51話_測定前夜
予備説明会のあと、学院の空気は明らかに変わった。
測定が近いからではない。
それは前から同じだった。
変わったのは、生徒たちが自分の胸元を意識するようになったことだ。
白い名札。
そこに刻まれた名前と所属班。
戦闘科の制服に固定されたそれは、小さな板でしかない。
けれど、今日は誰もそれをただの名札とは思っていないようだった。
廊下を歩く生徒たちは、何度も自分の名札に触れている。
刻まれた文字を確認する者もいる。
仲間同士で「ちゃんと出てるか」と笑いながら見せ合う者もいた。
異常のことを知らなくても、何かを守られている感覚は伝わるのかもしれない。
カイルは自分の名札を指で弾いていた。
「これ、意外と軽いな」
「壊すなよ」
アーヴェルが言う。
「弾いたくらいで壊れないだろ」
「お前の弾いたくらいは信用できない」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
エルナは自分の名札を確認し、次に俺の名札を見た。
「リオンの名札、もう滲んでいませんね」
「うん」
俺は胸元へ触れる。
白い板の上に、文字がある。
リオン。
第一基礎班。
予備説明会で一瞬だけ空白になった時の感覚は、まだ残っている。
名前が出ない。
そこに何もない。
あの一瞬の冷たさ。
けれど、今は違う。
カイルが呼んだ。
エルナが呼んだ。
アーヴェルが呼んだ。
エイムが正式に記録した。
だから、文字は浮かんだ。
「明日は、これつけたまま戦うんだよな」
カイルが言う。
「はい。外すことは禁止されています」
エルナが答えた。
「戦ってる最中に邪魔にならない?」
「邪魔になる位置には固定しない。胸元の内側寄りだ」
アーヴェルが自分の名札を軽く示す。
「防具の留め具とも干渉しない」
「アーヴェル、こういうの確認早いよな」
「当然だ。装備の不備は敗因になる」
「真面目」
「測定前日に真面目で何が悪い」
「何も悪くないです」
カイルは素直に引いた。
午後の最終調整は、第一実技場ではなく、小演習場で行われた。
監理局職員が二人。
戦闘科教官が一人。
そしてグレン教官。
いつもより大人の目が多い。
「今日は軽い確認だけだ」
グレン教官が言った。
「追い込みはしない。測定前日に身体を潰すな」
カイルがほっとしたように息を吐く。
「よかった」
「ただし、頭は使え」
「結局きついやつだ」
「当然だ」
グレン教官は床に簡単な区画線を描いた。
中央区画の縮小図。
明日、第一基礎班が立つ場所だ。
中央区画は通常の演習場より広い。
観覧席から見やすく、教官席からも監視しやすい。
つまり、注目される。
「明日の班連携測定は、模擬戦形式だ」
グレン教官が説明する。
「第三基礎班と対戦する。勝敗は重要だが、それだけで評価は決まらない。指揮、支援、退避判断、過剰攻撃の抑制、名札の保持、異常発生時の初動も評価に含まれる」
「異常発生時の初動も、公式にですか」
アーヴェルが聞く。
「公式には、安全対応能力だ」
「なるほど」
「言い方は大事です」
いつの間にか来ていたエイムが言った。
カイルが少しだけ肩を揺らす。
「エイムさん、急に出るのやめません?」
「急に出たつもりはありません」
「存在感が記録板に吸われてるんですよ」
「記録板にそのような機能はありません」
「真面目に返された」
グレン教官が咳払いをした。
カイルは口を閉じる。
「第三基礎班の構成を確認する」
エイムが記録板を開いた。
「前衛二名。片手剣と盾、槍。中衛に風系魔法士。後衛に補助術式使い。大きな特徴は、前衛二名の位置交換が速いことです」
アーヴェルが頷く。
「盾役が受け、槍役が横から刺す形か」
「はい。さらに風系魔法士がこちらの足元を乱します。補助役は防護よりも、移動補助と視界妨害が得意です」
「厄介だな」
カイルが言う。
「真っ向から当たると、こっちの中央が割られる」
「そうだ」
グレン教官が頷く。
「だから、カイル。お前は盾役と力比べをするな」
「押し合うなってことですね」
「そうだ。止める。流す。相手の位置交換を遅らせろ」
「はい」
「アーヴェル。相手の槍役が横へ抜ける瞬間を取れ。ただし、追いすぎるな」
「承知しました」
「エルナ。風系魔法士の初手を警戒しろ。足元を乱されると陣形が崩れる」
「はい」
「リオン」
「はい」
「お前は相手の通路を塞げ。倒しに行くな。相手の交換を成立させないことを優先しろ」
「分かりました」
倒しに行かない。
通路を塞ぐ。
それは今の俺にとって、分かりやすい役割だった。
長柄武器で道を置く。
白鎌があればもっと広くできる。
けれど、明日は白鎌の使用は許可されるが、黒月は禁止。
偏軌も一度まで、申告制。
まずは普通に塞ぐ。
「明日のリオンの白鎌使用について確認する」
グレン教官が続けた。
「中央区画の第一試合では、白鎌の顕現を許可する。ただし、開始時には出すな。通常長柄で開始し、必要と判断した場合のみ申告しろ」
カイルが少し驚いたように俺を見る。
「最初からじゃないんだな」
「白鎌ありの戦術と、なしの戦術を両方確認するためだ」
グレン教官は言う。
「それに、最初から大鎌を出せば相手が過剰に警戒する。測定としても不自然になる」
アーヴェルが少し考えてから言った。
「相手に普通の班連携をさせ、その上でこちらがどう対応できるかを見る、ということですね」
「そうだ」
「白鎌は切り札扱いか」
カイルが言う。
「切り札というほど温存するものではない。ただし、出す意味を持て」
グレン教官は俺を見る。
「分かるな」
「はい」
白鎌を出す理由。
それを忘れるな。
ただ強いから出すのではない。
ただ目立つから出すのでもない。
必要な時に、必要な理由で出す。
親父の言葉と同じ場所へ戻る。
振った理由だけは忘れるな。
俺は頷いた。
小演習場での確認は、本当に軽かった。
陣形の移動。
初手の位置取り。
相手前衛の交換を想定した足運び。
風で足元を乱された時の立て直し。
激しい打ち合いはない。
だが、その分、細かい。
一歩ずつ。
どちらへ下がるか。
誰が声を出すか。
誰の合図で止まるか。
カイルは何度か前へ出すぎ、アーヴェルに止められた。
「カイル、半歩下がれ」
「下がってる」
「それは気持ちだけだ」
「身体も下げます」
エルナは足元に防護線を置く練習を繰り返していた。
未来視は使わない。
代わりに、相手が風を撃ちそうな場所を予測し、そこへ先に薄い支えを置く。
「エルナ」
俺が声をかける。
「はい」
「今の、防護というより足場?」
「はい。風を完全に防ぐのではなく、足を滑らせないための支えです」
「なるほど」
「リオンも使えます。左足側に置くことが多いので、踏んでください」
「分かった」
アーヴェルがそれを聞いて頷く。
「良い。明日は、エルナの補助線をこちらの足場として使う」
カイルが言う。
「見えないんだけど」
「踏めば分かります」
エルナが静かに答える。
「信じて踏むやつか」
「はい」
「了解」
信じて踏む。
それも、今の第一基礎班らしい。
見えるものだけで動くのではない。
見えないものも、仲間が置いたものなら使う。
最後に、グレン教官が全員を止めた。
「今日はここまでだ」
「早くないですか」
カイルが聞く。
「早く終わらせるために軽い確認と言った」
「本当に軽かった」
「不満か」
「いえ、ありがたいです」
グレン教官は全員を見る。
「今夜は早く寝ろ。明日の朝は通常通り食堂へ集合。その後、中央区画へ移動する」
「はい」
「名札と名称防護符を忘れるな。武器の確認は今夜のうちに済ませろ。寝る前に不安な点を増やすな」
カイルが小声で言う。
「不安な点しかない時は?」
「飯を食って寝ろ」
グレン教官は即答した。
「親父さんみたいですね」
カイルが俺を見る。
俺は少しだけ笑った。
「たぶん、親父もそう言う」
「たぶん禁止」
「可能性が高い」
「よし」
小演習場を出ると、廊下の向こうに数人の生徒が立っていた。
第三基礎班だった。
測定で明日、俺たちと戦う相手。
先頭にいた盾持ちの男子が、一歩前へ出る。
名札には、レオル・バートと刻まれていた。
短く刈った茶色の髪。
がっしりした体格。
落ち着いた佇まい。
彼は俺たちを見て、少し緊張したように息を吸った。
「第一基礎班」
アーヴェルが一歩前に出る。
「第三基礎班か」
「ああ。明日の相手だから、一応挨拶しておこうと思って」
カイルが小さく言う。
「真面目だな」
「お前が言うな」
アーヴェルが返す。
レオルは少しだけ苦笑した。
「正直に言うと、かなり警戒してる。白鎌、アーヴェル、カイルの大剣、シルヴェリアの未来視。相手にしたくないものが多い」
カイルが少し肩をすくめる。
「こっちも、盾と槍の交換が速いって聞いてる」
レオルは目を細めた。
「調べてるか」
「そりゃな。明日戦うし」
アーヴェルが言う。
「測定だ。互いに準備するのは当然だろう」
「そうだな」
レオルは頷いた。
それから、俺を見た。
「リオン」
名前で呼ばれた。
白鎌ではなく。
器でもなく。
ただ、リオン。
「明日はよろしく」
「よろしく」
俺は答えた。
少し意外だった。
レオルは真面目な表情のまま続ける。
「白鎌を出される前に崩すつもりだ」
「言っていいのか」
カイルが聞く。
「隠しても仕方ない。どうせそうする」
アーヴェルがわずかに笑った。
「正直だな」
「そちらが正面から力を見せる班ではないことくらい分かっている。なら、形になる前に崩す」
「悪くない判断だ」
「褒められても嬉しくないな」
レオルの後ろにいた槍役の生徒が、少し気まずそうにこちらを見る。
「ただ、一つだけ言っておく。変な呼び方はしない。説明会で言われたからじゃない。測定で相手の名を雑に扱うのは、こっちの班長が嫌う」
班長。
レオルのことだ。
彼は少しだけ眉を寄せた。
「余計なことを言うな」
「事実だろ」
カイルが笑う。
「いいじゃん。そういうの、嫌いじゃない」
レオルは少し照れたように視線を逸らした。
「勝つつもりで行く」
アーヴェルが答える。
「こちらもだ」
エルナも静かに一礼する。
「よろしくお願いします」
俺も頷いた。
「明日」
レオルはもう一度だけ俺たちを見て、第三基礎班の仲間たちと去っていった。
カイルがその背中を見送りながら言う。
「いい奴らっぽいな」
「だからといって手を抜く理由にはならない」
アーヴェルが言う。
「分かってる」
「むしろ、きちんと勝つべき相手だ」
「それはそう」
俺はレオルの名札を思い出していた。
レオル・バート。
第三基礎班。
相手にも名前がある。
班がある。
勝ちたい理由がある。
測定は、灰衣の儀式ではない。
俺たちだけのものでもない。
明日、中央区画に立つのは、俺たちと第三基礎班だ。
そこへ灰衣が何かを混ぜようとしている。
それが、少し腹立たしかった。
夜。
寮の自室で、俺は武器の確認をした。
訓練用長柄。
制服。
名札。
名称防護符。
親父の手紙。
白鎌は、手元にはない。
でも、右手の奥にある。
呼べば戻る。
持つものではなく、戻ってくるもの。
今夜は呼ばない。
机の上に、名札と護符を並べた。
名札には、リオン。第一基礎班。
護符には、自分で書いたリオン。
手紙には、親父の字でリオンへ。
三つの名前。
どれも少し違う。
でも、全部俺を呼んでいる。
窓の外では、学院の魔力灯が静かに揺れている。
遠くに中央区画の灯りが見えた。
明日、あそこに立つ。
中央区画。
第一試合。
第一基礎班対第三基礎班。
測定前夜。
胸の奥で、白い大鎌は静かだった。
黒い衣擦れの音も聞こえない。
ただ、静かすぎるほど静かだった。
俺は手紙を畳み、内ポケットへ戻す。
飯は食った。
武器は確認した。
名前もある。
なら、あとは寝るだけだ。
そう思って灯りを消した時、胸元の名札が一度だけ淡く光った。
リオン。
文字は消えない。
けれど、その下の「第一基礎班」の文字が、一瞬だけ薄く揺れた。
すぐに戻る。
俺は息を止めて見た。
もう一度光ることはなかった。
廊下へ出るべきか。
グレン教官へ報告するべきか。
少し迷って、俺は名札を手に取った。
熱はない。
灰色の線も見えない。
ただ、ほんのわずかに、どこか遠くのざわめきが残っている。
測定場か。
それとも、俺の気のせいか。
気のせいで済ませるな。
俺は上着を羽織り、廊下へ出た。
単独行動は禁止。
だから、まず隣の部屋の扉を叩く。
数秒後、眠そうなカイルが出てきた。
「どうした」
「名札が光った」
カイルの眠気が、一瞬で消えた。
「行くぞ」
「どこへ」
「グレン教官に報告」
「うん」
すぐに、エルナとアーヴェルも呼んだ。
二人とも、理由を聞くとすぐに支度を整えた。
誰も面倒だとは言わなかった。
四人で廊下を歩く。
名札はもう光っていない。
けれど、明日を待たずに何かが触れてきた。
その事実だけは残っている。
測定前夜。
俺たちは眠る前に、もう一度だけ大人たちのいる詰所へ向かった。




