52話_班名の揺れ
寮棟の廊下は静かだった。
夜の学院は、昼とはまるで違う場所に見える。
魔力灯の淡い光。
磨かれた石床。
壁際に落ちる細い影。
遠くで巡回の足音が響いて、すぐに消える。
俺たちは四人で歩いていた。
先頭はアーヴェル。
その少し後ろに俺とエルナ。
最後尾にカイル。
いつもの位置とは少し違う。
戦うためではなく、報告へ向かうための並びだった。
カイルが小声で言う。
「名札、今は?」
「光ってない」
俺は胸元に触れた。
白い名札は静かだった。
リオン。
第一基礎班。
文字はどちらも消えていない。
ただ、さっき見た揺れの感覚が残っている。
名前ではなく、班名が揺れた。
俺個人ではなく、第一基礎班という文字が薄くなった。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
「自分の名ではなく、班名が揺れたのだな」
アーヴェルが確認する。
「うん」
「リオンという文字は?」
「消えてない」
「なら、個人への名称剥離とは違う可能性がある」
「班への干渉?」
カイルが言った。
「班って名前にも干渉できるのかよ」
エルナが静かに答える。
「名前は、人だけのものではありません。場所、役割、組織、記録。指し示すための言葉なら、干渉の対象になる可能性があります」
「つまり、第一基礎班って呼び名も狙われる?」
「可能性はあります」
カイルは嫌そうに息を吐いた。
「俺たち、名前関係で狙われすぎじゃないか」
「それだけ、向こうが名前を使うということだ」
アーヴェルが言う。
「測定は名と序列が集まる。班名も当然、利用しやすい」
俺は歩きながら、手紙の入った内ポケットへ触れた。
自分の名前はある。
でも、班の名前も今は大事だ。
第一基礎班。
俺たち四人が一緒に立つための名前。
それが揺れた。
それだけで、胸の奥が少しざわつく。
中央棟の詰所には、明かりがついていた。
扉の前には監理局職員が立っている。
俺たちを見ると、職員はすぐに表情を引き締めた。
「第一基礎班。どうしました」
アーヴェルが答える。
「測定用名札に異常がありました。リオンの名札です。個人名ではなく、班名部分が一瞬揺れたと本人が確認しています」
職員の目が鋭くなる。
「単独行動ではありませんね」
「四人で来ています」
「よろしい。中へ」
扉が開いた。
詰所の中には、グレン教官、エイム、ユーディア先生がいた。
机の上には測定名簿、名札の予備、いくつかの結界盤が並んでいる。
壁には明日の中央区画の配置図が貼られていた。
グレン教官は俺たちを見るなり、すぐに言った。
「報告しろ」
俺は名札を外さず、胸元を指で示した。
「消えたわけではありません。名札が一度だけ光って、リオンの下の第一基礎班という文字が薄く揺れました。すぐ戻りました」
「個人名は」
「そのままでした」
「熱は」
「ありません」
「灰色の線は」
「見えません。でも、遠くのざわめきみたいなものが少しだけ」
エイムが記録板を開く。
「ざわめき、というのは音ですか。魔力反応ですか。線ですか」
「分かりません。音に近いけど、耳で聞こえたわけじゃないです。名札の文字の奥が、遠くと繋がりかけた感じです」
「接続未成立の反響、と仮記録します」
ユーディア先生が立ち上がった。
「名札を確認します。ただし外さず、そのまま」
「はい」
ユーディア先生は小さな鐘を布越しに一度だけ撫でた。
音は鳴らない。
けれど、名札の縁が薄く青く光る。
リオン。
第一基礎班。
文字は揺れない。
ユーディア先生は目を細めた。
「今は安定しています」
「痕跡は」
グレン教官が聞く。
「個人名にはありません。班名の方に、ごく薄い外部接触痕があります」
カイルが思わず言う。
「やっぱり班を狙ったんですか」
「断定はまだです」
ユーディア先生は静かに答えた。
「ただし、個人名ではなく所属名へ触れたのは確かです」
所属名。
第一基礎班。
俺たち四人をまとめる名前。
エイムが壁の配置図を見た。
「第一基礎班は明日の第一試合、中央区画。対戦相手は第三基礎班。測定板、名簿、名札、観覧配置、審判記録。複数の記録上で、両班は対として結ばれています」
アーヴェルが言う。
「試合そのものへの干渉か」
「可能性があります」
「つまり、個人ではなく、第一基礎班対第三基礎班という構造が狙われた」
「はい」
カイルは口元を引き結んだ。
「俺らだけじゃないってことか」
その時、詰所の外が少し騒がしくなった。
足音。
扉の前の職員の声。
「グレン教官。第三基礎班のレオル・バートが報告に来ています」
室内の空気が一段沈んだ。
グレン教官が短く言う。
「入れろ」
扉が開く。
入ってきたのは、夕方に挨拶した第三基礎班の盾役、レオルだった。
制服は整っているが、急いで来たのだろう。
呼吸が少しだけ乱れている。
隣には監理局職員が一人ついていた。
レオルは俺たちを見ると、一瞬だけ驚いたように目を開いた。
「第一基礎班も?」
アーヴェルが答える。
「こちらも名札に異常が出た」
レオルの表情が硬くなる。
「そっちもか」
グレン教官が言う。
「報告しろ」
レオルは背筋を伸ばした。
「就寝前の装備確認中、名札が一度光りました。個人名はそのままです。第三基礎班の文字が薄くなり、すぐに戻りました」
同じだ。
第一基礎班。
第三基礎班。
両方の所属名が揺れた。
エイムが記録板へ素早く書き込む。
「対戦班双方の所属名へ同時刻帯接触。試合構造への干渉可能性上昇」
カイルが低く言う。
「明日の試合、やっぱり狙われてる」
「そのようだな」
アーヴェルの声も硬い。
レオルは俺たちを見た。
「何が起きてるんだ」
グレン教官がすぐに答えた。
「全ては話せない。ただし、お前たちの班名に外部接触があった可能性がある。明日の測定で、通常と異なる安全対応が入る」
レオルは眉を寄せる。
「俺たちは測定を辞退すべきですか」
「その必要はない」
「なら、予定通り戦うんですね」
「ああ」
レオルは少し黙った。
それから、こちらを見た。
「第一基礎班に聞きたい」
アーヴェルが前に出る。
「何だ」
「明日、何かが起きる可能性があるんだな」
アーヴェルはグレン教官を見る。
グレン教官は止めなかった。
アーヴェルは答える。
「可能性はある」
「俺たちは、普通に戦っていいのか」
その問いは、軽くなかった。
勝ちたい。
でも、何かに利用されたくない。
相手を疑いながら戦いたくもない。
そういう迷いが、その声にはあった。
俺はレオルを見た。
彼はただの対戦相手ではない。
明日、中央区画で俺たちと向き合う人間だ。
盾を持ち、班を率い、勝つつもりで立つ相手。
その名前が、今、狙われている。
アーヴェルが答えた。
「普通に戦え」
レオルが目を細める。
「いいのか」
「ああ。変に手を抜かれる方が困る」
「そちらも手を抜かない?」
「当然だ」
カイルが横から言う。
「俺らも勝つ気で行く。だから、そっちも勝つ気で来てくれ」
レオルはカイルを見る。
「異常が起きたら?」
エルナが答えた。
「その時は、教官の指示に従ってください。私たちもそうします」
「そちらの合図は?」
アーヴェルが少し考えた。
「異常時の基本は、対象へ名を与えないこと。触れないこと。退路を確保すること。相手班を不用意に呼び変えないこと」
レオルは一つずつ頷いた。
「つまり、俺たちを妙な呼び方で呼ぶな、ということか」
「こちらもそうする」
「分かった」
グレン教官が口を挟む。
「レオル。明日の測定中、異常を感じた場合は、自班の安全を優先しろ。勝敗よりも初動対応が優先される」
「はい」
「ただし、何も起きていない段階で怯えて止まるな。それも危険だ」
レオルは真剣に頷いた。
「分かりました」
ユーディア先生が彼の名札も確認する。
レオル・バート。
第三基礎班。
個人名は安定している。
所属名にだけ、薄い接触痕があるらしい。
「こちらも同じです」
ユーディア先生は言った。
「所属名に触れられています。個人名は守られています」
レオルは胸元の名札に触れた。
「班名を使って、何をする気なんですか」
エイムが答える。
「測定試合を儀式構造として利用する可能性があります。第一基礎班と第三基礎班を、対になる要素として扱う。勝敗、観衆、序列、名札、中央区画。それらを繋げることで、何らかの接続点を作ろうとしているのかもしれません」
「すみません、半分くらいしか分かりません」
レオルが正直に言った。
「十分です」
エイムは淡々と言う。
「分かりすぎないことも安全です」
カイルが小さく言う。
「それ、最近よく分かってきた」
「良い傾向です」
「褒められてる?」
「はい」
「珍しい」
グレン教官が言った。
「明日の試合は続行する。だが、両班には追加の安全指示を出す」
俺たちは全員、グレン教官を見る。
「一つ。開始前に、両班全員が自分の名を確認する」
「名乗る、ということですか」
エルナが聞く。
「ああ。ただし、観衆に聞かせるためではない。自分と班に確認するためだ」
「二つ目は」
アーヴェルが聞く。
「相手を役割で呼ばない。盾、槍、白鎌、未来視、などの呼び方は禁止だ。必要なら名で呼べ。名が分からなければ相手前衛、相手後衛と呼べ」
レオルが頷く。
「分かりました」
「三つ目。異常時、両班とも最初に退避線を確認しろ。勝負を続けるな」
カイルが少しだけ不満そうにしたが、すぐに頷いた。
「了解」
「四つ目」
グレン教官は俺を見た。
「リオン。明日の試合中、相手班の名札に異常が出ても、勝手に触れるな」
「はい」
「見るのも必要最低限だ」
「はい」
「レオル」
「はい」
「リオンが何かを見ていても、不用意に声をかけるな。第一基礎班が戻す。お前たちは自班を守れ」
「分かりました」
レオルは俺を見た。
「君は、本当に色々あるんだな」
言い方は慎重だった。
怖がっているというより、どう扱えばいいか分からないような声。
俺は少し考えてから答えた。
「ある。でも、明日は測定だから」
レオルは一瞬黙った。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「そうだな。明日は測定だ」
カイルが言う。
「勝つのはこっちだけどな」
レオルも返した。
「それはこっちの台詞だ」
少しだけ、空気が戻る。
敵ではない。
明日の相手だ。
それが大事だった。
ユーディア先生は、俺たち全員の名札へ簡易補強をかけた。
名札の青い縁取りが一度だけ光る。
第一基礎班。
第三基礎班。
どちらの文字も、今は揺れない。
エイムが記録を閉じる。
「今夜は両班とも寮棟待機。名札を外さず、異常があれば即報告。睡眠を優先してください」
カイルが小さく言う。
「結局寝ろに戻る」
「そうだ」
グレン教官が即答した。
「寝不足で測定に出るな」
「はい」
レオルは俺たちに軽く頭を下げた。
「報告してよかった。こっちだけだったら、気にしすぎかと思っていた」
「こっちも同じです」
エルナが言う。
「明日、よろしくお願いします」
「ああ」
レオルは詰所を出ていった。
扉が閉まる。
残った俺たちに、グレン教官が言った。
「よく単独で動かなかった」
「カイルを起こしました」
俺が言う。
「正解だ」
カイルが少し得意げにする。
「俺、起こされました」
「お前は起きた後すぐ動けた。それも良い」
「褒められた」
「調子に乗るな」
「はい」
アーヴェルが聞く。
「教官。明日の中央区画の下に、何か仕込まれている可能性は?」
「確認中だ。今夜中に封鎖確認と結界追加を行う」
「測定場そのものを変える選択は」
「検討した。だが、今変えると、敵が別の場所へ移る可能性がある。中央区画は監視しやすい。守りを固めた上で使う」
「承知しました」
「不満か」
「あります」
アーヴェルは正直に言った。
「ですが、理解はしています」
グレン教官は少しだけ頷いた。
「それでいい」
詰所を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。
レオルは別の廊下を通って第三基礎班の寮棟へ戻っていった。
こちらには監理局職員が一人つく。
俺たちは四人で寮へ戻る。
カイルが歩きながら言った。
「明日の相手、やっぱいい奴だな」
「そうだね」
「だから、変なのに使われたくない」
「うん」
アーヴェルが静かに言う。
「明日は、第三基礎班を敵と見るな。対戦相手として見る」
「違うのか?」
カイルが聞く。
「違う」
アーヴェルははっきり言った。
「敵と思えば、余計な名を与えやすい。対戦相手なら、測定の範囲に留まる」
エルナが頷いた。
「相手にも名前があります」
俺も頷いた。
レオル・バート。
第三基礎班。
盾を持つ相手。
明日、勝つつもりで来る相手。
灰衣の道具ではない。
俺たちも同じだ。
第一基礎班。
リオン。
カイル・レグナート。
エルナ・シルヴェリア。
アーヴェル・ロア・クラウゼン。
役割ではなく、名前を持って立つ。
部屋に戻る前、俺たちはもう一度だけ名札を確認した。
全員の文字は消えていない。
班名も、今は揺れていない。
「じゃあ」
カイルが欠伸を噛み殺す。
「今度こそ寝るか」
「寝ましょう」
エルナが言う。
「寝不足は判断を鈍らせます」
アーヴェルも頷いた。
「明日は初戦だ。余計な思考は持ち越すな」
俺は自分の名札に触れた。
リオン。
第一基礎班。
今度は光らない。
それでいい。
今は、静かでいい。
明日、中央区画で呼ばれる。
その時に、消えなければいい。
俺は部屋へ戻り、灯りを消した。
目を閉じる前に、胸元の名札をもう一度だけ確かめる。
文字はそこにあった。
明日。
測定が始まる。
そして、たぶん、灰衣も動く。
それでも俺たちは、測定の場へ行く。
勝つために。
守るために。
自分たちの名前で立つために。




