとトーマの足元を軽く押す。
速い。
昨日聞いた通り、前衛二人の位置交換が速い。
「カイル、受けるな。斜めに止めろ」
アーヴェルの指示が飛ぶ。
カイルはレオルの盾を正面で受けない。
大剣の腹を斜めに置き、盾の進路を半歩ずらす。
鈍い音。
レオルの盾が完全には止まらず、横へ流れる。
その隙にトーマが槍を差し込んでくる。
狙いは俺ではない。
エルナへの通路。
「右、胸、中。トーマ」
俺は短く言った。
「リオン、塞げ」
アーヴェルの指示。
俺は長柄を横へ置く。
トーマの槍が、その手前で止まる。
槍先だけなら届く。
だが、踏み込みが塞がれている。
トーマはすぐに引いた。
速い。
無理に押してこない。
その間にニアの風がもう一度足元を撫でる。
エルナが杖を床へ向けた。
白い補助線が俺たちの足元に広がる。
「左足側、支えます」
「助かる!」
カイルがその補助線を踏む。
見えないはずだが、踏み方に迷いがない。
信じて踏んだ。
風で足を取られず、カイルは踏みとどまる。
レオルが少し驚いたように目を細めた。
だが、止まらない。
盾を引き、今度はトーマと位置を交換する。
レオルが下がり、トーマが前へ出る。
カイルの大剣が盾を想定していた位置に、槍が来る。
「交換」
アーヴェルが言う。
「カイル、下がるな。リオン、右を切れ」
切れ。
斬れではない。
通路を切る。
俺は長柄の先端を床へ滑らせ、トーマの右足の進路を塞ぐ。
トーマはそれを見て、すぐに槍を引く。
代わりに、ニアの風が横から来る。
視界を乱す風。
砂はない。
埃もない。
ただ、空気の層が揺れて、距離感が狂う。
一瞬、レオルの盾が近く見えた。
違う。
距離はまだある。
風が見せている。
「視界揺れ。実距離、半歩遠い」
俺が言う。
「よし」
アーヴェルが踏み込む。
細剣がトーマではなく、トーマの退路へ置かれる。
トーマが退く場所を失った。
そこへカイルが大剣で押す。
いや、押さない。
止める。
トーマは一瞬だけ動きを詰まらせた。
だが、その瞬間、フィオの補助術式が発動する。
トーマの足元が淡く光り、横へ滑った。
抜けた。
「上手いな」
カイルが思わず言う。
「集中しろ」
アーヴェルが返す。
観覧席から歓声が上がった。
普通の試合として、ちゃんと盛り上がっている。
第三基礎班は強い。
単純な力ではなく、連携で崩してくる。
それが嬉しくもあった。
相手は灰衣の道具ではない。
ちゃんと測定に向けて準備してきた班だ。
だから、こちらも勝つために動く。
アーヴェルが短く言った。
「形を変える。カイル、半歩前。リオン、中央寄り。エルナ、ニアを見ろ」
「はい」
「分かった」
「おう」
俺は中央寄りに移動する。
長柄を低く構える。
レオルがそれを見て、盾をわずかに上げた。
白鎌ではない。
だが、俺が中央に寄ることで、第三基礎班の交換路が少し狭くなる。
トーマが横へ抜けようとする。
そこへ長柄を置く。
トーマは止まらず、槍を俺の長柄に絡めようとした。
上手い。
武器ごと動きを奪うつもりだ。
俺は引かない。
引けば持っていかれる。
押さない。
押せば絡む。
だから、柄の力を抜いた。
トーマの槍が長柄を引っかける。
だが、抵抗がないせいで、狙ったほど動きを奪えない。
その瞬間、カイルが中央を塞ぐ。
レオルの盾が止まる。
アーヴェルが右から入る。
第三基礎班の前衛二人が、初めてきれいに分断された。
「今」
アーヴェルの声。
エルナの防護線が、ニアの風の発生位置へ重なる。
風が弱まる。
カイルがレオルを押し込まず、盾の角度だけを変える。
レオルの視界が一瞬塞がる。
俺は長柄をトーマの槍の下へ滑り込ませ、槍先を上げる。
攻撃ではない。
刺す角度を消す。
トーマの槍は空を切った。
アーヴェルの細剣が、トーマの肩口の手前で止まる。
「一本」
審判教官の声。
第三基礎班のトーマが、一時停止判定。
観覧席がざわめいた。
「まず一つ」
カイルが言う。
「油断するな」
アーヴェルが即座に返す。
第三基礎班はすぐに立て直した。
トーマは判定に従い、数秒間後退位置へ下がる。
その間、レオルが前へ出る。
盾一枚で時間を稼ぐつもりだ。
ニアの風が今度は上から来る。
足元ではない。
視線の高さ。
「上、視界。ニア」
俺が言う。
「エルナ、見なくていい。防護だけ」
アーヴェルの指示。
エルナは未来視を使わない。
防護線だけを薄く張る。
風は完全には止まらないが、視界の揺れは減る。
その時。
中央区画の床の白線が、また淡く光った。
今度は、さっきより少し長い。
俺は気づいた。
たぶん、エルナも。
レオルも一瞬、盾の内側から足元を見た。
試合中だ。
止まるわけにはいかない。
でも、無視もできない。
「白線、反応」
俺は短く言った。
アーヴェルの返答は速かった。
「試合継続。位置は」
「中央。両班の間」
「触れるな。全員、中央を踏むな」
カイルがすぐに足をずらす。
レオルも聞こえたのか、盾を構えながら中央線を避けた。
相手も反応した。
こちらの指示を理解した。
測定中でも、異常時の初動が混ざる。
だが、勝負は止まらない。
レオルが声を張った。
「第三基礎班、中央線を踏むな。左右に分ける」
名前は呼んでいない。
役割も余計に呼んでいない。
班への指示だ。
グレン教官は止めない。
つまり、まだ測定は継続。
中央の白線が薄く光っている。
その下に、何かがある。
見ようとするな。
俺は自分に言い聞かせる。
試合の中で処理する。
見えたものだけ報告する。
「リオン」
エルナの声。
「見すぎないでください」
「うん」
レオルが盾を構え直した。
「続けるぞ」
その声には、少しの緊張と、それ以上の意志があった。
彼も、測定を捨てていない。
俺たちもだ。
アーヴェルが細剣を構える。
「カイル、中央を避けて押さえろ。リオン、右側通路。エルナ、足場維持」
「おう」
「はい」
「分かった」
第三基礎班も動く。
レオルが左から来る。
ニアが風を低く落とす。
フィオが補助線を走らせる。
トーマが停止判定から戻り、再び槍を構える。
中央の白線は淡く光ったまま。
試合は続く。
そして、俺はその光の奥に、ほんの一瞬だけ、灰色の布目を見た。
礼拝布。
中央区画の下。
何かが、測定という形に触れている。
「灰色、布目。中央下」
俺は言った。
その瞬間、グレン教官の声が区画全体に響いた。
「両班、退避線を確認。試合は継続、ただし中央接触禁止」
試合は止まらない。
でも、異常への対応が入った。
観覧席が大きくざわめく。
カイルが歯を見せる。
「難しくなってきたな」
アーヴェルが静かに返す。
「それでも勝つ」
レオルが盾を構えたまま言った。
「第三基礎班もだ」
俺は長柄を握り直した。
中央には触れない。
名を与えない。
灰色を追わない。
でも、勝負は捨てない。
第一基礎班と第三基礎班。
二つの班は、中央の光る線を挟んで、もう一度動き出した。




